その頃、聖クロイツ大聖堂の一室ではムンディとヘルツォークが話しこんでいた。
「まさかギョーム王が側室をお迎えになられるとは……」
「ギョームは潔癖症だ。説得するのに骨が折れたろう」
ムンディは溜息をつくと壁面の世界地図を見上げた。
「二人の絆を揺るがしてはならん」
「はっ」
「神聖ヴァイス・クロイツ帝国の実現のためには、二人の存在が必要不可欠だ。ギョームがいなければキリエは女帝になることを拒み続けるだろうし、ギョームもキリエがいなければ専制君主になりかねん」
「キリエ女王は……、女帝に即位することに難色を示されたのですか?」
ヘルツォークの言葉にムンディは苦い表情で頷く。
「キリエは生まれながらの修道女だ。これ以上の高みに上がることを恐れておる。しかし、早く何とかせねば……。いつガルシアが腰を上げるか、見当もつかん」
「そろそろ、ギョーム王に直接要請するべきでは……」
「そうだな」
ムンディは大きく息を吐き出すと席を立った。
「カンパニュラとポルトゥス、ナッサウに使者を送れ。ある程度のお膳立てはしてやらねばなるまい」
「はっ」
「ガルシアには悟られぬよう、充分に気をつけよ」
一礼し、私室を辞するヘルツォークを見送ると、ムンディはゆっくりと立ち上がった。壁一杯に張り巡らされた世界地図。その中央には
目を閉じればムンディの脳裏に幼い日の記憶が蘇る。
ユヴェーレンの王宮騎士だった彼の父親は敬虔なヴァイス・クロイツ教徒で、ムンディが聖職者になりたいと言うと心から喜んでくれた。だが、彼が修道士になったその年、クロイツ独立戦争が勃発。ユヴェーレン人としての祖国への思いと信仰の板ばさみに苦しんだ挙句、父親は信仰を選び、クロイツのためにユヴェーレンと戦った。そして、ユヴェーレンの同盟国エスタドが派遣した軍との戦闘で戦死した。祖国への服従を貫いたヘルツォークの父とは正反対の人生だった。
悲報を受けたムンディはその時心に誓った。天のために、父のために、自分は聖職者の最高位を目指すことを。そして、天の反逆者たるエスタドを滅ぼし、世界を一つにすると。
「もう少しだ。もう少しで……、世界は一つになる」
五月の下旬、ギョームの生誕祝賀会に招かれたジュビリーは、オイールに向かう前にバレクランに立ち寄った。エレソナの懐妊を受け、アングルから侍女や召使を連れてきたのだ。妊娠がわかって以来、エレソナは手厚い保護を受けていたが、アングルの侍従が側にいた方が安心できるだろうとのジュビリーの配慮だった。
「……懐妊おめでとう、レディ・エレソナ」
黒衣の宰相の祝いの言葉に、エレソナはふんと鼻を鳴らした。
「わざわざそれを言いに来たのか」
「アングルから侍従を連れてきた。あなたの世話をさせるために」
「それはそれは……。でも結構だ。ローザがいればそれでいい」
他人事のように興味がなさそうにそう呟く」エレソナに、ジュビリーは目を眇めた。
「……体調はどうだ」
「体が重い」
ジュビリーは眉をひそめた。医師の話では今のところ順調ということだった。
「ヒース司教から手紙を預かっている」
ヒースの名にエレソナは目を上げる。
「……兄上は元気か」
「ああ」
手紙を受け取り、じっと見つめながらエレソナは呟いた。
「……オイールに行くのか?」
「王の生誕祝賀会に招かれている」
エレソナはやぶ睨みの目でジュビリーを見返した。
「……キリエはギョームを愛しているそうだ」
その言葉にも、ジュビリーは表情を変えなかった。
「クロイツで何があったか知らんが、どういう心境の変化だろうな」
「心境が変わったのではなく……」
かすかにしわがれた声の宰相に、エレソナが目を上げる。
「これまで口にしなかっただけだ。キリエは、ギョームを愛している」
きっぱりと言い切ってみせるジュビリーに、エレソナは口許に笑みを浮かべてみせた。
「……生きにくい人生だな。お互いに」
五月二八日。二一歳の誕生日を迎えたギョームは、いつもと変わらず夜明け前に目を覚ますとそっと夜具を抜け出した。が、寝衣の裾を引っ張られ、驚いて振り返る。
「……おはよう……」
眠たそうな表情のキリエが小さく呟く。
「まだ寝ておけ」
夫の言葉にキリエは顔を振る。
「……連れてって……」
「大丈夫か? 今日は一日が長いぞ」
「……大丈夫」
キリエは眠そうに目をこすりながら髪を掻き揚げ、夫を見上げる。そして、思い出したように微笑む。
「……誕生日おめでとう」
ギョームも微笑を浮かべると妻を抱き寄せ、唇を重ねる。
着替えを済ませると、後宮の廊下にはすでに多くの侍従が王と王妃を待っていた。
「ご生誕日、おめでとうございます、陛下」
「ありがとう」
挨拶もそこそこに、ギョームは妻を連れて厩舎へ向かう。愛馬のジャンは馬具に美しい飾りが施されていた。ギョームはキリエを乗せると、宮殿を後にした。
透明感のある深い青から橙色の朝日が立ち上る。空がだんだんと明るくなっていく様を眺めながら、ギョームはジャンを走らせた。ビジュー宮殿の裏手に広がる広大な森を抜けると、ちらほらと民家が見えてくる。家々の軒先には王の誕生日を祝う花の輪飾りが提げられている。
「綺麗ね」
キリエが輪飾りを指差して微笑む。
「初めてガリアに来た時も、あんな風に街中が飾り付けをしてあったわ」
「皆が、そなたが来るのを心待ちにしていたからな」
ギョームの言葉に、キリエは一瞬胸が痛んだ。ガリアの民に歓迎されてやって来たはずなのに、自分が世継ぎを生まないせいでギョームに辛い選択をさせてしまった。今でも、彼は体に触れようとはしない。もう諦めたのだろうか。とは言え、今彼に体を求められたとしても、受け入れる自信がない。
「キリエ」
黙りこんだキリエの胸中を察したのか、ギョームは手綱を引くとジャンを止めた。
「……私の妻はそなただけだし、国民にとっても王妃はそなただけだ」
キリエは黙ってギョームにすがりついた。
いつもよりも時間をかけて朝駆けを楽しむと二人は宮殿に戻った。厩舎に戻ろうとするギョームに、キリエが微笑みかける。
「待って、ギョーム。近衛兵の衛舎に寄ってくれない?」
「衛舎?」
「見せたいものがあるの」
キリエの言葉に首を傾げながらギョームはジャンを衛舎の方向へと歩ませた。聖女王騎士団の衛舎へ向かうと、そこにはジョンが正装を身につけて待機している。
「おはようございます、陛下。そして、ご生誕日おめでとうございます」
「ありがとう、グローリア伯」
馬を下りると、キリエはジョンに微笑みかけた。
「お願い、ジョン」
「はっ」
「一体何が始まるのだ?」
ギョームがきょとんとした顔つきでその場に立ち尽くしていると、キリエが嬉しそうに囁いた。
「お誕生日のお祝い」
「えっ?」
「陛下」
背後から呼びかけられ、振り返ると騎士らに引かれて次々と大きな馬が連れられてくる。ギョームは目を見開いた。
「あれは……、ユヴェーレンのライン馬? カンパニュラのアドリー馬も……!」
思わず駆け寄ると十頭の馬を見上げる。その目はまるで子どものように嬉々として輝いている。
「どこで……、このような名馬を……!」
驚きのあまり口ごもるギョームに、キリエも嬉しそうに微笑む。
「クロイツで手に入れたの。ヘルツォーク殿に頼んで」
振り返ったギョームは、久々に晴れやかな笑顔だった。
「……キリエ」
「気に入ってもらえた……?」
少し不安そうに囁く妻をギョームは抱きすくめた。
「ありがとう、キリエ……!」
朝食が済むと、各国の大使が次々に祝辞を述べる中、ジュビリーを始めとしたアングルの使節団が現れた。
「ギョーム王陛下、本日無事にご生誕日をお迎えになられますこと、誠に慶賀の至りに存じます」
「ありがとう、クレド侯」
ジュビリーは、少し元気そうにはなったものの、持ち前の自信に満ち溢れた姿とは違うギョームにかすかに眉をひそめた。ギョームの隣では、キリエが静かに寄り添っている。二人を取り巻く厳しい環境は変わっていないのだ。心が晴れないまま祝賀会を迎えたのだろう。二人を支えてやらねば。ジュビリーは顔を上げると声を高めた。
「陛下に、アングルよりご生誕日のお祝いをご用意いたしております」
「誠か」
「実は、何分大きなものでございますので、宮殿の外へご案内せねばなりませぬ」
アングルの宰相の言葉に、同席していた側近や貴族たちの間からどよめきが上がる。ギョームは思わず顔をほころばせた。
「そんなに大きいのか」
「お気に召されればよろしいのですが」
国王夫妻は多くの側近らを連れてビジュー宮殿を後にした。宮殿の周りには、王の誕生日を祝うオイール市民が押し寄せている。
ジュビリーが一行を連れてきたのは、オイール市内を流れるリヴィエール川だった。河畔に近づくと人々は感嘆の声を上げた。岸には花飾りや色とりどりの旗が掲げられている。そんな中、ギョームは見覚えのあるものを目にして息を呑んだ。
「あれは、もしや……」
思わずキリエの手を取るとギョームは小走りで岸へ向かった。そこには、季節の花々を満載した小舟が数隻用意されている。
「花舟……」
キリエの顔に笑顔が咲く。
「クレド侯!」
ギョームが嬉しそうに声を上げると、ジュビリーは顔をほころばせた。ギョームがプレセア宮殿で求婚した際、キリエと共に楽しんだ舟遊びが、そこに再現されていた。
「ビジュー宮殿に内堀はございませぬが、市内に美しい川があることを思い出しまして」
「まさか……、リヴィエール川で舟遊びとは……。さすがだな、クレド侯!」
頭を下げるジュビリーに、キリエは目で感謝の気持ちを伝えた。ギョームはモーティマーの姿を探すと声をかける。
「サー・ロバート、今回も頼めるか」
「喜んで」
ギョームとキリエが舟に乗り込むと、モーティマーが櫂を押し進めた。後続の舟には、シャルルとロベルタ、嫡男のアンリ。もう一艘にはウィリアムやジュビリー、レスターらアングルの廷臣。バラたちガリアの廷臣らも、初めて乗る花舟に少し戸惑い気味に乗り込む。五艘の内、真ん中の一艘には数人の楽師が乗り込み、春の陽気に似合う優雅な曲を奏でている。
ゆっくりと進む花舟を、両岸から市民が喝采を送る。岸辺にも飾り付けがずっと続いている。美しい花々。舟に満ちる甘い香り。雅な音楽が響く川面。キリエは夢心地で辺りを眺め渡した。
「……思い出すな」
ギョームの言葉にキリエは微笑を浮かべて頷く。
「そうだ、ちょうど去年の今頃だ。イングレスへ行き、そなたに求婚した」
キリエは少し恥ずかしそうに俯くと夫の胸に寄りかかった。
「……もうすぐ、結婚して一年だ」
「ギョーム」
呼びかけられ、ギョームは妻に目を落とした。
「……いつもありがとう」
小さな声に、ギョームは覆い被さるようにして抱きしめた。
後続の舟で、二人の様子を見守っているレイムス公シャルルに妻のロベルタが囁きかける。
「お可愛そうに……。あんなに仲がよろしいのに……」
「そうだな……」
シャルルはアングルの廷臣らが乗った舟に目を向けた。
「……あのクレド侯という男、なかなかの人物だ」
「え?」
「見ろ」
両岸から国王夫妻を祝福するオイール市民を指し示しながら眺め渡す。
「ギョームが側室を迎えたことで、国王夫妻が不仲なのではないかと国民は疑いを持っただろう。だが、あの様子を目にすれば……、国民の不安は払拭される」
ロベルタは、ギョームの腕の中で嬉しそうにはにかむキリエを見つめた。確かに、二人は無理矢理仲が良さそうに振る舞っているようには見えない。ごく自然に優しく寄り添っていることは、誰の目にも明らかだ。
「国王夫妻の仲睦まじい様子を見れば、王妃の嫡子を気長に待とうという気になろう。リヴィエール川で舟遊びとは、考えたな。……アングルとの同盟を重視するならば、クレド侯を味方につけておかねば」
シャルルは、緊張した面持ちで舟に揺られているバラに目を向け、苦い表情をする。
「アンジェ侯のせいで、アングルと余計な軋轢が生じたからな」
「その上、今回は陛下が側室をお迎えになられて……」
「当然ながら、アングルの廷臣らは反対したらしい。離縁して帰国するべきだと言う者もいたそうだ」
「そんな……」
ロベルタは眉をひそめた。そして、再びキリエに目を向けた。楽しそうにギョームと語らっているが、腹違いの姉が夫の子を身篭もっているのだ。その胸中は穏やかではないはずだ。
「父上!」
後ろから子どもの声が上がる。
「私も漕いでみてよいですか?」
舟の艫で、櫂を押す侍従の様子をずっと見つめていた息子のアンリだ。
「ルイと一緒にな。ひっくり返っては困る」
「はい!」
アンリは嬉しそうに立ち上がると、侍従に手を添えられながら櫂を漕いだ。息子の笑顔を眺めながら、ロベルタが小さく呟く。
「お二人に……、早くお子ができれば……」
一方、キリエとギョームを黙って見守るジュビリーに、レスターがそっと声をかけた。
「お見かけした限りでは、仲はよろしいようですな……」
宰相は黙って頷いた。彼の脳裏に、エレソナの言葉が響いた。
(キリエはギョームを愛しているそうだ)
キリエ自身も言っていた。「彼が大好き」だと。ジュビリーは息をつくと目を閉じた。困難が二人を結びつけたのだ。揺ぎない、絆を。
夜には、華やかな晩餐が開かれた。王妃はすっかり御用達になったリッピの衣装をまとい、人々の目を釘付けにした。ガリアの貴婦人や女官たちの間でもカンパニュラで作らせた衣装が流行し、華やかながらも洗練された身なりの女性が目に付いた。
妻同様、リッピに誂えさせた衣装を身につけたギョームに、ウィリアムが微笑みかけた。
「ギョーム王陛下も、もう二一歳でございますか。お早いものですな」
「私がホワイトピーク公に初めてお会いした時が、確か十歳ぐらいでした」
「歳を取るわけですな」
夫とウィリアムが話し込む様子を見つめていたキリエに、ジュビリーがそっと声をかける。
「王妃、体調は……」
「大丈夫よ、ありがとう」
それでも心配そうな表情の宰相に、キリエは寂しそうに微笑んでみせる。
「ギョームが……、いつも気を遣ってくれるわ。彼も辛いのに……」
ジュビリーは、若い王と幼い王妃をそっと見守った。彼らの気持ちはわかるつもりだった。ジュビリー自身、自分の子ではない妻の子を「自分たちの子」として育てる決心をした過去があった。しかし、妻も子も失うという最悪の結果になった。エレソナには、彼女自身のためにも、キリエとギョームのためにも、無事に子を生んでほしかった。だが、無事に生まれたとしても、キリエとギョームが育てていくには様々な難関が待ち受けていることだろう。ジュビリーの胸中を察したレスターが、沈痛な表情で見守る。と、その時。
「兄上」
不意に声をかけられ、ジュビリーが振り返ると、ギルフォードを抱いたマリーとジョンが佇んでいる。
「マリー様! ご無事のご出産、おめでとうございます」
「ありがとう、レスター」
レスターは目を細めるとジョンを見つめる。
「毎日が楽しくてたまらないでしょう、ジョン様」
「ああ、ギルフォードを見ていると疲れも吹き飛ぶ」
「いいのか、こんな所に連れてきて」
顔の表情をゆるめながらもジュビリーは妹をたしなめる。
「すぐに帰ります。兄上に見せてから……」
言いながらマリーが息子を兄に抱かせようとするが、抱き慣れていない伯父を嫌がり、ギルフォードは泣き出した。
「あらあら、伯父上ですよ、ギルフォード」
キリエも穏やかな表情でギルフォードを見つめる。すると、赤ん坊の泣き声を聞きつけたギョームが歩み寄る。
「ギルフォードといったかな」
「はい、陛下」
ギョームは優しい笑顔でギルフォードの頭をそっと撫でる。
「どうぞ抱いてやって下さい」
だが、ギョームはわずかに眉をひそめた。
「……いや、いい」
「陛下……」
マリーが寂しげな表情になり、ギョームは気まずそうに笑った。
「……すまない、グローリア伯夫人」
「いえ……」
ギョームは妻の隣に寄り添うと彼女の手を握りしめた。夫の手の温もりにキリエは思わず目が潤んだ。その場に気まずい空気が流れる中、マリーの腕の中でギルフォードが一際甲高い泣き声を上げる。
「あら」
「眠たいのかな」
そう呟きながらジョンが妻の腕から息子を抱き上げようと手を添えた時。
「ジョン!」
思わずキリエが声を上げる。ジョンは咄嗟に手を引っ込めたが、キリエは彼の手が赤く変色していたのを見逃さなかった。
「どうしたの、腫れていたわ」
「いえ、何でもありません」
ジョンは顔を強張らせて両手を後ろに回す。ジュビリーが眉をひそめてマリーに目を向けるが、妹も固い表情で眼を伏せるばかりだ。キリエは心配そうな表情でジョンに歩み寄る。
「大丈夫? 利き手でしょう。湿布薬を作ってあげるわ」
「ご容赦を……! 王妃……!」
どこか悲壮な表情でそう囁くジョンにキリエは困惑するばかりだ。周囲に少しずつざわめきが広がる中、ギョームが「キリエ」と声をかける。振り返ると、夫は諭すように微笑み、頷いた。
「でも……」
ギョームは顔を小さく横に振ると黙って手招いた。キリエは諦めて夫に従った。
「そなたたちも、来月で結婚一周年だな」
その場を取り繕うようにギョームが話題を変える。
「はい。お蔭様で」
「予とキリエも再来月で一周年だ。それで、一周年はアングルで迎えようと思う」
夫の言葉にキリエの顔が明るくなる。
「式はガリアで挙げたからな。一周年はアングルで祝おう」
「……ありがとう、ギョーム」
「その時は頼む、クレド侯」
「はっ」
頭を下げたジュビリーが、ふと隣のモーティマーを見やる。そして、意味深に呟く。
「では、その時に……」
彼の呟きを聞きつけたキリエが嬉しそうに微笑み、ギョームを振り返る。
「ギョーム」
彼女は爪先立つと夫の耳元で何事か囁く。ギョームは目を見開くと、わざと声を高めて聞き返す。
「何、サー・ロバートの結婚式を?」
「えッ?」
全く予想もしていなかった王の言葉にモーティマーは驚いて顔を上げる。周りの人々が驚きの声を上げ、次々に拍手を贈る。
「アンをこれ以上待たせられないものね」
「王妃……」
困惑するモーティマーにキリエがにっこりと笑いかけた。ジュビリーが秘書官に呼びかける。
「何か不都合でも?」
「い、いえ……!」
「では、それで良いな? レスターも」
「はっ……」
レスターは相変わらず慇懃に頭を下げる。
「これで全員片づきます」
「本当は寂しいくせに」
キリエの言葉に老臣はわざとふくれっ面をしてみせ、ギョームが笑い声を上げる。
「皆! サー・ロバートに乾杯だ!」
杯が打ち鳴らされ、皆の笑顔にキリエも安心したように微笑む。が、すぐに表情を曇らせるとそっとジョンを振り返る。杯のワインを飲み干したジョンにマリーが何か囁きかけている。彼は妻を安心させるように髪を撫でている。何があったのだろう。心配でたまらなかったが、キリエは黙ったままギョームの傍に佇んでいた。
夫のためにキリエがあれこれと計画を立てていたため、晩餐会は大いに盛り上がった。相変わらず酒に弱いキリエも、今日ばかりは杯を重ねた割には遅くまで持ち堪えた。ルイーズは、いつまた王妃が倒れるか気が気でなかったが、結局キリエは晩餐会を最後まで乗り切った。が、バンケティング・ホールを出る頃には、キリエはもはや一人では歩けないほど疲れ切っていた。
入浴を済ませたギョームが寝室へ戻ると、キリエは枕にもたれかかった姿勢のまま、うつらうつらしていた。
「キリエ、寝るぞ」
腕を取ると、彼女は黙って抱きついてきた。
「今日は朝が早かったのだ。寝ろ」
だが、キリエは腕の力をゆるめずに抱きしめたままだ。そして、夫の耳元で囁く。
「今日は……、決めてたの。最後まで、がんばるって……」
ギョームは穏やかに微笑むと優しく背中を撫でる。
「ありがとう。楽しかったぞ」
しばらく子どもをあやすように抱きしめていたギョームは、そっとキリエの顔を上げさせると唇を合わせた。いつも以上に丁寧に優しく口付けを交わすと、キリエは不意に目を伏せた。
「……ねぇ、ギョーム」
「どうした」
ギョームは体を屈めて耳を寄せる。
「……抱いて」
妻の言葉にギョームは息を呑んだ。そして、思わず両肩をつかむ。
「だ、駄目だ、キリエ」
「どうして?」
キリエは顔を上げるとまっすぐに見つめてくる。どこか虚ろな瞳にギョームは不安に駆られた。
「そなたを……、大事にしたいのだ。わかってくれ」
キリエは顔を歪めた。
「エレソナは抱いたのに、私は抱いてくれないの?」
ギョームの両目がかっと大きく見開かれる。
「キリエ!」
思わず声を上げたギョームに、キリエはびくりと体を震わせると胸にすがりついた。
「ごめんなさい……! ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
「キリエ……」
嗚咽を漏らす妻をギョームは目を閉じると抱きしめた。
「わかってるの……。私が悪いって……。私があなたを拒み続けたから……。でも、でも……! 悔しい!」
キリエは震える手でギョームの寝衣を握りしめた。ギョームは、初めて目にするキリエの激しい感情に息を呑んだ。
「国のためだとか、本当はそんなことどうでもいい……! あなたが、王でなければ……。私が、教会で育たなければ……! そう思うと……!」
悔しげに囁く妻の背を撫でながら、ギョームは心のどこかで安堵していた。修道女として育ったとはいえ、どこまでも寛容で慈悲深いキリエに、ギョームは強烈な憧れを抱くと同時に恐れを感じていた。ひょっとして、彼女は嫉妬という感情すら持ち合わせていないのではないかと不安だったが、今こうして心情を吐露した妻が哀れでもあり、愛おしくも思えた。
「……キリエ」
ギョームは妻の頬に零れた涙を拭うと唇を重ねた。キリエが愛しかった。離したくなかった。ギョームはキリエを抱くとそのままゆっくり夜具に押し倒していった。