イレーネ

 

 暗闇で頬を撫でてみる。ぬるりとした感触。肩に手を這わせると裂かれた肌着に指が引っかかる。もうどれだけの時間が経ったのかもわからない。今が昼なのか、夜なのか。そんなことも忘れた。絶え間なく響く耳鳴りに紛れ、鎖が耳障りな音を立てるのが聞こえたかと思うと、突然強い明かりが差す。眩い明かりに顔を歪めて呻く間もなく、胸倉を掴まれた。
「出ろ。おまえなどに構ってはいられぬ!」
 野太い声に罵倒されると牢獄から引きずり出される。明かりに照らされた自らの体をぼんやりと眺める。肌着は血に染まり、引き裂かれ、無数の傷が口を開けている。
「早くしろ! どこへでも行け!」
 耳許で悪態をつかれ、地面へ投げ出される。体中に焼け付くような痛みが広がり、声にならない悲鳴を上げる。それでも喘ぎながら体を起こし、震える両手で体を支える。放り出されたのは殺風景な庭。辺りは雑然とし、悲鳴や怒号があちこちから沸き起こっている。四つん這いになり、獣のように唸りながら前へ前へと這う。やがて行き着いた木戸を渾身の力を込めて押す。と、不意に大きく開かれ、勢い余って外へ投げ出される。激痛に身を強張らせながら上げた顔が明るく照らし出され、思わず目を見開く。
 赤々と顔を照らし出す火の手。炎の舌がちろちろと曇天を舐める様に、呆然とただ凝視する。やがてその耳に喧噪が飛び込む。人々の悲鳴。馬の?足。火が爆ぜる音。そして、それらを掻き消すほどの大音声。
「小麦を取り返すんだ! 城門をぶっ壊せ!」
「城門をぶっ壊せ!」
 目を凝らして前方を見つめる。固く閉ざされた城門の向こう側からその叫び声は聞こえていた。掛け声に合わせ、城門に大きな何かが打ち付けられる。何度も、何度も。その不気味な振動が大地を伝わって体に届き、ごくりと唾を飲み込む。ああ、やはり皆は蜂起したのか。でも、もはや自分にはどうでもいい。
 怒鳴り声を聞きながら、力尽きたように膝を突くと仰向けに転がる。黒煙と炎が競うように曇天を目指す様に目を細める。苦しい。痛い。もう、疲れ果てた。だが、たったひとつ心残りがある。彼女はどうしたろう。無事だろうか。いや、きっと大丈夫だ。あの男がついているのだから。そう思いながら瞳を閉じかけた時、馬の嘶きが耳を劈く。鉛のように重い瞼を押し上げると、興奮した黒い馬が数頭目に入る。
「急げ! 殿は北門からお逃げになられた。奥方とお嬢様を早く!」
 その言葉だけがはっきり耳に飛び込み、目を細めて穏やかな微笑を浮かべる。ああ、無事なのか。逃げてくれ。誰の手も届かない遠くへ落ち延びてくれ、イレーネ。僕はここで死ぬ。もう一度、火の手が伸びる曇天に眼差しを向ける。灰色の雲の切れ間から、光に溶けるような水色の空がほんの少し垣間見える。きっと、まだ平和な場所が残されているはずだ。君はそこで生きていけばいい。そして、時折僕を思い出してくれたらいい。思えば、君と出会った時からこうなることは決まっていたんだ。それでも、君と巡り合えたことを神に感謝するよ。

 夏でも雪を頂くミュンツァー山。この麓で自分は育った。まだ幼かったあの日、石工だった父に連れられて城館を訪れた。古い礼拝堂の彫刻を直すためだったと記憶している。十にも満たなかった自分は父の手伝いを始めたばかりで、道具を運ぶことぐらいしかできなかったが、初めて訪れた領主の城館に好奇心を抑えられなかった。礼拝堂の一角では、寡黙な父が運んできた石を相手に仕事に励んでいた。
「中庭にある道具を取ってこい」
 言われて礼拝堂を出ると、中庭へ向かう。城館は途方に暮れるほど広く、中庭へ辿り着くまで時間がかかった。ようやく中庭へ着くと、ぎょっとして立ちすくむ。道具は積み上げられた石材の横にきちんと並べてあったが、その道具の側にひとりの少女が蹲っていた。光沢のある、見たこともない綺麗な上衣を纏い、緋色のスカーフから流れ出る金髪は太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。思わず目を奪われて見つめていると、人の気配に気付いた少女がこちらを振り向く。自分と同じ年頃の娘は、怪訝そうな表情でこちらをじっと見つめてきた。が、その白い手が小刀を手にしているのを見て思わずかっとなる。
「駄目だ」
 声を上げると駆け寄る。
「それは親父の大事な仕事道具だ。それに、危ないよ。子どもが持っちゃ駄目だ」
 少女は素直に手を離したものの、少し不服そうな表情で見上げてくる。
「あなただって子どもではないの」
 その不思議な声色に息を呑む。自分たちが普段口にする言葉遣いとはまるで違う。それに、清流のように透き通った声。まるで天使の声のようだ。よく見ると、彫像のように滑らかな白い肌に、大きく開かれた青い瞳。頬が薔薇色でほんのりと色づいているせいで、人形ではなく、生きている人間だとようやくわかる、そんな少女だった。顔が赤くなるのを自覚して、思わず黙り込む。
「……ごめんなさい」
 謝ってきたのは少女の方だった。眉をひそめて見返すと、少女は足許の道具に目を向ける。
「大事な道具なのでしょう。触ってごめんなさい」
 素直に詫びる少女に動揺する。何と言葉を返せばいいのかわからずに黙っていると。
「何をしている」
 不意にかけられた声に体が飛び跳ねる。慌てて振り返ると、そこには豪華な金糸の縫い取りがなされたローブをまとった男が佇んでいた。歩を進めるたびに、紋章を刻んだ胸飾りがきらりと光を弾く。
「何をしていた」
 有無を言わさぬ低い声に言葉が出ず、ただ息を呑んで見上げることしかできない中、少女が一歩前に進み出た。
「この子が注意してくれたの。危ない道具を触ろうとした私に、危ないよって」
 深い皺が刻まれた険しい顔つきの男は、口を閉ざしたまま射るように凝視してくる。我知らず、体が震え始めた時。男の顔がほぐれた。
「そうか」
 そう言って、大きな手のひらを上げたかと思うと、頭を優しく撫でる。それから、一言二言何か言われた気がしたが、生きた心地もしなかった自分の耳は聞き取ることができなかった。
「行け。館を徘徊するな」
 その言葉だけが理解でき、慌ててもつれる足でその場を逃げ出した。きっと偉い人に違いない。後ろを振り向かず、恐怖ではちきれんばかりの胸を手で押さえながら息せき切って庭を駆け抜けた。その後、父に話すと何度も何度も殴られた。
「何ということをしたのだ! それは領主様のお嬢様だ! 職人の倅がお嬢様に口をきくなんて……! 二度とそんなことをするな!」
 口をききたくてきいたわけじゃない。なのに何故こんな目に遭うのか。わからないまま泣きながら謝った。
「いいか、二度目はないぞ。おまえはもう城館には連れていかん」
 その言葉どおり、自分はそれっきり城館へ連れていかれることはなかった。
  
 だが、自分は再び城館へやってきた。父の後を継いだ石工として。
 城館の役人は、十数年も前に訪れた自分を覚えてはいなかった。でも、こちらは忘れるはずもない。城門を潜り、礼拝堂へ向かう道すがら、遠い日の記憶が少しずつ鮮明に蘇っていくのを感じる。家令の命令でなければ、こんなところに帰ってくるのはまっぴらだった。
 今回は、礼拝堂に新たに設置する聖母像を作るのが仕事だった。礼拝堂で祈りを捧げてから、作業場としてあてがわれた中庭へ向かう。ここで出会ったのだ。人形のように美しい少女と、地獄の番人のような男に。今思えば、あの豪奢な身なりをした男こそ領主だったのだろう。でも、今の自分は物を知らない小僧じゃない。身の程を知った職人だ。依頼された仕事をこなすだけだ。そう自分に言い聞かせながら、黙って作業の準備を進める。
 厳しかった父が技術を叩きこんでくれたおかげで、仕事にあぶれることはない。だが数年前、教会を改革しようとする男が現れてから国中が大きく揺れ動き始めた。民を力で押さえつける貴族たちに歯向かう騎士も現れた。折しも、実り多いはずの秋になっても収穫できる農作物はなく、この町も領主に対する反発が日に日に高まっている。そんな中、城館で仕事をするのははっきり言って迷惑な話だった。そこで思わず作業の手を止める。脳裏に自分を見下ろす男の姿が蘇り、胸がすぅと冷たくなったのを感じた時。背後で砂を踏む音がしてはっと振り返る。
 有機的な模様を織り込んだ上衣に、鮮やかな真紅のスカーフで髪を覆い隠した少女。白い肌に、大きく見開かれた青い瞳。それは不思議な感覚だった。遠い昔に動きを止めた時計が再び時を刻み始めたような、そんな感覚だった。周りを忘れ、ただ互いの瞳を見つめ合った時間がどれほどだったのか、覚えてはいない。だが、彼女は少し口許をゆるめると上衣の裾を摘まみ上げ、立ち去っていった。

 城館での仕事は毎日続いた。その間、城館の仕事なんかやめてしまえと言ってくる仲間が後を絶たなかった。
「これが僕の仕事だ。領主には逆らえない」
 そう答えると、皆は自分を腰抜けだとか卑しい守銭奴などと囃し立てた。
 仲間たちから馬鹿にされながらも仕事を続けていた、ある日のこと。市場で買い出しをしていた時だ。釣り銭を数えていると、肩に何かが触れた感触がしてはっと顔を上げた。眼差しの先に、あの少女がいた。赤いスカーフ。純白の絹のブラウス。そして、陽の光に溶けていきそうな儚い金髪に包まれた笑顔がそこにはあった。
「ねぇ、覚えているでしょう」
 彼女はそっと囁いた。忘れるはずもなかった。この、不思議な声音を。
「昔、礼拝堂を直しにきた石工さんでしょう」
 鼓動が激しい勢いで胸を叩くのを感じながら、自分は目を逸らした。
「人違いです」
 それだけを呟くと、買い入れた食料を袋に詰め、後ろを振り返らずに立ち去る。あれから十数年。ふたりの立場は何も変わっていない。「二度目はない」父の言葉が脳裏に繰り返し響いた。
 それ以降も、町は不穏な空気に満ち満ちていた。近隣の村々でも小さな鍔迫り合いが続き、人々の不満は膨れ上がる一方だった。そんな中、領主の奥方と令嬢が貧しい人々に施しを始めたという噂を耳にした。冷酷な領主と違い、心優しい奥方はこうした行いをこれまでも度々してきたのだ。だが、もはやそれは焼け石に水だろう。むしろ、不満を持つ人々の前に姿を現せば、奥方たちに危険が及ぶ。領主が妻たちの行いを快く思っていないことも伝え聞いた自分は、彼女の身を危ぶんだ。
 その噂を伝え聞いてしばらく経ったある日、自分はミュンツァー山に向かった。山には石材を保管している小屋がある。麓の教会の入り口に人々が長蛇の列を作っているのを横目で見ながら山道を進む。実りのない秋が終わりを告げ始め、全てを凍らす冬がすぐそこまで迫っている。乾いた空気は人々の心まで荒ませる。そんなことを考えている内に小屋に辿り着き、石材をひとつひとつ荷車に載せてゆく。石の冷たさが手のひらを刺す。孤独な作業を黙って続け、ようやく手を休めて息をつく。汗を拭いながら小屋へ続く山道を見やった時。思いもよらない光景が目に飛び込み、息を呑んで身を乗り出した。
 寒風が吹き抜ける山道を、スカーフを手で押さえながら彼女がゆっくりと上がってくる。
「お嬢様!」
 思わずそう叫んで駆け寄ると、彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。
「やっぱり、覚えてくれていたのね」
 その言葉に黙り込んでいると、彼女はうっすら浮かんだ汗を指先で押さえ、雪を被った山頂を振り仰いだ。
「ああ、綺麗だわ。白い雪があんなに」
 山を見上げる彼女の清々しい表情は見とれるほどに美しかった。だが、自分は知っている。雪の輝きや微風の心地良さを愛でる余裕もない人々が、彼女たちを恨みに思っていることを。
「私はイレーネ。あなたは?」
 彼女は曇りのない透き通った瞳で尋ねてきた。邪気のない一途な眼差しから逃れることなどできない。
「……ハンス」
「ずっとあなたにお礼を言いたかったのよ」
 きらきらとした瞳で彼女は続けた。
「小さい頃、私と話をしてくれる人は乳母しかいなかった。だから、あなたと一言でも話せたことが嬉しかった」
 自分は哀しげに眉を寄せた。あの広大な城館で、彼女はずっと孤独な時を過ごしてきたのか。
「あなたとまた会えて良かったわ」
 満ち足りた表情でそう囁くと、彼女はそっと寄り添ってきた。彼女の小さな肩を撫でたい衝動に駆られたが、自分は黙ったままその場に佇んだ。彼女の肩と触れ合う腕がほのかに温かい。ずっと忘れていた、人の温もり。その温かさだけで、自分も彼女と再会できて良かったと思えた。
 だが、山を降りて家に帰り着いたと同時だった。どこからともなく現れた数人の男たちに取り囲まれたかと思うと、腕を締め上げられた。
「おまえがハンス・シュミットか」
 そう問われるものの、有無を言わさず馬車に押し込められる。突然のことに反論もできないまま馬車に揺られていたが、城館が目に入った時にすべてを察した。そして、生きてここを出ることを諦めた。

 それから先は断片的にしか覚えていない。両手に鎖をかけられ、天井から吊り下げられて全身を鞭打たれる日々。様々な言葉で罵倒されたが、そのほとんどが身に覚えのないことだった。生きる希望はすでになくし、いっそのこと早く殺してくれれば、そんなことばかりを考えていた、ある日。ようやく彼が姿を現した。豪奢な長衣を身にまとった長躯広大な男。でも、自分はもう彼を怖いとも思わなかった。
「なるほど」
 領主は鼻を鳴らしながら呟いた。
「どこの馬の骨かと思えば、あの石工の小僧か」
 あの時と同じ、大きな手を上げると自分の前髪を引っ掴み、ぐいと持ち上げる。感情の欠片も見受けられない瞳が真っ直ぐ自分を見つめてくる。
「言ったはずだぞ、身の程知らずが。娘に近付くなと」
 ああ、今思い出した。あの時あなたは確かにそう言った。だが、幼すぎた自分は恐怖が先に立って耳に入らなかった。朦朧とした意識に領主は何事かを囁きかけたが、もはやその言葉を聞き取ろうという意思もなかった。が、そのうち牢獄の外からざわめきが聞こえてきた。
「殿……! 市民が大挙して城門に押し寄せております!」
「武装している者もおります!」
 領主は手を離すと牢獄を出ていった。それっきり、自分はひとりで取り残された。後に広がるのは、暗闇だけ。

 重たい瞼を瞬かせてみる。曇天を覆い尽くす劫火。だが、彼女の美しいスカーフと同じ色だと思えば怖くない。自分の身に起こったことを思い返してみても、どこか遠い異国の出来事のようにしか感じられない。瞼を閉じると、彼女の笑顔が浮かぶ。
 イレーネ、僕もお礼を言わなくては。あの日、君の一言がなければその場で領主に殺されていただろう。今日まで生き長らえたのは君のおかげだ。だから、僕の代わりに生き延びてくれ。願わくは、父親の力が及ばない、自由な世界で。

  終

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