〈タイバーンに動きあり〉の報はプレセア宮殿にも届けられた。レノックスはすぐにも軍を起こそうとしたが、ヒューイットが押し留めた。
「むやみに相手を刺激すれば、無用の争いを引き起こします。まずは我らが様子を見てまいります」
戦いと名の付くものなら何でも喜んで駆けつけるレノックスだが、自らの立場を考えると渋々ながら同意した。
「モーティマーを連れていけ。万が一のためにな」
「はっ」
こうしてヒューイットとモーティマーはわずかな手勢を率いてタイバーンへ向かった。だが、イングレスの郊外に差し掛かった時、宮殿から伝令が追ってきた。
「サー・オリヴァー! サー・ロバート! クレドにも動きがあったそうです!」
「クレドが?」
ヒューイットが顔をしかめる。
「この機に乗じて挙兵するつもりか」
「まさか。あの修道女が許すとは思えぬ」
モーティマーの言葉にヒューイットは声を上げて笑う。
「おめでたい奴だな! クレド伯がキリエ・アッサーの意向を汲む行動をすると思ってか!」
「とにかく、動いたことは確かだ……。私はクレドへ向かう」
「頼んだぞ。俺はこのままタイバーンへ向かう」
元より行動を共にするつもりのないヒューイットは、手綱を引くと馬を走らせた。残されたモーティマーはヒューイットたちを見送ると、子飼いの部下たちを連れてクレドへ向かった――と見せかけ、彼が取った進路はクレドではなかった。
モーティマーたちは沈黙のまま馬に鞭打ち、必死にある方角をめがけて走りに走った。やがて、彼らの目に港町が見えてくる。アングルとガリアを結ぶ玄関口、ホワイトピークだ。
イングレスからホワイトピークは、馬を急がせれば一時間で辿り着くことができる。モーティマーはすでに連絡をつけていた小型の帆船に乗り込むと、一路ガリアへ向かった。
タイバーンの様子を見てくるよう命じられた時、ガリアに潜入するのは今しかないとモーティマーは思った。かねてから準備を進めていたが、ついにガリアへ向けて出航した。もう後には退けない。
ちょうど昼時に出航した船は、帆に風を受けて海原を進んだ。秋の冷たい海風に晒され、モーティマーは複雑な心境で海上の波を見つめた。こちらが放った密偵が首尾良く手筈を整えていれば、ガリアのクーレイ港近くでリシャール王が待っているはずだ。
(……私は、逆賊か……?)
モーティマーの思い詰めた表情を海風が撫でてゆく。王太后に命じられるまま、異国の王がアングルへ侵入しようとするのを手伝うのは、売国行為か。彼の虚ろな目は何も捕らえていなかった。君主不在のアングルは、そのままモーティマーの心でもあった。目標も、希望も、心の拠り所もない彼は、すでに立ち止まることすら自分の意志ではできないほど荒んでいた。
少し陽が傾き始めた空を見上げる。ガリアはクーレイ港近くの寂れた漁村。とある荘園領主の別荘の玄関先で空を見上げた男は、別荘へ続く小道の先に数人の男たちの姿を認めた。
「……早いな」
男は呟くと、視線を動かさないまま傍らに控えていた従者に命令を下す。
「陛下にお伝えしろ。アングルからの使者が到着したと」
従者は頷くと踵を返した。やがて玄関先までやってきたモーティマーは男に向かって一礼した。
「ロバート・モーティマーと申します。王太后ベル・フォン・ユヴェーレンの使者として参りました」
「遠路はるばるご苦労であったな。私はアンジェ伯爵アルマンド・バラだ。少し休むがよい」
「いいえ、時間が惜しい故」
「そうだな」
彼は頷くとモーティマーたちを招き入れた。モーティマーは疲労の入り交じった目でアンジェ伯バラをそっと伺う。明るい栗毛を短く刈り込み、髭もきれいに整えてある。軽装ながら鎧を身につけているが、服装や立ち居振る舞いなどから、なかなかの洒落者に見えた。
モーティマーたちは広間へ案内された。広間へ入ると、奥の椅子に簡素ながら上質な衣装を身につけた男が座り、その両脇を数人の男が控えている。
男はやせ衰え、白髪が目立つ灰色の髪、落ち窪んだ瞳の奥には疲労の色が見える。だが、痩身を起こし、姿勢を正したその姿は確かに威厳があった。ガリア王リシャール・ド・ガリア。息子に背かれ、国を二分する争いの渦中にある人物である。
「……アングルより参りました。ロバート・モーティマーと申します。拝謁を賜り、恐悦至極に存じます」
モーティマーは跪くと恭しく頭を下げる。
「……ご苦労」
しゃがれた声で短く答えるリシャール。ついで目を眇めて言葉を接ぐ。
「……アングルも王位継承を巡って国が乱れておるそうだな」
「はっ」
「そなたは王太后の使者ということだが……」
「現在私はルール公から王太后の監視係を命じられておりますが、本日参上いたしましたは、王太后の命でございます。……ルール公はアングル王の器にあらず、と仰せです」
しばらくじっとモーティマーを凝視していたリシャールは溜息を吐き出し、椅子にもたれかかった。
「レノックス・ハートか」
疲れ切った表情のリシャールは、まるで昔を懐かしむかのような口調で呟いた。
「勇猛な戦士であることに間違いはない。だが、奴は獣だ」
獣。レノックスを一言で表現するのにこれほど適切な言葉はないだろう。モーティマーは疲れた笑みを浮かべると共感の意を表した。
「戦略上、彼とは何度も衝突した。奴は戦いを楽しんでいた。楽しみを増やすために戦争を長引かせようとしたのだ。……エドガーも厄介な男を寄越したものよ」
苦々しげに吐き捨てるリシャールに、モーティマーは静かに頷いてみせる。
「それで、王太后は何をお望みだ」
「……陛下は、近々機を見てアングルへ上陸を検討なさっているとお聞きいたしました」
リシャールは顔を歪めて笑った。
「……そういうことにしておこう」
「王太后はルール公の留守を狙い、陛下にプレセア宮殿を襲撃していただきたいと」
バラがかすかに表情を変える。リシャールは顔をしかめた。
「……プレセア宮殿を占拠できたところで、予にどうしろと?」
「後は……、陛下のお好きなように……」
モーティマーの言葉に側近たちは顔を見合わせた。リシャールは体を乗り出すと相手の顔を凝視した。
「王太后は、何を望んでおるのだ」
「とにかくルール公を排斥したい、と。リシャール王が協力していただけるのであれば……、アングルを差し出しても構わぬと」
「その代わりガリアを諦めよと申すかッ」
思わず大声で一喝するリシャールだったが、モーティマーは動じなかった。跪いたまま、上目遣いで異国の王を射るように見つめる。
「アングルを手中にし、態勢を整えた後、ガリアへ派兵して王太子殿下から国を奪い返す方法もありましょう。一国の王にとどまらず、両国の王を名乗ることも、不可能ではありませぬ」
「……恐ろしいことを言う奴よ」
リシャールはそう嘯いたが、その表情には笑みが浮かんでいた。背を丸め、手招きしてモーティマーを側へ呼ぶ。
「できるのか、そのようなことが」
「冷血公への反感は日毎に高まっております。イングレスの市民も表面的にしか服従しておりません」
「なるほど」
「しかし、もちろん綿密な作戦と準備が必要でございます。密に連絡を取り合わなければ……」
「わかった」
リシャールは自信に満ちた顔つきで背筋を伸ばした。
「まずは検討してみよう。イングレスの様子を逐一報告するがよい」
「はッ」
モーティマーは再び平伏した。
別荘を出て港へ帰ろうとするモーティマーを、アンジェ伯バラが呼び止めた。
「サー・ロバート」
荒んだ表情のモーティマーは、わずかに眉間に皺を寄せてバラを見返した。
「何でしょう」
「アングルには、ルール公以外の勢力があるはずだ。今のところ、脅威と言える勢力はどこかな」
「脅威と申しますか……」
モーティマーは口ごもった。
「ルール公に反発する者は大勢います。組織立った動きをしているのは……、今のところグローリア女伯ぐらいでしょうか」
バラは眉をひそめた。
「以前は修道女だったという、ルール公の異母妹か」
「冷血公と修道女……。国民がどちらを望むか、おわかりでしょう」
モーティマーが溜息まじりに呟くのを、バラは思案げに見つめる。
「しかし、修道女が王位継承に名乗りを上げるとは……、俄かには信じがたい」
「自発的に王位宣言をされたのではなく、女伯の後見人が教会にお迎えに上がったのです」
バラが目を眇める。
「後見人?」
「クレド伯です」
「クレド伯というと……、あのロングボウ隊の……」
バラはジュビリーとは面識がないながらも、彼が率いているロングボウ隊の噂は耳にしていた。
「なるほど。では、王位継承戦争はルール公とグローリア女伯の一騎打ちか」
「それはまだわかりませぬ。先日、もう一人の王位継承権者であるレディ・エレソナ・タイバーンが幽閉先から脱出しました。遠からず、王位を宣言するでしょう。しかし、評判は芳しくありません」
「何故だ」
モーティマーは薄ら笑いを浮かべて肩をすくめて見せる。
「四歳にして、異母妹グローリア女伯を殺そうとしてエドガー王陛下に幽閉されています」
その言葉にバラは両目を見開くと同じように肩をすくめる。
「恐ろしい娘だ」
「国民からの支持は得られないでしょう」
「では……、国民はグローリア女伯の即位を望んでいると?」
根掘り葉掘り聞き出そうとするバラに、モーティマーはようやく不審の目を向けた。だが、本当のところは、バラが何に興味を持っていようがどうでもよかった。
「……国民が真に望んでいることは、争いが終わることですよ。アンジェ伯」
「そうだな」
バラは笑顔を見せるとモーティマーの肩を叩いた。
「アングルまでの道中、充分気をつけて帰ることだ」
「何てことだ」
オリヴァー・ヒューイットは苦虫を噛み潰したような顔つきで吐き捨てた。
タイバーンを出発した軍勢は、一路マーブル伯領へと向かっていたが、そのマーブル城から出迎えの行列が何十マイルも続いていたのだ。それを見たヒューイットは慌ててイングレスへ早馬を送った。
「マーブルを根拠地に、いよいよ王位を宣言するか……」
珍しく焦りの表情でヒューイットは呟いた。レノックスが軍を派遣し、到着したとしても一体どうすれば……。プレセア宮殿の実権を握っているとは言え、レノックスの立場は砂の城のように脆い。そんな今、エレソナ・タイバーンと戦争状態に入れば、クレドのキリエ・アッサーがイングレスへ侵入しようとするだろう。ヒューイットが考えあぐねていると、部下が馬を走らせてくる。
「サー・オリヴァー! イングレスからの部隊が間もなく到着しますが、タイバーン側にも気づかれたようです!」
「何だと」
「タイバーン軍の
ヒューイットは慌てて馬の手綱を引くと部下に導かれるまま現場へ急ぐ。やがて前方の平原から人々の怒号や武器が触れ合うざわめきが耳に入ってくる。
「……遅かったか!」
すでに一部の部隊が小競り合いを始めている。
「退け! 退くのだ!」
勝手に戦闘を始めれば、内戦が一気に拡大する。ここは腰抜けと揶揄されても戦闘を切り上げて退却しなければならない。
「サー・オリヴァー・ヒューイットとお見受けする!」
「……!」
一人の騎士から叫ばれ、彼は顔をしかめて顔を上げる。周りの騎士たちは剣と楯で揉み合っている。
「ルール公はいかなる理由で我らに牙を剥く? 理由を述べよッ!」
「間違いだッ。我らに攻撃の意思はないッ」
「白々しい。これだけの軍勢を呼び寄せておきながら……」
「話にならん。退却だッ!」
ヒューイットの部下たちが退却を叫び、ようやく部隊が後退しようとした時。背後から騎馬隊が現れた。
「待て!」
先頭の騎士が呼ばわると、兜を脱いだ。
「そなたがオリヴァー・ヒューイットか」
ヒューイットは目を疑った。マーブル伯ジェラルド・シェルトン。
「ちょうどいい。そなたには証人になってもらおう」
「証人?」
狼狽たえた表情のヒューイットを尻目に、シェルトンの後ろから華奢な騎士を乗せた馬がゆっくりと現れる。白銀の甲冑に金色の外衣を羽織った騎士は、兜のバイザー越しにしばしヒューイットを眺めると、やおら兜を脱いだ。
「なっ……!」
兜から光り輝く美しいプラチナブロンドが流れ落ちる。エレソナ・タイバーンはヒューイットをやぶ睨みの目で凝視した。
「……エレソナ・タイバーン……!」
譫言のように呟くヒューイットに、シェルトンが鋭く言い返す。
「口を慎め。タイバーン女子爵である」
「……子爵だと」
ヒューイットは顔をしかめる。では、母親の爵位を譲り受けたというのか。エレソナは薄い唇に冷笑を浮かべた。
「おまえがレノックス・ハートの腰巾着か。帰って兄に告げるが良い。アングルの女王は私だと」
その瞬間、タイバーン軍が一斉に鬨の声を上げる。剣や槍を天に突き上げ、大音声でエレソナの名を叫ぶ軍を前に、ヒューイットは顔を歪めて怒鳴り返す。
「十二年もの間幽閉されていた小娘が君主とは呆れるわッ! 自分の立場をよく考えるがよい!」
ヒューイットの罵声にも、エレソナは動じなかった。
「貴様も立場を考えるがよい。今貴様がやるべきことは、軍を率いてイングレスへ戻り、兄上に報告することだ。タイバーンの異母妹が王位を宣言したとな」
「無駄なことを……! 王位はすでにルール公が……」
瞬間、エレソナが両目を見開き、一喝する。
「黙れッ! さっさと往け! ぐずぐずしていると、貴様の首をそのままプレセア宮殿に送りつけるぞッ!」
周りのタイバーン兵たちも騒ぎ立て、ヒューイットは唇を噛み締めると手綱を引き、自らの部隊に怒鳴った。
「退却だ……!」
ヒューイットは今一度エレソナを一瞥すると、軍を退却させた。
「見事な王位宣言です」
シェルトンが低い声で呟く。エレソナはふんと鼻を鳴らすと苛立たしげに目を伏せる。
「よく吠える犬だ」
そう吐き捨てるとエレソナは顔を上げ、鬨の声を上げる軍勢を見渡した。見上げれば大空が広がり、どこまでも続く地平線が目に映る。以前では考えられなかった雄大な光景に、エレソナは笑みを浮かべた。
「これからだ」
エレソナの呟きにシェルトンが振り返る。
「これからは、自分の手で、足で、何でもできる」
「はい」
待っているがいい。プレセア宮殿の王座にしがみついている異母兄よ。クレドで身を隠している異母妹よ。エレソナは拳を突き上げて軍の歓声に応えた。
タイバーンへ放った斥候がクレド城に帰還した。城のアプローチで報せを聞いたジュビリーは表情を曇らせ、重い足取りでキリエの私室へと向かった。
私室では、キリエが落ち着かない様子でジョンと低く言葉を交わしている。ジュビリーが入ってくると、キリエが椅子から立ち上がる。
「……ジュビリー」
不安そうなキリエに頷いてみせると、ジュビリーはキリエに椅子に座るよう促す。
「タイバーンの雌狼が王位を宣言した」
雌狼。ジュビリーの表現にキリエは眉をひそめたが、これ以上の表現はないだろうと思われた。
「タイバーン女子爵を名乗ったそうだ。母親のアリスが爵位を譲ったのだろう。甲冑姿で騎乗のまま王位宣言し、オリヴァー・ヒューイットを罵倒して退却させたらしい」
キリエが唇を噛み締め、顔を伏せた。レノックス同様、ヒューイットもキリエにとっては許しがたい男だ。レノックスに襲われた際、彼が投げかけた嘲りの目が脳裏から離れない。
「……エレソナは、今……?」
「マーブル城に入城したそうだ。これからは、そこが根拠地となるだろう。本格的に王位継承戦争に参戦することになる」
キリエは眉をひそめたまま低く呟く。
「レノックスはもちろん王位を認めない……。このままだと衝突は避けられないわ」
「今はまだ大丈夫だ。斥候の報せでは、レノックスの支配も表面上に過ぎん。地盤がしっかりしていないうちは、全面的な衝突は、レノックスの方が避けたいはずだ」
キリエは顔を曇らせ、遠く離れた兄と姉を思い、溜め息をついた。力なく立ち上がると、ゆっくりと歩き出す。その先には、アングル全域を描いた見事なタペストリーが壁一杯に飾られている。タペストリーを見上げ、視線を漂わせるとマーブルの地を探し出す。マーブルはタイバーンに比べるとややイングレス寄りの位置だ。クレドやグローリアからは離れている。
アングルが君主不在の内戦に突入してから三ヶ月。お互いの動きを牽制し合い、今は不気味な沈黙が流れている。いつ衝突が起こるかわからない中、不安を最も抱いているのはアングルの国民だ。キリエは胸が痛んだ。国の発展を願い、豊穣を祈り、人々のささやかな幸せに奉仕する修道女だったはずの自分が、争いを引き起こしている。
(どうすれば……、争わずして王位を継承し、国を安定化させることができるの……)
自らに問いながら、それが甘い考えだということは頭ではわかっていた。だが、それ以上どうすればいいのか、何をすべきかわからないことがキリエを不安にさせた。
「キリエ」
いつの間にか背後にやってきていたジュビリーに名を呼ばれ、体がびくりと跳ねる。
「おまえは皆の希望だ」
希望という言葉にキリエはぞくりとした。ジュビリーの顔を恐る恐る見上げる。
「冷血公も、タイバーンの雌狼も、国民は君主に望んではいない。おまえは最後の砦だ。それを、忘れるな」
「……はい……」
かすれた声で返事を返すと、キリエは再びタペストリーを見上げた。