プレセア宮殿では一気に緊張した空気が張り詰め、侍従たちが慌しく行き交っていた。強張った顔つきのキリエがギョームと共に大廊下を行く。同じく険しい顔付きをしたギョームが妻の手をそっと握る。
「……新年の挨拶、とは考えにくいな」
「あなたがアングルを訪れていることも知っているはずだわ……」
女王と王配の後に続くジュビリーとバラ。廷臣たちも皆、緊張感を漲らせている。大廊下に並み居る貴族たちが、不安そうな表情で一行を見送る。
「キリエ女王陛下、並びにギョーム王陛下である!」
謁見の間へ入ると、衛士が声高に呼ばわる。中にいた人々が一斉に跪き、中央に固まっていた黒尽くめの集団がゆっくりと振り返る。キリエは彼らを見据え、ごくりと唾を飲み込んだ。エスタド人たちの威圧的な黒い衣装はいつ見ても異常な雰囲気を醸し出す。使者は見下したような目つきでキリエに向かって慇懃に頭を下げてみせた。キリエは高座の玉座に腰をかけ、ギョームがその隣に寄り添う。こんな形で外国の使者を迎えるのは初めてだった。
その時、ジュビリーの隣にすっとレスターが現れる。
「……レスター?」
宰相はしかめた顔を老臣に向け、再び使者へと視線を戻す。
「……娘の見合いはどうした」
「家人が知らせてくれまして……。モーティマーは置いてきました」
「……余計なことを」
やがてざわめきが静まると、使者は声を張り上げた。
「ご機嫌麗しゅう、キリエ女王。そして、ギョーム王」
居丈高な態度の使者に、キリエはともかくギョームは顔をしかめた。
「……何の御用でしょうか?」
キリエは落ち着いて尋ねた。使者は相変わらず鋭い視線を向けてくる。
「あなたにご報告があります」
一国の君主に対する物言いではない態度に廷臣らが眉をひそめ、非難めいた囁きが上がる。そのさざなみのようなざわめきを跳ね返すように使者は声を張り上げた。
「我が君ガルシア王陛下が先日、キリエ女王をクロイツに告発いたしました」
「……告発……?」
思いもしない言葉にその場がどよめく。キリエは顔を引きつらせ、思わず隣の夫を見上げる。ギョームは目を見開いて思わず前へ出ようとし、キリエが慌てて手で制する。
「……ギョーム……!」
そして、落ち着いて使者に向かって問い質す。
「どういうことです。私が一体何を……!」
「申し上げねばわかりませぬか? あなたは昨年、血を分けた兄君を手にかけましたな」
キリエが息を呑む。ジュビリーは目を眇めて使者を凝視する。
「それだけではございません。女王の姉君、レディ・エレソナ・タイバーンを捕らえ、幽閉していることも告発いたしました」
「お待ちなさい!」
キリエの鋭い声に使者は口を閉ざす。
「レノックスとエレソナは……、私への服従を拒み続けました。無益な争いは、多くの死者を出しました」
「当然でございましょう。元々、あなたに王位継承権はない」
「……何ですって」
使者の言葉にキリエの目の色が変わる。
「あなたも常々仰っているでしょう。自分は修道女だと。ヴァイス・クロイツ教の教義では、修道誓願を立てた聖職者には財産と家を継ぐ権利を有しないとされております。常識で考えても、十二年教会に閉じこもっていた少女が女王になるなど……、荒唐無稽も甚だしい」
「無礼だぞ!」
ついにギョームが声を荒らげるが、使者は目を剥いて怒鳴り返した。
「私はキリエ女王にお話している!」
「貴様……!」
思わず気色ばむ夫の手を咄嗟に握り締める。ギョームは歯を食いしばり、握り拳を固める。
「使者殿」
キリエはギョームがいつ理性を失うか恐れながらも、自分自身も必死に怒りを抑えて呼びかける。
「クロイツがその告発を受け入れるとは思えません。私は、ムンディ大主教から戴冠を受けた正当なアングルの君主です。兄と姉は……、反逆者です」
が、その言葉が終わらないうちに突然使者が笑い出し、皆が目を剥いて凝視する。謁見の間に反響する高笑いにキリエの背筋が凍りついていく。
「笑止! 修道女が兄を殺し、姉を幽閉するなど聞いたことがない! 世界中のヴァイス・クロイツ教徒は震え上がるでしょうな! 修道女の化けの皮を被った悪魔が治める国が存在するなど!」
「女王陛下を悪魔呼ばわりするなど……!」
廷臣たちから一斉に非難の声が上がる。
「……言葉を慎みなさい……!」
さすがにキリエは目を眇め、怒りを押し殺して呟く。何故だ。何故自分がここまで責められなければならない!
「ガルシア王は……、一体何をお望みなの?」
使者はにやりと狡猾そうな笑みを浮かべる。
「我々の要求は、ただ一点。キリエ女王の退位でございます」
「……退位?」
謁見の間に動揺が広がる。喧騒が渦を巻き、人々の怒りを煽る。ジュビリーは玉座のキリエを見上げた。眉間に皺を寄せ、目を眇めて使者を見つめる女王に宰相は息を呑む。この怒りの表情は見覚えがあった。……エドガー・オブ・アングル!
「何の権利があって、そのような妄言を……!」
「少しお考えになればおわかりでございましょう。王の妾腹が国を治めるなど……、その国の品位が知れるというもの。さっさと田舎の教会にお帰りを!」
口を開きかけたギョームを遮るようにキリエがさっと立ち上がった。青ざめた顔でつかつかと進み出ると使者を見下ろす。
「……ガルシアに伝えよ」
低く言い放つキリエに使者が目を眇める。
「私は修道女。禿鷲(はげわし)に祈り方を教えて差し上げても良い!」
「……ハゲワシ……!」
使者の顔が引き攣る。キリエは身を乗り出すと叫んだ。
「さっさと帰るがよい! 早く! 私の気が変わらぬうちに、早くッ!」
狂気にも近い女王の叫びに使者は息を呑んだ。使者だけではない。キリエの隣のギョームも驚きを隠せない表情で妻を凝視している。廷臣らも口々に使者を罵倒し、その場が騒然となる。武装した近衛兵らが使者の一団を取り囲む。使者は女王を振り仰いだ。
「……後悔なさらぬよう……!」
やがて、追い立てられるようにしてエスタドの使節団はプレセア宮殿を去っていった。街道沿い及びアングル全土の港湾は警戒を強めるよう使者が遣わされた。
「ホワイトピーク公にも連絡を。使節団がアングルから出ても警戒を緩めぬよう」
各方面へ指示を下しながら大広間へ向かうジュビリー。小走りに追いかけてくるレスターに気づくと、低い声で尋ねる。
「……キリエは?」
「お部屋でお休みに……。ギョーム王陛下がご一緒です」
レスターは思い詰めた表情で俯き加減に呟く。
「かなり……、興奮しておられましたからな。医師が薬を処方するとのことです」
ジュビリーは眉間の皺を深めて囁いた。
「……キリエの、あの形相を見たか」
「……はい」
「あの顔……」
「はい?」
「……いや、何でもない」
ジュビリーは険しい表情で呟くと、そのまま口を閉ざして大広間へと入っていった。
興奮冷めやらぬ廷臣たちは口々にエスタドを罵倒し、会議はまとまりがつかなかった。ガルシアのキリエに対する退位要求は取り合うまでもなかったが、クロイツへの告発は聞き捨てならない問題だった。
「ムンディ大主教が告発を受け入れるとは思えぬ。だが、告発をしたのが事実かどうかは、確認せねばならん。そして、大主教の指示も仰ぐ必要があるだろう」
冷静な宰相の言葉に、皆はようやく平常心が戻った。
「ガルシア王は、一体何が狙いなのでしょう……」
大陸の覇者、ガルシアはついにアングルに牙を向けるつもりだ。廷臣たちは押し黙った。
「……ガリアとの同盟をより強固なものにせねばならん。エスタドの同盟国、ユヴェーレンの動きにも警戒を怠るな」
「はっ」
「この後、ギョーム王陛下とも会議の場を持とう」
会議が終わり、廷臣たちが席を立ち始めた時。
「子爵」
耳元で名前を囁かれてレスターは飛び上がった。
「モーティマー!」
「水臭いですね……。お一人でお帰りとは」
「いつ戻ったのだ」
慌てた様子で尋ねるレスターに、モーティマーは不本意そうな顔つきで答える。
「皆で午餐にしよう、という時にあなたがいらっしゃらないから……。レディ・アンがお気づきになりました。父上がいないということは、宮廷で大事があったのだ、と」
「……アン……」
レスターは途端に心配そうな顔つきになって肩を落とした。彼も、一番行く末が気になっていた末娘にモーティマーのような誠実な青年が夫になれば、と期待を持っていた。何しろ、娘本人が恋焦がれた相手でもある。だが、今日に限ってこんなことが……。アンはさぞかし落ち込んでいることだろう。
「モーティマー」
宰相が相変わらず険しい表情で声をかけてくる。
「見合いをすっぽかして戻ってきたのか?」
秘書官は顔を強張らせ、いつもと変わらぬ生真面目な口調で返す。
「せっかくお休みをいただいたのですが、やはり、気になりまして」
「律儀な奴だ」
ジュビリーの言葉にモーティマーは肩を落とし、溜息をついた。
「きっと……、呆れているでしょうね」
「あの娘はそんなことぐらいで気を悪くはせんだろう。むしろ、仕事熱心で真面目なそなたに好感を持ったはずだ」
モーティマーは思い詰めた表情で黙り込んだ。そして、ぽつりと呟く。
「……レディ・アンが……、行ってくれと。アングルの危機に、あなたがいなければと」
「大袈裟な奴だな」
思わずぼやいたレスターにジュビリーが通り過ぎ様に軽く肩を小突く。
「無駄だ。レディ・アンはもうおまえのものではないぞ」
宰相の言葉に、レスターとモーティマーが言葉を失う。そして、二人は気まずそうに見つめあった。
日が傾きかけた頃、付き添ってくれていた夫が会議に出席するために寝室を後にすると、キリエは一人で薬草園に向かった。気分は落ち着いたものの、熱があるのか、冷たい空気に触れたかったのだ。
四阿のベンチに腰をかけ、沈んだ表情で物思いに耽る。清冷な冬の空気に触れていると、むかむかしていた気分が落ち着いてくる。だが、使者の罵倒が頭から離れない。
「兄を殺し、姉を幽閉する修道女など聞いたことがない」
キリエがもっとも苦しんできた紛れもない事実。隠すことも、捻じ曲げることもできない現実。キリエは震える手で顔を覆い隠す。自分とて、望んだ結末ではなかったのだ。なのに、何故……! と、不意に背後から声をかけられる。
「……陛下」
びくりと体が跳ねるものの、その声の主にすぐ気がつく。
「……サー・ロバート」
「まだ寒うございます。お風邪が……」
「……寒いぐらいが気持ちいいわ」
モーティマーは、エスタドの使者にキリエが怒りを露にしたことを伝え聞いていた。キリエは溜め込んだ息を吐き出すと両手を組んで額を押さえ、項垂れた。
「……サー・ロバート。あなたに、聞きたいことがあるの」
「何なりと」
「……父上は……」
父上という言葉に秘書官は目を見開いた。
「父上は……、怒りやすい人だった……?」
彼は眉を寄せるとかすかに目を伏せた。
「……どちらかと申せば、短気でいらっしゃいました」
「……エスタドの使者に、罵声を浴びせたわ」
キリエの自分を蔑むような口調にモーティマーは不安そうに顔を上げた。
「お聞きいたしました。陛下は大変なお怒りようだったと……」
「……女王に即位してから時々、感情を抑えられないことがあるの」
「陛下……」
まるで顔を見られたくないかのようにますます顔を伏せ、くぐもった声が漏れ聞こえる。
「特に、怒りが抑えられなくて……、怖くなる」
「そのようなことは……」
「……聖職者はね、感情を無くすことも修行なの」
女王の言葉にモーティマーは黙り込んだ。
「怒り、憎しみ、妬み、恐れ……。そんな感情を持たないことが、聖職者の第一条件。私は、教会にいた時は完全な聖職者だったわ。だって……、あの頃の私は、感情などなかった。何も恐れるものはなかったし、悲しいことなどなかった。ただ、静かに祈りを捧げる毎日を続けていくだけ……。それが、教会を出てからは……」
感情に流されることのない日々を過ごしてきた修道女が、突然自らの出自を知らされ、王位を宣言することを強いられた。どんなに混乱し、恐れ、取り乱したことだろう。モーティマーは辛そうに目を伏せた。
「……女王になってから、自分では理解できないことがたくさん起こった……。信じられないこと、許せないこと、たくさん……」
ユヴェーレンの使者がキリエを妾腹だと侮辱した時も、彼女は怒りに任せて叫んだ。侍女のエヴァを騙したエセルバートの処刑も果断に下した。キリエは小さく尋ねた。
「……父上も、怒りを抑えられない人だったの?」
モーティマーは迷ったが、やがて静かに口を開いた。
「……先王陛下は、むしろ感情を操るのがお上手なお方でございました」
キリエがそっと顔を上げる。泣いてはいないが、泣き腫らした後のような赤い目をしている。
「陽気にふるまい、場を和ませることもお上手でございましたし、凄まじい怒りを見せて王の権威を見せ付けることも得意でいらっしゃいました。特に、外交の現場では感情の見せ方でいくつもの難関を突破されました。アングルが独立を保てたのも、先王陛下の絶妙な外交手腕によるものです」
そして、モーティマーは恐る恐る、慎重に付け加えた。
「女王陛下の、毅然とした態度と……、見る者を圧倒させる感情のぶつけ方は、先王陛下によく似ておいでです」
「父は獣よ!」
思わずそう吐き捨てる女王にモーティマーは気の毒そうな目を向ける。やはり、陛下はクレド侯の奥方の件を知っておいでだ。
「獣の血が……、私にも……」
「陛下」
モーティマーはやや声を高めて遮った。
「……運命というものがあるのならば、陛下に父君の激しさと、母君の慈悲深さが受け継がれたこと。それが、運命ではないでしょうか」
秘書官の顔を幼い女王が恐る恐る見つめてくる。モーティマーは安心させるように微笑んだ。
「……父君から受け継がれたものは、あなたを守って下さるものだと、私は信じておりますよ」
キリエは固い表情で俯いた。
だが、その頃。まさしくキリエの見せた「怒り」を違った感情で受け止めた者がいた。
それは、執政棟の一室で静かに起きようとしていた。執政棟の会議室では、ギョームが側近らと共に話し合いの場を持っていた。居合わせたのはバラを始めとした重臣と、ジュビリーやレスターといった廷臣らだ。ギョームはわずかに強張った表情で椅子に腰をかけ、廷臣らの視線を浴びている。
「ガリアとアングルの共同使節団をクロイツに遣わそう。大主教のお考えも仰がなければ」
ギョームの言葉に皆が神妙な顔付きで頷く。
「それに加え、エスタド周辺国へも斥候を。少しでも動きを見せたら対応できるようにしておかなければ」
「陛下、誠に失礼ながら、ガリアの同盟各国へも」
ジュビリーの言葉にギョームは顔を上げた。アングルの宰相は険しい顔付きをゆるめず、言葉を続けた。
「この度のガルシア王の告発により、ガリアの同盟国にも動揺が広がる恐れがございます」
「火消しをせねばな」
ギョームも思案げに腕を組む。
「バラ。頼むぞ」
「御意」
傍らに控えたバラが居住まいを正すと一礼する。そこで息をつくと、ギョームは視線を彷徨わせた。そして、会議室に掲げられたエドガー・オブ・アングルの肖像画を見つけ、しばしじっと見つめる。妻の実父は自信に満ちた表情で甲冑に身を包んでいる。鋭い眼光が印象的な絵だ。王の沈黙に人々も口をつぐんでいると、やがてギョームは肖像画を眺めたまま口を開いた。
「……少し外してもらおう。クレド侯と話がしたい」
瞬間、室内に微妙な空気が流れる。レスターがわずかに眉をひそめた表情で宰相を見上げるが、本人は黙って頷いた。
「では、失礼いたします」
バラたちは一礼すると静かに退出していった。扉が閉められ、二人きりになるとギョームは黙ったまま席を立った。そして、肖像画に向かう姿をジュビリーが見守る。すでに日が落ちかけ、室内は仄暗い。小さな燭台の明かりだけではすでに互いの表情がわかりにくい。ジュビリーは辛抱強くガリアの若獅子王の所作を見守った。
「……なかなかの美男子だな、キリエの父君は」
肖像画を見上げたまま口を開いた王にジュビリーは小さく頷く。
「今思えば、冷血公はよく似ている」
「はっ。ご子息の中では最も似ていらっしゃったと思います」
ジュビリーはひそかに眉を寄せた。こんな話をするために人払いをしたのではなかろう。その思いを見透かしたのか、ギョームはゆっくりと振り返った。
「かなり苛烈な性格だったと聞いている。……キリエもその性格を受け継いでいるのかな?」
その言葉に思わず顔を歪める。口を開こうとするジュビリーを制するようにギョームは言葉を継いだ。
「あの天使のように優しいキリエが? ……最初はそう思ったが、どうやら血は争えないようだな」
なるほど、ジュビリーは開きかけた口を閉ざした。エスタドの使者に浴びせかけた罵声がまだ忘れられないのだろう。若い王はじっと射るように見つめてくる。
「……キリエがあのような激しい怒りを見せたのは初めてだ」
「はっ、誠に……」
慇懃に頭を下げるジュビリーに、ギョームは目を細めた。
「……いや、初めてではなかったな」
ジュビリーは眇めた目を上げた。目の前の王はどこか不敵な微笑を浮かべている。ごくり、と思わず唾を飲み込む。
「……はい?」
「バラがそなたに疑いをかけた時だ。あの怒りは凄まじかった」
二人の男は黙ったまま互いを凝視した。
(おやめ! アンジェ侯! それ以上の狼藉は許さないわ!)
血走った目で泣き叫んだ妻の姿。寵臣を守ろうとあれだけの怒りを見せつけられたのだ。ギョームの瞳には隠しきれない疑念と嫉妬の色が色濃く浮かび上がっている。ジュビリーは息をつくと居住まいを正した。
「私も、初めて拝見いたしました。……王妃のあのような笑顔を」
ギョームはかすかに首を傾げた。
「ホワイトピークへお迎えに参上いたしました折、陛下のお隣にいらっしゃった王妃は実に幸せに満ちた笑顔でございました。……初めて拝見いたしました」
ギョームは目を細めたが、強張った表情はゆるめない。
「だが、そなたは予がまだ知らないキリエの素顔をいくつも知っている」
追い討ちをかけるような言葉に、ジュビリーは喉の渇きを覚えながら唇を湿した。
「……私は、王妃を神聖な聖域から危険極まりない外界に連れ出しました。アングルの未来のためと言えど、罪深いことでございます。本来なれば、穏やかな時をお過ごしであったでございましょうに……」
そこで一旦言葉を切り、低い声で言い添える。
「ギョーム王陛下が王妃の笑顔を取り戻して下さいました。……言葉に尽くせぬ喜びでございます」
そこでようやくギョームは柔らかな表情になる。
「キリエから聞いた。我々の結婚に廷臣たちが反対していたのを、そなたが説得してくれたそうだな」
「……微力ながら」
一瞬の間をおいて、ギョームはにっこりと微笑んだ。曇天の下に咲く凍てつく氷の花のような笑み。そのあまりにも美しい笑顔にジュビリーの背筋が凍る。
「感謝しているぞ」
そう言い放ち、歩み寄ったギョームはジュビリーの右肩をぐっと掴んだ。去り際にもう一度視線を投げかけてから、若獅子王は扉を開け放った。肩に残る傷が疼く。ジュビリーは思わず押し殺した息を吐き出した。
波乱に満ちた一日が終わり、後宮の浴室を訪れると、待機していたジゼルが静かに立ち上がった。ウィンプルを外し、腫れは引いたものの、まだ痛々しい痕が残るその顔をキリエがじっと見つめる。
「ご入浴を」
「……お願い」
キリエが背を向けると、ジゼルの細い手がドレスのリボンを解いてゆく。胸当てを外し、
「……傷は?」
「痛みはもうありません。……ありがとうございます」
それでもまだ心配そうな表情をしていたキリエだが、ジゼルは穏やかに微笑むばかりだ。キリエは小さく吐息をつくと浴槽に向かった。薄い絹のカーテンが楕円形の浴槽を覆っている。乳白色の湯気が漂う中、キリエはそっと湯に体を浸した。
「……お寒くありませんか」
カーテン越しにジゼルが声をかけてくる。
「大丈夫」
キリエは黙って湯を肩にかけ、体を清めた。湯気で満たされた浴室に、いくつもの蝋燭が燈る。ジゼルは、カーテンから透けるキリエの細い背中を見つめた。王妃はまだ王にその体を触れさせていない。汚れのない、純粋な天使のままだ。それに比べ、自分は……。
湯から上がると体を拭い、寝衣を着せる。湯冷めしないようガウンを羽織らせてから、ジゼルは意を決したように口を開いた。
「王妃……、お願いがございます」
「何?」
ジゼルは思い詰めた表情で俯き、やがてそっと顔を上げた。
「私……、お暇をいただきとうございます」
キリエが目を見開く。どうして、と言おうとして言葉を飲み込む。そして、寂しげに見つめる。ジゼルは固い表情で囁いた。
「私は、王妃にお仕えする資格がありません。これ以上、王妃のお側にはいられません。私は、王妃にお仕えする女官でありながら――」
そこで、キリエは不意に手を挙げるとジゼルの顔をそっと包み込んだ。彼女は唇を震わせて黙り込んだ。
「……アンジェ侯ね」
バラの名にジゼルの表情が崩れる。
「彼に、手を上げられたのでしょう……?」
思わず目から涙が溢れる。が、彼女は怯えた表情で後ずさった。
「私……、取り返しのつかないことを……」
「何?」
ジゼルは両手で口を覆った。
「私……、アンジェ侯に告げ口を……」
キリエは息を呑む。
「……何を」
「……王妃が……、クレド侯と、手を握り合っていた、と……」
「……え?」
ジゼルは気の毒そうな顔つきで囁いた。
「ご記憶にございませんか。新年祝賀会の晩餐で、王妃が体調を崩された時……」
キリエの顔が見る見るうちに青ざめてゆく。靄がかかったような映像が脳裏に浮かび上がる。ジュビリーが腰を屈め、耳元で「キリエ」と囁いたのが蘇る。そして、手を……。
「きっと……、ギョーム王陛下にも伝わっているでしょう」
キリエは狼狽して視線を左右に泳がせた。……だからか。ここ数日、ギョームの様子がおかしかったのは……!
(そなたを守るのは、私一人で良い)
あれは……、そういう意味だったのか。息をひそめて立ち尽くすキリエの耳にジゼルの嗚咽が飛び込む。
「お許し下さい……! 私……、どうしても、あの人を失いたくなかったのです……!」
バラのために、密偵行為を……。だが彼は、企みが失敗すると愛人に手を上げた。許せない……! キリエは肩を震わせてむせび泣くジゼルをそっと抱きしめた。
「……ありがとう。よく教えてくれたわ」
「王妃……! お許し下さい……!」
しばらく黙って抱き合い、そっと体を離す。
「これから……、どうするつもりなの?」
「……修道院に入るつもりです」
キリエは驚いて彼女の手を握り締めた。
「そんな……! まだ若すぎるわ……! あなたなら、まだ……!」
ジゼルは顔を横に振った。
「……身を清めたいのです。罪を償って……、魂を綺麗にしてから、天上の夫に会いに行きたいのです」
キリエは眉をひそめた。
「このままでは……、とても会えません」
「……どんなお方だったの?」
ジゼルは穏やかに微笑んだ。
「サー・ロバートに似ています」
「モーティマーに?」
「生真面目で、堅物で……。仕事人間でした」
そう言ってジゼルは肩をすくめ、キリエも思わず微笑む。
「……年が離れた夫とは、うまくいっていませんでした。でも、互いに努力はしていたつもりです。ですが、結婚してから七年目に夫が病に倒れて……。それからです。ようやく互いの目を見つめ合わせる生活が送れるようになりました」
七年も寂しい生活を送っていたのか。キリエは哀しげに眉をひそめた。
「看病しているうちに初めて夫と穏やかな時を過ごせました。……こんな言い方が許されるかわかりませんが……、幸せでした」
想像するしかないが、気持ちはわかる。キリエは黙ったまま頷いた。
「でも、夫の病は癒えず、天に帰ってしまいました。……寂しかったです。ごくわずかであっても甘く優しい時間を過ごした私には、あの孤独は本当に怖かった……」
思わず身を竦めるジゼルの手をそっと握り締める。彼女は恥じ入るように目を伏せた。
「……その時の孤独を、あの人は埋めてくれたのです。……救ってくれたと思っていたのです」
孤独の淵に佇むジゼルを救ったのは、間違いなくバラだったのであろう。だが、その弱みに付け込み、自らの野望に利用していいわけがない。しばらくジゼルの手を温めるように握り締めていたキリエは、心配そうに顔を上げた。
「……本当に、修道女になるつもりなの?」
「ええ」
もう決めたのだろう。ジゼルの目には、未練らしい色は見えない。だが、キリエは表情を固くすると声をひそめた。
「ジゼル……。ほとぼりが冷めるまで、アングルに留まってはどう?」
ジゼルは眉をひそめて首を傾げた。
「……宮廷を去って、人目が及ばなくなったあなたを、アンジェ侯が放っておくとは思えないわ」
王妃の言葉にジゼルは息を呑む。
「あなたは彼の弱みを握ったのよ。あなたが……、心配だわ」
確かに、自らの立場が悪くなればあの男は共犯である自分を人身御供に差し出すかもしれない。今回はアングル側が百歩譲って水に流した形に収まったが、これから先、火種がくすぶらないとも限らない。キリエはジゼルの肩に手を添えた。
「あなたさえ良ければアングルに……。あなたはアングル語が堪能だし……」
「……王妃」
ジゼルは動揺した。
「……あなたは、何故、そんなにお優しいのですか……? あなたを裏切った私を、どうして……」
キリエは寂しそうに微笑を浮かべると目を伏せた。
「……あなたは私を労ってくれたわ。ガリアで寂しい思いをしている私を……」
だが、キリエは辛そうに眉間に皺を寄せた。
「皆……、私が優しいと言う。天使のようだと。……そんなことないわ」
「王妃……」
「私だって、優しくできない人もいる。教会を出てから……、身も心もずいぶん汚れたわ。私は……、天使なんかじゃない」
二人が黙り込み、部屋の奥で静かに燃えている暖炉の蒔が爆ぜる音だけが聞こえてくる。ジゼルは幼さが残る面立ちの王妃を見つめた。このお方は、このお歳で様々なものを見てきた……。
「……王妃、あなたはいろんな経験をしてきて、それでも人に優しくなろうと……、人を信じようとなさっていらっしゃる。そんなあなたに恋をなさったのですわ、ギョーム王は」
ギョームの名を耳にしてキリエは顔を強張らせた。ジゼルは身を乗り出すと小さく囁いた。
「……陛下は、王妃にご自分だけを見てもらいたいとお望みですわ」
キリエの脳裏にヒースの言葉が響く。
(人の嫉妬心ほど恐ろしいものはありません。嫉妬とは、理屈でどうにかなるものではありません)
黙り込むキリエに、ジゼルは囁きかけた。
「……そろそろ、寝室へ」
キリエは頷くと浴室を後にした。浴室を出ると、後宮の薄暗い廊下に男の人影を見つける。
「サー・ロバート」
暗がりから秘書官が音もなく歩み寄る。
「お願いがあるの。ジゼルを、ロンディニウム教会で匿おうと思うの」
モーティマーは顔をしかめると、王妃の背後に佇むジゼルを仰ぎ見る。王妃の女官は不安に満ちた表情で見つめてくる。
「……ジゼルは、修道女になるつもりよ」
「しかし……」
「手配をしてくれる?」
女王の囁きにモーティマーは黙り込むしかなかった。小さく息をつき、「御意」と頭を下げる。キリエはジゼルを振り仰いだ。
「ひとりで帰れるわ。……おやすみなさい、ジゼル」
「……おやすみなさいませ、王妃……」
キリエは二人に控えめに微笑みかけると身を翻した。仄暗い廊下には、モーティマーとジゼルだけが残された。壁から吊り下げられた小さなランプだけが二人の顔を照らす。しばしの沈黙の後、モーティマーが遠慮がちに口を開く。
「……どうしても、修道女に……?」
「ええ」
「あなたは幸せになるべきだ」
どこか懇願するような響きにジゼルはほんの少しだけ嬉しそうに微笑む。
「罪の償いをしたいのです。……あなたは優しいわ。あなたの優しさはきっと誰かを幸せにできる。そして、あなたも幸せになれるわ」
もう、彼女を思い留まらせることはできないだろう。そう悟ったモーティマーは重い溜息を吐き出した。そんな彼にジゼルはそっと身を乗り出した。
「……あなたのおかげです。あなたが、夫を思い出させてくれたから」
「……そんなに、似ていますか」
ジゼルは笑顔で頷いた。そして、静かに両手を胸で合わせた。
「修道女になって……、罪を償います。いつかまた、胸を張ってお会いできるように」
その言葉にモーティマーは痛ましげに眉をひそめた。
「……マダム」
彼は静かに手を上げると、指先でジゼルの口許を撫でた。バラに殴られた痕。思わず身を固くする彼女に、モーティマーは静かに言い聞かせた。
「……償いの前に、どうぞ心の傷を癒して下さい」
その囁きに、ジゼルは涙を溜めた目を伏せた。
その頃、「女王と王配の寝室」の扉の前でキリエが立ちすくんでいた。ガウンの裾を握り締め、俯いたまま息をひそめる。ジゼルの言葉が頭を離れない。夫に知られたのだ。ジュビリーの手を握り締め、幸せに満ちた表情でいたことを。この数日間、何かにつけて自分を側から離そうとしないギョーム。その胸中は……。
と、いきなり目の前の扉が開け放たれる。
「ひッ……!」
小さな悲鳴を上げるキリエの目の前に、寝衣姿のギョームが。彼は顔をしかめると口を開いた。
「遅いから迎えに行こうと思った」
「ご、ごめんなさ……」
そこでキリエはくしゃみを立て続けに二回した。ギョームは眉をひそめた。
「湯冷めしたか」
ギョームは妻の手を引き寄せると寝室に引っ張り込んだ。後ろ手で扉を閉めると、そのまま無言で抱き締める。キリエの背にぞくりと寒気が走る。物音ひとつしない寝室で、ギョームの息遣いだけが耳元に漏れる。髪に頬擦りをし、背中を撫でられる。その仕草ひとつひとつが自分を試しているようで、キリエは慄いた。夫がジュビリーを快く思っていないことには前々から気づいていた。誇り高い彼のことだ。きっと、怒りと嫉妬に心が乱れているに違いない。
「……寒いか」
耳朶にかかる息。
「体が震えている」
キリエは恐ろしくて目をぎゅっと閉じた。
責めるなら私を責めて……! お願いだから、ジュビリーには危害を加えないで……!
「……ギョーム……」
「体を大事にしろ。そなたは女王であり、王妃なのだから」
無言で頷く妻の背を撫でると、ギョームはいつもと変わらない、優しい「おやすみのキス」を落とした。