鎖の森

 

 それは、鎖の森。天から地へと走る鎖の樹々。蔦のように這う鎖の庭。乾いた紙とインクの香りがたゆたう森を泳ぐようにゆくのは、厚ぼったい黒いローブの人々。皆白い息を吐きながら、鎖が這い回る書棚の間を沈黙のまま行き交う。鎖は書棚と書物を繋ぎ止めるもの。絢爛な装飾を施された革表紙に似つかわぬ重々しい鎖。書物を手にするたびに、じゃらりと音を立てる。一冊足りとも奪われるわけにはいかないのだ。この鎖の森、大聖堂図書館が有する書物を。
 その広大な森の奥。粗末な長椅子と書架が整然と並ぶ他、人気のない通路を霧のようにそぞろ歩く人影があった。音もなく揺れるローブ。うら若い修道女は細く白い手をしとやかに伸ばし、書棚の分厚い書物に触れた。ずしりとした重み。耳触りな音を立てて鎖が流れる。修道女は書架に書物を横たえると小さく息をついた。かじかむ手を揉みながら息を吹きかけ、温める。と、眉をひそめて顔を上げる。耳朶に忍び入る衣擦れ。ゆっくり振り返ると、暗い通路の先に小さな人影がぼぅと浮かんで見えた。黒っぽいマントで身をくるんだ人影は大木のような書棚を見上げ、ついと爪先立った。その足許は擦り切れた白絹の靴下。修道女は微笑むと人影に歩みを進めた。爪先立った人影はマントから細い腕を精一杯伸ばし、一冊の書物を取ろうとしていた。何度か足を弾ませるが、届かない。ついに諦めたのか、すとんと踵を下ろす。修道女は、落胆の色を背負った背に優しく手をかけた。途端に人影はびくりと飛び上がった。
「どの本を探しているの?」
 低く囁きかけると、人影は無言で見上げてきた。
 それは、少年だった。十か、十一ぐらいだろうか。艶のない黒髪、上等だが使い古したマントから覗くのは、厚手のシャツ。つぶらな瞳は薄暗がりの中にあっても輝きを見せていた。だが、寒さの故か頬は蒼ざめ、怯えの陰が見える。
「どの本?」
 もう一度優しく問いかけると、少年はかすれた声で「ミラビリス聖典を」と囁き返した。修道女は一冊の分厚い書物を両手で持ち、慎重に書棚から取り上げた。鎖が鋭い音を上げ、辺りに響き渡る。
「……ありがとうございます、修道女」
 少年はぎこちなく礼を述べた。着古した衣装だが、身なりは貴族の子息であることを示している。修道女は腰を屈めると目線を合わせた。
「お勉強にいらしたの? 偉いわ」
 少年は狼狽えたように目を伏せ、その頬にほんの少し赤みが差す。
「……はい。大司教様の許可は得ております」
 ぼそぼそと呟くと、重たい聖典を書見台に横たえる。そして、袂に手を入れるとぼろぼろの冊子を取り出した。開いたページにはたくさんの書き込みがなされ、何人もの手に渡ってきた手簿だと知れた。少年がめくった新しいページに目を落とした修道女が細い指を伸ばす。
「綴りが間違っているわ。正しくは――」
 驚く少年の手を取り、手のひらにarcanaとなぞる。柔らかな指の感触に少年は耳まで赤くなる。
「ペンはある? 教えてあげるわ」
「い、いけません」
 修道女の申し出に少年は思わず声を高めた。
「あ、ありがたいお申し出ですが、僕には、あなたに贖えるものを何ひとつ持っていません」
 そう言って恥じ入るように自らの身なりに目を落とし、嘆息する。少年は知っているのだ。この聖典を読み解く言語を解する知識がどれだけ貴重なものか。修道女は優しく微笑んだ。
「勉強熱心なあなたに、私の知識が役に立てば私も嬉しいわ」
「ですが」
「だったら」
 いつしか修道女は冷たい石の床に膝を突いた。
「あなたが知っている外の世界のお話を聞かせて。私はこの聖堂で暮らしてもう何年も経つわ。外のお話を聞かせて」
 美しい修道女に期待に満ちた笑顔で懇願され、少年は戸惑いながらも頷いた。

 それから、修道女と少年の奇妙な学びの時が始まった。少年は数日に一度、この大聖堂図書館に現れた。冬の間は毎度同じ着古したマントをまとい、季節が良くなるとやはり綻びの多い上衣を身に着けて通ってきた。だが、その傷んだ衣装はどれもかつては光り輝いていたであろうことは想像に難くなかった。凝った刺繍が施され、上等であるが故に傷んでもなお気品を感じさせる衣装の数々に、少年の身分が推し量られる。だが、修道女は少年に家柄を尋ねるようなことはしなかった。
「本当は、大学に行きたいのです」
 自らのことは語りたがらない少年だったが、一度だけ夢を語った時があった。
「大学で多くのことを学びたい。でも、我が家にはそれが許されていない。それでも学びたい。それを聞きつけた大聖堂の大司教様が、この図書館を使うことをお許し下さったのです。大司教様には、本当に感謝しております」
 修道女は頼もしげに頷いた。
「今のご苦労はきっと将来あなたを助けるわ。私もできる限りあなたに教えてあげる」
 少年は不思議そうな表情で修道女を見上げた。
「あなたは、これだけの知識をこの図書館だけで得たのですか?」
 その問いに修道女は一瞬苦しげな表情を見せ、少年はぎくりと息を呑んだ。
「……色々なお方からお勉強を教わったわ。今は一人ぼっちだけど、それでも私はここで学び続けている」
 そう語る修道女の表情から哀しみと孤独を読み取った少年は、思わず見とれたように彼女を見つめた。やがて、気まずい沈黙を打ち破るように少年は聖典を書架に繋ぎ止める鎖を引っ張った。
「この鎖がなければ」
 少年は照れ隠しのように声を高めた。
「もっと自由に学べるのに」
 修道女はにっこりと微笑むと手を差し上げ、少年の柔らかな頬を優しく包み込んだ。突然のことに少年が顔を真っ赤にさせて修道女を見上げる。
「いいこと。書物が持つ知識をあなたの胸に移し替えるの。後はあなたの自由だわ」
 頬を朱に染めながらも、少年は修道女の言葉に耳を傾けた。
「それはあなたの知性になる。今学んだことが将来どんな形を結ぶかは、あなた次第だわ」
 言われるまま真顔で頷く少年に、修道女は優しく微笑みかけた。
「あなたが将来どんな素晴らしい男性になるか、楽しみだわ」

 学びの時は一年ほど続いた。そんなある日。二人が出会った時のように底冷えする冬の一日だった。あの擦り切れた古いマントを羽織った少年は、修道女に深々と頭を下げた。
「今日が、最後です」
 修道女は両手で口を覆い隠した。少年は顔を伏せ、悔しそうに歪めた顔を隠したまま言葉を続ける。
「ここへ通う路銀が尽きてしまいました。もっと……、あなたから学びたかった」
 二人を包み込む図書館の冷たい空気は、時を止めたように重く淀んでいた。少年は溜め込んだ息を吐き出すと、ようやく顔を上げた。その瞳は悲愴の色に溢れていたが、同時に力強い光も湛えていた。
「でも、学び続けます。続けることが大事だということを、あなたから学びました。ありがとうございます」
 そして、表情をゆるめると初めて晴れやかな笑顔を見せた。
「いつか、立派な人間になってあなたの許へ帰ってまいります」
 瞬間、修道女は少年を抱きしめた。体を強張らせた少年は身じろぎもせず、されるがままに立ち尽くしている。修道女はこみ上げてくるものを抑えられなかった。
「残念だわ……!」
 嗚咽の混じる囁きに少年もぐっと目を閉じた。
「もっと、あなたに教えたいことがあったのに……!」
「……お許し下さい」
 修道女は顔を振りながら体を離し、膝を突くと少年の頬を包み込んだ。
「あなたのせいではないわ。もっと、時間があれば……」
 少年も眉をひそめ、顔を歪めて頷いた。
「僕も、本当に残念でなりません。でも、ここで過ごした時間は決して忘れません」
 修道女は、少年の黒髪を愛おしげに撫でた。
「……私も、あなたに聞かせてもらったお話を忘れないわ」
 少年はもう一度微笑んだ。その顔はすでに幼い少年ではなく、成長し、自信に満ち溢れた「男」のものだった。
「あなたから学べたことが、僕の誇りです」

 それから、修道女は目的を失くしたように時を過ごしていた。聖堂から出て街を訪れることもある修道士たちから、時折外界の出来事を耳にすることもあった。王宮では腐敗が進み、君側の奸がはびこっていること。異国との軋轢も進み、大きな危機に瀕していること。辺境の地でも反乱が起こったが、それは間もなく鎮圧されたこと。あの少年から外界の出来事を伝え聞いていた時よりも、確実に世の中は悪い方向へと向かっている。修道女は胸を痛め、不安な日々を送っていた。

 そして時は移ろい、五年が経った。修道女の知的な美しさは変わることなく、だが憂いを抱えたその表情は陰りに満ちていた。人気のない鎖の森。修道女はいつものように書棚の間をそぞろ歩き、書架を見上げていた。その瞳が、一冊の書物を捕える。
「……ミラビリス聖典」
 声に出して呟いてみる。その瞬間、胸に懐かしさが溢れ、修道女の瞳が生気に満ちた。書架に歩み寄り、ローブの裾から細い腕を差し上げる。この聖典に触れれば、あの光に満ちた日々に帰れる。そんな思いに駆られ、修道女は爪先立って手をうんと伸ばした。
 と、不意に現れた大きな手が修道女の手を掴んだ。彼女は小さな悲鳴を上げたがその口を指先で押さえられる。破裂しそうな胸のまま振り返ると、そこには長身の青年が黙って佇んでいた。修道女は怯えた表情で後ずさろうとしたが、青年は柔らかな笑みを浮かべると優雅に一礼してみせた。
「五年かけて、あなたの背を越えました」
 低い囁きに修道女は目を見開いた。艶のない黒髪。力強い瞳。青年は目を逸らさず、一心に見つめてくる。
「……帰ってきたの?」
 恐る恐る囁くと、青年は黙って頷いた。修道女の瞳から涙が溢れた瞬間。青年は彼女の腰を引き寄せると覆いかぶさるようにして唇を奪った。熱い唇の感触に一瞬、意識が飛ぶ。修道女は顔を歪めると細い手で青年の胸を押し返した。
「駄目よ」
 か細い声で囁く修道女に青年は目を眇めた。
「私は、神に、仕える身だもの……」
 そう言って体を離そうとする修道女の手首を、青年は傍らの鎖で挟みつけた。困惑する修道女の頬を片方の手で包み込むと、青年は耳許で囁く。
「あなたは、ここに囚われているべきではない」
 ぎくり、と修道女の体が震える。
「あなたが奪われたものを、取り返しにいきましょう」
 畳みかけるような言葉に、修道女の表情から血の気が失せてゆく。
「……いいの」
 修道女は絞り出すように囁いた。
「もう、いいの。私は……、ここで静かに、過ごせたら、いいの」
「王女」
 その呼びかけに修道女は表情を歪めて顔を背けた。が、それでも青年は言葉を続ける。
「あなたはこの国の知性だ。この国は、あなたを必要としている」
 青年の囁きに、修道女は黙って顔を振り続けた。青年は息をつくと顔を上げ、遠くからおぼろげな光を差し込む窓を眺めた。その先にあるのは、王宮だ。
「先頃、反乱を制圧した功により、一族の汚名を雪ぐことができました。王宮への出仕も決まりました」
 王宮という言葉に修道女は顔を上げた。青年は、五年前よりも遥かに精悍な表情で修道女に頷いてみせた。
「今こそ、あなたから与えられた知識を生かす時です」
 自信が漲り、力強い生気に満ちた眼差しから瞳を逸らせない修道女に、青年は手にした鎖をゆるめた。じゃらり、と重々しい音が響き渡る。
「共に、この国を蘇らせましょう」

 間もなく、王国に反乱の火の手が上がる。反旗を翻したのは、父親を反逆罪で処刑された青年貴族。彼は王を異国に放逐し、王位を宣言した。そして、先王が前妻との間に儲けた娘を妃に迎えた。
 二人の婚姻は新たな戦火を招いたが、彼らは別の種も蒔いた。二人は王国の各地に教会と学校を作り、国の礎を築いたのだ。青年と修道女は戦争の火種を生んだが、一時代を築く重要な転換期をも生み出した。二人が出会った鎖の森は今では門扉を開かれ、広く国民に愛されている。


終幕

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