三人は馬車に乗り込むと、一路グローリアの城に向かった。キリエは緊張に顔を強張らせたまま、黙りこくって馬車に揺られている。窓からそっと外を見上げると、住み慣れた教会がどんどん遠ざかってゆく。
しかし、今思えば確かに自分は教会で奇妙な扱い方をされていた。村の中央に位置する教会にいながら、キリエは教会を出て村を訪れることも許されていなかった。年に一度、秋の収穫祭に参加することを許されていただけだ。他の修道士や修道女は、積極的に村に出て奉仕活動をしていたというのに……。それが許されていなかったのは、自分がまだ幼い故だと信じきっていたのだ。それが今、自らの出自を聞かされ、強引に教会から連れ出され、まったく見知らぬ土地へと連れて行かれようとしている。キリエは、孤独と不安で押し潰されそうになった。
「……キリエ様」
キリエの緊張を解こうと、ジョンが優しく声をかける。
「その……、指輪はずっとそうやってネックレスに?」
問われてキリエはおずおずと顔を上げる。
「……司教様が……、私を拾った方がくれたものだと仰って……。大事に持っていなさいと……」
「なるほど」
「……まさか、そんな指輪だったなんて……」
泣き出しそうな声でキリエがそう呟き、ジョンは気の毒そうに眉をひそめる。
「大丈夫ですよ。その指輪はこれからあなたの立場を守って下さるものです」
キリエは、ジョンの隣に視線を向けた。黒衣の伯爵は小さな窓から流れゆく風景を見つめている。その表情は相変わらず冷たい。
「グローリア城までもう少し時間がかかります。どうぞ楽になさってください。……ベネディクト様も心待ちにしておられます」
つい先ほど初めて聞いた祖父の名前。今まで天涯孤独だと思っていたキリエは激しく心が乱れていた。ケイナ・アッサー。ベネディクト・アッサー。そして、ジュビリー・バートランド。母親だ、祖父だ、遠縁だと言われても、あまりにも突然のことで理解できない。自分は、一体何者なのだ?
キリエはそっと窓から外を眺めた。木々の間から、遠くに家々がぼんやりと見える。やがてそれらの数が目立ってくる。教会を出て一時間ほど経っただろうか。やがて道は幅が広くなり、辺りの雰囲気が変わったことに気づいた。
「着いたぞ」
今まで沈黙していたジュビリーが短く言い放つ。キリエが少し身を乗り出すと、石造りの城が立ちはだかっているのが見える。灰色の堅牢そうな石壁。主塔には青い蝶が描かれた紋章旗がはためいている。
しばらく馬を走らせると、やがて馬車は城門をくぐり、中庭へと入ってゆく。中庭には兵士と思しき男たちや従者たちが大勢忙しなく走り回っている。そして、馬車に気づいた者たちが馬車から顔を覗かせている少女を見つけ、口々に何かを言い合っている。ジュビリーはそれに気づくとすぐに窓のカーテンを引いた。キリエは、今までに見たこともない人の多さに再び恐怖心が頭をもたげてきた。
騒がしい中庭を抜けると、ようやく馬車は停まった。ジョンが手を添えて降ろすと、キリエは恐々と辺りを見渡した。ロンディニウム教会など比べ物にならないほど巨大な城が目の前に屹立している。それだけでも、キリエの恐怖心は頂点に達した。
やがて、塔の門からたっぷりとしたローブをまとった男が、数人の騎士を従えてやってくる。
「ありがとうございます、クレド伯」
ローブの男が一礼する。五十代半ばほどに見えるこの男は、キリエに視線を移すと恭しく跪き、彼女の右手を取る。
「レディ・キリエ。ご無事のご帰還、何よりでございます。グローリア城代家令フランシス・レスター男爵にございます」
レスターはしっかりした体格で、灰色の髪。奥まった目から探るようにキリエを見つめてくる。そして、少し感慨にふけるような口調で呟く。
「……大きゅうなられましたな」
わずかに首を傾げるキリエに、横からジュビリーが声をかける。
「レスターは、おまえの祖父の腹心だ」
「……おじい様の……」
「幼い頃のレディ・ケイナにそっくりでございます。ご立派になられましたな」
レスターの口ぶりでは、幼い頃の母を知っているらしい。キリエは目の前で跪く老臣をじっと見つめた。
「ベネディクトは」
ジュビリーが低い声で尋ねると、レスターは顔をしかめた。
「……今夜が山ではないかと」
それを耳にしたキリエは怯えた表情でジョンを振り返る。
「慌てないで、キリエ様。こちらへ」
ジョンがキリエの手を引き、中へ進む。
城の中はひんやりとしており、静まり返っていた。まだ昼過ぎだというのに薄暗く、陰鬱な空気に満ち満ちている。時折侍女たちが黙って急ぎ足で通り過ぎる。鮮やかな赤い絨毯が広い通路に敷き詰められ、暗い塔の中でぼんやりと浮かび上がる。
壁には甲冑や武器、防具が整然と並べられ、時折城主の家族らしき肖像画が掛けられている。キリエはそれらを見上げながら、歩みを進めていった。
「……
ジョンが前をゆくジュビリーにそう呼びかけ、キリエは少なからず驚いた。ファミリーネームが違うが、兄と呼ぶということは……?
「クレドの軍に準備をさせましょうか」
「そうだな」
ジュビリーが呟く。
「明日の朝にはここへ到着させろ」
「はっ」
ジョンが振り返ると、レスターが頷いて踵を返す。その様子を目で追っていたキリエが、立ち止まったジュビリーにぶつかりそうになって慌てて前に向き直る。
「兄上」
通路の先から若い女性の声が聞こえる。キリエがジュビリーの背から覗き見ると、貴族の令嬢と思しき女性がこちらへ小走りにやってくる。美しい黒髪を綺麗に結い上げ、凛とした端正な顔つきをしている。
「マリーエレン。来ていたのか」
「こちらから使いが参りまして……」
「……悪いのか」
ジュビリーの問いにマリーエレンは固い表情で頷く。そして、キリエに気づくと顔の表情を和らげた。
「レディ・キリエ・アッサーでございますね?」
「あ……、あの」
マリーエレンは跪いてキリエの右手に口を付けると微笑んだ。穏やかな顔つきの女性が現れただけで、キリエの気分はずいぶんと落ち着いた。
「マリーエレン・バートランドと申します。ジュビリーの妹にございます」
そして、懐かしそうに囁く。
「……そっくりですわ、ケイナ様に」
彼女も母を知っている。キリエは思わずじっとマリーエレンを見つめた。
「お疲れでしょうが、このままベネディクト様のお部屋へ……」
「は、はい」
一行は再び城内を行き、やがて塔の最奥部へと到着した。
「…………」
部屋から医者らしい老人が出てくると、黙って一行を中へ招き入れる。部屋の奥には天蓋付きの寝台が置かれ、そこに数人の従者が佇んでいる。昼の陽光を遮る厚いカーテンから光が一筋部屋に伸びている。寝台には、六十代後半と思しき老人が横たわっていた。従者たちはキリエたちに気がつくと黙って寝台から離れた。
「キリエ様」
マリーエレンがそっと呟き、キリエの手を握った。キリエはマリーエレンの手をぎゅっと握り返し、そっと寝台へと近づいた。
老人はかすかに喘ぎながら呼吸を繰り返していた。灰色の髪が汗で額に張り付き、刻み込まれた深い皺が痛々しい。痩せた顔を取り巻く髭は伸び放題に伸び、細い首に無力に垂れている。
「……ベネディクト様」
マリーエレンが耳元で囁く。
「キリエ様でございますよ。ずっとお会いになりたがっていた……、キリエ様です」
「…………」
ベネディクトはうっすら目を開けた。マリーエレンがキリエの顔を見上げ、キリエはおずおずと顔を祖父に近づけた。
「……おじい様……」
その小さな声で、ベネディクトの瞳が輝く。何度か瞬きをするとゆっくり顔を巡らせ、キリエを見つめる。
「……ケイナ」
ベネディクトの乾いた口から出た言葉は、孫ではなく娘の名前だった。
「……ケイナ……。わしのケイナ……!」
「ベネディクト様……! ケイナ様ではございません。お孫様の、キリエ様ですよ!」
マリーエレンの呼びかけでベネディクトは顔をしかめ、まじまじとキリエを凝視する。すると、ジュビリーがキリエの背後までやってくると囁いた。
「……ベネディクト。あなたが十二年前、ロンディニウム教会に預けたキリエだ。あなたに会いに来たのだぞ」
「……キリエ……、キリエ、おまえなのか……?」
「おじい様」
キリエは思わずベネディクトの手を両手で握った。やせ細った手は、見た目からは信じられない力で握り返してきた。そして、ベネディクトの目から大粒の涙が溢れ出る。
「キリエ……! お……、大きくなったな……! 会いたかったぞ……! 許してくれ……! おまえには……、何もしてやれなんだ……。許してくれ……!」
キリエは顔を振ると、ベネディクトの首に腕を回すと抱きしめた。初めて会う祖父。これが血の絆なのだろうか。こみ上げてくる懐かしさで胸が一杯になる。そして、ひたすら許しを請う祖父が哀れでならなかった。
「キリエ……。ケイナは、おまえの母親は、おまえを心から愛していた……。おまえが争いに巻き込まれぬようにと、教会へ預けるようわしに言い遺して死んでいった……。わしは……、でき得る限りおまえを守ろうとした。だが……、それも限界だ」
「…………」
限界。その言葉を耳にしてキリエは顔を上げた。ベネディクトは力のこもった瞳でキリエを見つめた。
「おまえは……、わしの後を継ぐのだ。今からおまえは、このグローリアの領主、グローリア女伯爵だ。……これから先のことは、バートランドと……、レスターに任せてある」
「……伯爵様……」
「そうだ。彼らは何があってもおまえを守る。わしも……、天からおまえを見守る」
「おじい様!」
ベネディクトの表情が歪む。ぜいぜいと喉を鳴らし、震える声で囁く。
「……おまえには……、これから過酷な運命が待っている……。だが、決して……、くじけてはならん……! おまえのためにも……、アングルのためにも……!」
アングルのために。その言葉がキリエの胸に突き刺さる。やがてベネディクトは呻き声を上げて咳を繰り返し、従者たちが慌てて周りを取り囲む。
「もうこれ以上は……」
医者も厳しい顔でジュビリーを見上げる。ジュビリーは頷くとマリーエレンに目配せする。
「キリエ様、おじい様を休ませてあげましょう。こちらへ……」
「ま、待って……。まだ聞きたいことが……」
マリーエレンが医者を振り返るが、医者は険しい顔つきで頭を振る。マリーエレンは辛そうにキリエの手を引く。
「待って! おじい様!」
従者たちが数人がかりでキリエを部屋から連れ出す。
「…………」
喘ぐベネディクトを、ジュビリーが見下ろす。息を整えたベネディクトは顔を歪め、ジュビリーを見つめる。
「……これで、良いのだな……? 本当に、これで……」
ジュビリーは黙ってベッドの淵に跪き、ベネディクトの顔に耳を近づける。
「これで……、おまえの思い通りになった……。だが、忘れるな……! キリエは……、キリエは……!」
「わかっている」
ジュビリーが囁く。
「キリエは、私の命がある限り守り続ける。……約束する」
ベネディクトは苦しげな表情でジュビリーを凝視するが、やがて頭を再び枕に沈めた。
「マリーエレン様、おじい様は……」
廊下を進みながら、キリエが不安そうに訴える。すると、マリーエレンが真顔で振り返る。
「いけません、キリエ様。あなたはこれから女王になられるお方。私などを敬称で呼んではなりません」
キリエは泣き出しそうな顔つきで立ち尽くした。
「ほ、本当に……、私が女王になれると……? 本当に、そう思っているのですか? おかしいわ……。皆どうかしてるわ……!」
「キリエ様……」
マリーエレンは困ったように溜め息をつくと膝を曲げ、視線を合わせる。
「……無理もありませんわ……。十二年もの間、何も知らずに教会で過ごしていらっしゃったのだもの……。でも、アングルは今、あなたを必要としているのですよ。アングルの未来は、あなたにかかっています」
「そんなの、知りません……! 教会に帰らせて……!」
マリーエレンがどうしたものかと困惑していると、背後からジョンが呼びかけてくる。
「マリー様」
「ジョン……」
困りきった表情のマリーエレンと、涙ぐんで顔を強張らせているキリエの顔を交互に見やると、ジョンも眉をひそめて溜息をつく。
「キリエ様……」
「お、おじい様は心配だけど、でも、私、女王になんかなりません……!」
ジョンも腰を屈めるとどこか必死な表情でキリエに言い含める。
「まだキリエ様にはお話していないことがたくさんあります。あなたにご納得いただけるよう、今から義兄が説明させていただきます。ですから……」
あの冷たい表情をした伯爵から何の話があるというのか。キリエは目に涙を溜めたまま俯いた。そこで、マリーエレンがそっとジョンに囁く。
「ジョン、あなたもクレドへ帰るの?」
「ええ、マリー様もご一緒にクレドへお帰りになるようにと、義兄上が仰せです。クレドで軍を整え、明日王都へ向かいます。マリー様にはクレド城をお頼みします」
「軍?」
キリエが不安そうに問いかけると、ジョンは笑って答える。
「ご安心ください。イングレスへ攻め込むわけではありませんよ」
「では、ここも城の守りを……」
「そうですね」
二人のやりとりを聞き、キリエは不思議そうな顔で問いかけた。
「……マリーエレン様は……、ジョン様の奥様なのですか?」
「えッ?」
途端に二人がびっくりして振り返り、ジョンが顔を真っ赤にしてまくしたてる。
「ち、違います! な、何を仰いますっ!」
「だって、マリーエレン様は伯爵様の妹君でしょう……」
ジョンがジュビリーを兄と呼んでいることを指摘するキリエに、マリーエレンが苦笑する。
「違うのですよ、キリエ様」
そして、少しだけ寂しげな表情で続けた。
「ジョンは……、兄の亡くなった妻、エレオノール様の弟なのです」
「えっ……?」
思いも寄らなかった言葉に、キリエは思わず絶句する。あの伯爵に、妻が。もちろんあり得ない話ではないのだが、ずいぶん意外な感じがした。しかも、すでに亡くなっているとは。
「……もう八年も前のことです」
少し遠くを見るような目つきでジョンが呟いた。ほんの少しの間、思い出に浸るような表情を見せるが、すぐにまた笑顔を見せる。
「それより、キリエ様。私のことはどうぞジョンとお呼び下さい。私など、田舎の子爵に過ぎません。もちろん、キリエ様が女王に即位されてからも、ずっとお仕えする所存です」
「でも……」
「そうですよ。あなたは女王になられるお方なのですから」
マリーエレンも先ほどのことを繰り返した。
「私のことはマリーとお呼び下さい。今からクレドへ帰らねばなりませんが、キリエ様の身の回りのことはこれから私が全てお引き受けいたします」
キリエは恐る恐る二人の顔を見比べた。ジュビリーと違って穏やかで柔らかな表情の二人に見つめられ、キリエは小さく頷く。そして深々と頭を下げ、どもりながら囁く。
「よろしくお願いします。……ジョン、マリー」
ジョンとマリーは顔を見合わせ、微笑んだ。
何とか気を落ち着かせたキリエを部屋へ連れて行く途中、マリーエレンが不意に足を止めた。壁に掲げられた一枚の肖像画を見上げるとキリエに指し示す。
「キリエ様。このお方があなたの母君、レディ・ケイナ・アッサーですよ」
「えっ」
言われて慌てて見上げる。そこには、上品な深いワイン色のガウンをまとい、ブーケを手にした若い女性が描かれていた。わずかに切れ長な瞳。微笑が浮かぶ唇。キリエと同じ、濃い栗毛。病弱にも見える、雪のように白い肌。確かに、キリエにもその面影がある。
これが、自分の母親……。今まで想像もできなかった母の姿。それが突然、こんな形で会おうとは。高名な画家の手によるものなのか、格調高い気品ある画風にキリエは思わず息をひそめて見つめた。
「……二五歳でお亡くなりになりました。キリエ様は、まだ二歳でいらっしゃいました」
二五……。キリエは思わず息を呑んだ。そんな年齢で、この世と別れを告げたのか。まだ幼すぎる娘を遺しての旅発ちは、どんなにか辛かっただろう。
「……マリーは、母をご存知ですか?」
「はい。お綺麗で……、静かなお方でした。キリエ様はよく似ておいでですわ」
上目遣いで母の肖像を見つめるキリエに、マリーがそっと肩に手をかける。
「私たちの領地は隣り合っていたので、よく遊びに来たものです。まるで、お姉様のようによく面倒を見ていただきました。私たちは幼い頃に両親を亡くしていましたから……」
マリーの懐かしさを噛み締める言葉に、キリエは思わず彼女を見上げる。そして、そっと肖像画を振り返る。絵の中の母は、心なしか寂しげに見えた。
夕方にマリーとジョンがクレドへ向かった後、キリエは部屋で夕食を出された。
「おじい様の容態は?」
「残念ですが……、よくありません」
侍女は暗い表情で短く答える。他にも色々聞きたいことがたくさんあったが、暗い表情の侍女にはそれ以上声をかけられず、また、侍女が答えられるかも疑わしかった。黙って食事を口に運んでいると、扉を静かに叩かれる。
「伯爵」
伯爵と聞いてキリエは思わず手が止まる。静かに入ってきたジュビリーは、立ち上がろうとするキリエを手で制する。
「少し外せ」
その一言で侍女は黙って部屋を退出していった。
「明日、夜明けと共にイングレスへ向かう」
相変わらず冷たい表情のまま、ジュビリーが言い放つ。
「クレドとグローリアの軍と共にプレセア宮殿へ入城し、王位の宣言を行う。おまえの出自を確認する作業があるだろうが、問題ないはずだ」
「ま、待って下さい」
キリエが青ざめた顔で口を挟む。
「お、王位の宣言って……、わ、私がですか?」
「おまえがしなくてどうする」
「ほ、本気なのですか。私が、女王になれると、本気でお考えなのですか?」
口ごもりながら問いかけるキリエに、ジュビリーは辛抱強く、ゆっくりと言い含めた。
「心配するな……。おまえが明日、王位を宣言したとしてもすぐ女王になれるわけではない。戴冠しなければ国民や議会から王位を継承したとは認められない。戴冠権を持っているのは、クロイツのムンディ大主教だ。イングレスの聖アルビオン大聖堂で戴冠式を挙げて、初めて女王に即位することができる」
ムンディ大主教。
プレシアス大陸及びアングル島で広く信仰されているヴァイス・クロイツ教の総本山、聖都クロイツの支配者。ムンディ大主教は精神世界における事実上の支配者だ。キリエはまさか大主教の名が出てくるとは予想しておらず、目を見張った。
「……大主教……」
ロンディニウム教会のような田舎の小さな教会にいては、一生拝謁の栄に浴することはないであろう人物。キリエは、ようやく自分の置かれた状況を理解し始めた。
「まずは王位の宣言を行い、国民と議会から支持を得た後にクロイツへ戴冠を要請することになろう」
「で、でも、私は修道女です!」
我知らず叫ぶキリエ。だが、ジュビリーの冷たい目に射すくめられ、恐れの表情が一段と増す。
「私は……、一生を神に捧げる誓いを……、修道誓願を立てた身です。祖父の後を継いで爵位を相続したり、その上、君主になろうなど……、大主教がお許しになるはずがありません……!」
「……それはどうかな」
思わぬ言葉にキリエは眉をひそめる。ジュビリーは腰を屈め、キリエの耳元で囁く。
「ムンディはむしろ、おまえがアングルの君主になることを望むだろうな。プレシアス大陸の強国、エスタドのガルシア王はヴァイス・クロイツ教を蔑ろにし、大陸の覇権を握ろうとしている。ムンディは、ヴァイス・クロイツ教の修道女であるおまえがアングル女王になることでエスタドを牽制できると期待するだろう。ムンディにとって悪い話ではない」
「そんな……」
思わず涙ぐむと、キリエは両手で顔を覆った。自分の信仰の指導者が、そんな政治的駆け引きを望むなど、認めたくなかった。世界は、自分が予想していたよりももっと醜く、恐ろしいものなのか。
「……キリエ」
ジュビリーが更に言葉を続ける。
「……おまえにとっては受け容れ難いことばかりだろう。だが、時間がないのだ。早くしなければ、ガリアから冷血公が舞い戻る」
冷血公の名を聞いてキリエは体を震わせた。
「奴の悪評はおまえも耳にしているはずだ。あの男が王になれば……、間違いなくこの国は滅びる。それを止めることができるのはおまえだけだ」
「…………」
キリエは恐る恐る顔を上げ、不安に満ちた目をジュビリーに向ける。
「待って。では、ルール公は、私の……」
ジュビリーは険しい顔で頷く。
「異母兄だ」
一瞬、部屋に冷たい空気が張り詰める。キリエはかすかに体を震わせた。だが、そんな彼女にジュビリーは更に追い討ちをかけた。
「それだけではない。王位継承権を持つ者は他にもいる。レノックス・ハートがガリアで戦っている相手……。王太子ギョーム、彼もだ」
「えっ……!」
「彼はガリア王リシャールと、王妃マーガレットの嫡男だ。マーガレット王妃はエドガー王の妹。つまり、アングルの王位継承権とガリアの王位継承権、どちらも保持している。おまえにとっては、従兄にあたるわけだが」
なんということだ。キリエは呆然とした。プレシアス大陸の覇権をかけた戦いの渦に、今から自分は身を投じようとしている。だが、それでもまだ、自分のことではないような感覚がどこかにあった。これは、どこか遠い異国の話。自分はその物語を聞いているだけ……。
「レノックス・ハートを君主にするわけにはいかん。とは言え、異国の王太子を君主に迎えることも避けねばならん。おまえが女王になれば、アングルが望む未来になる」
ジュビリーはそこまで語り終えると、キリエの疲れきった表情に気づき、そっと肩に手をかける。
「……疲れただろう。食事を済ませたら早く休め」
キリエは無言で頷くが、その瞳は空ろだった。
今日という一日は、自分にはわからないことの連続だった。精神的にも肉体的にも疲れきっている。考えなければならないことが多すぎる。そして、考えてもわからないことだらけだ。
ジュビリーの言葉が脳裏に蘇る。彼は自分を女王にすると言った。遠縁だとも言った。つまり、自分を女王にして、彼は宰相になるつもりか。ヴァイス・クロイツ教では、十八歳に達して初めて成人と認められる。キリエはこれまで孤児として育てられてきたため誕生日がわからず、聖ロンディニウムの祝祭日である六月十日を誕生日の代わりに祝ってきた。つまり、今月十四歳になったばかりだ。成人までには四年ある。四年もあれば、この国を手中に入れられる。
自分が今まで知らずにいた世界が、自分を中心に動こうとしている。そのことにキリエは怯えながら、疲れを癒すためではなく、現実から逃避したいがために寝床へと就いた。