ナインティーン・イレブン

 

 物音ひとつしない部屋で、頭を抱えてうずくまっている。食いしばった唇からもれ出るのは、絶望の吐息。いつまでそうやっていたのか、鉛のように重い頭を上げる。目の前には曇った鏡。月のように青白い顔には幾筋もの涙が伝う。泣きはらした目は充血し、髪は乱れに乱れている。
 ああ、私はこんなにも落ちぶれた。こんなぶざまな姿で暮らしてはいけない。
 節くれだった細い腕を伸ばすと、クローゼットの扉を開ける。シーツにくるまれた「それ」を引っ張り出す。小さな手に握られた黒いコルトは、硬くて、冷たかった。血走った目を瞬かせ、首を巡らすと背後を見やる。そこにあるのは、雑然としたガラクタの山。
 重たい折り畳み傘。郁重にも重なった半透明のプラスチック容器。見るからに軽そうなフライパンや鍋。そんなものが、いくつも、いくつも。
 邪魔なガラクタ。何をやってもダメだった私の人生そのもの。違う。そうじゃない。そんなはずじゃなかった。あいつのせいだわ。ぼんやりと白く染まる脳裏に浮かぶ微笑み。夢がある、って言っていたわ。その夢を叶えてあげるために、ありとあらゆることをしてきた。今思えば。あんなにも必死になって。しばらく目を閉じ、再びガラクタの山を眺める。いろんなものを、人を失った。残ったのはこのくだらない雑貨。
 リセットしなきゃ。自分の手で。一度大きく溜息を吐き出すと、手の中のコルトを見つめる。さぁ、私を解放して。あいつの思い出を綺麗に消して、私の人生を終わりにするの。
 ぎゅっと目をつぶると、ゆっくり銃口をこめかみに押しつける。恐怖は一瞬。これで、全部終わらせる――。
 が、引き金を引くより先に鳴り響いたのは携帯の呼び出し音だった。飛び上がって悲鳴を上げる。そして、背後でけたたましい音を響かせる携帯電話を呆然と見つめる。最後ぐらい静かに逝かせて。そんな小さな願いすら叶えてくれない。怒りよりも絶望感を覚えながら、携帯を取り上げた。
「……もしもし?」

 カフェの店内では、流行りのポップスが軽快に流れていた。若者を夢中にさせているアイドルグループが青春を謳歌する歌。安っぽくて、薄っぺらい。でも、そのカップルにはそんな歌がやたらと似合っていた。
「ねぇ、仕事はうまくいっているの?」
 指をからませながら囁く女に、男は目尻を下げて微笑む。
「ああ。資金と商品の調達もうまくいったし、たんまり売れた。この小さい町にしては上出来だ」
 女は満面の笑みを浮かべると肉感的な腕を男の首に巻きつける。
「よかったわ。うまくいったのね!」
「そうさ。言っただろう? 俺にできないことはないって。そうだな、あと数カ月もあれば、もっと大きな街でいい暮らしができる」
 男は女のブロンドを撫でさする。さっきからこの調子で甘い言葉を交わすふたりに、カフェのオーナーは呆れ返った表情で皿を拭いている。カフェの窓から見える空は夕暮れ色に染まりつつあった。店内に客はまばらだが、もう少しすれば賑やかになるだろう。
「充分な金を稼いだら、こんなちんけな田舎からはとっとと出ていく。この町も、ここにいるヤツらも、小さすぎて本当にうんざりなんだ。埃っぽくて、辛気臭い年寄りばかりが歩いてるストリートにもう我慢ならない。俺にこんな町はふさわしくない。俺に見合った大きな街で生きていく。もちろん、君とな」
 甘い顔立ちに似合わず、世間や住む場所への不満ばかりが口をついて出る男。そんな男をうっとりと見つめる女はいよいよ大胆にしなだれかかる。
「ああ、楽しみだわ。ねぇ、早くこの町から連れ出して」
「わかってるさ。もう少しの辛抱だ。全部片を付けてきたんだ。ケチな知り合いや、面倒な女も、な。全部――」
 男の言葉はけたたましいドアベルの音で掻き消された。皆が振り向くと、華奢な若者がプラチナブロンドの髪を逆立たせて立ちはだかっている。オーナーが口を歪めて一歩前へ踏み出した時。
「見つけた!」
 若者は確かにそう呟いた。そしてデニムのポケットから黒い銃身を引き抜き、カップルの女が悲鳴を上げる。男の方はうろたえた声を上げて腰を浮かした。
「お、おい――!」
 若者は猫のように俊敏な動きで男につかみかかると銃口を頭に突きつける。その間、女は耳をつんざく悲鳴を上げ続けていた。
「やめて! やめて! あんた、何をしているの!」
「うるせぇ!」
 若者は常軌を逸した目付きで怒鳴りつけると、身動きできない男のこめかみに硬い銃口をぐりぐりと押し付けた。その様子を目の当たりにした他の客たちは、口々に叫び声を上げながらカフェを飛び出してゆく。
「やっと見つけたぜ、あんた。探したぜ」
 若者は低い声でそう囁き、女は震えながらも目を見開いて若者を凝視した。細い腰に、丸みを帯びた肩。だが、男をねじ伏せるたくましい腕と足。男か女かわからない若者は、切れ長な瞳を細めると唇の端を舐めた。
「俺が大事にしていたものを全部奪いやがって、挙句の果てにはこれかい。はっ、いいご身分だな!」
「待て――、誰だおまえ、俺には何のことか――」
 顔を歪めて口走る男の頭に銃のグリップを叩き込み、若者は苛立たし気に唸り声を上げる。
「ああ! わからないだろうね! あんたには利用するだけ利用してどぶに捨ててきた人間がそこらじゅうにいるんだからな! そこの女だってそうだろ? これから体と金を吸い尽くすつもりだろ!」
 恐怖で震えていたはずの女は眉をひそめ、もつれる手で男の腕をつかむ。
「ちょっと……、ねぇ、どういうこと。こいつの言ってることは本当なの?」
「待てよ……! よく考えろ! この状況を見ろ! 警察を――!」
 その言葉に、立ちすくんでいたオーナーが我に返ったように電話に手を伸ばす。が、
「親父さん! あとちょっとだ! あとちょっとだけ待ってくれ!」
 若者の叫びに思わず手を止める。そのことに男は我慢できずに怒鳴り声を上げる。
「何やってんだ! どいつもこいつも! さっさと警察を呼べ! おい、おまえ! 早く!」
 叫ばれた女は、まだ全身をがたがたと震わせながらも顔を横に振る。その瞳は恐怖だけでなく、疑念と怒りが見え隠れしている。
「さぁ、これでわかっただろ?」
 落ち着き払った声色で若者は静かに言い聞かせた。
「今起こっていることは、全部あんたがやってきたことの報いだ。この最低最悪の虫けら野郎。あんたが今住んでいる部屋も、仕事のオフィスも、用意したのは誰だ? うん? 毎晩仕事のストレス解消と称して抱いてきた女は何人いる? ひとりひとり、今名前を言えるか?」
 オーナーと女は、引きつった顔を見合わせ、信じられないと言った表情で押さえ込まれている男を見つめる。
「仕事を立ち上げるために必要だった金も、権利も、おまえが奪ってきたものだ! そうして準備してきた金でおまえは何をした? 何の役にも立ちやしねぇガラクタばかりを人の好い連中に売りつけての荒稼ぎだ!」
 耳元で絶えずまくし立てられ、それでも男は目をつぶって「違う、違う」と譫言のように繰り返す。やがてそんな男に諦めたのか、若者は溜息をつくと天井を振り仰いだ。
「まだ白を切るつもりか。じゃあ、しょうがねぇ。まずあんたがおもちゃにしてきた女たちの名前を挙げてやる。まず、恋人だった善良なコンスタンス」
 その名に飛び上がったのは女だった。
「待って! あんた、コンスタンスとは別れたって言ったわよね!」
「あんたの文句は後回しだ」
 女を一瞥した若者はそう吐き捨てると男に向き直る。
「それから不動産屋のメリー、教師のヘイリー、バーのキティ、マーケットのジョージナ。あんたに惚れたのが運の尽きだった、シングルマザーのシンシア。みんなに甘い言葉を囁いてホームパーティーを開かせ、大事な人たちから根こそぎ金をむしり取った」
「俺が悪いんじゃない!」
 男は両手で耳を塞ぎ、子どものように背を丸めて叫んだ。
「買うのが悪いんだ! ものの価値もわからない頭の悪い馬鹿な連中が悪いんだ!」
 オーナーが頭を振って「何て野郎だ」とぼやく。若者は歪めた口から大きく息を吐き出すと銃をポケットにねじ込んだ。
「あんたの脳ミソをここでぶちまけてもいいが、それだと俺の一張羅が台無しになる。このカフェで一杯やるのを楽しみにしてるヤツらからも恨まれちまう」
 命が助かる。そう期待した男だが、その髪の毛を引っつかまれ呻き声を上げる。
「どっちにしろ、あとちょっとすればおまえのせいで一文無しになった連中が大挙して押し寄せる。それまでにどう落とし前をつけるのか、考えておくんだな」
 痛みに耐えながら何度も頷く男に蹴りを食らわすと、若者は乱れた髪を掻き揚げて踵を返した。
「おい、あんた!」
 その孤独な背にオーナーが怒鳴る。
「あんたの言い分を信じて、警察は呼ばねぇ。だがな――」
「わかってるよ」
 若者は疲れた声で遮った。
「もう二度とここへは来ねぇ。……邪魔したな」
 それだけ吐き捨てると、若者は大きな音を立てて扉を閉めた。

 開け放たれたカフェの扉から、肩を怒らせながら大股に歩いてくる若者。両手をポケットに突っ込み、苛立たし気な表情で俯く若者に、私は声をかけた。
「ジーン」
 若者は弾かれるようにして顔を上げた。そして、困惑と微笑が入り混じった複雑な表情を見せると、やがて肩をすくめた。
「――どうだった。これで少しは気が済んだか?」
 疲れがみえる声音に思わず顔を歪める。そして、乾いた唇を開く。
「……ごめんなさい。私のせいで」
「おまえは悪くねぇよ、コンスタンス。……でもな」
 ジーンは照れ隠しのように頭を掻きながら言葉を続けた。
「こんなやり方しかできなくて、すまなかった」
 ああ、やっぱり。思わず笑みが零れる。あなたらしいわ。
「少なくとも、あなたは私を救ってくれたわ。あと少しで、コルトの引き金を引くところだったもの」
 ジーンは言葉を失って私を見つめた。その表情は、先ほどの激しさを忘れさせるほどの幼さだった。
「あと少し、あなたの電話が遅ければ……、私はこの世にはいなかったわ。あなたの言うところの、最低最悪の虫けら野郎のためにね」
「コンスタンス」
 ジーンは両手を広げると顔を横に振った。
「間に合ってよかった。おまえがあの糞野郎のせいで大事な命を落とさなくて、本当に良かった」
 私は言葉を遮るように身を乗り出した。
「でも、あなたは私のせいでもうこの町にはいられない。私のせいで……。男を見る目のない、馬鹿な私のせいで!」
「大丈夫さ」
「だって、あなたはこの町が大好きだったでしょう?」
 私の必死の叫びに、ジーンは恥ずかしそうに微笑んだ。
「……好きだったよ。おまえと出会って、おまえと一緒にいられたこの町がね。そして、こんな俺を受け入れてくれていたこの町が」
 頬が熱く濡れたのがわかる。思いもよらない涙に、ジーンは戸惑いの表情を浮かべた。だが、眉をひそめると白い手をぎゅっと握りしめた。
「……俺もおまえのように、全てを終わらせようとしたことがあった」
 ひと言ひと言、絞り出すようにして零れ出る言葉に静かに耳を傾ける。
「自分ではどうにもできない、この体が嫌で嫌で……。こんな体なら生きていても仕方がない。終わりにしてやるって、そう思って俺もコルトを手にしたことがあった」
 しばし口をつぐみ、溜め込んだ息を吐き出してから顔を上げたジーンは、晴れやかな表情をしていた。
「だから、おまえが普通に接してくれたのが、嬉しかったんだ。俺も救われたんだ」
 そして、力強い口調で続ける。
「おまえの命は、あんな男のためにあるんじゃない。それが伝わって、本当に良かったよ」
 私の瞳からは、ぽろぽろととめどなく涙が溢れた。涙だけでなく、これまでの思いや感情が一気に溢れ出てくるのを感じる。そうだ。これが、始まりだ。私は口元を引き締めて顔を上げた。
「一緒にいきましょう」
 そして、車のドアを開ける。
「あなたと一緒なら、どんな町でも生きていけるわ」
 ジーンは目を見開いた。車と私、両方に視線を彷徨わせ、困惑の表情で黙って立ち尽くす。そんな彼女に私は手を差し伸べた。
「私、もう迷わないわ」
 彼女は、じっと私を真っ直ぐに見つめてくれた。
「もっと平凡な、親が望むような生き方をしなきゃって思ってた。でも本当の幸せって、私を大事に思ってくれる人と人生を歩んでいくことだわ」
 そこまで言い切って、私はようやく笑顔になれた。その笑顔で、やっとジーンに伝わったのだろう。彼女、いや、彼は弾けるような笑顔で私の手をつかむと思い切り抱きしめた。
「……どこへ行く?」
「どこでもいいわ」
 ジーンは力強く頷くと、開け放たれたドアから運転席に乗り込んだ。私も弾む心で車内に乗り込む。だが、ステアリングに手をかけたジーンがふと動きを止めた。
「どうしたの?」
 彼は穏やかな微笑を浮かべてデジタルの時計を指差した。
 19:11
「ナインティーン・イレブン」
 私も思わず笑みを零した。
 ふたりの命を左右した、コルトM1911。もう頼ることはない。そう言い聞かせながら、私は車の振動に体を預けた。
                                            
                            終

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