「……もちろんです」
そう答えると、ジュビリーたちは部屋から退出していった。最後の一人が扉を閉めると、キリエが声をひそめて呼びかける。
「……もう、誰もいません、兄上」
「……キリエ」
ヒースが手を空中に延ばし、キリエがしっかりと握りしめる。
「正直に答えて下さい。あなたは、クレド伯を信頼していますか?」
少し驚くが、よく考えればヒースが最も心配していることだろう。そう尋ねるのも当然といえる。
「はい。伯爵は、何度も私の命を救ってくれました。……もちろん、私を女王にしたいがためというのもあるのでしょうが」
ヒースは見えない目を伏せ、まるでそこから本心を読みとれるかのように手を握りしめる。
「……色々ありました」
キリエは小さく呟いた。
「一度、何もかも嫌になってロンディニウム教会に逃げ戻ったことがありました。でも……、そのせいで、私を育ててくれたロレイン修道女が殺され……、私はレノックスに囚われました」
「何ですって」
ヒースの白い顔がますます青白くなり、かすれた声で尋ねる。
「……怪我は……」
「それは、大丈夫です。……伯爵が、連れ戻しに来て下さいました」
「……そうですか」
彼女が多くを語りたがらないことに気づいたヒースは、質問を変えた。
「あなたは……、本当に女王になる決意を固めたのですか?」
「……他にどうしようもありません」
キリエは諦めたように呟く。
「レノックスやエレソナに王位を継がせたくありません。エレソナには……、まだ会っていませんが。二人に王位を継がせないためには、私が女王になるしかないのです」
キリエの弱々しい声に、ヒースは身を乗り出すと声をひそめて囁いた。
「……キリエ。あなたさえよければ、ここからクロイツへ逃がしてあげることもできます」
「!」
クロイツ。
キリエは体を震わせた。ロレインもクロイツへ行けば何とかなると考えた。そして、旅発つ前に凶刃に倒れた。もう、逃げることで誰かが犠牲になるのはたくさんだ。
「大主教も、あなたを保護して下さいます。私も一緒に行きます」
「……ありがとう、兄上。でも、私はアングルを離れません」
少なからず驚いた表情でヒースが顔を上げる。
「私が本当に女王になれるのか、それは天の御心次第です。でも、私が逃げ出したらすべてはそこで終わりです。クロイツへ逃げたら……、アングルの君主は誰がなるのです? レノックス? エレソナ? それとも、ガリアのギョーム王太子ですか?」
ヒースは眉をひそめ、じっと耳を傾けている。そして、しばらく沈黙した後、キリエは絞り出すように囁いた。
「……他の二人はともかく……、私、レノックスだけは、王になることを許しません……!」
「……キリエ」
ヒースは手を差し上げると、怒りで小刻みに震える妹の肩をぎこちなく撫でる。
「……彼と、何があったのですか」
そう尋ねられ、キリエは嗚咽を漏らした。言えない。ヒースにはまだ言えない。彼は辛抱強く待ったが、やがて苦しげな表情で頷いた。
「……わかりました、キリエ。でも、よく考えて」
「……はい」
「レノックスは恐ろしい子です。無慈悲で、残酷で、罪深い……。私も身を持って知っています。ですが、王位を目指すということは、彼との対決を避けては通れません」
「…………」
「そして、彼を倒して王位に就いたとしても、もっと強大な敵と戦うことになります」
キリエは涙を拭いながらヒースを見つめた。
「エスタドのガルシア王はアングル島とプレシアス大陸の征服を目論んでいます。ガリアのギョーム王太子も、アングルの王位継承権を持つ限り、アングルへの興味を失わないでしょう。それらの脅威に、あなたは一人で立ち向かわなければなりません」
一人。その言葉の意味をキリエは噛みしめた。が、それでも彼女の決意は変わることがなかった。今までは一人だった。でも、今は一人じゃない。泣きはらした目をしばたたかせ、姿勢を正すと正面からヒースを見つめる。
「……私、伯爵と約束したのです。皆のために女王になると。もう逃げないって、約束したのです」
「……クレド伯と」
「伯爵だけじゃありません。私に関わって死んでしまった全ての人のために、私はもう逃げたくないのです」
キリエの言葉を聞き、ヒースは小さく溜息をついた。
「わかりました。もう……、決めたのですね」
「はい」
「ならば、私もできる限りあなたの力になりましょう。クロイツへ働きかけてみます」
キリエが安堵の表情を浮かべる。
「……ありがとう」
ヒースが寂しげに微笑む。
「私はレノックスによって視力を奪われました」
突然そう切り出され、キリエは面食らった。
「でも、両目と引き替えに私は生きながらえた……。盲目ならば王位を脅かさないだろうと、レノックスは命を狙うことをやめたのです。……暗闇は孤独です。でも、私の安住の地は、ここだったのです」
「……兄上……」
穏やかな口調ながら、語る内容はキリエにとって重い意味を含んでいた。
「あなたが教会を出たことで、世界は争乱に巻き込まれたかもしれません。でも、女王になることで争乱を鎮めることもできるはずです」
「はい」
「……だけど……」
ヒースはそう呟くと眉をひそめ、かすかに震える右手をかざした。
「目が見えないことに、今ほど絶望したことはありません。……あなたの顔が、見たい」
キリエは、咄嗟に彼の手を取ると自らの頬にそっと導いた。ヒースは寂しそうに微笑むと、妹の頬を優しく包み込む。が、その顔が俯いたことに気づく。
「……キリエ?」
「……兄上」
妹は聞き取りにくいほど小さな声で呼びかけてきた。
「……本当は、怖いのです。女王になったら、私、どうなるのだろうって……」
ヒースは痛ましげに眉をひそめた。そして、キリエの肩を撫でるとそっと抱きしめる。
「自分の意思が何よりも大事です。あなたが望むものをはっきりさせれば、どうすれば良いか、何を成さなければならないのか、おのずとわかってくるはずです」
そして、声を低めて言葉を続ける。
「君主という立場が本当は孤独であることは、私も知っています。父上がそうでした」
父という言葉にキリエは顔を上げた。
「周りの誰も信じることなく、自分の力だけでこの国を守ってきたのです。多くの人々を傷つけてきた父ですが、この国は確かに父に守られてきたのです」
「わ、私も」
キリエがわずかに上ずった声で必死に囁く。
「私も、誰かを傷つけながら女王になるの? そんなの、嫌です……!」
「犠牲を払わずに女王になることはできませんよ」
兄の冷酷ともとれる言葉に息を呑む。だが、彼の言葉はもっともだった。
「大事なのは、あなたが自分の意思を持つことです。どのような女王になりたいのか、それをはっきりと思い描くことです。あなたの努力と周りの協力で、犠牲を最小限に留めることはできるでしょう」
キリエは兄の背中をぎゅっと抱きしめた。彼は優しく背を撫でると耳元で囁く。
「……長い道のりです。体には気をつけて」
「……兄上も」
ヒースは自分の額とキリエの額を触れ合わせ、小声で安全を願う祈りの文句を呟いた。祈り終えると彼が立ち上がろうとし、キリエはそっと手を添えた。ヒースがベルを鳴らすと、扉が静かに開いてジュビリーたちが入ってくる。
「クレド伯」
「はい」
ヒースはキリエに寄り添われ、ジュビリーに向き直る。
「キリエが女王になるために、できる限り協力します」
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げる衣擦れの音が、ヒースの鋭敏な耳に聞こえる。彼は一歩前に出ると微笑みかけた。
「伯爵、私の妹はどんな顔立ちですか」
「……レディ・ケイナを覚えておいでですか」
「ええ。何度かお見かけしたことがあります。穏やかで、静かで、お綺麗な方でした」
「そのままですよ。レディ・キリエは……、母親似です」
ジュビリーの言葉に、キリエは顔を赤くして彼をそっと見上げた。
「そうですか」
ヒースは満足げに微笑んだ。
「時の流れは早いですね。キリエ、あなたはお幾つになりましたか。十三ぐらいですか」
「十四歳です」
十四という数字に、ジュビリーは顔をしかめて振り返る。
「私、誕生日がわからないから、聖ロンディニウムの祝祭日を誕生日としてお祝いしてもらっていたのです。六月で十四歳になりました」
「……そうですか」
背後でジョンが眉をひそめ、義兄を見上げる。
「伯爵、キリエをお願いします」
「……はっ」
やがてヒースはキリエを抱きしめて別れの挨拶をした。
「天のご加護を……」
「兄上も」
「充分気をつけてお帰りなさい。サーセンにも時々レノックスの軍がやってきます」
「はい。……ありがとうございます」
一行は静かに、しかし足早に裏門へ回ると馬車へ乗り込む。
「表は大丈夫です」
先ほどの修道女が緊張した顔つきで囁く。
「クロイツから情報が来れば、そちらへお知らせします」
「お願いします」
「兄上! また参ります」
キリエが窓から身を乗り出すと抑え気味に叫ぶ。ヒースは穏やかに微笑むとそっと手を振った。ジョンが馬に鞭をくれると、馬車がゆっくりと動き出す。名残惜しげな表情のキリエが身を乗り出すが、修道女たちが辺りを伺い、顔を引っ込めるよう合図する。
ほんの数十分の逢瀬だった。キリエは、今になってもっと色んなことを聞いておけばよかったと悔やんだ。だが、きっとまた会える。次に会う時は人目を憚らず、堂々と会ってみせる。キリエにひとつ目標ができた瞬間だった。馬車の中で、まだ興奮冷めやらぬ表情で窓から外を眺めているキリエにジュビリーが声をかける。
「……少しは話せたか」
「はい。本当に、少しだけですけど」
晴れやかな表情で返事が返ってくる。
「本当はもっと話したかったけど……。あのヒース司教と、兄妹として会うことになるなんて、今でも信じられません。……でも、会えてよかった」
嬉しそうに語るキリエを、ジュビリーは黙って見つめていた。
クレドには夕方に帰り着いた。まだ興奮気味のキリエは、マリーエレンにヒースの印象や交わした言葉などを事細かに報告した。
「想像していたままのお兄様でしたか」
「はい。本当に……、本当に嬉しかった。あのヒース様に会えるなんて……!」
キリエの明るい表情に、マリーは人知れずほっと胸をなで下ろした。二人の後ろでは、ジュビリーとレスターが小声で言葉を交わしている。
「サーセンはいかがでしたか」
「クロイツはヒースと連絡を取り合っているらしい」
レスターは眉をひそめ、両目を見開いてみせる。
「では……、大主教は……」
「アングルの王位継承戦争に関心があるのだろう。しかも情報源はヒースだ。キリエにも関心を持っているはずだ」
レスターは思慮深げに沈黙するが、やがて顔を上げ、そっと囁く。
「……タイバーンに放った斥候が戻ってまいりました」
その言葉にジュビリーが目を上げる。
「レディ・エレソナはタイバーンの城館で母親と再会したようですが、それからはまったく動きがないとのことです」
「十二年間塔に幽閉されていたのだ。体力も衰えているのだろう。……シェルトンは?」
「マーブル伯もタイバーンに引きこもったままですが、マーブルから手勢を呼び寄せたようです」
「軍を呼んだ?」
「およそ百騎程だそうで……。城館の守りを固めるのが目的かと」
ジュビリーが何か言おうとした時、部屋に女たちの軽やかな笑い声が響いた。顔を上げると、キリエやマリーが屈託なく笑い合っている。こうして見ると姉妹のように見える。
「……伯爵」
思わずキリエたちを見つめるジュビリーにレスターが呼びかける。彼は静かに頷いた。
「……いつエレソナが王位を宣言するかわからん。目を離すな」
「はッ」
ジュビリーはシェルトンと面識があった。ジュビリーは地方の反乱を制圧した功績で廷臣として宮廷に出仕したが、シェルトンは当時貴族院の議員だった。家の格式からいえば、クレド伯爵家の方が歴史も長く、名門の家柄だ。しかし、地位や名誉といったものには興味がないのか、シェルトンは王の愛妾に手を出した。愛人アリス・タイバーンの移り気な性格を知っていたエドガー王は、見て見ぬふりをしていた。だが、それは宮廷の風紀を乱す原因となった。やがて、エレソナの事件が起こるとアリスはタイバーンへ送還され、シェルトンも議員の職を解かれ、領地へと帰っていった。まさか王位継承戦争で、そのシェルトンと対立することになるなど想像もしていなかった。アリス・タイバーンにうまく乗せられたのだろうか。
(いや。奴は本当の脅威ではない。あの娘……。エレソナ・タイバーンが十二年の年月でどう成長したか。それが問題だ)
ジュビリーは、異母姉の恐怖を記憶するキリエをじっと見つめた。
その日の晩餐は終始明るいものだった。キリエは憧れのヒースに会えたことで上機嫌だった。食事も終わり、礼拝堂で祈りを捧げて自室に戻ったキリエは、一日の疲れもあってすぐ床に就いた。しかし、疲れすぎたせいかなかなか寝付けず、しばらくするとそっと夜具から抜け出した。
書き机の小さな蝋燭が心細い明かりを壁に投げかけている。キリエは蝋燭をそっと持ち上げると、壁に飾られている地図を見上げる。二ヶ月前は、この地図を見てロンディニウム教会まで逃げ帰った。人差し指でグローリアを押さえ、クレド、イングレス、次いでサーセンまでを指でなぞる。教会を出ることがなかった生活から一転、異母兄に追われる日々。世界は一気に広がったが、その広い世界で自分は生き抜くことができるのか。昼間の興奮が落ち着き、キリエは不安そうに地図を見つめた。やがて、しばらく地図を見つめていたキリエは、ぎょっとした。地図には、地名の上に各諸侯の紋章が書き込まれている。例えばグローリアは〈青蝶〉。クレドは〈赤薔薇〉。トゥリーは〈楡〉。ルールは〈盾に心臓〉。その数々の紋章の中に、〈盾と斧〉があった。そぅっと蝋燭を近づけると、〈タイバーン〉と記されている。
十二年前、自分を殺そうとした異母姉、エレソナ・タイバーン。奇しくも姉は、自らの紋章である斧を使って妹を殺そうとした。
夢はみるものの、姉の姿格好は覚えていない。だが、遠からず再会することになるだろう。共に王位を争うために。蝋燭の弱々しい明かりを顔に受けたキリエは、決して恐れの表情ではなかった。レノックスもエレソナも、恐ろしい兄であり、姉だ。だが、自分はもはや一人ではない。ジュビリーがおり、ヒースがいる。今日の旅で、自分は一人ではないと実感できた。
「……そうだ」
キリエはそっと蝋燭を取り上げた。ジュビリーに礼を言っておかなければ。キリエは、彼がいつも書斎で夜遅くまで起きていることを知っていた。
両手で蝋燭を捧げ持ち、暗い廊下をそろそろと歩くキリエ。壁の燭台はゆらゆらと踊り、調度品を浮かび上がらせている。上の階へ上がり、ジュビリーの書斎までやってくると、扉の下の隙間から明かりが漏れている。そっと扉を叩くが返事がない。もう一度、今度は力を込めて叩く。だが、返ってくるのは静寂だ。首をかしげ、キリエは思い切って扉を静かに押し開いた。扉は音もなく開いた。
書斎には見事な絨毯が敷き詰められている。キリエがゆっくり中へ入ると、森のような本棚の間からジュビリーの後ろ姿が見えた。腕組みをして何か考え込んでいるようだ。キリエはほっとして歩み寄ろうとしたが、ふと眉をひそめて立ち止まる。燭台に照らされたジュビリーの影が本棚に投げかけられている。だが、その影はよく見るとドレス姿の女性を象っている。キリエが息を呑んで凝視していると、影がすぅっと透明になり、若い女性に変化した。〈彼女〉はこちらを振り向くとにっこりと微笑んだ。
「きゃッ!」
「!」
キリエが短い悲鳴を上げると、ジュビリーは机に立てかけていた剣に手を伸ばし、素早く振り返った。
「熱ッ!」
蝋燭が倒れてキリエの手を焦がす。ジュビリーは剣から手を離すと机の上に目を走らせ、ハンカチに水差しの水をかけるとキリエに駆け寄る。
「ご、ご、ごめんなさい……」
キリエがどもりながら震える声で呟く。彼女が取り乱す様子を久しぶりに見たジュビリーは、顔をしかめながら手をハンカチで押さえる。
「まるで
「……!」
キリエはますます顔を青ざめさせたが、ジュビリーはそれには気づかなかったようだ。
「こんな時間に何をしに来た?」
「あ……」
キリエは、きちんとした理由があってここへ来たはずなのにジュビリーの邪魔をしに来たような気分になり、申し訳なさそうな表情になる。
「……疲れすぎて目が冴えたか」
そう言いながらジュビリーはキリエの手を取って椅子に座らせる。今のは一体、何だったのだろう……。見間違いだろうか。そう思いながらも椅子に座り込むと、やっと落ち着いた様子で小声で呟く。
「……今日は、ありがとうございました」
何のことだと言わんばかりに、ジュビリーが片方の眉を釣り上げる。
「サーセンまで連れて行ってくれて、ありがとう。……本当に嬉しかったです」
それを聞いて、ジュビリーは珍しく口元をわずかにほころばせた。
「今日は一日ご機嫌だったな」
「ずっと憧れていたヒース司教様……。こんな形で会えるとは、思ってもみませんでした。兄上を見て、私もがんばらなくてはと……」
「無理はするな」
「は、はい」
キリエはそっと溜め息をつくと、表情をゆるめた。
「私、今までずっと独りぼっちだと思っていました」
ジュビリーも目を細めてキリエを見つめた。普段に比べたらずいぶん穏やかな顔つきだ。
「……私の両親はどんな人だったのだろうって、ずっと思っていました。でも、できるだけ考えないようにしていました。どうせ、会えるわけがないのだと思っていたから……。私には家族も兄弟もいない。独りぼっちなんだって、言い聞かせていました。だから、私に会いに来る人なんかいなかった。ずっと来ないと思っていました。でも、伯爵が会いに来てくれて……、おじい様にも会わせてくれた。それから、私と血が繋がっている人がこんなにもいるとわかって……。何だか今でも信じられません」
そこでキリエは寂しげな表情をしてみせる。
「……レノックスみたいな兄弟もいるけれど……」
「……そうだな」
燭台の明かりが二人の顔を静かに照らす。少しの間沈黙が流れ、やがてキリエが顔を上げる。
「ありがとう、伯爵。私、もう独りぼっちじゃないわ」
「……キリエ」
「はい」
ジュビリーは引き出しから紙を一枚取り出すとペンを手にした。そして、中央から左寄りの場所にKyrieと記す。
「おまえの母親はレディ・ケイナ。父親はエドガー王だ」
キリエの名の上に、Kaena、Edgarと記すと棒線を引き、キリエの名と繋ぐ。キリエが無言で身を乗り出して見守る。
「レディ・ケイナの父はベネディクト、母はエリザベス。ベネディクトの父はウィリアム、母はメアリー。メアリーの姉がソフィー。その娘がフラーンセス。彼女とヘンリー・バートランドとの間に生まれたのが、私とマリーエレンだ」
様々な名前の最後に、JubileeとMaryellenの名が記された。キリエの顔に驚きと感動の表情が広がる。
「おまえにとって私は、曾祖母の姉の孫というわけだ。……おまえと私の間だけでも、これだけの人間がいる。おまえは一人じゃない」
一人じゃない。
ジュビリーの言葉は魔法の言葉のようにキリエの胸に忍び込んだ。ひとりじゃない。目の前に示された人々の名前がそれを証明してくれている。キリエは目を輝かせて名前を繋ぐ線をそっとなぞった。
「……ありがとう、伯爵」
かすかに頷いてみせるジュビリーに、キリエは少し恥ずかしそうに切り出す。
「これ……、いただいてもいいですか?」
「持っていけ」
「ありがとう」
満面の笑みを浮かべて呟くキリエを見ると、ジュビリーは立ち上がった。
「おまえも今日は疲れたはずだ。早く休め。……部屋まで送る」
「はい」
素直に立ち上がるキリエの手を取るとジュビリーは書斎を出た。
彼の温もりを感じながらキリエは黙ってついて歩いた。薄暗がりの中でキリエはそっとジュビリーを見上げる。そうだ。思えば彼は常に自分の側にいる。初めて出会った時に、「おまえの身は私が守る」と言ったのは嘘ではなかった。口数も多くなく、決して優しい言葉や態度ではないが、不器用ながらキリエを守り、支えている。二十歳もの年の差のある少女を相手に、大変な努力をしているに違いない。繋いだ手をそっと握るとややあって静かに握り返してくる。キリエは嬉しそうに微笑んだ。夜中のクレド城は静かに二人を包み込んでいた。
やがてキリエの寝室まで来ると彼女はもらったばかりの家系図を胸に、深々と頭を下げた。
「おやすみなさい、伯爵」
「早く寝ろ。普段、あまり眠れないのだろう?」
「……夢さえみなければ……」
「体調には気をつけろ」
「はい」
ジュビリーが背を向け、立ち去ろうとした時。キリエは思い切って口を開いた。
「……ありがとう、ジュビリー様」
「!」
途端に顔をしかめて鋭く振り返るジュビリーに、キリエは飛び上がって謝る。
「ごっ、ごめんなさいっ! で、でも、あの……!」
顔をしかめたまま見つめてくるジュビリーに、キリエは恐る恐る切り出した。
「……私、ずっと、そのお名前でお呼びしたくて……。とても、素敵なお名前だから……」
彼は自分に不似合いなこの名前が大嫌いだった。だが、それを言えばキリエは悲しむだろうし、こうしてせっかく歩み寄ろうとしている彼女を拒むことになりかねない。しばらく複雑な表情で見つめていたジュビリーだったが、怯えた目で見つめ返してくるキリエに根負けした様子で小さく溜め息をついた。
「……言ったはずだ、敬称を付けるなと。呼びたいなら、ジュビリーと呼べ」
最初、ぽかんとした表情をしていたキリエだが、やがて生真面目に「はいっ」と返事を返す。
「おやすみなさい。……ジュビリー」
「……おやすみ、キリエ」
キリエは嬉しそうに微笑むと頭を下げ、部屋へ入っていった。扉が閉まる音が石造りの廊下に響く。一人取り残されたジュビリーはふと思った。
ジュビリーと呼ばれるのは何年ぶりだろうか、と。