ほの暗い寝室。広々とした室内には美しい調度品が品よく並べられ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。調度品に混じって、美しい装飾が施された揺り籠や木馬といった子どものための玩具も見受けられる。まるで宝箱のように宝石が散りばめられた箱には、かわいらしい人形が仕舞われている。箱の前に立ち尽くしているのは、幼い女児。女児がつま先立って箱の人形を取ろうとした時。
「キリエ」
振り返った先には、豪奢な寝台。そこに、若い貴婦人が背を枕にもたれさせていた。少し癖のある栗毛。わずかに青ざめた面立ち。寂しげな微笑。懐かしい、顔。貴婦人は細い腕を伸ばした。
「おいで」
キリエは嬉しそうに笑うとよちよちと歩み寄り、寝台によじ登る。
「いい子ね……」
優しく背を撫で、抱きしめられる。キリエはその温かさに胸がいっぱいになった。
「ははうえ」
娘の呼びかけにケイナは幸せそうな微笑を浮かべた。その時、扉が静かに叩かれる。二人が振り向くと同時に、男の声が響く。
「ケイナ、キリエ」
「ちちうえっ!」
キリエの声に男は満面の笑顔で歩み寄る。キリエは大はしゃぎで父親にしがみついた。エドガーはキリエの髪をくしゃくしゃと掻き撫でながら抱きしめた。
「大丈夫だ。母上はすぐに元気になる。それまで、いい子にしているのだぞ」
「はい!」
キリエは元気よく返事をする。そんな愛娘を愛おしげに抱きしめながら、エドガーは低く呟いた。
「キリエ、おまえは私のものだ。……誰にも渡さないぞ。誰にもな……」
そんな王の姿を、ケイナは黙って見守る。やがて、抱きしめられていたキリエが声を上げる。
「ねぇ、ちちうえ」
「うん?」
エドガーが眼差しを向けると、キリエは弾けるような笑顔で叫んだ。
「ちちうえ、だいすき!」
雨は一日中降り続いたが、夜になってからようやく雨脚が衰えてきた。この季節の雨は気温を一気に下げ、体力を奪う。ガリア・アングル勢の陣地では、闇を払うようにあちこちで篝火が焚かれていた。
陣地の中央では、主な廷臣、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団のヘルツォーク、同盟各国の指揮者たちがテントに集められ、作戦会議が開かれていた。
「奴らはしぶといが、勢いは衰えてきた。決定的な打撃を加えれば殲滅もできるだろう」
バラの言葉にジュビリーは顔を上げた。
「しかし、焦ってはなりません。殲滅するまでもなく、退却させればそれで良い」
「だが、それでは再び侵攻の可能性が……」
「これだけの打撃を与えたのです。再び体勢を整えるにも時間がかかるはず。それも、国民の理解があればです。もう……、戦う気力は残っていないでしょう」
それは誰しもが思っていたことだった。だが、状況はこちらも同じだ。バラは黙って頷いた。そんな中、テントの外が騒がしくなる。
「斥候が戻ってまいりました!」
その言葉に皆が一斉に立ち上がる。数人の斥候が寒さに顔を強張らせて入ってくる。
「どうだ、エスタドとユヴェーレンは」
「はっ。こちらと同様、将兵の多くが傷つき、疲弊しております」
斥候は弾む息を整えてから言葉を継いだ。
「そして……、かなり動揺が広がっております」
「……動揺?」
二人の宰相は思わず顔を見合わせた。
「どういうことだ」
「はっ……。自分たちを苦しめるガリアとアングル勢が勢いを弱めることなく戦いを挑んでくるのは、天の加護を受けているからではないかと、兵士らの間で動揺と混乱が……」
ジュビリーは顔をしかめて身を乗り出した。
「しかし、両国は共に信仰心が希薄だ。天の加護などをまともに取り合うとは考えにくい」
「それが」
もう一人の斥候が声を上げる。
「キリエ王妃が戦場で指揮を執ることで、我々が発奮したことが現実味を与えているようです」
その場の全員が思わず言葉を失う。戦場で軍旗を掲げ、兵士を鼓舞したキリエ。確かに将兵はそれによって奮い立ち、勢いを盛り返した。
「あの幼い女王が手傷を負うことなく戦場に立ち続けることができたのも、天に守られた〈聖女王〉だからではないかと、囁き合っています。クロイツに反抗し、〈聖女王〉と戦い続ければ自分たちに天罰が下るのではないかと不安が広がり、士官たちはその動揺を鎮めようと躍起になっているようです」
ジュビリーはゆっくりと頷いた。
「……もう少しだ」
その呟きにバラも顔を上げる。
「兵らが結束力を失えば、後は時間の問題だ。早いうちに何とかせねば」
「そうですな」
皆が疲労の混じった溜息を吐き出すと、思い出したようにジョンが声を上げる。
「女王陛下は?」
「テントでお休みに。サー・ロバート・モーティマーがついております」
側近の言葉にバラが眉をひそめる。
「王妃もお疲れだろう。弱音ひとつ仰せにならないが……」
ジュビリーは皆を振り返った。
「まだ戦いは続く。皆も今のうちにしっかり休んでほしい」
「はっ」
やがて、ジュビリーはキリエが休んでいるテントへ向かった。雨も小降りになり、テントの入り口では篝火が赤々と燃え上がっている。そこに、疲れた様子のモーティマーが座り込んでいた。
「モーティマー」
「侯爵」
慌てて体を起こす秘書官の肩を押さえ、しゃがみ込んで尋ねる。
「キリエは?」
「先ほど中を窺ったところ、お眠りになられています」
良かった。少しでも眠っておかなければ体力がもたない。ジュビリーは疲労が混じる息を吐き出した。そんな宰相を見てとると、モーティマーは辺りを見渡し、そっと囁いた。
「……侯爵、どうぞ中へ」
思わず目を上げるジュビリーにモーティマーは頷いた。
「……外は、私が見ておきます」
しばし無言で見つめてきたジュビリーだったが、やがて体を起こすとテントの幕を開いた。女王のテントは入り口の幕が二重になっている。二枚目の幕をめくり、中を見渡した時だった。ジュビリーはぎくりと体を震わせると石のように固まった。
テントの奥。簡素な細い寝台に横たわったキリエ。そのベッドの側に、白い人影が佇んでいる。ジュビリーは声も出せずに人影を凝視した。すると、人影は体を起こしてこちらを振り返った。
「……ケイナ様!」
ケイナは、ジュビリーの呼びかけに微笑んだ。二人はしばし無言で見つめあった。ケイナの慈愛に溢れた優しい瞳は、生前と変わらない。肩で揺れる柔らかな髪も、寂しげな微笑も。ジュビリーは哀しげに目を細めた。そして、彼女は娘に視線を落とすと愛おしげに髪を撫でた。キリエは母に髪を撫でられていることも知らず、寝息を立てている。戦場で目を血走らせて兵士を鼓舞していた昼間と違い、打って変わって安らかな表情。やがてケイナは腰を屈めるとキリエの前髪を掻き揚げ、額に唇を押し付けた。そして、煙が空気に溶けていくようにして姿を消した。
ジュビリーは、早鐘のように打ち鳴らされる胸を必死で抑えた。ケイナは、ずっと側にいたのだ。ずっと、キリエの側に……。
音を立てず、静かに寝台に歩み寄ると跪く。ほの暗いテントの中、兵士らのざわめきが遠い世界の出来事のように聞こえてくる。キリエの白い頬をそっと包み込むと、親指で撫でる。
思えば、二人でこんなに遠くまで来てしまった。教会へ迎えに行き、クレドで過ごし、イングレスで王位を宣言した。そして、海を越えてギョームの許へ嫁いだ。数々の試練を共に乗越え、信じ合い、慈しみ合ったギョームは志半ばで斃れた。
「……キリエ」
そっと呟く。
「おまえにとって私は……、平穏と幸せを奪った、悪魔か?」
口許が歪み、悔しげな息が漏れる。
「私さえいなければ……、こんなことには……!」
脳裏に、先ほど自分に微笑みかけたケイナの姿がよぎる。彼女は、自分を許してくれるだろうか。キリエを、こんな過酷な運命に翻弄させた自分を。
その時。キリエの懐から何かが地面に落ちる。ジュビリーが目をやると、それは祈祷書だった。自分の誕生日に作ってくれたカバーと揃いの祈祷書。ジュビリーは黙ったまま拾い上げようとして、眉をひそめた。祈祷書のページの間から、折り畳まれた紙が覗いている。思わずそっと取り上げると紙を広げ、ジュビリーは胸が張り裂けるような思いで言葉を失った。
その紙は、かつてキリエのために書いてやった家系図だった。キリエの母はケイナ。父はエドガー。ケイナの父はベネディクト……。
彼女は家系図に手を加えていた。自分とジュビリーを繋ぐ線を赤いインクでなぞっている。これは、自分とジュビリーを繋ぐ証明。ギョームに愛され、ギョームを愛してもなお、自分たちを繋ぐ証をずっと肌身離さず持ち続けていたのか。家族の存在を知り、もう独りじゃないと嬉しそうに語っていたキリエの笑顔が思い出される。
ジュビリーは覆いかぶさるようにしてキリエを抱きしめた。もう後戻りはできない。できることは、命に代えてでもおまえを守ることだけだ……!
かすかに震えながらキリエを抱きしめていると、そっと背中を撫でられた。顔を上げると、キリエがうっすらと目を開け、ぼんやりと見つめてくる。
「……ジュビリー……」
二人は黙って見つめあった。だが、二人の耳に不意にざわめきが飛び込む。
「……何?」
キリエの呟きに、ジュビリーはそっと体を起こした。それと同時に、テントの外からモーティマーの呼び声が響く。
「侯爵……!」
アングル軍の陣地は不穏なざわめきに包まれていた。キリエは胴衣にコートを着込みながら緊張で顔を強張らせ、テントを出た。
騎士たちがざわめく中、ひとつのテントへ導くように人々が道を開ける。キリエはごくりと唾を飲み込むと傍らのジュビリーを見上げた。宰相は黙って頷いた。背後に控えたバラやモーティマーらも緊張に顔を引きつらせている。キリエは意を決し、静かに歩みだした。
近衛兵が静かにテントの幕を開く。中には、数人の黒い甲冑に身を包んだ騎士。その中央に、一際目を引く小柄な騎士。だが、兜を脱いだその騎士は、流れるように美しく長い金髪の少女だった。その後ろ姿は、殺風景なテントの中にあって異様なほど輝きを放っていた。
キリエは息を呑んで立ち止まった。少女がゆっくりと振り返る。篝火に照らされ、赤く染まった頬。知的で穏やかながらも強い意思を感じさせる瞳。二人は、静かに見つめあった。
やがて少女は胸に手を添えると片足を引き、優雅に腰を屈めてみせた。
「……エスタド王太女、フアナ・イグレシアス・デ・エスタドと申します」
何故だか、その声を耳にしたキリエはひどく懐かしい思いに駆られた。会ったはずもない、大陸の王国の姫。だが、心の片隅にいつも存在していた。このお方が、フアナ王女……。ギョームが拒んだという、ガルシアの後継者。
キリエは少しだけ口許をゆるませると両手を胸で合わせ、片膝を突いた。
「アングル女王、キリエ・アッサー・オブ・アングルです」
二人は用意された椅子に静かに腰掛けた。アングルとガリアの廷臣らは、突然姿を現したエスタドの王太女に、険しい視線を送った。中でも、バラは顔を引き攣らせ、唇が絶えず震えている。見かねたジュビリーが「侯爵」と声をかけると、彼は気を落ち着かせるために大きく息を吐き出した。篝火がはぜる音が響く中、フアナが先に口を開いた。
「……突然の訪問をお許し下さい、女王陛下」
その言葉に、キリエは思わず微笑を浮かべた。
「驚きました。まさか……、あなたがここへいらっしゃるなんて」
フアナは少し寂しげに眉をひそめた。
「……父の目を盗んで、陣を抜け出してきました」
「どうして……」
周りの廷臣たちも息をひそめて固唾を呑んで見守っている。ジュビリーは険しい目でキリエの背を見つめた。
「これ以上、戦いを続けたくないのです。このままでは世界中に戦火が広がり、取り返しのつかない事態に陥ってしまいます」
「フアナ様」
キリエは穏やかに遮った。
「もう充分、取り返しのつかない状況です」
女王の冷静な声色に廷臣らは顔を強張らせた。フアナの背後に控えた騎士たちも鋭い視線を送り返してくるが、キリエは動じなかった。フアナは息をつくと目を伏せた。
「……仰る通りですわ」
しばしの沈黙。フアナはごくりと唾を飲み込むと静かに口を開いた。
「……未来のためです。女王陛下にお願いがございます」
「何でしょう」
キリエはまっすぐに視線を受け止めたまま促す。
「我が父は、敵に背を向けることを最大の恥としています。退却するぐらいならば、討ち死にを選ぶでしょう」
ジュビリーは目を眇めてエスタドの王女を凝視した。
「これ以上、犠牲者を増やさないために……。ご無理を承知でお願いいたします。陛下から、和平を持ちかけていただきたいのです」
思わずバラが身を乗り出し、「馬鹿な!」と声を上げるが、ジュビリーが腕を掴んで下がらせる。
「……アンジェ侯」
キリエが小さく呼びかけて頷く。そして、フアナに向き直る。
「それはできません。王太女殿下」
きっぱりと言い放つキリエに、フアナは哀しげに目を細める。アングルとガリアの廷臣らは半ば呆れた表情で顔を見合わせ、その場に動揺が広がる。
「私も戦争を続けるのは本意ではありません。しかし……」
キリエの声と表情が強張ったものへと変わってゆく。
「元を糾せば、あなたの父君が侵攻を企てたのが始まり。それを……、父君の性格を慮ってこちらから和平を申し出るなど。……私は、そんなに寛容にはなれません」
「陛下……!」
フアナは腰を浮かすと必死に呼びかけた。
「あなたの仰る通りです……! しかし、あなたは修道女のはず! 世界の平和のため……、未来のため! お願い申し上げます!」
「殿下」
キリエは目を閉じて俯いた。膝の上で握られた拳が震えているのに気づいたフアナは息を呑んだ。
「……私は修道女です。そして、女王であり、ギョームの妻です……!」
口許を歪めて囁く幼い「王妃」に、フアナの瞳も涙に揺れた。しばらくキリエは言葉を発することができず、押し殺した息を静かに吐き出した。長い沈黙の果て、小さな声で囁く。
「……ギョームを奪われたことは、一生忘れないでしょう」
フアナはただ黙ってキリエを見つめることしかできなかった。キリエは何度か大きく息をつくと顔を上げた。
「……和平には応じます。ですが、こちらから提案することはできません。あなたが……、父君にお願いして下さい」
相手がわずかに怯えた表情になったことに気づいたキリエは、そっと身を乗り出した。
「……ここへいらっしゃる勇気をお持ちのあなたならば、お出来になるはずです」
その言葉に、廷臣らは複雑な顔付きでエスタドの王太女を見つめた。
敵に背を向けることを絶対に認めないガルシアのために、そちらから和平を提案しろなど、到底受け入れられるはずもない。だが、身の危険を顧みず、わずかな供を連れて敵陣の許を訪れたフアナの勇気は、認めざるを得ない。
重苦しい沈黙が続く中、キリエは少しだけ表情をゆるめると、フアナに目を向けたまま首を巡らした。
「クレド侯」
「はっ」
「フアナ様と二人でお話がしたいわ」
廷臣らは思わず身を乗り出し、フアナの周りを固めるエスタドの騎士たちも目を剥いた。だが、フアナ本人は口許をほころばせた。
「私も、お話がしたいです」
「しかし……」
ジュビリーはちらりとフアナを見やった。甲冑は身につけてはいるものの、武器は装備していない。エスタドの騎士が腰を屈めてフアナの耳許で囁く。
「……
「
その様子を見たジュビリーは、小さく頷くと廷臣らに目配せした。バラはまだ不審げな目つきでフアナを凝視していたが、やがて廷臣やエスタドの騎士らはテントを退出していった。
二人きりになり、テントの外も静かになったため、篝火の爆ぜる音がやけに響く。キリエとフアナはしばらく見つめ合った。
「……私と……」
キリエが先に口を開き、フアナは居住まいを正した。
「私と、二人でお話をするために、いらっしゃったのでしょう?」
キリエの言葉にフアナは嬉しそうな表情を見せた。
「……はい」
「そのために、危険を冒してまで……」
「あなたほど、勇気はありません」
フアナは恥じ入るように目を伏せた。そこで会話が途切れてしまい、気まずい沈黙が続く。キリエが居心地悪そうに目を伏せた、その時。
「ずっと……、不思議でした」
「え?」
目を上げると、フアナは穏やかに微笑んで見つめてきた。
「十二年もの間教会で育ってきたあなたが、その若さで人を動かし、国を動かしたことが……、ずっと、不思議でした」
その問いについては、キリエは思わず顔をほころばせた。
「私も、不思議でなりません。今でも、自分が女王であることが信じられません。でも、ひとつだけ言えることは、人を動かせたのは私一人の力ではないということです」
そして、遠慮がちに付け加える。
「あなたも……、女王におなりになれば、おわかりになると思います」
フアナは頷くものの、どこか苦しそうな表情で目を伏せた。
「……父は違います」
キリエはまっすぐフアナを見つめた。
「父は……、自分ひとりで、全てを動かしています。それでも、私は父を尊敬しています。父を、正しいと思っています。父が大陸の統一を願っている以上、私はそれを支えなければなりません」
「お父上ですもの、当然ですわ」
キリエの言葉にフアナは眉をひそめて顔を上げ、そして息を呑む。そこには、鋭い目で見つめてくる女王の姿があった。
「……あなたが父君を敬い、父君の偉業に協力するのは、親子として当然です。でも、私はそれを阻止しなければならない。……それが、私の使命です」
そして、キリエは哀しげに目を逸らして呟いた。
「……それが、夫の遺志です」
夫という言葉に、フアナは眉をひそめた。目の前の小さな少女は、膝の上で拳を握りしめ、黙り込んでいた。フアナは溜め込んだ息を吐き出すと、背を正した。
「……キリエ様。あなたに、お聞きしたいことがありました」
「何でしょう」
フアナは一瞬の間を置いて、おずおずと切り出した。
「……ギョーム王陛下は、どんなお方でしたか」
キリエははっと目を見開いた。フアナはふっと微笑んだ。
「……ご存知のように、私は過去にギョーム王に婚約を拒まれました」
「……フアナ様」
「でも、一度だけでもお会いしたかった。……ガリアの、若獅子に」
その言葉を耳にしたキリエは、初めて動揺を見せた。目を見開き、唇がかすかに震えている。フアナは寂しそうに微笑を浮かべた。
「本当に……、不思議なことばかりです。最初はエドワード王太子と婚約していましたが、彼も一度も会うことなく、身罷られてしまった。……あなたの、兄君です」
キリエは黙って頷いた。
「あの頃はまだ幼くて、政治的なことは何もわかりませんでした。それでも、何年か手紙をやり取りして、心を通わせたつもりです。それが……、十歳という幼さでお亡くなりになるなんて……」
そこで言葉を切ると、フアナは少し首を傾げてキリエを見つめた。
「あなたは、エドワード様には……」
口を開くことができず、顔を横に振る。キリエにとってもエドワードは、兄弟の中でも唯一人会うことができなかった兄だ。そして、兄に手をかけたのは……。
「そのすぐ後です。ギョーム様との縁談が持ち上がりました。たくさんの人からお話をお聞きしました。……美しい金髪碧眼の少年。心優しく、人民に慕われた文武両道の〈ガリアの若獅子〉。どんなお方なのだろう。そんな素敵なお方と結婚できるかもしれない。一度お会いしてみたい。……あんなに胸が弾んだことはありませんでした」
フアナは一度口をつぐみ、そして小さく言い添えた。
「……恋をしたんだと思います」
そして、瞳が涙で揺れる。
「でも、ギョーム様は私を拒みました。……エドワード様にも先立たれ、ギョーム様にも拒まれて……、私、とても哀しかったです。……父の役にも、立てなかった」
「フアナ様」
思わず震える声で呼びかけ、キリエは顔を隠すように俯いた。呼びかけたものの、キリエは何をどう口にすればよいかわからなかった。今までフアナの気持ちを想像したこともなかった。彼女も自分と同じ。親や国に翻弄されながらも、ほのかな恋心を胸に秘め続けてきたのだ。彼女の思いを、受け止めねば。キリエは、唇を湿して口を開いた。
「……ギョームは」
ぎゅっと拳を握りしめて囁くキリエに、フアナは静かに耳を傾けた。
「とても、優しい人でした。私を、本当に大事にしてくれて……、温かで、ひたむきで、情熱を持った人でした」
たどたどしいキリエの言葉に、フアナは嬉しそうに微笑を浮かべながら頷く。
「私、彼の優しい笑顔が大好きでした。でも……、今思えば、出会った頃の笑顔は、仮面だったのです」
「仮面?」
フアナは眉をひそめ、キリエは静かに頷いた。
「他人の視線から身を守るための仮面だったのです。でも、一緒にいるようになってから、変わっていきました。私を守るための笑顔に、変わっていったのです。……私、幸せでした」
最後の言葉が涙で震える。フアナはどこか満足したような表情で見つめてきた。
「私が想像したままの、素敵なお方だったのですね」
キリエは黙って頷き、そして躊躇いがちに口を開いた。
「一度だけ……、彼の口からフアナ様のお名前を聞きました」
「……え?」
彼女はどきりとして息を呑んだ。
「自分は、フアナ王太女との婚約を拒んだのではない。エスタドとの同盟を拒んだのだ、と」
キリエの言葉に、フアナの目が大きく見開かれる。幼い王妃はただ黙って見つめ返してくる。しばらく二人は息をひそめて見つめ合った。そして、フアナは溜め込んだ息を吐き出すと、小さく囁いた。
「本当に……、優しいお方ですね」
フアナは、自分の言葉で心が満たされた。そう確信したキリエは自然と笑顔になった。二人は、静かに微笑み合った。