「陛下……! い、今、何と……!」
朝餐を終え、大広間へ向かう王の言葉にバラは驚きの表情で聞き返した。
「何度も言わせるな」
歩みを止めぬまま、ギョームは冷たく言い放つ。
「……キリエが承諾してくれた」
バラが思わず他の廷臣たちを振り返る。ペール伯やエイメ侯も皆、複雑な表情で王を凝視している。ギョームは不快感を露わにしたまま玉座に腰を下ろした。
「キリエはアングルの女王だ。礼を尽くさねばならん。それだけではない。彼女は修道女であり、予のいとこだ。万難を排して妃に迎えた経緯がある。その彼女にここまで譲歩させたのだ。これ以上……、キリエを苦しめるな」
廷臣らは皆深々と頭を下げた。
「……王妃は今、どちらに」
ペール伯の言葉にギョームは乾いた声で答える。
「薬草園だ。……一人にさせてやれ」
「……はっ」
「バラ」
王の沈んだ表情に眉をひそめながらバラが目を上げる。
「イングレスへ行ってくれ。クレド侯に……、事情を説明せねばならん」
クレド侯。アングルの宰相の名に、廷臣らは青ざめた。王妃の寵臣を説得することができるのか。廷臣らは強張った表情のバラに視線を向けた。
決断を下してから数日。キリエは人々の前に姿を現さず、私室や薬草園、礼拝堂などで過ごしていた。
ある日、王妃の気を紛らわそうと女官たちが皆で占い遊びに興じていると、モーティマーがやってきた。
「王妃、廷臣の皆様が……」
占いの結果に笑い合っていたキリエが、途端に顔を強張らせた。
「……会いたくありません」
「王妃……」
困り果てた様子のモーティマーに、マリーが身を乗り出す。
「……王妃、もうそろそろ……」
もうすでに彼らを二回門前払いにしている。キリエは険しい表情で黙り込み、女官たちも息を呑んで見守る。彼女たちが座る豪奢な絨毯には彩り鮮やかな占いの札が散らばっている。浮世離れした夢々しい絵柄の札をしばし見つめていたキリエは、やがて諦めた様子で溜息をつく。
「……お通しして」
扉が開かれると、十数人の廷臣たちが神妙な顔つきで入ってくる。警戒心を露わにした王妃に、ペール伯が恭しく跪く。
「……キリエ王妃。この度は我々の提言にご理解いただき、感謝の言葉もございません……」
理解? 理解などした覚えはない。キリエは口をつぐんだまま顔を背けた。完全に心を閉ざした幼い王妃に、廷臣たちは途方に暮れた。刺さるような痛々しい沈黙を破るように、ペール伯は懇願の表情で言葉を継いだ。
「王妃の慈悲深いご決断は、必ずやガリアとアングルの未来を切り開くものと信じております」
それでも口を閉ざしたままのキリエに、マリーが「王妃」と声をかける。彼女は顔を背けたまま呟いた。
「……ガリアの不幸はアングルの不幸。……ギョームの不幸は、私の不幸です」
「……はっ」
廷臣らは益々深く頭を垂れた。やがて、エイメ侯が恐る恐る声を上げる。
「我々は、これまで以上に王妃に敬意を表する所存であります。王妃のために、誠心誠意お仕えすることを誓います」
キリエはゆっくり振り向いた。
「私が認めたのは、エレソナを迎えることだけです。彼女が拒めば……、私はどうしようもありません」
廷臣らは黙り込んだ。王妃は目を伏せると溜息をついた。
「……できるだけ、説得してみますが」
「……申し訳ございません」
「でも」
そこでキリエは鋭い声を投げかけた。
「エレソナはアングルにおける反逆者ですが、私の姉であり、ギョームのいとこでもあります。彼女に対しても敬意を払うよう。それだけは……、言っておきます」
廷臣らは一斉に頭を垂れた。
「御意……」
三月に入ってすぐ、ギョームの命でバラはモーティマーと共にアングルへと向かった。ジュビリーの王太子暗殺疑惑の件以来、バラはアングルから白眼視されている。そんな中、側室依頼の直談判を命じられたバラは憂鬱で仕方がなかった。ジュビリーのキリエに対する強堅な忠誠心は身を以って知っている。説得は困難であろう。
イングレスに入り、プレセア宮殿に到着するとレスターが出迎えた。
「これはこれは、アンジェ侯。お知らせ下さればホワイトピークまでお迎えに参上いたしましたものを」
「いや、大丈夫だ」
バラは暗い表情で尋ねた。
「クレド侯はいらっしゃるか」
「ええ」
レスターが隣のモーティマーにちらりと目を向けると、秘書官は険しい表情を返してきた。老練な策士は秘書官の表情から事の重大さを読み取った。
「どうぞこちらへ……」
バラはジュビリーの執務室に通された。アングルの宰相はいつもと変わらず黒衣に身を包み、バラの突然の訪問に眉をひそめる。
「お忙しい時に申し訳ない、クレド侯」
「いえ、構いません」
椅子を勧め、ジュビリーはわずかに目を眇めて尋ねる。
「ギョーム王陛下と、キリエ王妃はお元気でいらっしゃいますか」
「お二人ともお元気だ」
「ガルシア王の告発以降、大陸に動きは……」
「国境付近は緊張が高まったままだ」
途切れる会話。バラとジュビリーは口をつぐむと互いの顔を見つめた。明らかに様子がおかしいバラにジュビリーは不審げな眼差しを向ける。
「……何か大事でも?」
「……実に言いにくいことだ」
いつになく神妙なバラにレスターまで顔をしかめる。バラはジュビリーの目が見られず、顔を伏せて呟いた。
「……落ち着いて聞いてもらいたい」
バラはかすかに震える息をつくと、意を決して顔を上げる。
「この度……、ギョーム王陛下は、レディ・エレソナ・タイバーンを側室に迎えることになった」
室内の空気が凍り付く。レスターが咄嗟にジュビリーを振り返る。黒衣の宰相はかっと頬を紅潮させた。
「世迷い事をッ!」
「お、落ち着いてくれ、クレド侯!」
椅子が倒れる音。思わずバラの胸倉を掴む宰相をモーティマーが押し留める。
「侯爵!」
「何故……! 何故ギョーム王が側室を!」
「違う! 陛下が望んでいるわけではない! 話を聞いてくれ、クレド侯!」
「侯爵……!」
それでもバラの胸倉から拳を離そうとしないジュビリーをレスターとモーティマーが二人がかりで引き剥がし、椅子に座らせる。
「一体、何故そのようなことにッ……!」
口許を歪めて問い質すジュビリーに、バラは項垂れた。
「……ガリア国内の混乱は予想以上だった……。ガルシア王だけでなく、ユヴェーレンのオーギュスト王までもがキリエ女王に退位を迫った。エスタドとユヴェーレンが攻め込んでくるのではないかと、国民は恐慌状態に陥った」
「しかし……!」
「国民の不安は他国の侵攻だけではない。ギョーム王陛下に後継者がおられないことを不安がっている」
ジュビリーは言葉を失った。ガリア国内で世継ぎを求める声が上がっていたのは知っていたが……。バラは力なく顔を振った。
「キリエ王妃の妊娠能力を国民が疑っている……。宮廷では、ギョーム王が王妃の相手をできないのではないかと陰口を叩く者までいる」
その言葉を耳にするや、ジュビリーはテーブルに拳を激しく叩きつけた。
「だから申し上げたのだ! キリエ女王は幼い修道女だと!」
「その通りだ、クレド侯……」
「それを……、今更……!」
「侯爵……」
レスターが必死になだめるが、ジュビリーの怒りは収まる様子もない。
「ガリアの廷臣たちが陛下に決断を迫ったのだ。側室を迎えるか、王妃を離縁するか……」
離縁という言葉にジュビリーだけでなく、レスターも目を剥く。
「もちろん陛下は色をなしてお怒りになった。廷臣たちと対立し、絶対に受け入れようとはなさらなかった。だが……、結局は王妃が折れたのだ」
レスターは目を閉じると頭を振った。争い事を嫌うキリエのことだ。自分のせいでギョームが廷臣と争う姿を見たくなかったのだろう。バラは息をつくと自嘲気味に呟いた。
「君主に限らず、真心のない男ならさっさと愛人を作るところだが……、陛下はそうではない」
ジュビリーは黙ってバラに鋭い視線を送った。
「……王妃を愛していらっしゃる。最後まで側室も離縁も拒んだ」
「……何故、レディ・エレソナを」
「アングル王家の血筋だからだ」
ジュビリーは拳を握りしめた。やはりそうか。他に理由がない。
「アングルとの同盟のためだ。……それだけではない。ガリアの後継者問題はアングルの後継者問題でもある」
彼の言う通りだ。キリエがこのまま子を生まなければ、ガリアだけでなく、アングルの後継者もいない状態になる。ギョームには叔父シャルルがいるが、エドガーの実子はキリエの他はエレソナとヒースしかいない。最悪の場合は傍流であるウィリアムにお鉢が回ることになるが、生真面目な彼は拒むだろう。
「……クレド侯」
バラは懐に手を入れた。
「王妃から手紙をお預かりしている」
言いながら手にした手紙を差し出す。ジュビリーは眉をひそめて受け取った。封蝋を外すと手紙を広げる。そこに現れた懐かしいキリエの字に、彼は胸が締め付けられた。
手紙の冒頭には、律儀にジュビリーとレスターの体調を気遣う文章。そしてマリーとジョンの様子。モーティマーを早く挙式させてほしいとまである。そこまで書き綴ってから、ようやくキリエは本題に及んだ。
「ギョームが側室を迎えることになりました。よりにもよって、エレソナを……。彼は最後まで拒んでくれました。でも、もう疲れました」
疲れたという言葉にジュビリーは胸に冷たいものを感じた。虚ろな瞳を彷徨わせ、薬草園の
「もう、女王であることも、王妃であることもやめてしまいたい。名もない修道女に戻りたい。でも、心配しないで。戻れないことはわかっているから」
(キリエ……)
ジュビリーは悔しげに唇を噛みしめた。
「ギョームは約束を守ろうとしてくれました。だからこんなことに……。彼は言ってくれました。私を幸せにしてくれると。私も、彼を受け入れたい。でも、それには時間がかかります。ごめんなさい、ジュビリー。エレソナをガリアに連れてきて下さい。私が説得します」
ジュビリーは震えながら息を吐き出した。モーティマーは辛そうに眉をひそめて宰相を見つめた。
「……会議に諮らねばならん」
黒衣の宰相は低く呟いた。
「ガリアでは廷臣が王に決断を迫った。だがアングルでは、王妃の決断を廷臣に認めさせなければならん」
「もちろんだ」
「私がもしもその場にいたら――」
すっかり気落ちしているバラに向かって、ジュビリーは毒でも吐き出すように囁いた。
「女王を離縁させ、アングルに連れて帰っていただろう……!」
「……クレド侯……」
「だが、女王がギョーム王と添い遂げたいと仰る以上、致し方ない……!」
ジュビリーはさっと立ち上がった。
「レスター、廷臣を集めろ」
「はっ」
宰相はその言葉を最後に、執務室を出ていった。
翌日、プレセア宮殿には主な廷臣と有力な貴族が集められた。ギョームが側室を迎えることが公表されたが、会議は予想通り紛糾した。ギョーム自身は側室を望んでいないにしても、女王キリエを妃に迎えておきながら、世継ぎのために側室を迎えたいというガリア側の身勝手さにアングルの廷臣らは大きな屈辱を受けたのだ。
それに加え、交渉にやってきたのがアンジェ侯バラというのも彼らの逆鱗に触れた。アングルの宰相に王太子エドワード暗殺の疑いをかけ、あろうことか彼の墓まで暴いたのだ。廷臣らは口々にバラを罵倒した。
「元々、女王陛下はご結婚を拒んでいらっしゃった。修道女としての誇りが、信義に背くことをお許しにならないと!」
「アングルを離れることをあれほど哀しんでおられたのだ。だのに、それを今更……!」
「これは女王陛下への侮辱だけではない。ガリアが我が国を軽んじている証拠に他ならない!」
キリエのガリアへの輿入れを反対していた廷臣たちは語気荒くバラを責めた。
「誤解しないでいただきたい……!」
バラは必死に叫んだ。興奮し、冷静さを失った廷臣らに必死で懇願する彼を、黒衣の宰相は擁護することなく冷ややかに見守っている。
「我が君ギョーム王は決してアングルを軽んじてはいらっしゃらない。王妃を愛していらっしゃるからこそ、王妃との別離を望んでいらっしゃらないからこその、苦渋のご決断だったのだ!」
「アンジェ侯!」
一人の廷臣が鋭い声を上げる。
「ギョーム王陛下は女王陛下を愛していらっしゃるだろう。だが、ガリアの人々はどうなのだ。祖国を離れ、重責を担ってガリアに輿入れなさった女王陛下を受け入れたと申せるのか!」
痛いところを突かれ、バラは顔を歪めた。ギョームが廷臣や民からキリエを守れなかったことは明白だ。別の廷臣が声を詰まらせながら呻く。
「やはり、陛下は犠牲になられたのだ……。身を挺して国益のために輿入れなさったというのに……!」
嗚咽が混じったその言葉に、皆が悔しげに口をつぐむ。張り詰めた空気が満ちた広間。その沈黙を破ったのは、ホワイトピーク公ウィリアムだった。
「陛下を犠牲にしたくない」
バラが恐々とウィリアムを振り仰ぐ。
「だが、陛下はガリアとアングルのためにその決断を下された。……陛下のご決断を踏みにじることこそが、陛下の犠牲につながる」
「しかし、ホワイトピーク公……!」
「誰よりも平和を願う陛下のご決断だ。これ以上の悲劇は、決して望まれないであろう」
彼の言う悲劇とは何だ。ガリアとの同盟の破棄か。ギョームとの離縁か。キリエはどちらも望んでいない。広間は静まり返った。そんな中、セヴィル伯が助けを求めるようにジュビリーに問いかける。
「……いかが計らいますか、クレド侯」
皆の視線を一斉に受け、ジュビリーはひそかに溜息をつく。バラは息をひそめてジュビリーの表情を窺っている。
「……私は女王陛下の意に沿いたい」
廷臣らは黙り込んだ。
「陛下がアングルにお帰りになりたいのであれば、すぐにでもお迎えに向かう。だが……、ギョーム王と共にガリアに留まりたいと仰るのであれば……、私は全力で陛下を支えるつもりだ」
廷臣らはやるせない表情で息をついた。バラは思わずほっと胸を撫で下ろした。そんな彼にジュビリーは鋭い視線を向けた。
「それも、レディ・エレソナを説得できればのお話です、アンジェ侯」
「……その通りだ」
バラはしおらしい態度で項垂れた。
「頼む、クレド侯」
陽光が降り注ぐバルコニーで、エレソナはいつものように本を読みふけっていた。ふと本から目を上げ、中庭を見下ろす。まだ寒い中、それでも春の草花が少しずつ蕾を膨らませ、柔らかな彩りを見せ始めている。こんな風に穏やかな時間を過ごすのは初めてだった。タイバーンでもルールでも、常に戦争に備えた生活だった。今では生きる意味も目的もない、ただ時間を過ごすだけの毎日。時々ヒースから体を気遣う手紙が届く他は、変化のない日々だ。
時々、死んでしまおうかと思う時もある。だが、このまま虐げられた人生のまま自ら死を選ぶのは悔しかった。まだ、悔しいと思う気持ちが残っていることに、エレソナは我ながら複雑な気分だった。
「……エレソナ様」
扉の向こうからローザの声が聞こえる。いつになく強張った声にエレソナはかすかに眉をひそめた。
「……お客様が」
「入れ」
扉が静かに開かれる。エレソナは本を閉じ、テーブルに置いてからぎょっと凍りついた。部屋に入ってきたのは、全身黒尽くめの男。「キリエの宰相」は黙って自分を見下ろした。エレソナは顔を引き攣らせると手近にあった本を投げつけた。
「来るなッ!」
本がジュビリーの胸に当たって床に落ちる。ローザは眉をひそめたが微動だにしない。
「お、おまえが……、おまえが兄上の右目を奪った……! おまえがッ……!」
「落ち着け、レディ・エレソナ」
「黙れッ! 帰れッ!」
エレソナは半狂乱になって叫んだ。中庭で警備していた衛兵たちが何事かと集まるが、ジュビリーの姿を認めると険しい表情で下がってゆく。
「大事な話がある」
「関係ないッ!」
「あなたの今後に関する話だ」
ジュビリーの言葉にエレソナは言葉を飲み込む。肩で息をする度に美しいプラチナブロンドの髪が揺れ、やぶ睨みの瞳で凝視する。ジュビリーは眉間に皺を寄せたまま、ゆっくりと歩み寄った。
「……単刀直入に言う。ガリアのギョーム王が、あなたを側室にと望んでいる」
エレソナは顔を歪めた。さすがのローザも息を呑んでジュビリーとエレソナに視線を彷徨わせる。
「……今、何と言った」
「ギョーム王が、あなたを側室に」
「何の話だッ?」
顔を歪めて叫ぶエレソナに、ジュビリーは目を細めた。
「あの若造、そんな色気違いだったのか?」
「……そうではない」
「嫌がるキリエを無理やりさらったんじゃなかったのかッ」
さらった、か。ジュビリーは顔を歪めた。そうだ。あの少年は自分の腕にいたキリエを強引にさらっていった。そして、世継ぎのためにキリエの姉を側室にしようとしている。複雑に絡み合う運命の糸。絡ませたのは、自分自身だ。ジュビリーは苦しい胸の内を隠すように険しい顔を上げた。
「大陸に緊張が高まっている。エスタドとユヴェーレンが今にもガリアに侵攻するのではないかと、ガリアの国民は恐慌状態にある。そんな状況にありながら、ギョーム王には後継者がいない」
十二年間幽閉され、キリエ以上に世間知らずのエレソナだが、女の勘だろうか、そこまでの説明で全てを察したらしい。エレソナは凄絶な笑みを浮かべるとふんと鼻先で嗤った。
「キリエが、子を生むのを拒んだのか」
答えを返さないジュビリーにエレソナは苛立たしげに天井を仰ぐ。
「馬鹿め……、何故結婚したのだ、身の程知らずが!」
「夫を受け入れるまでに時間がかかるのだ」
エレソナは口元を歪めた。
「私は時間稼ぎか。キリエが大人になるまで? 何故私が、あいつの尻拭いを……!」
「あなたにはアングル王家の血が流れている。もしもあなたが子を生めば、ギョームだけでなく、キリエの後継者にもなる。……アングルのためだ」
「私を拒んだアングルのために、後継者を生めと言うのか? 勝手なことをぬかすな!」
体を震わせ、獣のように吼えるエレソナ。黒衣の宰相は真っ直ぐ視線を受け止め、見返してくる。彼女は悔しげに唇を噛み締めると顔を背けた。
「そんな辱めを受けるぐらいなら、死んだ方がましだッ! さっさと処刑しろッ!」
「キリエはあなたを処刑しないだろう。……二つに一つだ。ギョームの側室になるか、ここよりももっと狭い塔に幽閉されるか」
エレソナはびくっと体を震わせた。その顔は今までと打って変わって恐怖に青ざめている。
「……狭い、塔……」
小さな声で呟くエレソナに、ジュビリーは頷いた。
「あなたはあくまで反逆者だ。君主に対する反逆は死に値する。今はキリエの温情で開放的なベイズヒル宮殿に幽閉されてはいるが、女王の温情に否定的な声も上がっている。……あなたの立場は限りなく危うい。いつ、もっと劣悪な環境に置かれるかわからん」
「……嫌だ……」
エレソナは恐怖に満ちた目で口走った。
「嫌だ……! 塔は嫌だ……! 塔は嫌だッ!」
胸を抉るような叫びに、ジュビリーは目を伏せた。
「……少しでも可能性のある方を選べ。生きていれば、必ず道は開ける」
「勝手なことをッ……!」
エレソナはその場に崩れ落ちた。ローザが唇を震わせながら主を見つめる。膝の上で固く握られた拳。親指に光っているのはレノックスの指輪だ。兄がいれば……、何と言うだろうか。
「……キリエのために……、こんな、屈辱を……」
「あなたが生きるためだ」
「悪魔め……!」
顔を歪めて吐き出すエレソナに、ジュビリーは仮面のような無表情を装い、言い放った。
「あなたが愛した悪魔ほどではない」
エレソナはきっと顔を上げた。ジュビリーは〈タイバーンの雌狼〉を見下ろして言い添えた。
「冷血公は、あなたが生きることを望むだろう」
バラとモーティマーがアングルへ渡っている間、キリエは益々部屋へ引き篭もるようになっていた。女官や侍従も寄せ付けず、身の回りの世話はマリーが引き受けていたが、彼女もいよいよ出産が迫り、今ではルイーズが王妃の世話をしている。キリエとルイーズは、今になってようやく打ち解け合い始めた。とは言え、相変わらず交わす言葉は少ない。だが、余計なことは言わずに世話を焼いてくれるルイーズに、キリエは感謝していた。
ある日、私室に篭っていたキリエはぼんやりと机に向かっていた。目の前には開かれたままの経典。まるでその部屋だけ時間が止まってしまったかのように、キリエは何も考えず、虚ろな目で椅子に座り込んでいた。
彼女が何気なく首を巡らすと、鏡が目に入る。そっと立ち上がり、鏡台に歩み寄る。鏡は、暗い表情のキリエを映し出した。
いつまで、自分はこんな所にいなければならないのだろう。ギョームは自分を愛してくれる。彼を愛して、彼を受け入れれば、自分も彼も幸せになる。何故……、それができないのか。
(私が修道女だから? それとも、本当に愛しているのは、ジュビリーだから……?)
キリエは震える息を吐き出した。私は、修道女である資格がない……! 顔を伏せると、机上に目をやる。綿色の羽ペン。細かい装飾が施されたインク壷。鮮やかな深紅の封蝋。そして、小さなペーパーナイフ。思わずそっと手を伸ばし、ナイフを取り上げる。宝石が散りばめられた鞘を抜くと、刀身に細かな模様が刻まれた美しいナイフが姿を現した。冷ややかに光る銀色のナイフは、見つめていると吸い込まれそうだった。キリエは何も考えず、ナイフを持ち上げると切っ先をゆっくり喉に当てた。ちくりとかすかな痛みを感じる。そのまま、力を入れようとして――、不意に手を掴まれた。
はっと鏡を見上げる。そこには、自分の右手を押さえる美しい修道女の姿があった。眉をひそめ、強い眼差しで鏡越しに見つめてくる。
「ひッ!」
小さな悲鳴と共にナイフが机の上にがちゃんと落ちる。鏡の女性はすでに消えていた。キリエは破裂しそうな胸を両手で押さえた。
「……ロレイン様……!」
かすれた声で囁くとその場に崩れ落ちる。一瞬だった。だが、あれは、ロレインだ……! キリエは震える手で口を押さえた。頭の中でジュビリーの叫びが響く。
(どんなに絶望しても、生きることをやめるな!)
きっと、ロレインも同じことを言うだろう。キリエは滲む涙を拭った。ジュビリーと約束したではないか。もう逃げない、と。だが、息をつく間もなく次々と難問が立ちはだかる。こうしている間にも。もう、限界だ――!
「王妃!」
突然の呼び声にキリエははっと顔を上げた。扉の外が騒がしい。
「王妃……! 王妃!」
ルイーズの声だ。いつになく慌てた声色。
「どうしたの?」
「グローリア伯夫人が産気づきました……!」
(……マリー!)
キリエは慌てて立ち上がった。