クレドから遠く離れた地、タイバーン。豊かな田園地帯が広がるクレドやグローリアとは違い、そびえ立つ山脈に挟まれた渓谷だ。冬は厳しい寒さに襲われるが、夏は爽やかで景観も良いため、古くから王族の避暑地となっていた。アリス・タイバーンは避暑に訪れたエドガー王に見初められて愛妾となり、女子爵に叙せられた。
谷を見下ろす城館には、規模に不釣り合いなほどの警備が配されている。その中庭で、痩せ細った少女が似合わぬ武器を手に丸太に打ちかかっている。
鋭利な鋲が埋め込まれた
「あまり無理をなさるとお怪我をいたしますよ、エレソナ様」
「うるさいッ……」
かすれた声で言い返すエレソナに、シェルトンはわずかに眉をひそめる。
「……十二年だ……」
エレソナは肩で息をし、項垂れたまま悔しそうに呟く。やぶ睨みの瞳を眇め、端整な顔つきまでもが歪む。
「十二年もの間……、あの塔に閉じこめられていた……。十二年だ! 十二年という時間を奪われたのだぞ! 早く、取り返してやらねば……!」
「お気持ちはお察しいたしますが、筋力をつけるにもお体を養ってから……」
「貴様にわかるかッ! あの退屈極まりない塔で過ごした十二年が……!」
叫びながら勢いよく体を起こしたエレソナだが、一瞬放心したような表情になったかと思うとそのまま真後ろに倒れる。
「!」
咄嗟にシェルトンが頭を支えて抱き抱える。
「エレソナ様ッ! ――ローザ!」
シェルトンが怒鳴ると庭に面した渡り廊下からローザ・シャイナーが飛び出してくる。エレソナの細い体を抱き上げると、シェルトンはローザに医師を呼ばせた。寝室まで運ぶ間、小言ひとつ言わないシェルトンをエレソナがぼんやりと見上げる。
エレソナは四歳までプレセア宮殿で育てられていたが、母アリスがエドガー王から拝領したイングレス市内の私邸と行き来する生活をしていた。その私邸にアリスは堂々とシェルトンを引き入れ、王との間に生まれたエレソナと共に時を過ごしていた。手の付けられない乱暴者だったエレソナを、シェルトンは体を張って遊び相手を務めていた。彼女にはその記憶があった。まるで男児のように手加減なしで取っ組み合いを挑んでくるエレソナに、シェルトンはいつも笑顔で応戦していた。
エレソナが細い手を伸ばしてシェルトンの顎髭をまさぐり、本人が迷惑そうに見下ろす。
「……母上は老いた。おまえは変わらない。……何故だ?」
「……何故でしょうなぁ」
シェルトンは苦笑いしながら寝室へ入る。ローザが寝具を整え、医師が冷たい飲み物などを用意している。医師は簡単な処置を済ませると退出していった。その間、ローザは無言でエレソナの世話をしていた。
「シェルトン」
「はい」
シェルトンは寝台の縁までやってくると座り込む。
「これからどうするのだ」
「エレソナ様の体力が回復されたら、マーブルへお連れします」
その返答にエレソナは首を傾げた。
「そなた……、家族はいなかったか」
「いましたが、離縁しました」
エレソナが口をつむぐ。シェルトンは自虐的な笑みを浮かべ、目を細めた。
「エレソナ様が幽閉されてから妻を離縁し、ずっと母君とあなたをお待ちしておりました」
エレソナは眉をひそめ、再び天蓋に目を向ける。
「子どもは」
「おりませんでした」
「……そうか」
天井を向いたまま、エレソナが低く呟く。更に何か言おうとして口を開きかけた時、忙しげな足音が響くと一人の女が寝室に飛び込んできた。
「エレソナ! 大丈夫なの?」
「母上」
エレソナに似たプラチナブロンドの美女は心配そうに寝台へ駆け寄ると娘の手を握った。
「せっかく無事に帰ってこられたのだから、お願いよ、おとなしくしていてちょうだい……!」
やや取り乱した様子のアリス・タイバーンの肩に、シェルトンが無言で手を添える。
「早く……、力をつけたいの」
「エレソナ」
アリスは娘の前髪をかき揚げ、丁寧に撫で付ける。娘に似て全体的に細身の体。エレソナが老いたと感じたのは、頬が痩けたからだ。かつては張りのある若々しい美貌を誇っていたのを、エレソナは幼心に覚えていた。しかし、痩せても持って生まれた美しさと気位の高さは変わらないらしい。
「わかるわ。あなたは私にそっくりだもの。この十二年、どんなに絶望し、どんなに悔しい思いをしたのか……」
そして、開け放たれた窓から恨めしそうに渓谷の風景を眺める。
「イングレスを追放されてから、この何もない谷に追いやられて十二年……。長かったわ」
「ここには……」
エレソナが虚ろな声で呟く。
「武器もあるし、馬もいるし、言葉を交わす人間もいる。時と共に姿を変える渓谷もある」
アリスは思わず涙ぐむと娘の首に両腕を巻き付けた。
「……そうね。あなたはもっと辛い時を過ごしていたものね。ごめんなさい」
しばらく黙り込むエレソナの耳元に、アリスが小さく呟く。
「……もう少しよ。充分に準備をしてから、行動に移すの。あいつらに……、思い知らせてやるのよ。私たちに、何をしたのか」
母に抱かれ、軽く目を閉じていたエレソナは、やがて薄く目を開ける。寝台の脇では、何か胸に秘めた様子のシェルトンがじっと見つめている。
「そうだわ。この指輪をあなたに返すわ」
そう言うとアリスは体を起こし、袂から柔らかい布の包みを取り出した。エレソナがそっと受け取り、包みを開ける。すると、金の指輪が光を放つ。タイバーン家の紋章である斧の形に彫られたルビー。エレソナは目を見開いた。
「あなたが生まれた時に、エドガーがあなたに贈ったものよ。彼は、生まれた庶子に全てルビーの指輪を作らせたの。あなたにはタイバーンの〈斧〉。レノックス・ハートには〈心臓〉。ヒース・ゴーンには〈車輪〉。キリエ・アッサーには〈蝶〉。あなたが幽閉された時、指輪だけこのタイバーンに送りつけられたわ」
エレソナは、母の言葉には上の空で指にはめた指輪を見つめていた。
「あの頃は……、本当に生きた心地もしなかったわ……。あなたがどこでどうしているのか、全くわからなかったのだから……」
そう囁いてアリスは涙ぐみながら娘の髪を愛おしそうに撫でる。そして、頬に唇を押し付けてからエレソナをまっすぐ見つめた。
「エレソナ。たった今、私の子爵位をあなたに譲るわ」
その言葉にエレソナが顔を上げる。
「これからあなたは王位を宣言するのよ。爵位がなければ格好がつかないわ」
「……格好など」
エレソナは再び指輪を見つめた。正直、王位などに興味はなかった。だが、奪われた十二年間に報いてやらねば気がすまない。自分にこんな仕打ちをした王家へ復讐したい。女王になることは、ひとつの手段に過ぎない。指輪の精巧な模様を指でなぞると、エレソナは思い出したように顔をしかめる。
「……あれはどうしている」
シェルトンがわずかに身を乗り出す。
「あれとは……?」
「私が殺しそこなった、末っ子の妹だ!」
荒々しく吐き捨てる娘を、アリスは息を呑んで見つめる。
「……グローリア女伯キリエ・アッサーは今、遠縁に当たるクレド伯の元へ身を寄せております。二ヶ月前に王位を宣言しましたがルール公に攻め込まれ、撤退しています」
シェルトンの冷静な説明に、エレソナの眉間に鋭い皺が刻まれる。
「あの娘……、あれからどうなったのだ?」
「キリエ・アッサーはあれから祖父の手によって教会に預けられたそうです。……孤児として」
孤児という言葉にエレソナが振り向く。
「何故……、孤児として預けられたのだ」
「身分を隠すためでしょう。グローリア伯は、ルール公が多くの異母兄弟を葬っているのを知って怯えておりましたからな」
「……なるほど」
しばらく黙り込んでいたエレソナは、目を細めて窓から見える景色を眺めた。
父王の愛情を独占していた妹。それ故、母に対する寵愛が薄れ始めていたことも、幼いながらもエレソナは感じ取っていた。自分と同じように妹へ嫉妬を覚えていた者がいた。それが、当時七歳だった異母兄レノックスだ。気の強い者同士、レノックスとエレソナは仲が悪かった。だが、キリエに対する嫉妬心については、気持ちが通じるものがあった。エレソナがキリエに襲いかかっていなければ、代わりにレノックスが襲っていたに違いない。エレソナは、美しくも残酷だった腹違いの兄を思い返した。
十二年という時を経て、異母兄妹たちがついに戦う時が来た。たったひとつの王座を巡り、血を分けた兄妹たちが争う。父は、果たしてこんな時代が来ようとは予想しなかったのだろうか。まったく迷惑な父親だ。エレソナは顔をしかめた。
負けてなるものか。奪われた時間を取り戻すまでは、自分は決して退かない。エレソナは自分に言い聞かせると、細い指にはめられた〈盾と斧〉の指輪を見つめた。
プレセア宮殿の宝物殿の一室で、レノックス・ハートは宝器を前に沈黙していた。
王冠、王錫、宝珠。目映い大小色とりどりの宝石が散りばめられたそれらは、手を伸ばせば簡単に触れることができる。だが、今のレノックスはそれらを手にしても何の意味もなさない。彼は無表情で宝器を見下ろしていた。レノックスの精悍な顔には、痛々しい傷痕が残されていた。目の下から鼻へ一筋の刀傷。あの日、ジュビリーに斬りつけられたものだ。
クロイツのムンディ大主教は戴冠を拒んだ。それはすでに予測していたことだ。だが、戴冠しない彼に周りが予想以上に冷ややかだったことがレノックスを焦らせた。皆、自分の残虐さに恐れをなしていることに違いはない。だが、宮殿を守る近衛兵のほとんどが職務を放棄し、ルール軍がその役割を受け継いでいる。
イングレスの市民たちも沈黙を守っているが、冷血公を怒らせない程度にしか服従の様子を見せない。有力な商人たちはイングレスを出るか、もしくは冷静に政局を見守っている。中には父王エドガーが残したままの債務を取り立てに来る剛の者もいる。気の短いレノックスも、必要以上に敵を作るわけにもいかず、彼らとうまく交渉を続けている。
しばらく無言で宝器を見つめていたレノックスの背後から足音が聞こえてくる。やがて、その音は真後ろで止まる。
「公爵」
オリヴァー・ヒューイットだ。
「タイバーンは未だに沈黙を続けています。城館から出る様子はありません」
「……あの娘が、幽閉を解かれるだけで満足するわけがない」
レノックスはそう呟くと、振り向いた。
「必ず王位を宣言するはずだ。アリス・タイバーンも健在なのだろう?」
「はい。マーブル伯にシャイナーを襲わせたのも彼女ではないかと」
「……タイバーンとクレド、目を離すな」
「はっ」
レノックスは王錫の柄をそっと撫でる。
(戴冠さえできれば、皆私を認め、従わざるを得ない。戴冠さえすれば……!)
黙っていながらも、その心中をありありと想像できるヒューイットは、眉間に皺を寄せたまま主君を見つめていた。
(庶子であろうと、王になってしまえば誰にも文句は言わさぬ。誰にも……)
レノックスは広大なルール公領の領主だが、それは父エドガーが叙位したことで拝領したものだ。長い歴史を持ち、格式も高いジュビリーのクレド伯爵家やキリエのグローリア伯爵家とは違う。そのため、ただの庶子に過ぎないレノックスに対する反感も強いと言える。それが彼を焦らせていた。ヒューイットは、その焦りが何よりも不安だった。
「……公爵」
「何だ」
「まだ、時間はございます」
ヒューイットの言葉にさっと振り返る。相変わらず狡猾そうな表情のヒューイットは、辛抱強く囁いた。
「焦ってはなりません。ゆっくり、着実に攻略しましょう」
レノックスは、眉間に皺の寄った表情から徐々にいつもの冷笑を浮かべた。
真夜中のイングレス郊外。イングレス港から離れた海岸に、不審な小舟が乗り付けられていた。小舟を降りた数人の男は物音を忍ばせ、港に面したベイズヒル宮殿へと向かった。宮殿の裏門が開いている。男たちは無言で忍び込むと、人気のない厨房の裏口で蝋燭を持つ男を見つけた。
「……誰にも見られてはいないな?」
低い呟きに男たちは頷き、袂から手紙を取り出すと相手に手渡す。
「ご苦労だった。おまえたちはここで待て」
蝋燭を持った男、ロバート・モーティマーは男たちをその場に残し、宮殿の奥へと進んでゆく。その顔は浮かないものだった。
王太后ベル・フォン・ユヴェーレンは寝室に明かりを灯し、椅子に座り込んでいた。扉が小さく叩かれると、待ちかねたように立ち上がり、扉を開ける。
「お待たせいたしました、王太后」
モーティマーが恭しく頭を下げるのを、ベルは苛々した様子で部屋に引っ張り入れる。
「ユヴェーレンからの密使は?」
「ここに手紙を」
ベルはモーティマーの手から手紙をひったくると貪るように目を通す。が、やがてそれは失望の表情へと変わる。
「……父王陛下は何と?」
父王とはベルの父親、ユヴェーレン王オーギュストのことだ。ベルは悔しげに目を閉じ、呟く。
「……カンパニュラとの戦いが続いていて、アングルにまで手が回らぬそうよ」
薄情な父親だ、とモーティマーは胸の中で呟く。
ユヴェーレンは、十年前にオーギュスト王がけしかける形で隣国カンパニュラと戦争状態に入った。初期の戦闘でカンパニュラ王エンリケがユヴェーレン軍に囚われ、無惨に殺されたことでカンパニュラは絶体絶命の危機に陥ったが、夫の遺志を継いだ王妃フランチェスカが軍を率いるや息を吹き返し、現在も一進一退の戦争状態にある。フランチェスカは実質的な女王として、今もユヴェーレンと戦っている。
それにしても、娘をアングルから受け入れることぐらいはできるだろう。オーギュストとしては、アングルの王位継承戦争に巻き込まれたくないため、今しばらく様子を見るつもりか。
(まぁ、いい)
モーティマーは人知れず胸を撫で下ろした。ユヴェーレンもカンパニュラも、自分たちの争いで手一杯。アングルの内戦につけ込む余裕はないらしい。
更に手紙を読み進めたベルは眉をひそめた。気分を害したというより、腑に落ちないといった表情だ。
「……ガリアのリシャール王が」
予想もしていなかった人物の名前に、モーティマーも顔をしかめる。
「息子から逃れるためにアングルに向かうつもりだそうよ」
「……何ですと?」
露骨に顔を歪めてモーティマーが聞き返す。
「このままガリアに留まれば王太子に殺されてしまう。そうなる前にアングルへ……」
「何故アングルなのです? マーガレット王妃はすでに亡く、義兄に当たるエドガー王も崩御されております。アングルは彼を救済する義務も義理もありません。それに、今はそれどころでは……」
「うまく使えば良いのよ」
ベルの一言にモーティマーは唖然とする。彼女は策士らしい笑みを浮かべ、モーティマーを見上げる。
「敗残の王と言えど、リシャールは手ぶらでは上陸するまい。要はプレセア宮殿を奪回できれば良い。冷血公の留守を狙えば、できないことはないわ」
「しかし、リシャール王がそのままアングルに居座り、王位を纂奪するようなことになれば……」
その言葉に対し、ベルは鋭い目でモーティマーを睨み付ける。
「構わないわ。汚らわしい妾腹どもに比べたら、よほどいいわ……!」
(……女め……)
モーティマーは心中で毒づくと思わず天を仰いだ。
「モーティマー。ガリアへ行き、リシャール王と接触して参れ」
「な……、簡単に申されても!」
モーティマーは慌てて向き直る。
「王太后、私があくまでルール公から命じられたあなた様の監視係であることを、お忘れにならないで下さい! ガリアまで行けと申されても……」
「一日あれば、ホワイトピークから船でガリアへ渡れる。そこをうまくやるのがそなたの仕事よ」
勝手なことを言う王太后を、モーティマーはうんざりしたように見つめる。
元よりこの女はアングル人ではない。所詮異国の王女だ。嫁ぎ先の国を誰が治めようと関係ない。自らの身が安全ならば。
だが、ベルの場合はまったく同情できないわけではなかった。ユヴェーレンからはるばる嫁いだにも関わらず、夫は次々と愛人を作り、子を生ませた。やっと一粒種である嫡男が誕生したのも束の間、十歳という幼さで亡くしてしまった。ベルがアングルに対して冷淡になるのも、無理からぬことだった。
「……わかりました」
仕方なくモーティマーは承諾した。
「やってみます」
「頼むわ」
ベルは目を爛々と輝かせ、熱っぽく囁いた。
「今ではそなたしか頼る者がいない……。わかるでしょう?」
そう囁きながらモーティマーの腕にそっと手を絡めるが、本人はさりげなく手を脇へ押しやる。
「……くれぐれもルール公に感づかれぬよう」
冷たく乾いた声で囁き返すと、モーティマーは一礼して寝室を後にした、残されたベルは、まるで辱めを受けたかのような顔つきで唇を噛みしめた。
モーティマーは暗い廊下を重い足取りで進んでいった。
自分は何だ。冷血公の奴隷か? 王太后の間諜か? いつから自分はこんな腑抜けになった。愚王に仕えていた頃を懐かしく思う日が来ようとは……。モーティマーは、心まで闇に呑まれようとしていた。
秋の乾いた風が、涼しさを通り越して薄寒く感じ始めた。クレド城の大広間では、数人の楽士たちが優雅な旋律を奏でていた。大広間の中央では、顔を引きつらせたキリエがジョンを相手に、危なっかしい足取りでダンスのステップを練習している。
「もっと力を抜いて、キリエ様」
マリーエレンが苦笑しながら声をかける。
「余計な力が入ると思うように体を動かせませんよ」
「そうですよ。私の足なら大丈夫。踏まれようが蹴られようが……」
ジョンの言葉にかえって緊張したキリエの足がジョンの脛を蹴る。
「痛……!」
「きゃあッ! ご、ごめんなさい、ジョン!」
脛を押さえて蹲るジョンに、背後からマリーが痛烈な言葉を浴びせる。
「蹴られても大丈夫なんじゃなかったの? ジョン」
とは言え、キリエの靴は先の尖った流行の型だ。キリエが半分泣き顔で訴える。
「私、駄目だわ。ダンスなんかできない」
「しかし、女王に即位されれば宴席が増えますよ」
「大丈夫ですよ。兄に比べたらキリエ様は飲み込みが早いですもの。焦ることはありませんわ」
マリーの、妙に説得力のある言葉にキリエは思わず振り返る。確かに、ジュビリーはダンスが得意そうには見えない。だが、あの完全無欠に見える男に不得手なものがあるということが微笑ましい。
「……上手じゃないの?」
「はっきり申し上げて下手です」
マリーのにべもない言い方にキリエが思わず吹き出す。つられて一同が笑い声を上げた時、音合わせをしていた楽士たちが一斉に沈黙した。キリエがぎょっとして振り返ると、ジュビリーとレスターが大股にやってくる。
「……ジュビリー?」
「キリエ」
ジュビリーの固い声はその場の空気を引き締めた。
「タイバーンが動いた」
短くそう告げられ、キリエは思わず息を呑んだ。