魚媛

〜第1話〜

 

  朧月。乳色の月が音もなく光を投げかけている。白く光る細波が揺れる海原。月を囲む蒼い雲が連なる夜空。浜辺にいながら、潮騒の囁きは遠くに感じる。
 白々とした光を浴びながら、夜の海を見つめるひとりの男がいた。白いシャツがかすかな風に揺れる。耳の奥にこだまする潮騒の音に、水底に身を沈めているかのような感覚に浸る。男の他は誰もいない浜辺は黒々とした松林に続いている。しばらく波間を見つめていた男は、波打ち際をゆっくり歩き出した。砂を踏む音と、寄せる波音だけが聞こえる。蒼い薄闇を漂うようにそぞろ歩く男。口許に穏やかな笑みが浮かべながら、春の夜空に浮かぶ月を見上げる。鮮やかな満月なら、もっと冴え冴えとした海原が見られたはずだ。だが、それでもいい。これ以上ない春の夜だ。
 が、男はぎょっとして立ち尽くした。どこまでも続く波打ち際に「何か」が蹲っている。男は眉をひそめ、薄闇に目を凝らす。辺りは依然として静かな潮騒が続くだけで、何も変化はない。男はしばらくまじまじと視線の先にあるそれを見つめた。そして、再びゆっくりと歩みを進めた。近づくにつれ、黒っぽい塊の輪郭がわかってくる。そして、それが何かわかった瞬間、男は慌てて駆け寄った。
「人だ」
 思わず口の中で呟く。湿った砂に足を取られながらも走る。それでも、蹲った人影はぴくりとも動かない。
「どうしたの」
 緊張で上ずった声で呼びかける。その時、人影はようやく顔を上げた。
 濡れた長髪が黒々と光り、頬に張り付く。紫の唇に雫が滴り、長い黒髪が背をうねり、むき出しになった白い肩の丸みから女と知れる。
「まさか、泳いでいたのか」
 戸惑いながらも男は呆れたように囁きかけ、しゃがみ込んで肩に手をかける。と、氷のような冷たさに言葉を失う。女は触れられた肩に目をやると、やおら男を見上げた。見開いた大きな瞳が無言で投げかけられる。夜の波を思わせる黒い瞳。磁器のように冷たく滑らかな肌。整った顔立ちはまるで人形のようだ。そんな若い娘に、男は身動きできずに立ち尽くした。女は大きな瞳を一度瞬かせた。その動きで呪縛を解かれたように、男は震える息を吐き出し、胸許のシャツを握りしめる。が、一瞬だけ躊躇するとボタンを外し、シャツを脱ぐ。春の夜はまだ肌寒い。半袖のTシャツからのぞく腕がわずかに粟立つ。
「……こんな夜に泳ぐなんて」
 独り言のように呟きながらシャツを女に羽織らせる。
「人を呼んでこよう。ここで待っていて」
 そう声をかけてから浜に背を向け、緩やかな傾斜を駆け上がる。舗装された道へ上がると、道を挟んでちらほらと民家が目に入る。しかし、どの家も明かりはなく、辺りは仄暗い闇に包まれている。どうしよう。あまり大きな騒ぎにはしたくない。彼女もそうだろう。男はそう考えると、民家のひとつに向かって走った。看板には「民宿 青松館」とある。ポケットから取り出した鍵で玄関を開け、音を立てないようにしてそっと中へ入る。寝静まった宿屋。男は息をひそめて客間へ向かい、暗がりで荷物を漁る。タオルを数枚手にし、厚手のジャケットも小脇に抱えると部屋を後にする。相変わらず、夜の浜辺は静寂に包まれている。男は荷物を抱えて波打ち際へ向かうが、顔をしかめて辺りを見渡す。
 確かにここだったのに。もうそこには誰もいなかった。規則正しい緩やかな波の音が小さく聞こえるきりで、何もない。男は狐につままれたように呆然と佇んだ。どれぐらい、そうしていたか。やがて男は諦めたように嘆息した。そして、ゆっくりと水際まで歩み寄る。と、ふと眉根を寄せて立ち止まる。水際の砂が乱れていた。浜辺から水際まで、砂を抉った跡が続いている。波間へ眼差しを向けると、月が照らす海原は静かに白く光っている。女は、海に戻ったのだろうか。そう思うと背筋に悪寒が走る。もう一度、足許の砂地を見つめる。男の耳に、穏やかな波の音が絶え間なく響き続けた。

 あまり広くない畳の食堂。部屋に面した窓からは春の穏やかな海。まだ誰もいない白浜がなだらかに続き、朝陽の光を浴びた松林を眺め渡せる。ここは福井県、小浜市にほど近い浜辺町、
仰浜あおがはまだ。
宿の主人が厨房から出てきた時、食堂にひとりの男が顔を出す。
「おはようございます」
「ああ、おはようさん、佐倉先生!」
 威勢の良い挨拶に顔をほころばせた男に、主人は陽気に尋ねる。
「昨夜の月はどうでした」
 月、と聞いて男は一瞬言葉を飲み込んだが、殊勝げに頭を下げる。
「良い月でした。すみません、いつも無理を言って」
 だが、主人の方は意に介さず、明るく返す。
「なに、構やせんですよ。先生の研究にちっとでもお役に立てりゃ光栄ですよ」
「研究というより趣味に近いですが」
「立派な研究やないですか!」
 そう言いながら、厨房から主人の妻が笑顔を覗かせる。
「こんな素敵な仰浜のエッセイも書いてもらって! うちらはみんな先生を応援しとりますよ!」
 主人の妻が飾り棚に広げていた旅雑誌を取り上げると誇らしげに見せる。そのページの隅に、控えめな笑顔の男が映り込んでいる。短く刈り込んだ髪。広い額が理知的な印象を持たせ、穏やかな面立ちはいかにも物静かな学究といった佇まいを見せている。
 佐倉草平。三十五歳。近代文学を専門とする大学講師だ。文学に取り入れられた若狭地方の言い伝えを研究する傍らに、こうした地元誌などにコラムを掲載している。棚に仕舞ってある雑誌のほとんどが、草平が寄稿した作品が載っているものだ。
「先生、今朝もおろし蕎麦でいいですか」
「はい、お願いします」
 畳に腰を下ろし、窓に広がる白砂青松を見やる。ここ青松館は酒井夫妻が経営する小さな民宿で、一日の宿泊客は一組限定という隠れ家的な宿だ。漁師でもある酒井が毎日釣り上げてくる魚が膳に並ぶという、贅沢なもてなしで知られている。今朝も、おろし大根がたっぷりかけられた蕎麦と立派な刺身が並ぶ。旬の鰆だ。が、草平の表情は暗い。昨夜の出来事が頭を離れないのだ。贅沢な朝食を黙って食すと、二階へ上がる。
 客間へ戻ると、ボストンバッグから一冊の本を取り出す。背表紙には「若狭地方 民話文献集」の箔押し。紙をめくる指がページを覚えている。そこにあったのは、奇怪な姿をした女の絵。
 長い洗い髪が腰まで垂れ、上半身は裸。下半身には腰巻のようなものが描かれているが、そこから覗く足は鱗とひれで覆われている。瓜実顔のいわゆる美人だが、その姿は異端以外の何物でもない。江戸時代後期に編まれた「若狭国妖拾遺集」に載せられた人魚の絵図だ。草平の脳裏に、昨夜出逢った女の姿がおぼろげに浮かぶ。海蛇のように黒々とした長い髪が背を覆い隠していたが、白い肩がむき出しになっていた。あの時はそこまで思い至らなかったが、全裸に近い姿だったのかもしれない。あの、真夜中の浜辺で。胸がすぅと冷えてゆくのがわかる。
 人魚だったのだろうか。
 そんな、非現実的な言葉を胸に呟く。福井はもとより人魚伝説が多く語られている地。若狭湾を中心に、様々な人魚伝説が遺されているが、この仰浜の人魚は特に異彩を放っている。人魚と言えば、日本人はアンデルセンの人魚姫のような、上半身が人で下半身は完全な魚の姿をしているものを想像する。だが、仰浜に伝わる人魚は人とほとんど見た目が変わらない。ただ、その脚は鱗で覆われ、ひれが付いている。「仰浜の人魚は人を恐れ忌避し、磯で隠れ暮らす」とされ、「害をなさざれば穏やかなるも、恨みを買えば徒党を組み、村を襲ふ」と記されている。
 草平は本を閉じ、開け放たれた窓から海原を振り仰いだ。若狭地方に伝わる怪異譚を集めて十数年が経つ。その中でも強烈な衝撃と憧れを持って調査を続けてきたのが、この仰浜の人魚伝説だった。人魚にまつわる神社や寺なども多く、それらをくまなく訪れた。この民宿は、研究を始めた頃からの付き合いだ。夜が更ければ浜の月を眺めるためだけに宿屋を抜け出し、昔日の星空に思いを馳せる。それはごく個人的な小さな楽しみだったのだ。だが、その積み重ねが異形の者との邂逅をもたらしたのか。
 潮騒の囁きが小さく耳に届く。陽射しを受け、きらきらと光る波間を見つめながら、こくりと唾を飲み込む。
 今夜、もう一度行ってみよう。
 草平は、静かにそう決めた。

 その日は、もどかしいくらいに時が過ぎるのが遅かった。が、日が暮れ始めるとあっと言う間に時は流れゆき、夕食をとる頃には草平の決意は揺らぎ始めた。
 部屋へ戻り、再び民話文芸集を開く。若狭に伝わる様々な人魚の口伝。そのほとんどが、「悲劇」だ。人魚を殺したがために災害を招いた漁師や、人魚に魅入られて海へ引き込まれた幼子。人魚の姿を目にすると嵐に見舞われるといった、不吉の前兆とされることも多い。また、古来より人魚の肉は食らえば不老不死を得られるとされ、日本各地に人魚の肉にまつわる伝説が語られている。その中のひとつに、八百比丘尼伝説がある。人魚の肉を口にしたため、老いず、死なず、美しい姿のまま生きながらえた尼の伝説だ。
 ページを閉じ、大きく息をつく。その吐息がかすかに震えているのを自覚すると、草平は思わず目を閉じた。
 どうしよう。もしも、本当に人魚だったならば。いや、人魚だったにしても、今夜も出逢えるとは限らない。逆に、人間だったならば、それはそれで不審の念が起こる。あの真夜中に、あの浜辺で何をしていた。むしろ、人間の方が関わり合いにならない方が良いのかもしれない。
 窓のカーテンを開け、蒼い闇に包まれ始めた海を見つめる。遠い波間から、真珠のように光る月が姿を現そうとしている。今日は空が霞んでいない。今夜の浜辺は昨夜よりも煌々と照らされるだろう。青白い月光に映し出された女の姿が異形のものだったら、どうする。その時、胸の奥底で誰かが囁く。
 だったら、どうだと言うのだ。

 静かに寄せる波。規則正しい波の音は昨夜と変わらない。草平はやってきた。真夜中の浜辺まで。脳裏に刻まれた女の姿。今夜ここへ来なければ、一生悔いを残すような気がする。しかし同時に、ここへ来たことを恨むことになる予感もしていた。相反するふたつの思いに急き立てられるようにして、ここまでやってきた。
 何もなければいい。何も起こらなければいい。そう自分に言い聞かせながら、水際に沿って歩む。鮮やかな月の光が、黒い波をくっきりと照らす。もう何年も耳にしてきた、磯を洗う水音。心地良さと怖れがない交ぜになった胸を抱え、あてどなく歩み続ける。やがて、このままだと松林が張り出した岩礁に行き着くことに気付く。この浜のことは知り尽くしている。青々とした松が形の良い枝振りを見せ、岩礁に波が砕け散る風情は、夏になると多くの子どもたちが絵日記の題材にする。その清しい情景も、真夜中の月明かりの下では装いを変える。
 蒼い空間に突如現れた黒い塊。岩礁に波が迸る音が響く。ごつごつとした岩礁の輪郭が、月光を受けて鋭く空間を切り取る。岩礁の上には、無言で冷たい光を投げかける月。ああ、今日は満月か。そんなことを思いながら目を細める。ここには誰もいない。今夜はいないのだ。偶然のいたずらが昨夜彼女と逢わせたのだ。草平はそう言い聞かせ、深く息をついた。もう一度岩礁を見上げ、静かに踵を返す。湿った砂に足を踏み込んだ、その時。
 水が弾ける音。
 聞き慣れた波の音とは、何かが違った。こくりと息を呑む。潮騒の囁きがひそめられ、自分の胸の鼓動だけが耳に響く。背中に感じる視線。そこに、誰かがいる。草平は、強く、大きくなってゆく鼓動を感じたまま、ゆっくりと背後を振り返った。
 岩礁に浮かぶ月が、黒い影に遮られている。岩とは違う、丸みを帯びた影。それはしばし静止していたが、やがて身じろぎした。したたり落ちる雫が月光を受けて白く弾く。影は岩礁の上でゆっくり立ち上がった。月光を背に受けた黒い体の線は明らかに女だ。無言のまま、雫を滴らせながら岩礁を降りてくると浜辺に佇む。二歩、三歩とゆったり歩み寄り、そうしてようやく、その素顔が月明かりの下で垣間見える。
 昨夜出逢った若い女。切れ長の黒い瞳がまっすぐに見つめてくる。長い前髪が張り付いた細面の顔立ちに小さな唇を引き結び、ただ黙って眼差しを投げかける。上半身は裸だが、海蛇のようにうねる黒髪が胸を隠している。と、草平は思わずぎょっとして体を引きかけた。返り血を浴びたように見えた下半身には、鮮やかな緋縮緬の腰巻が張り付いている。その乱れた裾から覗く足。濡れ光る足の表面は滑らかな肌ではなく、金属のような光沢を持った鱗だった。一枚一枚、暗い光彩を放つ鱗が綺麗に重なる。そして、形の良いふくらはぎには、手のひらほどの大きさのひれが二枚。ああ、やはり彼女は人魚だった。ぼんやりと霞がかったような頭で思う。それは絶望でもあり、喜びでもあった。
 永遠のような長い沈黙の果てに、女が足を一歩踏み出す。草平は黙ったまま動くことはなかった。女は静かに歩み寄ると、ゆっくり右手を差し出した。青白く、細い指。その指と指の間にはうっすらと半透明の膜が広がっている。差し出された手をまじまじと見つめるうち、女はその手を上げると草平の頬を包み込んだ。冷たい手。ぞくりと背が粟立つが、それでも彼は声を上げなかった。女も口を開くことなく、ただじっと見据えてくる。その漆黒の瞳に、呆然とした表情の自分が映る。ごくりと唾を呑み込んでから左手をゆっくり上げ、頬を包む冷たい手を取る。ほっそりとした白い指と指の間の薄い膜がどうしても目につく。思わずその膜をそっと撫でると、女は美しい眉をひそめて肩を強張らせた。怒らせた。思わず狼狽えた草平の歪んだ表情がおかしかったのか、女は花弁が開くように笑顔を見せた。その思いがけない笑顔に、草平は一気に吸い込まれた。
 そう。吸い込まれたのだ。深い深い、海の水底へ。
 波の音が、胸を突いた。

 翌日。福井市内の自宅へ帰ると、草平はようやく見慣れた日常に包まれた。そろそろ春休みも終わる。新規生を迎える準備もしなければならない。だが、草平は何も手につかない状態だった。
 机を前にただぼんやりと過ごす。これまで訪れた場所で撮影した大判の写真がいくつかある他は、飾り気のない室内。クリーム色の壁をじっと見上げていると、脳裏に浮かぶのは仰浜で過ごした一夜だった。
 左手を上げるとまじまじと凝視する。この手が、彼女の手を撫でたのだ。指と指の間に薄い膜――水掻きのある手を。体は水を含んだ海綿のように柔らかだった。そして、刺すように冷たかった。手も足も。肩も背も。だが、それも自分の体温で温かくなったのだ。
 と、草平は不意に口許を覆って体を起こした。顔がかっと紅潮したのがわかる。胸も不気味に脈打つ。違う。あれは夢だ。夜の浜辺でみた、夢だ。目を閉じて瞼の裏に焼き付いた光景を振り払おうとするが、体に残る感触が蘇るだけだった。震える息を吐き出し、部屋の奥の本棚に目をやる。整然と並ぶ、おびただしい書籍の背表紙。その内のひとつが、光を当てられたように浮かび上がる。若狭国妖拾遺集。立ち上がり、ゆっくり本棚へ歩み寄るとその書物を抜き取る。忙しなく叩き続ける不吉な鼓動。ページを開くと現れる、異形の女。草平は目を眇めた。彼女はもっと美しかった。冷たく、鋭い眼差し。言葉はなくとも、豊かな表情を見せた唇。そして、月の光を浴びて彩りを変える鱗に包まれた、なだらかな脚線。本を閉じ、胸に抱くと床に蹲る。眉を寄せ、目をきつく閉じると食いしばった口から苦しげな息が漏れる。そう。美しかった。彼女は美しい人魚だった。

 人魚と出会って一カ月。五月連休に入ると草平は再び仰浜へ向かった。特に目的があるわけではない。だが、もう一度あの場所へ行かなくてはならないような、そんな気分に追い立てられたのだ。
 浜へ向かう前に、
美晴みはる寺へ向かう。仰浜の北に位置する美晴山の麓に鎮座する小さな寺だ。初夏の陽射しを浴びた新緑が目に眩しい。爽やかな陽気のはずなのに、草平の心は強張っていた。やがて、滴るような緑に囲まれた立派な山門が見えてくる。その向こうに、古式ゆかしい木造の寺院。創建は平安時代。古いが美しい寺だ。
 境内には人気がなかった。本堂の前までやってくると手を合わせ、深々と頭を下げる。そして、本堂の入り口を振り仰ぐと欄間に美しい繊細な彫刻が施されているのが見える。それは、波間に踊る人魚たちの姿だ。髪を揺らし、波と戯れ、足のひれを跳ね上げている。ここにも、仰浜の人魚伝説が刻まれている。草平は人魚の彫り物を目に焼き付け、踵を返した。
 仰浜へ続く見慣れた道。海開きはまだもっと先だが、連休ということもあって家族連れの姿も多く見られる。磯で貝殻を見つけて歓声を上げる子どもたちを横目に眺めながら、ひとり歩みを進める。ここへ来た目的は何だったのかと自問を続けながら歩いていると、視界に岩礁が入る。昼間の岩礁は太陽の光を浴びた波飛沫をまとい、夜半と違って生命力に溢れていた。あの岩礁の上に、彼女が寝そべっていたのだ。月光を浴びながら。太陽の強い光に目を細め、岩礁を行き過ぎる。白昼に来ても、きっと彼女には逢えない。わかっていながら、心の奥底でどこか寂寥感を覚えながら松林に足を向けた時。
 草平は凍り付いたようにその場に立ち尽くした。照り付ける陽射しとは裏腹に、背に冷水を浴びせかけられたように寒気が走る。彼の前に広がる松林。その一番手前の松の枝に、白いシャツが風をはらんで揺れていた。あの晩、彼女に羽織らせたシャツだ。しばし息もできずに凝視していた草平だったが、我に返ったように小走りで松の木の許へ向かう。シャツは表面に少し海砂が付着していたが、間違いなく自分のものだった。風に揺れるシャツを手繰り寄せ、まじまじと見つめる。どうして、あの時のシャツがここに。まるで誰かが枝に掛けたように。得体のしれない疑念が胸の奥から沸き起こってくるのを感じながらシャツの砂を払い、畳もうとした時。幹の反対側の根元が動いた気がしてぎくりとする。息を呑んで見守るうち、再び根元の土がわずかに盛り上がる。額から噴き出した汗が頬を伝い落ちる。松の根元は、そこだけが掘り返されたように色が変わっていた。幹を周ると、ゆっくりしゃがみ込む。根元にかけられた湿り気を帯びた土が時折かすかに動く。そっと手を伸ばし、土を払う。ゆっくり、慎重に土をどかしてゆく。両膝を突き、いつしか必死に土を掻きだす。何が現れるか考えずに。と、土の塊がぼろっと崩れ、思わずぎょっとして手をひっこめる。
 不意に現れた黒い空間。しかめた顔を近付けると、どうやら半透明の塊が土中に埋まっているようだった。草平は体を起こし、辺りを見渡す。少し離れたところに、壊れかけた玩具のバケツが転がっている。それを拾うと磯へ向かう。冷たい海水を汲み、松林へと戻る。そして、塊を覆う土を洗い流すように海水をかけ――、
「ひっ!」
 草平は短い悲鳴を上げると尻餅をついた。バケツが地面に転がり、海水が黒々とした水たまりを作る。耳の奥に潮騒の轟きがこだまし、それは頭の中をぐるぐると駆け巡った。生ぬるい汗が首筋を伝い、胸許を濡らす。早まる呼吸。ごくりと唾を呑みこんでから体を起こし、松の根元を覗き込む。
 氷のような透明度の塊は、眠っている猫や犬の背のようにゆっくりと上下していた。そっと手を伸ばすが、その手は明らかに震えている。恐る恐る塊に触れてみる。冷たくもなく、温かくもないそれは、ゆるやかに形を変えて草平の手を迎え入れた。手触りからして、寒天質。胸の鼓動は不気味に高まるばかりだ。我知らず、寒天質の塊を手のひらで撫でた時。塊がぶるりと震えた。
「あっ……!」
 下から表面に向かって何かが浮かび上がってくる。「それ」を目にした瞬間、草平はへなへなとその場に崩れ落ちた。
 小さな鮒のような魚。その頭部はゴルフボールほどの丸い物体。頭と胴体の継ぎ目辺りから突起物が見える。よく目を凝らすと、先端に小さな指が蠢いている。腕だ。眩暈を感じながら草平は額を押さえ、顔を振った。どうして、どうして、こんなことが。そんな言葉を胸で繰り返し呟く。「それ」はまるで寝返りを打つように身をよじった。顔が見える。閉じた瞼が三日月のような曲線を描いている。明らかに「ヒト」の顔。ヒトの頭部に、魚の胴体。草平は、寒天質の塊の中で泳ぐ「人魚」を呆然と見つめた。



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