その頃、イングレスへ向かう馬車には、二人の裏切り者が乗り込んでいた。
「ひっひっ! いくら頂戴したんです? 司教様!」
後ろの車内からボルダーの間延びした声が返ってくる。
「二千スターリングだ。さすがルール公だ」
「そりゃすげぇ!」
とは言え、その内の何割が自分の懐に入ってくるかをすでに考えているウィルキンスは、上の空で馬を御していた。
「可愛そうな娘たちだ」
だらしのない笑みを浮かべ、ボルダーは呟いた。
「だが、私が悪いんじゃない。私は自分の身を守っただけだ。権力争いなどに巻き込まれるつもりは毛頭ないからな……」
金貨の詰まった皮袋を愛しげに撫で、陰険な顔に下卑た笑みが浮かぶ。その時、ウィルキンスの目に土煙を上げて駆けてくる馬が飛び込む。
「!」
目を眇めると、武装した騎士が馬を操っている。華奢な騎士は、体に不釣合いな大きい
「ひッ……!」
慌てて手綱を引き、迂回しようとするが、騎士はパイクを振りかざすと馬車に突進し、ウィルキンスの胸を貫いた。
「−−ぐぁ!」
くぐもった呻き声を上げ、ウィルキンスは御者座から地面に叩きつけられた。
「ウィルキンス?」
ウィルキンスの叫びを聞いてボルダーが窓を開けようとした時。首筋を冷たい手が撫で、ボルダーは悲鳴を上げて振り返る。そして、息を呑み、顔を引きつらせて狭い車内で後ずさった。
「……ろ、ロレイン……!」
目の前に、殺したはずのロレインが蒼白の顔で睨みつけてくる。修道女のローブは血で染まり、血が滴る手がゆっくりとボルダーの顔を指差す。
「……神の裁きを受けるがよい」
地獄の底から響いてくるかのようなロレインの低い囁きに、ボルダーは声にならない喚き声を上げ、扉を蹴破って外へ転がり落ちる。そして腰を抜かして体を起せないでいると、騎士がゆっくり馬を歩ませてくる。
「お、お、お助けを……!」
ボルダーが狂気じみた声で叫ぶが、騎士は無言でパイクを振りかぶり、ボルダーの胸に突き立てる。ボルダーは一声甲高い悲鳴を上げると絶命した。
ジョンは兜を脱ぐと、二人の背徳者を見下ろした。そして、倒れたボルダーの脇に転がっている黒い皮袋をパイクで突くと、中からくすんだ黄金色の金貨が流れ落ちる。無表情でその鈍い輝きを凝視すると、やがて無言で馬首を巡らし、その場を走り去った。
ドビーの屋敷から馬を走らせること二時間。グローリア伯領の深い森に入ったところで、ジュビリーは馬から下りた。
「……キリエ……」
まだ青い顔をしているキリエの名を呼ぶ。そして、その時初めてキリエの両手が縛られていることに気づき、腰の短剣を抜く。戒めを解くと、キリエがわずかに声を上げる。
「キリエ」
ジュビリーが顔を寄せ、再び呼びかける。
「キリエ、しっかりしろ。キリエ」
「…………」
呼びかけにキリエは顔を歪ませると、ゆっくり瞼を開く。焦点の合わない虚ろな瞳がぼんやりとジュビリーを見つめる。その目がゆっくりと彼の顔の輪郭を捉える。そして、「男」の顔だと理解したキリエはにわかに頭の中が冴え渡り、恐怖で顔を引きつらせた。
「いやーッ!」
耳を劈く悲鳴を上げるとジュビリーの顔を押しのけ、腕を放そうともがく。
「や……! いや……! やめ……! やめて……!」
「キリエッ!」
突然暴れだしたキリエに驚き、ジュビリーが腕を押さえつける。
「キリエ! 落ち着け! 私だ! キリエ!」
聞く耳を持たず、もがき続けるキリエをレスターがジュビリーから引き離す。瞬間、我に返ったキリエは、地面に転がっている短剣を目にすると咄嗟にそれを掴み、喉に向ける。
「やめろッ!」
ジュビリーが腕をねじ上げると短剣を叩き落す。短剣を奪われたキリエは両手で顔を覆うと泣き崩れた。
「こ、殺してッ……! 今すぐここで殺してッ……!」
瞬間、ジュビリーの体が硬直する。
(殺して! あなた……! 私を殺して……! お願い……! 私を殺してッ……!)
あの日、投げかけられた言葉。妻の怯えた目。狂気に満ちた叫び声。彼は顔を歪めると我を忘れて叫んだ。
「馬鹿者ッ! 自分から命を捨ててどうするッ!」
ジュビリーの怒鳴り声に悔しげな表情で顔を歪ませ、涙をぼろぼろと零しながらキリエは消え入りそうな声で囁く。
「私のせいで……、ロレイン様が殺されてしまった……。私は、生きていてはいけないんだわ……! う、生まれてこなければ、よかった……!」
「キリエ!」
ジュビリーは項垂れるキリエの顔を両手で上げると、正面から怒鳴りつけた。
「どんなに絶望しても、生きることをやめるな! 死ねばそこで終わりだ!」
「……嫌よ……、もう生きていたくない……。こんな目に遭うのは、もう嫌……!」
泣きじゃくるキリエの顔が、ジュビリーにはどうしても妻の顔と重なる。その泣き声も、仕草も、すべてが彼女と重なる。彼は顔を歪め、幻影を振り払うように頭を振った。
(何故だ? 何故一度ならず二度までもこんな目に遭う? 何故だ……! 私は、また守れないのか。何もできないのか……!)
しゃくり上げ、泣き続けるキリエの前に座り込み、ジュビリーはキリエの両肩を力なく掴んだ。
「キリエ……、聞いてくれ」
今まで命令口調でしかなかったジュビリーが静かに呟く。
「私は妻を、エドガー王に奪われた」
「……!」
キリエがびくりと体を震わすと、涙で汚れた顔を恐る恐る上げる。ジュビリーの顔は疲労でやつれ、黒髪が汗で頬に張り付いている。
「あの男に襲われ、妻は身篭った。生まれてくる子は、我々の子として育てよう……。そう決意するまでにずいぶん時間がかかった。それでも……、妻がいれば……、エレオノールがいればそれでいいと思っていた」
「伯爵……」
後ろで控えるレスターが苦しげに声をかける。そして、二人の様子を固唾を呑んで見守っている部隊の兵士たちを下がらせる。
キリエは息を呑んで目の前のジュビリーを見守った。そして、つい先ほどレノックスが口にしたことをまざまざと思い出した。
「あの男は、自分の妻を父上に寝取られた」
レノックスの父、エドガー・オブ・アングル。つまり、キリエの父親でもある。
「エレオノールは生きることを選んだ。絶望から這い上がろうとした。だが……、結局、出産と同時に妻も子も死んだ」
キリエは息を飲んだ。八年前、ジュビリーの妻が死んだ背景にはそんな残酷な真実があったのか。ジュビリーはしばらく黙り込み、やがてわずかに天を仰いだ。
「私は……、あの時すべてを失ったと思った。だがそれでも、私にはまだ家族と家臣がいた。潔く挙兵できない私は、あの男に復讐するためにエドワード王太子を殺した」
キリエは呆然として目の前の伯爵を見つめた。
「王太子を殺すことで、あの男から希望と未来を奪った。そんなことをしても妻は帰ってこない。そんなことは言われなくてもわかっている! ……罪の許しなど求めはしない。だが……、あの男から奪ったアングルの未来と希望は、ふさわしい君主に返さねばならん。それがおまえだ、キリエ」
「……私……?」
「おまえには、何の罪もない。だが、アングルの未来を取り戻すためには、おまえが必要だ。私が……、生きていく上でも……、おまえが必要だ」
ジュビリーは顔を歪めるとキリエの肩を掴む手に力をこめ、搾り出すように囁いた。
「……頼む。おまえは……、生きてくれ。生きてくれ……!」
父の悪行のせいで国が乱れ、自分の人生は大きく狂わされた。ジュビリーも愛する妻を辱められ、挙句の果てには永遠に引き離された。そして、彼は絶望から這い上がるために罪を犯してでも復讐を遂げた。
自分と自分の周りに起こったことが少しずつ明らかになり、キリエはようやく姿を現した現実と向き合った。自分に過酷な運命を突きつけたジュビリーだが、彼を救えるのは自分しかいない。祖父ベネディクトが死の間際に願ったジュビリーの贖罪は、このことだったのだ。
ジュビリーの鎧から血が滴り落ちる。よく見ると顔には多くの細かい傷が付けられ、キリエの肩を掴む手も血で滲んでいる。キリエは肩を掴む手を取ると、両手で包み込んだ。
「……私がいなければ、あなたが傷つくことはなかった」
低い呟きにジュビリーは耳を傾けた。
「……あなたの罪は、私の罪です。あなたが地獄に堕ちるなら、私も一緒に堕ちます」
そう呟くと、キリエは祈るようにジュビリーの篭手を自らの額に押し付けた。キリエの手は、小さいながらも不思議な力がこもっていた。ジュビリーは、小さな指と自らの指を絡ませるとしっかりと握り締めた。そして、彼はかすかに震える手で外衣を剥ぎ取るとキリエに羽織らせ、上からそっと抱き締めた。腕の中の小さな体の温もりに、ジュビリーは忘れかけていた何かを思い出し始めた。
夕方になってから、キリエたちはクレド城に戻った。自分が後先も考えずに城を飛び出さなければ、こんな目に遭うこともなかった。ジュビリーやレスターたちを危険に晒すこともなかったし、ロレインが命を落とすこともなかった。ジュビリーはそのことで責めるような言葉は一言も口にしなかったが、後悔で頭が一杯のキリエは、外衣の裾を握り締め、無言で城門をくぐった。
ちょうどその時、城にジョンが舞い戻った。
「義兄上」
馬から下りるとジョンが重い足取りで義兄の側へ歩み寄る。ジョンが持つパイクに血飛沫がべっとりと付着しているのを見て、ジュビリーは険しい顔つきで振り返る。
「……いたか」
「はい。二人とも地獄に送ってやりました」
ジョンの言葉に、キリエがゆっくり振り返る。自分とロレインを裏切ったボルダー司教のことだと察したキリエの表情からは、憎しみだけではない表情が見え隠れする。自分がいなければ、彼も道を踏み誤らなかったかもしれない。そんな考えが頭をもたげる。それでも、彼のしたことは絶対に許せなかった。
「皆様、ご無事で……!」
奥の間から出迎えたハーバートにジュビリーが短く命令を下す。
「医師を呼べ」
「はっ。すでに待機させております」
「キリエに……、食事を取らせろ」
「承知いたしました」
ホールに入ると、マリーエレンが転びそうな勢いで駆け寄ってくる。
「キリエ様!」
「……マリー……」
マリーは、外衣を羽織ってはだけた胸を隠すキリエを目にしてぎょっとした表情で立ち尽くした。そして、さっと兄に視線を向ける。強張った表情のまま、ジュビリーはマリーに向かって頷いてみせた。愕然としたマリーの目から涙が零れる。そして跪くとキリエを強く抱きしめた。
「……キリエ様……、キリエ様……!」
マリーは、兄の表情が何を意味しているのかすぐに理解した。八年前と同じだ。兄は、あの時と同じ顔をしている。
まだ出会って三日しか経ってないが、姉のような気持ちで接していたマリーにとっては我が身を引き裂かれるような思いだった。今まで何も知らされずに、外界から遮断された世界で育ってきた無垢な少女が過酷な運命に翻弄された上、辱めを受けるとは。
「……泣かないで、マリー」
小さな声で囁く。
「私……、大丈夫よ。体は、大丈夫」
その言葉がせめてもの救いだった。兄嫁エレオノールは、子まで孕んだ上に出産時に子と共に死んだ。もう、あんな悲劇は二度と目にしたくなかった。
マリーは顔を上げると、溢れ出す涙を拭う。目の前のキリエは目が腫れ、黒い隈が疲労を物語っている。
「マリーエレン、頼んだぞ」
頭上から、ジュビリーが低く呟く。マリーは頷きながら立ち上がると、もう離さないといった顔つきでキリエの両肩を抱く。その温もりは、キリエが幼い頃からずっと慣れ親しんできた温もりに似ていた。そうだ、ロレインだ。彼女も言っていたではないか。
「良き女王におなりなさい」
その言葉が胸に響く。マリーがキリエを部屋へ連れて行こうと手を引いた時。
キリエが立ち止まり、ゆっくりと振り返る。その先には、疲労を背負ったジュビリーの後姿があった。彼は自分のために命をかけて戦っている。それが例え、私的な理由があったにしても、今は自分のために、アングルのために戦っている。
「……伯爵」
しわがれた、だがはっきりした声で呼びかける。ジュビリーが振り返り、じっとキリエを見つめる。
「……私、女王になります」
突然そう宣言し、ジュビリーよりもレスターの方が驚いた表情で振り返る。
「私、皆のために、女王になります。もう、逃げません」
目を眇め、真っ直ぐキリエの視線を受け止めたジュビリーは一歩前へ進み出た。
「私もだ。……もう逃げない」
この瞬間、キリエとジュビリーの長く険しい旅は始まった。
八月。入道雲が一面に沸き起こる夏空の下、武器が激しくぶつかり合う剣戟音や、馬の嘶き、怒号や悲鳴が聞こえてくる。うだるような暑さの中、まるで悪夢のように非現実的な光景だ。
堅牢な城を前にふたつの軍勢が激突し、城門付近で白兵戦が繰り広げられている。
白銀の甲冑に身を固めた少年騎士が長剣を振るい、相手の騎士を馬からなぎ倒す。剣を握り直した途端、吹き出た汗が兜から滴り落ちる。暑さで目眩がする。馬の手綱が緩んだ時、右後方から雄叫びが耳を裂いた。
「くッ!」
振り返りざまに相手の剣を打ち払うと、一瞬の隙も与えずに首元に剣を叩き込む。くぐもった呻き声も、更なる斬撃音で掻き消される。相手は馬から叩き落され、二度と起き上がろうとしなかった。そこへ、はるか前方から甲高い笛の音が鳴り響いた。
「殿下!」
騎士の一人が馬を駆って少年の元へやってくる。
「王軍が城を棄てたようです!」
「深追いするなッ!」
少年は疲れた声ながら短く命令を下す。
「兵も限界だろう。斥候を放ち、警戒を怠るな」
「はッ」
まだ幼さが残る声だが、その口調はしっかりしている。荒い息を整え、ごくりと唾を飲み込む。
敵軍が一斉に城から雪崩のように逃げ去っていく様子を見て、残された兵士らが鬨の声を上げる。その大歓声に包まれ、少年は兜越しに敵軍を見つめる。
「城を占拠する。国境に警備隊を派遣し、兵を休ませろ」
「はっ」
騎士は城の機能を手中に収めさせるべく、直属の部下たちを城の内部に侵入させた。
「しかし……、明らかに弱気になりましたな、国王陛下は」
「冷血公がアングルへとんぼ返りしたそうではないか」
興奮気味に振り返った少年が言い返す。
「援軍を失った父上が、最後の悪あがきを見せるのか、それとも……」
「しばらくルール公も帰ってはきますまい」
騎士の言葉に、少年は鼻で笑うと兜を脱ぎ捨てた。美しい金髪と、端正な顔が現れる。
「アングルは今それどころではなかろう?」
大理石の彫像のように美しい顔は若々しいにも関わらず、その顔つきはまるで熟練の軍人のようだった。引き締まった表情に、汗が流れ落ちる。
「エドガー・オブ・アングル……。おいくつだったのだ」
「御年五四歳でいらっしゃったそうです」
「そのお歳で後継を決めていなかったというのか」
「エドワード王太子が十歳で急逝した後には、嫡子に恵まれなかったようでございますからな……」
少年は掌で額の汗を拭い、移動する軍勢の様子を目を細めて見守る。
「……庶子が複数いたな」
「はい。男子と女子がそれぞれお二人いらっしゃいます」
「後の災禍を考えずに……、迷惑な」
「……同感です」
少年は、彼の勝利を称える兵士らの歓声に手を振って答えると馬から下り、城のアプローチに向かった。
「今、アングルの王に最も近いのは誰だ」
少年の問いに、騎士は少し考え込むような顔つきをしてから答える。
「……ルール公が現在プレセア宮殿を占拠し、王都イングレスを支配下に置いているそうです。しかし、その直前に異母妹が王位を宣言し、そちらの勢力も未だ服従していないそうでございます」
「妹……?」
少年が振り向く。
「レディ・キリエ・アッサー。グローリア女伯爵だそうです。何でも、祖父の後を継ぐまでは地方の教会で育てられたとか」
「修道女……」
少年は歩みを止め、眉をひそめて黙り込んだ。
(伯父上はね、大事にしていた姫君と引き離されてしまったんですって……)
幼い頃の記憶がぼんやりと思い出される。
「……王太子殿下?」
その場に立ち尽くす少年に騎士が不思議そうに声をかける。彼ははっと顔を上げると、表情を引き締め、城の天井を見上げた。
「早く国内を安定させなければな。エスタドに付け入る隙を与えてしまう……。時間を無駄にはできん」
「はっ」
少年の名は、ギョーム・ド・ガリア。ガリア王リシャールの嫡男である。彼はまだ十八歳でありながら父であるリシャール王に退位を迫り、国を二分する内乱を引き起こしていた。
リシャール王は亡妻マーガレットの兄、アングル王エドガーに支援を求めた。エドガーは庶子のルール公レノックス・ハートを遣わし、リシャールと共に戦わせた。だがそんな中、エドガーの急逝が告げられた。レノックスは君主不在となったアングルに急ぎ帰国し、リシャールは窮地に立たされている。この機会を逸するわけにはいかない。
ギョームはアプローチを振り返り、目を細めた。
「……アングルか……」
彼にとってエドガーは伯父であり、冷血公レノックス・ハートと、グローリア女伯キリエ・アッサーは従兄妹になる。
(いずれは……、
ギョームは胸の中で呟いた。