エレソナは特に体調を崩すこともなく順調に日々を過ごしていたが、一方のキリエは王宮で腫れ物に触るかのような扱いを受け、居心地の悪い日々が続いていた。針のむしろのようなひと月を過ごした後、七月になると逃げるようにしてギョームと共にアングルへと帰国した。
アングル国内でもギョームが側室を持ったことが公にされ、一時はギョームに対する批判でイングレス市内は不穏な空気に満ちていたが、ジュビリーの情報操作によって何とか沈静化がなされていた。
プレセア宮殿では、キリエとギョームがこれまでと変わりなく寄り添う姿を見た廷臣たちは、口には出さないものの皆ほっとした表情で出迎えた。
「陛下、お体は……」
セヴィル伯の心配そうな顔つきに、キリエは申し訳なさそうに微笑んだ。
「心配かけてごめんなさい。大丈夫よ」
聖アルビオン大聖堂では成婚一周年の記念式典が執り行われたが、多くの市民が詰めかけた。聖堂内でバウンサー大司教から祝福を受けた女王と王配が拝廊から姿を見せると、詰め掛けた市民たちは歓声を上げた。国民が温かく迎えてくれたことにキリエの目頭が熱くなる。そして、ルイーズから禁じられていたことも忘れて思わず両手を合わせると片膝を突いた。国民の歓声に対し、最敬礼で応えた女王に皆が驚きの声を上げる。が、次の瞬間だった。側に寄り添っていたギョームも両手を合わせると片膝を突く。
「陛下……!」
背後で控えていたバラが慌てて駆け寄ろうとするが、その腕をジュビリーが掴んで引き止める。
「クレド侯……!」
バラが思わず声を上げるが、ジュビリーは険しい表情で顔を振る。
「ギョーム……!」
キリエが思わず夫を立たせようと腕を取るが、ギョームは優しく微笑みかけ、そっと手をほどく。夫に見つめられ、キリエは嬉しそうに微笑んだ。二人は改めて両手を合わせると深々と頭を垂れた。国民の熱狂は最高潮に達した。
晩餐会は和やかな雰囲気だった。華やかながらも、華美な祝宴を嫌うキリエのために落ち着いた雰囲気の晩餐会に、ギョームもどこか溶け込んだ感があった。晩餐会では、マリーとジョンがギルフォードを連れてきていたため、多くの廷臣が祝いの言葉をかけていた。
「キリエ」
人々から挨拶を受けていると、キリエは聞き覚えのある声を聞きつけた。
「兄上!」
「ご成婚一周年、おめでとう」
ヒースの元気そうな姿を見たキリエが嬉しそうに席を立つ。
「ありがとう、兄上」
「ギョーム王、おめでとうございます」
「ありがとうございます、義兄上」
ヒースは寂しげな表情で囁く。
「……オイールでは、辛い時間を過ごしたでしょう」
キリエは、兄の言葉に思わず胸にすがりつく。二人の様子を見てとると、ギョームはさりげなくその場を離れた。
「……ご心配おかけしました」
ヒースは黙って妹の背を撫でた。
「エレソナは、元気です。……順調です」
「……そうですか」
しばらく二人は黙ったままより添っていたが、やがてヒースが妹の耳元に口を寄せる。
「……大主教から手紙が届きました」
キリエは思わず息を呑んで兄を見上げた。
「あなたを、説得するようにと」
神聖ヴァイス・クロイツ帝国の件か。キリエは顔を強張らせた。自分が慕っている兄ヒースに説得を依頼するとは。キリエが唇を噛み締めていると、ヒースが言葉を続ける。
「お断りの返事を送りました」
「えっ……」
ヒースは小さく溜息をついた。
「卑怯ですが……、決断を下すのはキリエ自身だと。キリエと、ギョーム王が二人で決めることだとお返事申し上げました」
「兄上……」
ヒースはぎこちなく顔を向けた。
「こればかりは……、私は助言できません。……ギョーム王には、まだ?」
「……はい」
「どうぞ、ご相談なさい」
ヒースの言葉に、キリエはそっと顔を上げると、ジュビリーやジョンと歓談しているギョームを見つめた。
「あなたの一番近くにいる人に相談するのです。あなたを……、守って下さる人に」
一番、近くにいる……。キリエは顔を強張らせ、項垂れた。
成婚一周年の式典が一段落するとキリエは執務に追われた。そんな中、キリエの執務室にジュビリーが訪れた。
「明日の廷臣会議の資料を渡しておく」
「ありがとう……」
どこか上の空で返事を返すキリエに、ジュビリーは顔をしかめる。
「……大丈夫か」
宰相の呟きにキリエははっと顔を上げる。
「――ごめんなさい。ちょっと、ぼんやりしてしまったわ……」
「キリエ」
「大丈夫だから」
キリエは表情を隠すように立ち上がった。
「サー・ロバートの結婚式は? 準備は進んでいるのかしら」
「……来月、プレセア宮殿の礼拝堂で行う予定だ」
「そう。アンに会うのも久しぶりだわ」
独り言のように呟きながらジュビリーに背を向け、窓から中庭を眺める。
「……キリエ、大主教の件は」
キリエの背中が緊張で強張るのがわかる。ジュビリーはそっと歩み寄った。
「ギョームには伝えたのか」
無言で顔を振るキリエにジュビリーは眉間を寄せる。
「夫に黙ったまま、私に伝えてどうする。これは……、アングルとガリアだけの問題ではない。プレシアス大陸全土に関わる問題だ」
「わかってるわ……。だから……、怖いの……」
キリエは聞き取りにくいほど小さな声で囁いた。小さな拳を握り締め、苦しげに息をつく。
「……考えることが多すぎるわ。ギョームのこと、エレソナのこと、エスタドのこと、クロイツのこと……」
「一人で抱え込むな」
いつのまにか隣にやってきたジュビリーの言葉に、キリエは怯えた顔を上げる。
「何のために結婚した。おまえを守り、支えるためにギョームはおまえとの結婚を望んだのだ。……二人で背負い、二人で乗り越えろ」
真っ直ぐに見つめてくるジュビリーの瞳に、キリエは何も言えずに目を潤ませる。ジュビリーは目を細めると囁いた。
「……ギョームを、愛しているのだろう?」
思わずキリエは両手で顔を覆い隠した。ジュビリーは恐る恐る手を伸ばすと、彼女の震える肩をそっと撫でた。少しでも力を入れると壊れてしまいそうな細い肩。この弱々しい肩に世界の命運がかかっている。本人の意思とは関係なく。だが、彼女を守るのはもう自分ではない。自分は、「彼女たち」を守ってゆくのだ。
その時、扉を叩く音が響き、ジュビリーは咄嗟に手を離した。
「……陛下」
モーティマーの声だ。ジュビリーが扉を開けに向かうと、わずかに緊張した表情のモーティマーが佇んでいる。
「クロイツからヘルツォーク殿が……。女王陛下とギョーム王陛下に謁見を願い出ております」
ジュビリーは顔を強張らせると、部屋の奥で立ち尽くしているキリエを振り返った。
ギョームと共に謁見の間へ向かうと、ヘルツォークは物腰の柔らかな仕草で頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅう、ギョーム王、キリエ女王両陛下」
「……先日は、お世話になりました」
「久しぶりだな、ヘルツォーク」
「ご成婚一周年をお迎えになられた由。おめでとうございます。大主教猊下からも、お祝いのお言葉をお預かりしております」
大主教の名にキリエは思わずごくりと唾を呑み込んだ。妻が黙り込んでいるため、ギョームが言葉を返す。
「猊下はお変わりないか」
「はっ。実はこの度、お二人に猊下から大事なお話をお伝えに参りました」
ギョームはかすかに眉をひそめ、ちらりと隣の妻に目を向ける。すると、どういうわけかキリエは顔を青ざめさせて口をつぐんでいる。妻の異変に気づいたものの、ギョームは視線をヘルツォークに戻した。そして、そっと右手を伸ばすとキリエの手を握りしめる。キリエは息を呑んで夫の横顔を見つめた。
「どういった話かな」
「誠に失礼ながら、お人払いを……」
ヘルツォークの言葉にバラが顔をしかめる。が、ジュビリーは彼の来意を理解した。
(ギョームに直接伝えに来たか……)
廷臣や侍従らが引き下がると、ギョームは身を乗り出した。
「何があった?」
ヘルツォークは探るような目つきで若い王と幼い女王を見つめた。
「今からお話しすることはご内密に願います。ムンディ大主教猊下は、まだヴァイス・クロイツ教の教えに従わぬ勢力があることを大変嘆いておられます」
ギョームは目を細めた。
「エスタドか」
「エスタドだけではございませぬ。ユヴェーレンとクラシャンキ帝国も我々クロイツの意に反しております。しかし、この三国は未だ強大な国家であり、大主教猊下の威光をもってしても服従させることはできておりませぬ」
「……それで?」
ヘルツォークはギョームの慎重な態度にわずかに笑みを浮かべた。
「猊下は、かの三国に対抗する体制を作りたいとお考えです」
そこでしばし口をつぐみ、やがてヘルツォークはわずかに声を高めた。
「天の教えを守るヴァイス・クロイツの恵みを受けし国家、ガリア、アングル、カンパニュラ、ポルトゥス、ナッサウ。加えてバーガンディ、レオン、レイノ。大主教はこれらを一つの帝国に統べたいとお考えでございます」
謁見の間に不気味な沈黙が広がる。ギョームの耳に、キリエの押し殺した息遣いが聞こえる。彼はクロイツの騎士団長をじっと見据えた。
「……何故それを予とキリエに?」
ヘルツォークは小さく頷いた。
「猊下は、その帝国の皇帝にギョーム王陛下とキリエ女王陛下のお二人をお望みでございます」
キリエは思わず夫を仰ぎ見た。ギョームは眉間に皺を寄せ、懐疑的な目でヘルツォークを見つめている。しばらく沈黙を保っていたギョームはやがて低く呟いた。
「……
「御意」
そして、微かに目を眇めると王を見上げる。
「王妃との共同君臨ではご不満が……?」
「不満だと」
ギョームがわずかに怒気を含んだ声で呟き、キリエは慌てて腰を浮かしかけた。
「他ならぬキリエだ、不満などない」
固い口調で言い放ちながらも、ギョームはキリエに安心させるように微笑みかける。
「ご無礼お許し下さいませ」
ヘルツォークは深々と頭を垂れた。ギョームは腑に落ちないといった顔つきで息をついた。
「しかし、急な話だな」
「もちろん、今すぐ実現できる話ではございません。ですが、今挙げた各国はギョーム王陛下がすでに対エスタド戦略として同盟を取りまとめております故、そう難しいことでも、遠い話でもございません。何より、ギョーム王陛下はエスタドに対して毅然とした態度であらせられ、敬虔なヴァイス・クロイツ教徒でございます。これ以上の適任は、他にはおられないでしょう」
「待って、ヘルツォーク殿……!」
今まで黙り込んでいたキリエが突然声を上げる。キリエは口ごもりながら呼びかける。
「それなら、ギョームが、単独で君臨すれば……」
ヘルツォークはにっこりと微笑んだ。キリエが女帝になることに否定的なのは、ムンディからすでに伝え聞いている。
「王妃、あなたも帝位に就くことに意味があるのでございますよ。王妃は修道女としてすべてのヴァイス・クロイツ教徒の心の拠り所に。そして、ギョーム王陛下は皇帝として実質的な統治を。王妃は何もご心配なさることはございません。すべて、我々とギョーム王陛下にお任せ下されば……」
「ヘルツォーク」
ギョームがやや固い声で呼びかける。
「キリエに敬意を払うのはよいが、あまり子ども扱いするな」
「ギョーム……!」
キリエが咄嗟にたしなめるが、ヘルツォークはその場にひれ伏した。
「どうかお許しを! 陛下……!」
そして、恐る恐る上目遣いにギョームを見上げる。
「……いかがでございましょう。ご一考いただけないでしょうか」
キリエもはらはらした顔つきでギョームを見守る。夫は目を細めると口を開いた。
「……理想論だ」
王は短く言い放ち、ヘルツォークは思わず息を呑んだ。
「要するに、同盟ではなく連合を組めということであろう? 現実的ではない」
「もちろん、複数の王国を統合するのは時間がかかりましょう。しかし、レオンやレイノは実際にエスタドからの独立を願っております」
キリエの脳裏に、ロベルタの意志の強い瞳が浮かんだ。
「ガルシア王の父君、先王カルロスによってレオンとレイノは王位を奪われ、大公位に貶められました。王位を復権し、独立を果たせるのであれば、喜んで連合に加わることでしょう。まずはガリア、アングル、バーガンディ、レオン、レイノ。この五つの国が帝国として一つになり、反クロイツ勢力の前に立ちはだかれば、カンパニュラ、ポルトゥス、ナッサウも連合を考えるでしょう。この三国も元よりエスタドの台頭に危機感を抱いているはず」
ギョームは疑わしげな表情を崩さないままヘルツォークを見下ろし、やがて静かに吐息をつく。
「……すぐには返答できぬ話だ。猊下には、お時間をいただけるようお伝えてしてくれ」
「御意」
深々と一礼し、顔を上げたヘルツォークはキリエに意味深な視線を送ると踵を返した。
午餐を済ませるとギョームはキリエを薬草園に誘った。思い詰めた表情の二人を、ジュビリーとバラは不安げに見送った。
「……唐突だったな」
咲き乱れる夏の花々を眺めながらギョームが呟く。
「……ヴァイス・クロイツ教徒による帝国……。もちろん実現させたい話だ。だが、公国はともかく、他の王国までは……」
「ギョーム」
小さな声が背中に呼びかけられる。
「私は……、あなたの妻よ。あなたと同じ帝位に就くなんて……」
「言ったはずだぞ」
夫は真顔で振り返った。
「私とそなたは対等だ。もしも……、大主教がそなたの帝位を認めなければ、この話は最初から蹴っていたであろうな」
キリエは夫の顔をじっと見つめた。確かに、結婚する前からずっとギョームは言い続けていた。「あなたと私は対等です」と。
「でも……、猊下は何故、私に帝位を……」
まだ困惑の表情で目を伏せる妻に、ギョームはどこか遠くを見るような目で呟いた。
「大主教は……、そなたを人質にするつもりだ」
「えッ」
人質という穏やかでない言葉にキリエは身を竦める。
「ヴァイス・クロイツ教徒による帝国と言いながら、大主教の意を汲む皇帝が良いのだろう。そなたは修道女だ。大主教には逆らえない」
「ギョーム……」
キリエは夫の推論に愕然とした。だが、彼が懸念するのももっともだった。ギョームは少しだけ微笑むと「座ろう」と呼びかけた。
「……心外だな」
キリエは恐る恐る夫を見上げた。
「私は大主教の意に反するつもりはない。……だが、そなたをいいように利用しようとするのであれば、私は絶対に許さない」
ギョームの静かながら強い口調にキリエは息を呑んだ。そして、ギョームはゆっくり振り返った。
「……クロイツを訪れた時、すでにこの話をされたのではないか?」
キリエは夫を凝視した。まっすぐに見つめられ、身動きもできない。ギョームに嘘はつけない。体が小刻みに震え出す妻に、ギョームは子どもに言い聞かせるように畳みかける。
「……口止めされていたのか?」
キリエはこくりと頷いた。彼は溜息をついた。
「仕方ないな。相手は他ならぬ大主教だ。だが、それでも相談してほしかったな」
「ごめんなさい……!」
キリエは夫の顔が見られず、俯いたまま口走る。
「私……、猊下が何を仰っているのかわからなくて……。怖くて……!」
ギョームはどこか寂しげに囁きかけた。
「キリエ……。そなたにとって大主教は天にも等しいお方だ。大主教の仰ることは絶対だろう。だが……」
キリエは体を固くしながら頷いた。ギョームは妻の肩をそっと撫でた。
「そなたを守りたいのだ。私を信じてくれ」
まだ体を震わせたままの妻にギョームは眉をひそめ、小さく言い添える。
「……側室を持つ夫など、信じられぬか」
途端にキリエは顔を歪めた。と同時に小さな握り拳を振り上げるとギョームの胸に叩きつける。
「……キリエ」
キリエは声を押し殺して両手で夫の胸を叩き続けた。
「……すまない。今のは……、卑怯だった」
キリエは嗚咽を漏らすと夫の胸にすがりついた。彼は辛そうに目を閉じ、キリエを抱きしめた。
八月。プレセア宮殿の礼拝堂の前には人だかりができていた。夏の暑い陽射しが降り注ぐ中、集まった人々は皆興味津々といった表情で礼拝堂の中を覗き込んでいる。
礼拝堂の一室では、喧騒が潮騒のように響いていた。そのざわめきに耳を傾けながら、緊張した顔つきで姿見を見つめているのは、ロバート・モーティマーだ。普段は地味な灰色の胴衣を身にまとっている彼も、今日ばかりは鮮やかな濃紺の礼装。自分には、このような華美な衣装は似合わない。ついそう口にして女王に叱責されたばかりだ。
「今日の主役はあなたとアンなのよ」
人々の目の及ばない場所で、人に知られることなく動き続けることが自分の職務。だが、そんな自分の姿を見出してくれたアンと今日、結ばれる。緊張しきった表情で大きく息をついた時。背後から扉を叩く音で飛び上がる。
「サー・ロバート」
振り返ると、純白の祭礼服を身につけた数人の司教たちの姿が。その中の一人が、にっこりと微笑む。
「準備はよろしいですか」
「ヒース司教……」
モーティマーは恐縮した様子で呟いた。
「お忙しい中、私のような者のために……」
「女王陛下の達ての願いです。そして、他ならぬあなたですから」
ヒースはわずかに顔を伏せると、昔を懐かしむように囁いた。
「幼い頃は、王宮で大変お世話になりました。あなたがいなければ、どんなひどい目に遭っていたか」
二人の脳裏に、かつての情景が鮮やかな二浮かび上がる。人々から注がれる好奇の目からヒースを守り、そのことで父王であるエドガーからも感謝された。
「父も、存命であればあなたが生涯の伴侶を得たことを喜んでいたでしょう。おめでとう、サー・ロバート」
「……ありがとうございます」
もう一人の司教が顔をほころばせて身を乗り出す。
「さぁ、皆様がお待ちですよ」
「はい」
一方、礼拝堂の背廊は人々の期待が最高潮に達しようとしていた。何しろ、女王の主席秘書官サー・ロバート・モーティマーとレディ・アン・レスターの結婚式だ。女王のお気に入りの秘書官とあって、廷臣のみならず、多くの貴族や侍従たちが野次馬に集まってきている。
「……宮殿で挙式しない方がよかったかしら」
予想外の見物人の多さにキリエは困惑した様子で囁いたが、ギョームはむしろ嬉しそうな顔つきで囁き返す。
「普段、表へ出ずに影で働いてくれているのだ。こういう時ぐらい晴れ舞台を用意してもよかろう」
「……そうね」
アンもいつもは目立たないおとなしい娘だ。結婚式ぐらい華やかに挙げさせてやりたい。そう思いながらキリエは列席者たちに目を向けた。
レスターの妻キャサリン。アンの兄、フィリップとチャールズ、そして姉のメアリーがそれぞれの妻や夫と共に列席している。一方のモーティマーは、早くに両親を亡くしたらしく、嫁いだ姉エリザベスとその夫、そして弟のウォルターの三人が参加していた。
やがて、祭壇の前に司教らと共に新郎が姿を現す。いつもは冷静なモーティマーも、さすがに緊張した様子だ。その姿に、キリエとギョームは顔を見合わせると思わず微笑む。やがて、侍従が野次馬を掻き分けながら拝廊までやってくると、花嫁の到着を告げた。一斉に感嘆の声が上がると、人々は左右に道を開けた。そこから、レスターに腕を取られたアンが静かに現れる。モーティマーは、花嫁の美しい姿に息を呑んだ。キリエは嬉しそうにレスターとアンを見つめた。自分の結婚式の時も、あんな風にレスターと共に歩んだのだ。あの後……、あんな惨劇が起こるとは思いもしなかったが。すると、隣のギョームがそっと手を握ってきた。見上げると、夫は優しく微笑みかけてきた。キリエの後ろで参列していたジュビリーも、穏やかな表情で見守っている。
レスターは、娘をモーティマーの元まで連れてくるとわざとじろりと睨み付け、参列者の笑いを誘った。
「……子爵」
冗談とわかってはいても、モーティマーは青くなった。
「父上……!」
アンがはらはらした表情で囁きかけると、レスターは娘をモーティマーにぐいと押し付けると背中を向けた。礼拝堂が笑い声に包まれる中、レスターはおどけた表情で参列者に会釈をしてみせた。
「これより、サー・ロバート・モーティマーと、レディ・アン・レスターの結婚式を執り行います」
ヒースの宣言に、モーティマーとアンは緊張した面持ちで正面に向き直る。
「あまねく天に広がるヴァイス・クロイツの祝福を……。光と陰、安寧と孤独、幸福と不幸、様々な試練を共に手を取り歩んでいく二人に、天よ、導きたまえ、守りたまえ、支えたまえ」
盲目の司教は、新郎がいるであろう方角に首を巡らせた。
「汝、ロバート・モーティマー。この女性、アン・レスターを娶り、天の祝福を受けし婚姻を結ぶことを願うか」
「我、これを願う」
モーティマーはしっかりとした口調で告げた。
「汝、アン・レスター。この男性、ロバート・モーティマーに嫁ぎ、天の祝福を受けし婚姻を結ぶことを願うか」
「……我、これを、願う……」
アンのか細い声が囁き、モーティマーは胸が一杯になった。
「では、指輪の交換を」
侍祭の少年が指輪を捧げ持ち、緊張しながらモーティマーが指輪を取り上げるとアンの左手をそっと取る。静かに結婚指輪を指に嵌めようとした時、ヴェールの下でアンが思わずくすりと微笑んだのがわかった。サファイアの婚約指輪を贈られた時、「入らない」と嘘をついてモーティマーを慌てさせたことを思い出したのだろう。彼も思わず顔をほころばせる。指輪の交換が終わると、ヒースは厳かに呟いた。
「では、天なるヴァイス・クロイツのお恵みの下、誓いのキスを」
モーティマーは恐る恐るアンのヴェールを上げた。そこには、初めて出会った時よりもずっと美しくなったアンがいた。一途な視線が自分にだけ注がれている。そう思うと、胸が一杯になる。彼は小さく息をつくと腰を屈め、そっと口付けを交わした。アンの恋が叶った瞬間だった。
すべての儀式が終わり、モーティマーとアンは参列者の拍手に見送られて礼拝堂を出た。そこには、廷臣や侍従といった多くの見慣れた顔ぶれが待ち構えていた。
「おめでとう! モーティマー殿!」
「とっても綺麗よ、アン!」
たくさんの人々から祝福の声が次々とかけられ、二人は幸せそうに微笑みながら寄り添った。
「……よかったわね」
キリエが後ろで控えているジュビリーに囁きかけ、彼も口許をゆるめて頷いた。
「しかし、レスター子爵にあんな可愛らしい娘がいたとはな。父親に似ていなくて良かった」
「まぁ!」
ギョームの冗談にキリエが笑いながら声を上げた時。
「侯爵……! クレド侯ッ!」
切羽詰った叫び声にジュビリーは顔をしかめて振り返った。そこには、慌てふためいた様子で野次馬を掻き分ける侍従次長バートン子爵の姿が。
「どうした」
「え、エスタドが……!」
エスタド。その言葉にその場にいた人々の顔から笑顔が消える。
「エスタドの軍がガリアの国境に迫っているとのことです!」
キリエは思わず口許を手で覆い、咄嗟に夫を振り返った。
「……ガルシア……!」
青ざめた若獅子王は、震える唇で囁いた。