私と弟は大はしゃぎで自動車オートモービルに乗っていた。だって、やっとおばあ様のお屋敷に到着するのだから。ほら、この丘を越えれば見えてくる。
「お姉ちゃん、あそこ!」
 アルフレートが窓ガラスに顔を押し付けて叫んだ。
 白い雪を被った山々が連なる中、断崖にそびえ立つお屋敷。それはもうお城と呼んでもいい。私とアルフレートは大きな歓声を上げた。
「こら、静かになさい、エリノア。おばあ様に失礼のないようにな。アルフレートも」
「はーい!」
 私とアルフレートは元気よく返事をした。

 私の名前はエリノア。冬に八歳になった。弟のアルフレートは六歳。
 私たちは毎年夏になると人がたくさんひしめく帝都ベルジーナを出て、山奥のおばあ様のお屋敷で過ごす。おばあ様のお屋敷は夏でも雪が残っているような、高くて険しい山の崖に建っている。広くて、面白いものがたくさんあるから私もアルフレートもあのお屋敷が大好きだ。もちろん、とっても優しくて楽しいお話をしてくれるアガタおばあ様も大好き。だから、私もアルフレートも毎年夏が待ち遠しくてたまらない。
 お屋敷が見えても、なかなかそこまで辿り着かない。私たちはしばらく自動車に揺られていた。やがて山道が険しくなり、辺りもごつごつした岩肌に変わってゆく。そして、お屋敷も少しずつ大きく見えてくる。
「金のじょうごは、まだちゃんとあるかなぁ」
 アルフレートがそう言うのをお母様が少し呆れたように笑う。
「アルフレートはよほど金のじょうごが気に入ったのね」
「あら、私もよ!」
 慌てて私も叫ぶ。だって、あれはアルフレートだけのものじゃないのだから!
「大事に扱うのだぞ。あれはとても古くて、もうどこに行っても手に入らないものなのだから」
 お父様が大真面目に言うものだから、私もアルフレートも思わずきちんと座りなおすと頷いた。

 やがて、自動車はようやくお屋敷の入り口まで辿り着いた。車を飛び出すと、山の冷たい空気が体を包む。
「わぁ、涼しい!」
「だってほら、あそこには雪が残ってる」
 アルフレートが指差した山には、粉チーズを振りかけたように雪が積もっている。私は思わず両腕を抱きしめた。
「ちょっと寒いくらい」
 アルフレートも真似をして腕をぎゅっと抱きしめた時、お屋敷のポーチから懐かしい声が飛んできた。
「エリノア! アルフレート!」
 振り返ると、黒いドレスに杖を突いたおばあ様がにこにこ笑いながら階段を降りてくる。
「おばあ様!」
 私たちは大喜びでおばあ様に飛びついた。おばあ様は嬉しそうに頬ずりしながら、「よく来てくれたわね」と言ってくれた。
「大丈夫? 車に酔わなかった?」
「わくわくして全然酔わなかったよ!」
 その時、背中にお母様の声が突き刺さる。
「二人とも! ご挨拶を!」
 私たちは慌てて体を離すとぴしっとお行儀よく姿勢を正した。私はチャコールグレイのワンピースの裾を詰まんで片足を引く。アルフレートはおばあ様の手を取るとちゅっと唇をつけた。
「こんにちは、おばあ様」
「うふふ、よくできたわね」
 おばあ様はふっくらした体つきで、真っ白い髪。まん丸な眼鏡をかけていて、いつも真珠のネックレスをしている。後ろからお母様とお父様がやってくると同じように挨拶をする。
「ただいま、お母様」
「お体はいかがですか」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
 三人が挨拶をしているのを見ていると、頭の上から呼びかけられる。
「いらっしゃいませ、お嬢様、お坊ちゃま」
「ルドルフ!」
 お屋敷の執事、ルドルフがいつもと代わらず丁寧なお辞儀をしてくる。
「お疲れでしょう。お茶をご用意いたしております」
「栗のクッキーも?」
「もちろんでございます」
 私たちは大はしゃぎで屋敷へ入っていった。
 お屋敷はがらんとだだっ広い。石の廊下には変わった模様の分厚い絨毯が敷かれ、大昔の甲冑が並んでいる。天井を見上げると、きらきら光る金のシャンデリアがぶら下がっている。天井に光の波が漂う
ここは、私のお気に入りの場所。お屋敷には他にもお部屋がたくさんある。皆が集まるお部屋や、誰にも使われていないお部屋。何に使うのかわからない道具で一杯になったお部屋もある。そのひとつひとつを探険していくのがいつもの楽しみ。
 広間で美味しいクッキーとお茶をいただいたら、私たちは早速探険に出かけた。中庭には小鳥の餌遣り台があるし、アルフレート用の自転車もちゃんとあった。中庭からお屋敷に帰ると、子ども部屋へ向かう。
 子ども部屋には大きな窓がある。ぴかぴかに磨かれたガラスの向こうには、真っ青な空と眩い雪山が見渡せる。夕方になると、この雪山がオレンジシャーベットのような色に染まるの。でも、窓の下には黒い谷が広がっている。落ちそうで怖いから、あんまり下は見ないことにしているけれど。
「見て、あそこの雪が解けたところ、馬みたい」
 アルフレートが指差す場所を見て私はくすりと笑った。
「そう? 私には折れたワイングラスに見える」
「馬だよ!」
 アルフレートがむきになって言い返すのを笑っていると。
「アルフレート、エリノア」
 振り返ると、おばあ様がにこにこ笑っている。そして、後ろに隠していた「何か」を取り出した。
「ほら、これなぁんだ」
「あ!」
 私たちは思わず声を上げた。おばあ様が手にしていたのは、あの「金のじょうご」だった。
「あなたたちが来るから、ちゃんと磨いておいたわ」
 金のじょうご。それは、大きな玉ねぎのような形の、金属でできた漏斗じょうごだった。私たちは「金」と呼んでいるけど、本当は銅でできている。薄くて細長い銅の板を何枚も並べて玉ねぎのような丸い形に仕上げてあって、大きさは大人が両腕で一抱えできるほど。表面にはお花や葉っぱの綺麗な模様が彫ってあって、変わった衣装を身につけたたくさんの人も描いてある。じょうごの上には蛇の形をした取っ手があって、引っ掛けられるようになっている。上の蓋を取ってお水を入れると、下に伸びた蓮口からお水が噴き出てくる仕組み。
「やろう! やろうよ!」
「そうね、ちょうど風が吹いているし」
 おばあ様はそう言いながら金のじょうごをカーテンのポールに取り付けると、窓を大きく開いた。すると、谷の下から冷たい風が吹き上げてくる。おばあ様はルドルフが持ってきた水差しでじょうごの中に水を注ぎ始めた。私たちはわくわくしながら水が溜まっていくのを見守った。やがてじょうごの中は水で一杯になった。水面がゆらゆら揺れると天井にも光の波が映る。
「じゃあ、外すわよ」
 蓮口の蓋に手をやるおばあ様に、私たちは息を呑んで頷いた。
「それ!」
 蓋を外すと、水がさぁっと吹き出す。蓮口の小さな穴から細い細い糸のように流れ落ちる水は、水晶のようにきらきら光りながら落ちていく。と、谷の崖下から風がふわぁっと噴き上げてきた。
「わぁっ!」
 風に巻かれた水滴が一斉に舞い上がる。陽の光に照らされて色取り取りのビーズが撒き散らされたように空中を泳いでいる。私たちは歓声を上げた。雫のひとつひとつには、白い雪や青い空、黒い谷が閉じ込められていて、まるでシャンデリアのように光っている。
「綺麗! ほら、あそこ!」
「虹だ!」
 アルフレートが指差した先は七色の光が揺れている。谷からの風はあちこちいろんな方向から噴き上がってくる。だから、水は思いもよらない方向へ散らばってゆく。一際強い風が吹いてくると部屋の中まで細かい霧が吹き込んでくる。金のじょうごは、この細かい霧を楽しむための道具なんですって!
「綺麗ね、おばあ様!」
「そうね、本当に綺麗だわ」
 この金のじょうごは、遠い砂漠の国からご先祖様が持ち帰ったものだとか。確かに、じょうごには見たことのない文字がたくさん彫ってある。
「砂漠の国ではね。王様が家来に大きな団扇で風を起こさせていたんですって」
「でも、砂漠の国にはお水がないよ」
「そうよ。だから、それがどれだけ贅沢なことだったのか、わかるわよね?」
 私たちは、遠い異国からやってきたじょうごが見せてくれる雫の踊りをいつまでもずっと見守っていた。

 その日の晩、食堂には私たちのためにご馳走が並んだ。季節はまだ夏だけど、都に比べて肌寒いお屋敷では、まるで秋か冬のようなメニュー。でも、都ではちょっと食べられないような珍しい料理もあるから、私もアルフレートも残さず食べた。
「今夜は満月ですね」
 お父様がおばあ様に向かって言う。
「満月だとザグス山脈が照らされて、実に幻想的です」
「うふふ、相変わらずフランツはロマンチストね」
「イルゼにも同じことを言われますよ」
 お父様たちの会話を聞いていたアルフレートが、何か思いついたように目を見開いた。
「どうしたの?」
 アルフレートはしばらく黙り込んでいたけれど、やがて嬉しそうに笑うと私の耳元で「後でね」と囁いた。

 食事が終わってお風呂から上がると、フランネルのネグリジェに着替えた。おばあ様はいつも可愛いネグリジェを用意してくれているの。今日は前をピンクのリボンで閉じるとっても素敵なネグリジェ! 嬉しくて鏡に映るネグリジェを何度も見直していると、アルフレートが扉を開けて小走りに駆けてきた。
「ねぇ、お姉ちゃん。いいこと思いついたんだ」
「なぁに」
 アルフレートは耳元でこそこそと囁いた。
「今晩、金のじょうごで水を撒いてみようよ!」
「夜に?」
「うん。きっと満月の光で綺麗だよ!」
 私はアルフレートの思いつきにあっと声を上げた。弟は目をきらきらさせて満面の笑顔だ。こんな時、アルフレートのブラウンの瞳は本当に綺麗に光る。
「素敵な思いつき!」
「でしょう!」
 私たちは早速、準備に取り掛かることにした。
 子ども部屋から一番近いテラスから中庭へ出ると、池の水を洗面器や水差しに入れてそっと運ぶ。私たちはよたよたしながらも水をこぼさないよう慎重に水を運んだ。
 本棚用の梯子を使って金のじょうごをカーテンのポールにかけると、静かに水を注ぐ。アルフレートが震える手で洗面器を傾けているのが、危なっかしくて仕方がない。
「ほら、しっかり。こぼさないように!」
「わかってるよ」
 少しいらいらした声で言い返す。それでも、ちゃんとこぼさずに水を注ぐことができた。
「じゃあ、窓を開けるよ」
「待って、明かりを消してくる」
 私がランプを消すと部屋は薄暗くなった。真っ暗になるかと思ったけれど、カーテンを開け放った部屋には満月の明かりが差し込み、ほんのりと明るかった。
「月の光って明るいんだね」
 そう言いながらアルフレートが窓をそっと押し開く。すると、谷からひゅうっと音を立てて風が吹き込む。
「わぁ、寒い!」
 昼間と違って、日が落ちた谷の風は刺すように冷たい。恐る恐る谷を見下ろすと、真っ暗な闇がぽっかりと口を開けている。
「やだ、怖い……」
「見なきゃいいじゃないか」
「わかってるよ……!」
 私は少し強がって言い返した。
「風がよく吹いてるから、きっと水をうんと高くまで上げてくれるよ」
 アルフレートはさすがに男の子だからか、ちっとも怖がらないで言葉を続ける。それがちょっと悔しいけど黙っておく。アルフレートは蓮口の蓋に手を伸ばした。
「開けるよ」
「うん」
 私たちは息を呑んで蓮口を見つめた。アルフレートが蓋に手をかけると、かちゃりと留め金を外す。と、蓮口から白く光る水がこぼれ落ちる。谷から突き上げるような風がその雫を勢いよく持ち上げ、ばらばらに撒き散らす。月の白い光に照らされた雫はきらきらと光を放ちながら舞い上がったり、落ちていったりを繰り返し、辺り一体に光の絨毯が広がった。風は後から後から落ちる水を跳ね上げ続る。
 すると、不思議なことが起こった。
 満月の光を受けた雫のひとつひとつがシャボン玉のように膨らんだ。私とアルフレートが息を呑んでいると、その雫の中にはそれぞれお花や葉っぱの服を着た小さな小人が飛んだり跳ねたりしているのが見えた。私は、真っ暗闇の黒い谷も忘れて思わず身を乗り出して目を凝した。小人たちは手に鈴のようなものを持っていて、それを優雅に揺らしている。そういえば、耳の奥でちりりと涼やかな細波のような音が響いている。小人の雫はシャボン玉のようにふわりふわりと漂いながら夜空を漂っている。満月の青白い光はそれをくまなく照らし出していた。
 気がつくと、私とアルフレートはお互いの両手をぎゅっと握り合っていた。私たちは黙ったまま雫の小人たちを見ていたけれど、恐る恐る顔を見合わせた。すると、アルフレートは嬉しそうに微笑んだ。
「……お姉ちゃん」
「うん」
 私は返事をすることしかできなかったけど、きっと私も笑っていたと思う。私たちは体を寄せ合うと窓から見える光景に見とれていた。
 波のように鈴の音色が大きくなったり小さくなったりするのをじっと聞いていた時だった。頭の上から、ぽちゃんという音が聞こえてきた。私とアルフレートは同時に振り返った。
「……何の音?」
 私の問いにアルフレートは首を傾げた。と、続いてぱちゃぱちゃと水がはねる音がしたので、はっと天井を見上げる。天井に広がる水面の反射が波打っている。そして、金のじょうごの中から水しぶきが散っている。私は慌てて梯子を上がった。するとそこにいたのは……!
 金のじょうごの中に、何か小さな塊がぱしゃぱしゃと水しぶきを上げている。私は思わず顔を背けた。
「やだ、何?」
 その声にアルフレートが梯子を上がってくる。
「何が落ちたの?」
「わからない!」
 私の背中越しにじょうごの中を覗き込むアルフレート。水面に顔を近づけた彼は「あっ!」と声を上げた。
「人だ!」
「えっ?」
 私は素っ頓狂な声を上げてじょうごを覗き込んだ。
「小人だよ、きっと!」
 アルフレートはそう叫ぶとじょうごの中に手を突っ込んだ。引き上げた手には、丸まった布きれの塊のようなものが納まっている。
「……!」
 転びそうになりながら梯子を降りると、アルフレートは手に掴んだ「もの」をとりあえず勉強机の上に置いた。塊はふたつにほどけると、もぞもぞと起き上がった。
「……!」
 私は思わず小さなアルフレートの背中に隠れた。
「見て、お姉ちゃん……!」
 年下の弟とは思えないほど、アルフレートは冷静に「それ」を指差した。
 「それ」は確かに「人」だった。一人は花びらのように綺麗な桜色の羽織を着た女の子。白いパンツが水浸しになって足に張り付いてしまっている。私たちにはわからない言葉を甲高い声で喋りながら、濡れた髪をうっとおしそうに掻き揚げている。濡れたことを怒っているみたい。
 もう一人は口髭を生やした男の人。ずぶぬれになったターバンが重たそうに頭に乗っかっている。そして、白い服の袖口を絞りながらくしゃみをした。
 そのくしゃみに私たちが思わず笑い声を上げると、二人はぎょっとしてこちらを見上げた。そして、男の人は慌てて女の子を後ろに押しやると腰のサーベルを抜いた。サーベルは月の光できらきらと光った。
「わぁ、守ってあげてるよ。素敵」
 思わずそんなことを呟いた私だったけど、女の子も同じようにくしゃみをした。
「風邪をひいちゃうわ」
 そう言うと、私はタオルを持ってきて女の子をひょいと摘み上げた。女の子はびっくりしてきぃきぃと意味のわからない言葉を叫んだけれど、構わずにごしごしと拭いてあげた。彼女が着ている服は小さいからすっかり水気は取れた。女の子がはいていたパンツはふんわりとかぼちゃのような形に膨らんだ。そして、当の本人は目を白黒させている。
 よく見ると、蜂蜜色の肌に切れ長の黒い瞳。とっても可愛いお姫様だ。長い黒髪がくしゃくしゃになっているから、私はブラシを持ってくるとそぅっと梳いてあげた。すると、そこでお姫様はようやくにっこりと微笑んでくれた。
「アルフレート」
 私に呼ばれると、彼は頷いておろおろしている男の人を摘みあげた。そして、同じようにタオルでごしごしと拭いてあげた。再び机の上に置いてあげると、男の人はターバンを頭から外して、ぱん!と水気を払って被り直した。そして、湿って垂れ下がっていた口髭を指先で整える。その小粋な仕草に私もアルフレートも思わず声を上げて笑ってしまった。
 そんな私たちに、お姫様は右手を差し出すと胸に当て、優雅に腰を曲げてみせた。挨拶をしてくれたんだ。私は慌ててネグリジェの裾を摘んで腰を曲げた。お姫様は嬉しそうに笑うと私たちに向かって手招きした。アルフレートと思わず顔を見合わせてから恐る恐る身を乗り出すと、お姫様はまず私の方へ右手を差し出した。手をしなやかにひねると、何か囁いた。と、小さな手のひらからぱっと金色の光が弾けた。
「わっ……!」
 手から金色の粉が溢れたかと思うと、私の鼻にきらきらと降り積もる。
「わぁ……! 金の粉だよ、お姉ちゃん!」
 アルフレートの叫びに私は声も上げずに鼻を手で覆う。指先にもきらきら光る金の粉がつく。お姫様はアルフレートにも手招きした。
「わぁ! 僕にも!」
 アルフレートは大喜びで顔を突き出した。お姫様は得意げに笑うと、アルフレートの鼻にも金の粉を振りかけた。
「あはは! ほら! 金の粉だ!」
 アルフレートが大喜びで顔を上げると、辺りに金の粉がふわふわと舞う。
「ピエロの鼻みたい!」
 私もアルフレートの鼻を指差しながら笑い声を上げた。お姫様も男の人も一安心したように私たちを見上げている。が、男の人ははっとして窓を振り返った。そして、びっくりした様子でお姫様に向かって窓の月を指差している。お姫様も目を見開いて月を見上げている。満月は気づけばずいぶんと西へ傾いていた。
「お姫様たちは、ひょっとしてお月様から来たのかな」
 アルフレートの言葉に私は頷いた。そろそろ夜が明けてしまう。だから、急いで帰らなければならないのだろう。
 お姫様と男の人は、改めて私たちに向き合うと、丁寧に腰を曲げて頭を下げた。私たちも同じように挨拶を返した。男の人は背中に仕込んでいた竿のようなものをしゅっと引き出した。竿だと思ったそれは、傘だった。横へさっと振ると丸い傘布が膨らむ。金のじょうごを思い出させるような、玉ねぎのような形をしたその傘は、まるで今夜の満月のように丸くて金色だった。
 男の人はもう一度丁寧に頭を下げたかと思うと、傘を持ったままお姫様をひょいと担ぎ上げた。そして、窓の桟に飛び移る。
「えっ、まさか窓から……?」
 私は慌てて二人を追いかけた。男の人は満月を背に、私たちを振り返った。担がれたお姫様はにこにこ笑いながら手を振っている。私とアルフレートが思わず同じように手を振り返すと、男の人は窓から外へぱっと飛び降りた……。
「あ……!」
 私たちが窓から身を乗り出すと、真っ暗闇の空間に、鮮やかな金色の傘が目に飛び込む。と、谷から突き上げる風が傘を舞い上がらせた。お姫様を担いだ男の人は傘の柄を必死に掴んだまま、風に乗って空へと昇ってゆく。一方、お姫様はずっと笑ったまま手を振ってくれていた。
 私たちはぽかんと口を開けたまま二人を見送った。傘を差した二人は、風に乗ってどんどん空高く上がっていった。
 金のじょうごはいつの間にか空っぽになっていて、谷にはもう小人が入った雫は消え失せていた。そこには、相変わらず私たちを呑み込んでしまいそうな暗闇が広がっているだけだ。私たちはずいぶん長い間黙りこくって月を見上げていた。そして、ようやく恐る恐る顔を見合わせた。
「……お月様に、帰っていったのかな」
 私の言葉にアルフレートは頷いた。そして、カーテンのポールにかかったままの金のじょうごを見上げる。
「……このじょうごも、お月様にあったものなのかな」
「……そうかもしれないわね」
 私たちは、もう一度満月を見つめた。

 翌朝。私はうっすらと目を開けた。しばらくシーツを被ったままぼんやりしていたけれど、はっとして飛び起きる。窓は閉まっているけれど、カーテンは開かれたままだ。雪山の影から赤い朝日が光っている。朝だ。私が寝台から体を起こすと急に寒気でくしゃみをする。と、隣でうずくまっていたアルフレートがもぞもぞと体を起こす。
「……朝?」
「朝よ」
 アルフレートは眠そうに目をこすりながら私を見上げた。
「……お姫様は?」
 その言葉に、私は昨日の夜の出来事が夢ではなかったのだと気づいた。
「やっぱり、アルフレートも覚えてる? 夢じゃないのね」
「夢なんかじゃないよ。だって、一緒に見たじゃないか」
 アルフレートは一生懸命に言い返してきた。でも、昨日の出来事をお母様たちに話してもきっと信じてはくれないだろう。私たちは部屋の中を見渡した。そうだ。机の上に……。
「あっ」
 私は思わず声を上げた。その声にアルフレートが小走りに駆け寄る。机の上にはうっすらと金色の粉が散らばっている。そして、その近くにはブラシ。ブラシを手にとってみると、黒くて細い髪が一本残っている。私もアルフレートも栗毛だから、こんなに黒くない。お姫様の髪だ。
「……やっぱり、夢じゃなかったんだ」
 アルフレートは嬉しそうに囁いた。私もにっこりと微笑んだ。
「……また、会えるかな」
「会えるわよ、きっと」
 そう言って、私はアルフレートの鼻をつんとつついた。きっと、また鼻に金の粉を振りかけてもらえるはずだわ。


 そんな遠い日の出来事を思い出しながら、私は窓からザグス山脈を眺めていた。
 純白の雪を抱いたザグス山脈。ここから目に映る景色は何ひとつ変わっていないけれど、私が暮らしていた帝都ベルジーナはこの二十年で大きく変わった。いや、ベルジーナはもう帝都じゃない。共和国の都だ。
 大きな戦争と革命を受け、私の生きる世界は変わった。そして、私の家は爵位と住む場所を失った。でも、私とアルフレートは信じている。あの夜、月の姫君に振りかけてもらった金の粉は「幸せの魔法の粉」だったのだと。都を追われた私たちは、おばあ様が遺してくれたこの屋敷で静かに暮らすことができるのだから。これからこの国がどんな歩みをしていくかはわからないけれど、帝政を覆してまで国を変えた人たちがきっと「良い国」にしていくのだろう。私たちは遠いここから眺めるだけ。
「これかい、君が言っていたのは?」
 不意にそう声をかけられ、私は振り返った。そこには、髭面の大男が「金のじょうご」を興味深そうに見つめていた。私はふっと微笑んだ。
「そうよ、ハインリヒ。それが、金のじょうご」
「なるほど、確かに玉ねぎの形だね」
 そう言ってじょうごを持ち上げるけれど、大男の彼が手にしていると大きいはずの金のじょうごが小さく見える。
「調べてみたら、聖都奪還戦争で先祖が持ち帰った戦利品のひとつみたい。他にも、当時の武器や防具があるけれど、これは珍しいものだと思うわ」
「うん。錆がひどいけど、この紋様は明らかにカマル王朝時代のものだよ。実に興味深いね」
「その貴重な金のじょうごに入ろうとして壊してしまったことがあったわよね? アルフレート」
「えっ、本当かい」
 ハインリヒが驚いて隣のアルフレートを振り返る。くたびれた軍服姿のアルフレートは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「小さい頃だもん。仕方ないさ」
「ベルジーナの金細工職人に直してもらったのよ。二ヶ月はかかったそうよ」
「そうだったね」
 そう言って恥ずかしそうに俯くアルフレート。小さかったはずの彼は、いつの間にか私よりもずっと背が高くなっていた。
「何だってじょうごの中に入ろうとしたんだい」
 ハインリヒの問いには私が答えた。
「きっと、月のお姫様にもう一度会えると思ったからよ、そうでしょう?」
「まぁね」
「月のお姫様?」
 私たちの顔を交互に見つめるハインリヒ。アルフレートは嬉しそうに微笑みながら身を乗り出した。
「そうだ。今度の満月に金のじょうごで水を撒いてみようよ。きっと、お姫様が姉さんの結婚を祝ってくれるさ」
「だといいけれど」
 そう言いながら、私は金のじょうごをそっと撫でた。ずいぶんと錆びてしまったから、磨いてあげないと。何もかもなくしてしまったとしても、この金のじょうごは守りたい。そして、いつか私たちの子どもにもお姫様に会わせてあげたい。そんな私の思いなど知るはずがないハインリヒは、不思議そうに私と金のじょうごを見つめていた。

Ende

[2012年 1月 30日]

inserted by FC2 system