魚媛

〜第3話〜

 

  翌朝。結局あまり眠れないままベッドを抜け出した草平は、ぼんやりとした頭で洗面所へ向かった。キッチンから空っぽの腹を刺激する良い匂いが漂ってくるのを感じながら顔を洗う。そして、鏡に写る濡れた顔をじっと見つめる。痩せた頬を撫で、「老けたな」と思う。仕方がない。今年でもう五十一だ。そう言い聞かせながら顔を拭い、リビングへ向かう。
「おはよう、草平」
 キッチンでは、草平と似た年頃の女性が朝食を作っていた。品の良い装いが印象的な女性だ。
「お弁当も作っておいたわよ」
「ありがとう」
 草平はまだ眠そうにぼそりと呟いた。
「衣緒は? あの子もそろそろ起きなきゃいけないんじゃないの?」
 と、言っている側から草平の後ろから少女が顔を出す。
「おはよう、おばさん」
「おはよう」
 衣緒は父親の背中からキッチンを覗き込み、嬉しそうな笑顔になる。
「うふふ。私、おばさんの料理大好き」
「お弁当もあるからね」
「やった!」
 喜びの声を上げる娘の頭をくしゃくしゃと掻き撫で、「顔を洗ってこい」と声をかける。いそいそと洗面所に向かう娘を見送り、キッチンに目を向けた時。草平は眉を寄せた。
「姉さん、これは駄目だよ」
 そう言ってソーセージの袋を指差す。姉は首を傾げるが、すぐに「あっ」と声を上げる。
「そうか、これ魚肉ソーセージだった」
「魚は駄目だよ」
 姉は残念そうな顔付きでソーセージの袋を取り上げる。
「うっかりしちゃったわ……。あんたも食べないんだっけ」
「うん」
「じゃあ、持って帰ってうちの人のつまみにするわ」
 草平は、手際良くピラフを皿に盛っていく姉を少し申し訳なさそうな表情で見守った。
「……義兄さんは元気?」
「元気だけど忙しくてね」
 出来上がったピラフをリビングに運ぶ姉の後をついてゆく。
「ほら、デイケアの施設を作るって話したじゃない。あれが本格的に始まってね」
「そう。……忙しいのに悪いね」
「近くじゃない。大丈夫よ」
 草平の姉、幹恵は元看護士で、内科医に嫁いで都内で暮らしている。幹恵はふぅと息をつき、ベランダから見える風景に目をやる。
「今年も暑いわね! 熊谷は」
 そう。ここは草平が生まれ育った福井ではなく、埼玉県の熊谷市だった。彼は今、ここで娘の衣緒と二人暮らしをしている。
「わぁ、高菜のピラフだ」
 顔を洗い、夏服の制服に着替えた衣緒が戻ってくる。
「こっちは本当に暑いわね。衣緒も気を付けなさいよ」
「うん」
 両手を合わせ、「いただきます」と挨拶をしてからスプーンを取る。
 衣緒は十五歳。熊谷市内の高校に通っている。細く柔らかな黒髪が真っ直ぐ肩まで伸び、肌は抜けるように白い。どこか病弱そうな印象さえ抱く外見だが、いたって健康に育っている。少し切れ長な瞳は「母親」によく似ている。草平は、時折そんなことを考えていた。「おばさん、昨夜の父さんの悲鳴聞こえた?」
「え?」
「大丈夫だよ」
 姉が答える前に、新聞を広げながら草平がぼやく。
「姉さんは一度寝たら何があっても起きないから」
「まぁ、なんてこと!」
 目を剥いて怒る伯母に衣緒が声を上げて笑う。
「もう、怒ったら余計に暑くなるじゃない」
「東京も暑いでしょ」
「まぁね」
 ピラフを口に運びながら、壁にかかるカレンダーを眺める。
「衣緒はいつから夏休み? また遊びにいらっしゃいよ」
「うん。夏休みは二十日から」
「またメールちょうだい。予定を空けておくから」
「智樹くんは?」
 弟に尋ねられ、幹恵はお茶を飲んでから答える。
「忙しいから帰ってこられるかどうか。帰ってくるにしても九月ね」
 智樹は姉夫婦の息子だ。一人っ子の彼は父の後を継ごうと猛勉強の末に医大に進学し、来年から研修医になるという。幹恵が弟の子を甲斐甲斐しく世話をしているのは、女の子もほしかったから、という理由もあった。
 しばらく夏休みの話で盛り上がり、やがてピラフを食べ終えた衣緒が少し緊張した様子で父親を見上げる。
「……ねぇ、父さん」
「うん?」
 新聞に目を向けたままの父親に、衣緒は慎重に言葉を続けた。
「夏休みなんだけど……、皆で一緒に遊びにいく計画があって……」
「どこに」
 すぐには答えない衣緒に幹恵が怪訝そうに見やる。彼女は眉をひそめ、恐る恐る口を開いた。
「……江ノ島」
 江ノ島と聞いた途端、草平はばさりと新聞を綴じた。衣緒が慌てて両手を合わせる。
「海には入らないから! 約束するから!」
「駄目だ」
 低い声で跳ね返され、衣緒の表情が崩れる。
「昔から言ってあるはずだ。海は駄目だ」
「でも……、でも、もう大きくなったからいいでしょ」
 かすかに震えた声で必死に頼み込んでくる衣緒だが、草平は険しい表情を崩さなかった。幹恵ははらはらした様子で弟親子を見守るしかない。
「どこに行ってもいい。でも、海と大きな川は駄目だ」
「草平」
 あまりにも頑なな弟に幹恵がたしなめるように声をかけるが、草平は軽く手を上げて顔を振る。
「父さん……!」
 ついに衣緒が声を高める。
「昔から……、父さんは色んなところに連れていってくれて……、でも、海だけ駄目なんてどうして? 危ないからって、他にも危ないところたくさんあるじゃない……!」
 顔を紅潮させ、立ち上がらんばかりにまくし立てるが、それは責めるというよりも哀願に近かった。衣緒がこんなに感情を露わにするのは珍しい。そのことに困惑しながらも草平は目を逸らし、聞き取りにくいほど低い声で呟く。
「……友達に言って、他のところにしてもらいなさい」
「父さん!」
「衣緒」
 幹恵が姪の肩を撫でる。が、本人は目に涙を溜めて父親を睨むと言い放った。
「……私、父さんのせいで皆に馬鹿にされたのに」
「俺のせいで?」
 思わず顔を歪めて振り返る。娘は身を乗り出した。
「いくら海のない埼玉育ちだからって、一度も海を見たことがないなんておかしいって。皆に笑われたのよ」
 返す言葉もなく、草平は呆然と娘を見つめた。衣緒は唇を引き結び、目尻に滲んだ涙を指先で拭う。
「でも、だから皆が言ってくれたの。私のために海を見に行こうって。私、すごく、楽しみだったのに」
 震え声で訴えてくる娘に、草平は狼狽した。だが、それでも許すわけにはいかなかった。
「……衣緒」
 何と言えばいい。どう言えば、衣緒を納得させられる。草平はそのことばかりを考え、必死で言葉を選ぶ。しかし、
「もういい」
 そう言い放ち、衣緒は席を立った。
「衣緒」
 そのまま洗面所へ向かう衣緒を幹恵が追う。歯磨きを始める彼女に、幹恵がキッチンから弁当を持ってくる。
「ほら」
 弁当を手渡され、衣緒は寂しそうに目を伏せる。
「……ごめん、おばさん。せっかく来てくれたのに」
 幹恵は苦笑すると姪の頭を撫でる。
「お父さんともうちょっと話をしなさい。お互い冷静になってね」
 すぐには返事をしなかった衣緒だが、やがて小さく頷く。
「また遊びに来なさいね」
「……うん」
 小さな声で囁くと、弁当と鞄を持って玄関へ向かう。
「行ってきます」
「気を付けてね」
 衣緒はちょっとだけ微笑むと、手を振ってドアを閉めた。閉じられたドアを見つめ、溜息をつく。と、背後から気配を感じて振り返る。そこには、眉間に皺を寄せ、沈んだ表情の草平が立ち尽くしていた。
「……あの子、我慢してるわよ」
 姉の言葉に、黙って頷く。
「昔、うちの人がこっそりあの子を海に連れていこうとしたことがあって」
 思わず身を乗り出す弟に、顔を振る。
「でもね、あの子が言ったの。父さんとの約束を破りたくないって。だから、一度も海に連れていったことはないわ」
 その言葉に安堵したように息を吐き出すが、幹恵は眉をひそめて囁く。
「ねぇ。あんたがそこまでしてあの子を海に連れていきたくないのは、もしかしてあの子の母親と何か関係があるの?」
「姉さん」
 固い声色に幹恵は口を閉ざす。草平は目を眇めると、低い声でゆっくりと訴えた。
「……姉さんにも義兄さんにも、本当に感謝している。でも、このことは言うつもりもないし、これからも言わない。……ごめん」
 幹恵は小さく吐息をつくと、かすかに苦しげな表情をしている弟を見上げる。
「私はいいわ。でも、あの子がいつか母親のことを聞いてきたらどうするの?」
 答えない草平に、穏やかに畳みかける。
「……もっと先でいいと思うけど、その時はきちんと話してほしいわ。これは、私の希望」
 じっと見つめられ、草平は項垂れるように頷いた。そして、リビングの戸口に飾られた写真を見やる。自分と幼い衣緒。姉一家の姿もある。皆で秩父へ遊びに行った時のものだ。おかっぱ頭の衣緒は弾けるような笑顔で自分に抱っこされている。その隣は最近の写真。「熊谷青葉高校入学式」とある看板を前に、真新しい制服に身を包んだ衣緒と、スーツ姿の自分が写っている。桜の花弁が舞う中、はにかんだ笑顔の娘に草平は目を細め、溜め込んだ息を吐き出した。

 衣緒は、草平が仰浜の浜辺で拾った「寒天質の塊」から生まれた娘だ。生まれた直後には手に水掻きもあり、足の鱗模様も残っていたが、一年ほどでそれらは消えていった。その後は人間の赤ん坊と同じ成長だ。草平は人魚の娘に「衣緒」と名付け、未婚の父としてひとりで育てた。
 家族には真実を話すわけにはいかず、「母親が出産後に行方をくらました」と説明した。それはあながち嘘ではない。草平は何度か仰浜を訪れたが、人魚とは二度と逢うことは叶わなかった。しかし、両親は当然のことながら激怒し、父親などははっきりと「本当におまえの子どもなのか疑わしい」と言い放った。だが、血液型が同じAB型であることを挙げ、草平はきっぱりと自分の子だと明言した。それでも両親の理解は得られず、草平は勘当を言い渡された。
 両親の怒りはもっともだ。草平は言い訳などせず、衣緒を連れて福井を出た。東京の大学で職を得ると埼玉に移住。都内に住む姉の幹恵が衣緒の存在を受け入れ、自分たちを支援してくれたことは大きな支えになった。また、幹恵の夫である敦生も草平の良き理解者であった。内科医である敦生は何かにつけて衣緒の健康を気遣い、色々と協力してくれている。だが、以前から草平と親しかった敦生は、妻に疑問を呈してもいた。
「あの草平くんが、生まれた子どもを放置するような女と深い仲になるだろうか」と。
 ともかく、幹恵夫婦は草平親子を物心両面で支えた。そのおかげもあって、衣緒はすくすくと健康に育った。思春期の頃は気難しい面もあったが、今では落ち着いている。草平が少しだけ気にしているのは、成長するにつれて感情の起伏が少なくなっていくことぐらいだった。だから、あれだけの怒りを見せたことに草平は驚いたと同時に安堵もした。
「海を見たい」
 衣緒は幼いころから常々そう訴えてきた。だが、草平は衣緒を海へ連れていく勇気が持てずにいる。海へ連れていくと、衣緒は海に「帰って」いくのではないか。その思いが拭いきれない。そのために、海のない埼玉に移住したのだ。だが、いつまでそうやって衣緒の自由を奪っておけるのか。草平の心は揺らいでいた。

 熊谷までは電車で一駅。衣緒が通う熊谷青葉高校は、駅から歩いていける距離の学校だ。校舎を取り巻く樹々からは耳を覆うほどの蝉時雨。七月の中旬にして、すでに真夏日が続いている。
「さくらん!」
 教室へ入ると、衣緒はすぐに女子のひとりから呼びかけられる。
「どうだった、江ノ島」
 数人の女子グループが不安そうな表情で衣緒を見つめてくる。彼女は申し訳なさそうに眉をひそめた。
「……ごめんね、駄目だった」
本気マジかー」
 皆が溜息まじりに呟く。
「さくらんのお父さん難敵だな……」
「黙って行っちゃえば?」
 その言葉にひとりが手を振る。
「駄目だよ。ほら、さくらんはお父さん思いだからさ」
 皆は衣緒の家庭事情を知っており、仕方なさそうに頷く。
「ごめんね。江ノ島は皆で行ってきて」
「それ意味ないよ。さくらんに海を見てほしかったんだからさ」
「そうそう」
 皆の言葉に、衣緒は少し嬉しそうな表情になる。中学では友人が少なかった衣緒だが、高校ではクラスメートと打ち解け合えたおかげで、毎日が充実している。その充実感は、父親にも伝わっているらしい。と、そこでひとりがあっと声を上げる。
「そうだ! 浦安にあるじゃん! 海のテーマパークが!」
 皆がわっと歓声を上げる。
「イマジン・シーか!」
「そうだそうだ! あそこにしよう!」
 だが、衣緒は慌てて身を乗り出す。
「で、でもあそこ高いでしょ、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫! 学割もあるし、浦安の方がむしろ近いしさ。さくらんのお父さんの許可さえあれば、あそこにしよ!」
「決定!」
 まだ少し戸惑い気味の衣緒に、中でも穏やかな友人が声をかけてくる。
「さくらん、行ったことないでしょ。あそこ本当に海っぽい演出がしてあるし、本物の海が見える場所もあるよ」
「そうなんだ……」
 困惑しながらも、衣緒の脳裏に青い波間や白い波飛沫が躍る。行ってみたい。例え「作り物」の海だとしても。せっかく親しくなれた友人たちと思いっきり遊んでみたい。だが、それと同時に、頭をもたげる不安。実は、衣緒には気がかりなことがあった。だが、皆で行けば怖くない。大丈夫だ。そう言い聞かせる。
 そうやってテーマパークの話に花を咲かせる衣緒たちを見守る男子がいた。椅子に座っていても背の高さをうかがわせ、手にした文庫本が小さく感じられるほどの体格の良さ。本から目を上げて衣緒の様子をじっと見つめている。トートバッグから紙パックのレモンティーを取り出し、ストローで飲み始める衣緒。暑さのせいでほんのり朱に染まる白い肌。繊細で柔らかな黒髪が揺れるたびに艶やかに輝く。白い肌に黒々とした髪は、まるで日本人形のようだ。思わず見とれていると、不意に声をかけられる。
「いいよな、女子たち。浦安行くみたいだぜ」
 はっと振り返り、取ってつけたように「ああ」と答える。
「みんなお揃いのカチューシャ着けたりすんだぜ。へへ」
「そうだな」
 笑いながら返しつつ、彼の眼差しはまだ衣緒の姿を追っていた。

 その日の放課後。衣緒は両手に本を抱えて図書室を訪れた。カウンターには鞄を投げ出したまま文庫本を読み耽る男子の姿が。衣緒は口許にふっと微笑を浮かべた。
「里村くん」
 声をかけられた本人が顔を上げる。と、明らかに嬉しそうな顔つきになる。
「よう」
「返却お願いします」
 そう言って仰々しく本を差し出すと、相手もかしこまって両手で受け取る。
「ご苦労様です」
 本を渡すと、脇の本棚を見て衣緒は顔をほころばせた。
「すごい。本屋さんみたいになってる」
「おう。二年の先輩がバイト先と同じようにしてさ」
 その本棚には『夏旅! おすすめ本ランキング!』と賑々しくポップが飾られている。その中のひとつ、美しい南国のリゾート地の写真集を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。真っ白な砂浜。日本では見られない、エメラルドグリーンの海。極彩色の熱帯魚。だが、衣緒は知っていた。うっとりするほどに美しい海ばかりではないことを。
「女子たち浦安行くんだって?」
「うん。本当は江ノ島に行く予定だったんだけど」
「海じゃなくて、テーマパークに行くのか」
 少しきょとんとした表情の相手に衣緒が苦笑する。
「まぁね」
 衣緒のクラスメート、里村雄輔。実は、クラスで一番親しいのは彼だった。
ふたりが親しくなったのは入学してしばらく経ってから。ある日、雄輔は図書室のある校舎の玄関前で立ち尽くしている衣緒を見つけた。クラスメートだと気付いた雄輔は不思議そうに声をかけた。
「何してんの?」
 振り向いた衣緒は眩しそうな目つきで見上げてきた。小柄な彼女にとって一八〇近い身長の雄輔は巨人のようだった。
「……図書室に行きたいんだけど、機械棟怖くて……」
 熊谷青葉高校は普通科と機械科があり、校舎は分けられている。そして、通称「機械棟」と呼ばれている機械科は男子学生が多く、荒っぽい。図書室は、その機械棟の最上階に位置している。雄輔は思わず笑いをこぼした。
「なんだ。じゃあ一緒に行くか? 俺、図書委員だし」
 その言葉で、衣緒の表情がぱっと輝く。普段感情を露わにしないおとなしいクラスメートの笑顔に、雄輔は胸を撃ち抜かれた。つまり、そういうことだった。
 それ以来、雄輔は何かにつけて衣緒に声をかけるようになり、こうして図書室で一緒に過ごすことが多くなった。
「私、海を見たことがないから皆で江ノ島に行こうって話になったんだけど、うちの父さんが海に行くのを許してくれなくて」
「なんで」
 その短い問いに思わず言葉を呑みこむ。聞きたいのはこちらの方だ。が、困ったような微笑を浮かべて肩をすくめる。
「よくわかんないけど、多分危ないからだと思う」
「ふぅん」
 雄輔は少し納得できない様子で鼻を鳴らすと、何か思いついたように身を乗り出す。
「お母さんから言ってもらったら?」
「うち、お母さんいないから」
 これまで何度も投げかけられた言葉にさらりと返す。すると雄輔は馬鹿正直に驚いた顔になるが、すぐに真顔で「ごめん」と呟く。
「ううん、いいよ」
 衣緒も気にしていない素振りで返す。ちょっとの間気まずい沈黙が流れるが、衣緒は写真集を棚に戻して雄輔を見上げる。
「ねぇ。里村くんのおすすめの本ってある? ちょっと幻想的でせつない感じがいいな」
「よし、任せろ」
 途端に胸を張って席を立つ雄輔に、衣緒は頼もしそうな眼差しを向ける。がっしりした体格ながら、どこかのんびりとした童顔の雄輔に、衣緒は安心感を抱いていた。
「これこれ」
 奥の本棚まで行くと手招いてくる雄輔を追う。
「佐倉、詩集とか大丈夫?」
「うん」
「じゃあ、これおすすめ」
 そう言って手渡されたのは、
「中原中也?」
「結構ぐっとくるんだぜ、中也。大正ロマンって言うヤツ。言葉遣いとかがこう、くすぐられるというか」
 どこか得意げな表情で語る雄輔に思わず吹き出す。
「何それ。不純なものを感じるなぁ」
「違うって! 本当に言葉の表現が浮世離れしてて、結構浸れるんだって」
「じゃあ、読んでみる」
 その一言に雄輔は満足したように頷く。
「よし。貸出手続きしとくよ」
「お願いします」
 意気揚々とカウンターへ向かう雄輔に、衣緒は笑いながらついていった。
 しばらく図書室で他愛無い話で盛り上がると、やがてふたりは揃って学校を後にした。雄輔は自転車通学だったが、熊谷駅に向かう衣緒に付き合って自転車を押して歩く。こんな風に、ふたりは図書館で話し込んだ後によく下校を共にしていた。
「じゃあね」
 駅に着き、手を振る衣緒に雄輔も手を挙げる。スカートの裾を翻し、改札口へ向かう彼女の後ろ姿を見送ると、雄輔は少し寂しそうに息をついて自転車に跨った。
 一方の衣緒は、ホームに着くと早速鞄から中原中也の詩集を取り出した。これまでにも雄輔から本をすすめられたことがあったが、詩集は初めてだ。

ポツカリ月が出ましたら、
舟を浮かべて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
(在りし日の歌/湖上)

 衣緒は目を細めて口許をほころばせた。なるほど、思った以上に素朴で胸に入りやすい。おすすめなわけだ。衣緒はどんどん読み進めていった。が、そのうち、ふと眉を寄せてページをめくる指を止める。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。

曇つた北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
(在りし日の歌/北の海)

 衣緒の脳裏に、闇の帳が降りてゆく。厚い闇。すべてを包み込む闇の帳が体をすっぽりと覆い隠す。冷たい帳は体温を奪ってゆく。少しずつ、確実に。そして、その闇はやがて鉤爪を持った手に変わり、衣緒の足首を鷲掴みに――、
 そこで、素早く本を閉じる。と同時に、瞬間忘れていた暑さがじわじわと体を襲う。衣緒は溜め込んだ息を大きく吐き出した。額を伝う汗は、暑さだけが原因ではない気がした。衣緒はごくりと唾を呑みこむと、詩集の表紙を見つめた。

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