ルファーンを出発し、キリエたちはエスタドとの国境を目指した。ジュビリーはキリエの体力が気がかりでならなかったが、強行な行軍にも関わらず、キリエは弱音ひとつ吐かずについてきた。むしろ、無言で戦地を目指す彼女はまるで何かに取り憑かれたかのようだった。
途中で王都オイールの王軍と合流し、国境を臨める地まで辿り着く頃には、カンパニュラやポルトゥスといった同盟国の軍も集結しつつあった。ただ、ナッサウにだけは動きがなかった。ガルシアの亡き母クラウディアがナッサウ王室の出身だったためだ。ガリアと同盟を結んだとは言え、こうしてエスタドとの全面対決に臨んではっきりとした対決姿勢を見せることに未だに迷いがあったのだ。
バラと共に陣を張る指示を下していたジュビリーは、馬の鬣を無表情で撫でるキリエの姿を見て目を細める。彼女を乗せている馬は、かつて王を乗せていたジャンだ。顔は無表情ながらも、鬣を撫でる手つきは愛おしげなキリエに、ジュビリーもバラも複雑な表情で見守る。
「……王妃、しばらくお休みになられては」
バラの言葉にキリエは振り向きもせずに呟く。
「あなたこそ、ひどい怪我なのだから……」
「……これしきの傷、大丈夫です」
とは言え、バラの肩は仰々しく包帯が巻かれたままだ。キリエが何か言いたげな表情で顔を上げた時。
「王妃! グローリア伯爵と、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団のヘルツォーク殿が到着されました!」
従者の言葉にキリエははっと振り返った。そしてジャンから飛び降りると近衛兵らを掻き分けて走り出す。
「ジョン!」
開けた平野に、〈赤獅子〉と〈青蝶〉の軍旗を捧げ持つ部隊が迫る。併走している部隊は〈白十字〉の軍旗だ。先頭の集団から一頭の騎馬が飛び出す。
「キリエ様!」
騎乗の騎士が叫ぶ声にキリエは走り出した。
「ジョン……!」
ジョンは一直線に馬を走らせてくる。やがて転げ落ちるようにして馬から降りるとキリエに駆け寄り、いきなり抱きすくめた。
「キリエ様……!」
廷臣らが息を呑むが、ジュビリーが黙って制する。
「……ジョン……」
ジョンは涙が混じった声で囁いた。
「わ、私は、お約束いたします……! 最後まで、あなたをお守りすると……!」
ギョームが戦死したことを伝え聞いたのだろう。ジョンの言葉にキリエは顔を歪めると体を離す。
「駄目よ、ジョン」
「キリエ様……」
ジョンは涙で汚れた顔でキリエを見つめた。
「あなたが守らなければならないのは、マリーとギルフォードよ。……死んでは駄目よ。死んだら、私、絶対に許さないから」
キリエの虚ろな表情ながらも有無を言わさない口調にジョンは言葉を失った。
そんな中、周囲がざわつき、キリエはそっと振り返った。騎士たちが道を開けた先から、見覚えのある男がやってくる。
「……ヘルツォーク殿」
「……女王陛下」
ヘルツォークは強張った表情で跪くとキリエを見上げた。
「……猊下より、お言葉をお預かりしております」
ヘルツォークの言葉に、その場が静まり返る。キリエはわずかに身を乗り出した。
「……ギョーム王の御霊は、きっと迷うことなく天にお帰りになられるでしょう。ギョーム王陛下に代わり、この世界を統べてほしい、と……」
キリエは顔を歪めた。
「……ギョームは、天になんか帰らないわ」
幼い王妃の言葉にも、ヘルツォークは動じることはなかった。ただ黙って彼女を見つめる。
「ギョームは……、今でも私の隣にいるわ」
エスタド・ユヴェーレン連合軍がついにプイグ城を陥落させた。それと同時に、エスタドの王都ヒスパニオラから王軍が出陣した。王を守る近衛兵団の中心には、ガルシアとフアナの姿がある。旅装のみで、まだ甲冑を身にまとっていない王太女の姿に、市民は目に涙を浮かべて見送った。
「……いいのか、フアナ」
手綱を握り締めたまま、ガルシアがそっと呼びかける。フアナはいつもと変わらない優しい微笑で答えた。
「私は、いつでも父上のお側にいます」
ガルシアは複雑な表情で頷いた。
まとわりつくような濃厚な霧。軍馬や歩兵の足をさらう深い湿地。それでも、黒光りする甲冑の軍勢は勢いを削がれながらもガリアの王都を目指していた。
「怯むな!」
先頭をゆく将軍が怒鳴る。
「このバスケーを抜ければ、オイールまで一気に進軍できる! 進め!」
兵士らは皆気力を振り絞るように雄叫びを上げた。やがて濃霧が薄紙を剥ぐように薄れてゆき、ガリアの広大な平原が姿を現す。大地の感触も徐々にしっかりしたものへと変わってゆく。ここまで来れば、オイールまでは目と鼻の先だ。奮い立ったエスタド軍とユヴェーレン軍は勢いを増すと進軍を続けた。が、その時。先頭の騎兵らが体を乗り出して目を眇める。遥か前方に軍勢が立ちはだかっている。かなりの数の兵馬が横一列に陣取っている。
「ガリアとアングルの青二才どもが……!」
騎士たちはにやりと笑った。
その頃、迫りくる軍勢を目の当たりにしたガリア・アングル連合軍は、慌てることなく配置についた。
「頼むぞ」
「はっ」
アングル軍の指揮官が騎馬を操り、前へ進み出る。
「ロングボウ隊! 前へ!」
指揮官の叫びに射手たちが長弓を手に整然と並ぶ。体躯長大な射手よりも遥かに巨大なロングボウが大空に差し向けられる。指揮官はちらりとエスタド・ユヴェーレン連合軍に目を走らせた。黒い軍勢が先程よりもはっきりと見えてくる。
「構え!」
射手らは天に向かって弦を引き絞る。指揮官は目を細めて敵勢を睨みつけた。
「てぇッ!」
瞬間、一斉に矢が放たれる。青空が黒く染まり、雨のように矢が降り注ぐ。射手らは目にも止まらぬ動きで矢をつがえ、次々と撃ち込んでゆく。敵軍の進軍は止まった。
「撃ち方やめ!」
指揮官が叫び、身を乗り出す。が、彼は唇を噛み締めた。
一方のエスタド側では、多くの兵馬が折り重なって倒れていた。だが、その後方では巨大な楯に身を潜めた大勢の歩兵がロングボウの脅威から守られていた。歩兵らはそれぞれ身の丈以上ある巨大な楯から息をひそめながら顔を上げた。楯には太く長い矢が深々と突き刺さり、針山のようになっている。
鉄と革を張り合わせた楯。アングルのロングボウの威力を身を以って思い知らされたエスタド軍は、すでに対抗措置を取っていたのだ。だが、それでも打撃を受けたことに違いはない。
「ロングボウで勢いを削ぐやり方が、何度も通用してたまるかっ」
エスタドの将軍は兜のバイザーを上げた。
「奴らは慌てふためいているに違いない! 突撃だ! この機を逃すな!」
将軍の号令に楯を打ち捨て、叫び声を上げながら再び進撃を始めた。それと同時だった。
乾いた破裂音。一瞬遅れて爆音と共に兵馬が吹き飛ぶ。
「ぐあッ!」
あちこちに砲弾が撃ち込まれ、エスタドとユヴェーレンの兵士らは大混乱に陥った。
「くそッ! ガリアの……、砲兵隊か!」
将軍は憎々しげに吐き捨てた。
砲声を遠くに聞きながら、指揮を取るビセンテは険しい表情で戦況を見つめていた。
「……アングルのロングボウに、ガリアの大砲。やはり、一筋縄ではいきませんな」
トーレス男爵の言葉にビセンテは露骨に舌打ちをしてみせた。トーレスは思わず主君を仰ぎ見た。いつでも冷静さを失わないはずのビセンテが、苦り切った表情をしている。数では圧倒しているはずの自分たちをここまでてこずらせる「若造」たちに業を煮やしているのだろう。だが、彼をいらつかせているのはそれだけではなかった。
「進撃を止めるな」
ビセンテは苦々しく吐き捨て、周りに視線を走らせる。
「ここを突破すれば王都を落とせる。急がせろ……!」
焦りを見せるビセンテにトーレスが眉をひそめた時。
「オリーヴ公! 陛下の軍勢が合流します!」
斥候が張り上げた叫びに周囲の騎士たちが喜びの声を上げるが、ビセンテは苛立たしげに膝を叩いた。
「気を緩めるなッ!」
言葉を飲み込む皆を尻目に、ビセンテは低く呻いた。
「何故だ、トーレス……!」
「はっ……?」
ビセンテは口を歪めて怒鳴った。
「レオンとレイノは何をしている? 何故まだ合流しない!」
ガリア・アングル連合軍の遥か後方では、キリエたちが陣を張っていた。乾いた砲声がここまで聞こえる。周囲を近衛兵に守られたキリエはジャンに跨がり、表情を変えないまま戦況を見守っていた。
身にまとっている白銀の甲冑はギョームのものだ。成長に合わせていくつも作られた甲冑のひとつを今、まとっている。ローランド戦役の時はジュビリーの少年時代の甲冑だった。キリエはそっと篭手を撫でた。ギョームが自分の身を覆うようにして守ってくれていると思えば、怖くなかった。だが、それとは別の思いもある。……死んでも構わない。口にはしないものの、ジュビリーやバラにはその思いは見抜かれていた。彼らは険しい表情で王妃を見守った。
「……王妃、間もなく砲撃が終了します」
キリエは騎士の言葉にわずかに首を巡らせた。バラが手綱を操ると馬を寄せてくる。
「ロングボウと大砲による攻撃でかなり打撃を与えていると思われますが、油断はできませぬ。エスタドとユヴェーレンの軍勢は合わせて約八万。こちらは五万。……同盟国の援軍は頭数には入れない方が良いでしょう」
「……長くなるわね」
キリエの他人事にもとれる呟きにジュビリーは眉をひそめた。だが、それでも彼女の表情は痛ましげに歪められていた。戦いが長引けば、犠牲者が増える。ジュビリーが声をかけようとした時だった。
「王妃!」
ざわめきと同時に鋭い声が上がる。
「斥候からの報告です! エスタドの王軍が到着した模様です!」
その場に緊張が走る。無表情だったキリエの顔が途端に険しくなる。
「……王軍……?」
騎士はごくりと唾を飲み込んでから言葉を継いだ。
「〈大鷲〉と〈青兜〉の紋章旗を確認したとのことです!」
エスタドの紋章〈大鷲〉。〈青兜〉はナッサウの紋章だ。双方の血を受けたガルシアの軍旗に違いない。その場が大きくざわめく中、再び声が上がる。
「王妃! 王軍の到着にエスタド軍が勢いを盛り返しました!」
軍を指揮する騎士たちが慌しく四方に散る。近衛兵たちが顔を強張らせてキリエの周りに集まる。
「陣形を崩すな! カンパニュラ軍とポルトゥス軍にも連携を崩さぬよう伝えろ!」
ジュビリーやバラが声を張り上げる中、キリエの胸の鼓動が少しずつ早くなっていく。遥か彼方から響いていた戦いの地響きが徐々に大きく、激しく、近付いてくる。バラが手綱を引きながら鋭く叫んだ。
「クレド侯……! 一先ず退却しよう。王妃を安全な場所へ!」
ジュビリーは頷いた。
「そうしましょう。退却だ!」
近衛兵らがキリエの周りに集まろうとした時。
「……退却?」
王妃の呟きにひとりの騎士が眉をひそめた瞬間。キリエは傍らの騎士が捧げ持っていた軍旗を奪い取った。
「王妃!」
近衛兵の叫びに皆が振り返ると同時に、キリエはジャンの腹を蹴った。周囲の近衛兵を押し退けてジャンはその場を飛び出した。
「王妃!」
「女王陛下ッ!」
ジュビリーとバラが慌てて後を追う。
「お止め下さい! 王妃!」
皆の叫びを振り切るようにキリエはひたすらジャンを走らせた。風を受けた軍旗が肩に重くのしかかる。それでもキリエは速度をゆるめることなく駆け続けた。
なだらかな丘を登り切ると、そこに広がっていたのは夥しい数の兵馬がぶつかり合う光景だった。キリエが今まで目にしてきた戦場とは、桁が違う。多くの兵士が剣を打ち交わし、軍馬の嘶きが耳を劈く。騎士は馬から叩き落され、歩兵は死体と血溜まりに足を取られる。キリエはごくりと唾を飲み込んだ。自分のために、皆が戦っているのだ。自分のために! キリエは震える手で軍旗の柄をぎゅっと握り締めると、天に突き立てた。
「天よ! 我らを守りたまえッ!」
キリエは目を閉じると手綱を引き、一気に丘を駆け下りた。瞳に飛び込み、流れてゆく血に塗れた光景。戦場の轟きが頭で渦巻く。心臓が早鐘のように打ち付ける中、キリエはジャンの首にしがみついたまま軍旗を掲げた。
「あれは……!」
ひとりの騎士が丘に向かって指差す。その声に促された兵士たちが次々と丘を見上げる。軍旗を振りかざした小さな白銀の騎士。捧げている軍旗の紋章は、〈赤獅子〉と〈白百合〉と、〈青蝶〉。兵士が目を見開いて叫ぶ。
「女王陛下!」
丘を駆け下りるキリエの後を、近衛兵たちが雪崩のように続く。その光景を目にしたアングル軍とガリア軍の兵士たちは歓声を上げた。
「王妃が援軍を連れてきて下さったぞ!」
「戦え! 怯むな! 我々には〈聖女王〉がいらっしゃる!」
一斉に鬨の声が上がり、アングル・ガリア連合軍は一気に勢いを盛り返した。キリエは丘を下ると声を張り上げる。
「天がお守り下さる! エスタドを恐れるな!」
その叫びに呼応し、兵士らは雄叫びを上げて突撃してゆく。そんな中、近衛兵たちが追いつくとキリエの周りを取り囲む。
「退いて……!」
キリエは顔を歪めてジャンの馬首を巡らす。
「おやめ下さい! 王妃!」
「陛下ッ!」
ようやく追いついたジュビリーが馬を寄せてくる。
「これ以上は危険です! すぐに退却を!」
「駄目よッ!」
我を忘れて叫ぶキリエにジュビリーは顔を歪めた。キリエは血走った目で譫言のようにまくし立てた。
「あ、あそこに……、あそこに、ガルシアがいるのよ!」
「キリエ……!」
ジュビリーはキリエの両肩を掴んで怒鳴りつけた。
「自分が今どんな状況にあるのか、わかっているのかッ!」
「ギョームを殺したガルシアがッ! この先にいるのよ……! 止めないで!」
「馬鹿者!」
ジュビリーは短く叫ぶと篭手を嵌めた手でキリエの頬を張り飛ばした。追いついたバラが背後で息を呑む。キリエは震える手で頬を押さえた。呆然とした顔つきでジュビリーを見上げると、目の色が少しずつ戻ってゆく。
「……ジュビリー……」
かすれた声で呟くキリエの頬を包み込むと、ジュビリーは太い声で言い放った。
「勝手なことは許さんぞ! 今おまえを死なせたら、ギョームに顔向けできん……!」
ギョームの名に、キリエは無言で項垂れた。
「何のためにここまで来た! 無駄死にするためかッ!」
「……う……、うぅッ……!」
キリエは堪えきれず嗚咽を漏らすとジュビリーの胸にすがりついた。声を上げて泣くキリエの震える肩を抱くと、ジュビリーは視線を感じて顔を上げた。じっと見つめてくるガリアの宰相に、ジュビリーは気まずそうに眉を寄せると、相手は黙って頷いた。そんな彼らに後方から呼び声がかけられる。
「王妃!」
その聞き覚えのある声にキリエが顔を上げる。振り返ると、一人の騎士が馬で駆けてくる。
「王妃」
兜のバイザーを上げると、そこに現れた顔にキリエは一瞬息を呑んだ。
「……レイムス公」
彼がギョームの顔と重なって見え、キリエは言葉を詰まらせた。シャルルは手綱を引くと背後を指差す。
「ご覧下さい」
言われて皆が丘を見上げた瞬間。稜線から騎士の軍勢が姿を現す。その掲げられた軍旗にキリエは身を乗り出した。
「……レオン!」
「レイノの軍勢も合流しました」
レオンの〈青塔〉と、レイノの〈銀冠〉の紋章が冬の空に翻っている。ガリア・アングル連合軍は再び歓声を上げた。
「報せを受けた妻がレオンに帰国し、父親を説得しました。そしてその足でレイノに赴き、エスピノ大公の協力を得ました」
シャルルの言葉に、キリエは胸が一杯になる。
「……ロベルタ様……」
危険を顧みず、エスタドの属国レイノにまで赴いて協力を呼びかけてくれたロベルタ。彼女の意思の強い瞳が脳裏をよぎる。
「……キリエ」
耳元でジュビリーが囁く。
「おまえのために皆が動いたのだ。だから……、死んではならん……!」
自分のため。そうだ。皆、自分のために血を流して戦っている。こんなところで死ぬわけにはいかない。でも、戦いが終われば自分は何のために、誰のために生きていけばいい? ギョームがいない、この世界で。
キリエは、悔しげに口元を歪めるとエスタドの軍勢を振り仰いだ。
一方、前線に到着したガルシアは兵士らの混乱ぶりに目を剥いた。
「どういうことだ……!」
ガルシアは呻くように吐き出した。
「何が起こっている……!」
「父上……」
甲冑に身を包んだフアナもごくりと唾を飲み込む。兵士らの怒号が飛び交う中、ビセンテが馬を寄せてくる。
「陛下……!」
「ビセンテ! どういうことだ!」
「それが……!」
喧騒が渦巻く中で宰相が声を張り上げる。
「レオンとレイノが寝返りました……!」
フアナが言葉を失って父親を仰ぎ見る。父はただ目を見開き、かすかに震えながら盟友を凝視した。
「レオンとレイノの合流があまりにも遅い故、斥候を放ったところ、ガリア・アングル連合軍に……」
ビセンテが悔しげに絞り出す言葉にガルシアの唇が震え出す。
「……寝返りだと……」
「父上……!」
ギョームは死んだ。小さく弱い国々を団結させていた要ともいえる存在だった若獅子王は死んだのだ。なのに何故、自分に楯突くのだ? ギョームが死んでもなお、奴らが結束力を失わないのは何故だ! キリエ・アッサーか? 馬鹿な。あの小娘に人を動かす力があるというのか……! ぎりっと奥歯を噛み締め、口の中で呻く。
「……たわけが……!」
そして、かっと目を見開いた大鷲が吠える。
「有象無象どもがッ!」
軍を振り仰ぐと絶叫する。
「突撃だ! エスタドを裏切った奴らを許すな! 殺せ! 一人残らず殺せッ!」
その時。鬨の声に混じって「陛下!」と叫び声が上がる。
「陛下! ガリア・アングル連合軍に王軍が!」
斥候の叫びにガルシアが振り返る。
「前線に、キリエ王妃の姿が……! ガリア・アングル勢は王妃の姿に勢いを盛り返しております!」
ビセンテが息を呑んで振り返る。と同時だった。
「父上ッ!」
フアナの絶叫。周りの近衛兵を押し退けてガルシアを乗せた馬が飛び出す。
「陛下ッ!」
「やめて! 父上ッ!」
娘と宰相の叫びも耳に入らなかった。ガルシアは馬の腹を蹴り続け、疾走した。
そこにいるのか、修道女! 白兵戦を繰り広げる自軍の兵士らを掻き分けると、騎乗の騎士たちが一斉に槍を繰り出してくる。ガルシアは大剣を素早く抜くと槍を弾き返す。それでも襲いくる刃を悉く打ち返し、手綱を引くと軍馬が棒立ちになって相手の馬を蹴倒す。
「邪魔だッ! 下衆が!」
だが、すぐさま近衛兵らが追いすがる。
「おやめ下さい! 陛下! 危険です!」
「田舎娘に背を向けられるかッ! 馬鹿者!」
「陛下ッ……!」
ガルシアは兜のバイザーを上げると声を限りに叫んだ。
「戦え! エスタドの猛者どもよ! 世界はこれから変わるのだッ! おまえたちが変えるのだ! エスタドが全ての中心となる世界に! 戦え!」
王の咆哮に、エスタド軍の兵士らは熱狂的に奮い立った。
戦いは一昼夜続けられた。ガルシアもビセンテも、そしてフアナも一睡もすることなく戦場に立ち続けた。そして、翌朝は突然の雷雨が発生。両軍はやむなく戦いを中断した。
昼間だというのに激しい雷雨で夜のように暗い陣地で、フアナは廷臣たちが休むテントを訪れた。
「殿下……」
「ご苦労様。皆、しっかり休んで」
王太女の柔らかな笑顔に皆は心を癒され、穏やかな表情になる。一人一人に声をかけ、フアナは最後に宰相に囁きかけた。
「ビセンテ」
さすがにやつれた顔つきのビセンテが眉をひそめる。
「王太女……。少しでもお休み下さいませ。いつ状況が変わるか、誰にも予測できませぬ」
「私は大丈夫よ」
フアナは気丈にも微笑んでみせた。穏やかで優しい顔立ちのフアナには甲冑など似合わない。ビセンテは痛ましげに見つめた。
「……ビセンテ、聞きたいことがあるの」
フアナが声をひそめ、ビセンテは腰を屈めて耳を寄せる。
「あなたの意見が聞きたいの。……この戦況をどう思う?」
王太女の言葉にビセンテは胸を突かれた。思わず目を見開いて凝視する。フアナは哀しげな目で見返してきた。
「兵士たちも限界だわ。去年の暮れからずっと戦い続けているのよ。いくらユヴェーレンと連合を組んでいるとは言え、あちらは頭数が多い」
「しかし……、所詮寄せ集めの小国に過ぎませぬ」
「ビセンテ」
フアナは懇願するように囁いた。
「あなたから父上にお願いして。……退却するよう」
「フアナ様……!」
ビセンテは動揺して口走り、辺りに視線を走らせる。
「あなたにもわかっておいでのはず……! 陛下は……、絶対に退くようなお方ではございませぬ……!」
「わかっているわ。でも……、これ以上は無理よ」
テントを打ち付ける激しい雨音の中、二人は息を押し殺して見つめ合う。若い王太女は不思議な力強さを持った瞳で語り始めた。
「これ以上戦いを続けて大敗を喫することにでもなれば、エスタドは衰退の道を歩み始めるわ。そうはしたくないの……! 私たちは、百年先、千年先の国を守らなくてはならない!」
だが、ビセンテは蒼白になって顔を振った。
「……無理です。陛下を説得するなど……。今の陛下は、冷静に耳を傾けてはいただけません……!」
宰相の必死の囁きに、フアナは溜息をついた。やがて、顔を上げるとテントの扉から見え隠れする篝火をじっと見つめた。