エスタドの王都ヒスパニオラ。王の居城ピエドラ宮殿の一室で、一人の少女が
少女は温かみのある柔らかな金髪で、すらりとした細身の体にぴったりとした衣装を着こなしていた。細くしなやかな指が優美な曲を紡ぎ、穏やかで優しい空間に満ちてゆく。が、しばらくすると彼女は眉をひそめて手を止めた。そして、困ったような顔つきで背後を振り返る。
「父上、そんなに近くからご覧になったら、弾きにくいですわ」
「ん? そうか?」
背後からのぞき込むようにして眺めていた大柄な男が、おどけた様子で返す。
「フアナのバージナルを聞くのも久しぶりだ。上手になったな」
「新年の宴でおばあ様にお聞かせする約束ですから」
「そうか」
男は目を細めると嬉しそうに頷く。フアナは少し首を傾け、父親を見上げた。
「最近、ずっとお忙しかったですものね。今日はこんなにゆっくりなさって大丈夫なのですか?」
「たまには息抜きをしないとな。イサベルやアンヘラとも会う時間を作らねば」
男はもう二人の娘の名を挙げると、しみじみと呟いた。そして、フアナの頭を愛おしげに撫でる。彼女も満ち足りた笑顔で父親を見上げる。二人が寄り添う姿は平和な家族の風景そのものだ。
男の名は、ガルシア・フアン・デ・エスタド。プレシアス大陸で今最も隆盛を誇っている大国、エスタド王国の君主である。艶やかな黒髪は短く刈り込まれ、口髭も美しく整えられている。いかつい体躯ながら、深い愛情が込められた黒い瞳は愛娘フアナに向けられている。〈エスタドの大鷲〉と恐れられている王は、大変な子煩悩であった。
豊かで広大な国土を持ち、さらには貿易で富を得たエスタドは自然と文化も高く、軍事、経済、政治、全てにおいてプレシアス大陸の中心となっていた。ガルシアの父カルロスがその礎を築き、息子がその勢力をさらに伸ばした、まさに日の沈まない国と称されるに足る大国である。
そんなガルシアにもたったひとつ残念なことがあった。それは、自身に嫡男がいないことである。とは言え、目に入れても痛くないほど溺愛する娘が三人いる彼にとっては、男子がいないことも大した悩みではなかった。
フアナは彼の長女で、今年十六歳になった。妹に、イサベル十四歳、アンヘラ十歳がいる。ガルシアは娘を三人とも可愛がっていたが、特にフアナは別格だった。それは、彼女が亡くなった妻に年々似てくるからであろうか。
ガルシアは家族を大事にする男だった。妃のペネロペは国内の名家の出身で、その血筋は王族ではない。外国の王家との政略結婚も勧められていたが、それらを退けてペネロペとの結婚を果たした経緯があった。美しく聡明な妃は、ややもすれば専制に走りがちな夫を鎮める役割を果たし、国民から敬愛された。ガルシアにとって妻は同志であり、女神であった。だが、三女アンヘラの産後の肥立ちが悪く、その短い生涯を終えた。以後、ガルシアは再婚もせず、独身を貫いている。
フアナは母が亡くなった後、自らが父の後継である自覚を持ち、積極的に政治の現場へ参加している。二人の妹は体が弱く、時々王都を離れて転地療養をしている。フアナはそんな妹たちの母親代わりも務めている。偉大な母の思いと志は長女フアナに確実に受け継がれた。ガルシアにとっては実に頼もしい跡継ぎだった。
「このままだと年明けも慌ただしくなるかもしれん。だが、できるだけ時間を取ろう」
「無理なさらないで、父上」
フアナが少し心配そうな表情で訴えた時、背後から声をかけられる。
「陛下」
二人が振り返ると、部屋の入り口に長身の男が佇んでいる。その顔は心なしか引きつっているようだ。
「ビセンテ」
エスタドの宰相、第二代オリーヴ公爵ビセンテ・サルバドール。親子二代で王を支えてきた由緒ある名門公爵家の当主であり、ガルシアとは君臣の立場を越えた絆を結んだ男である。灰色の髪と瞳を持った宰相は、陰のある暗い表情で歩み寄った。
「どうした、何があった」
「実は……」
言葉を濁し、ちらりとフアナに目を向けるが、ガルシアは「構わん」と促す。
「ガリアのリシャール王がアングルへ侵攻しました」
「……何だと」
ガルシアの顔が〈エスタドの大鷲〉へと変貌する。フアナの表情も凍り付いた。
「たった今の報せでは、ホワイトピーク城を陥落し、イングレスへ侵入したと」
「ギョームは何をしている」
「王都オイールへ向けて進軍を開始したとのことです」
ガルシアは呆れ果てた様子で頭を振ると手近の椅子に腰を下ろした。
「あの男……、何を考えている!」
そう言って拳を肘掛けに叩きつける。
「そろそろ泣きついてくる頃だろうと思っていたが、まさか……、国を捨てただと!」
ガルシアが苛立たしげに口走る。と、室外が騒がしくなったかと思うと宮廷補佐官が慌ただしくやってくる。
「早馬が到着しました。リシャール王がプレセア宮殿を占拠したそうです」
ビセンテが眉間に皺を寄せ、ガルシアを振り返る。彼は怒りを抑えた様子で補佐官に尋ねる。
「エドガーの三人の庶子たちはどうしている。直接対決の真っ最中だったはずだ」
「ルール公はグローリア女伯の軍に破れ、敗走。イングレスを目指したタイバーン女子爵も進軍を阻まれ、撤退しています」
その結果にガルシアは意外そうな顔つきをしてみせた。
「冷血公が破れたというのか。あの、元は修道女だという小娘に」
「斥候の報告では、女伯は言葉巧みに軍の士気を高めた上、戦場に赴いて異母兄と対峙したとのことです」
「ほう!」
ビセンテは目を見開き、ガルシアは笑いだした。
「とんだ修道女だな! エドガーもたいした子どもを持ったものだ」
「しかし、そんな中でリシャール王の侵攻を受けるとは……。庶子たちも慌てふためいていることでしょう」
「そして、ガリアもな。あの小僧……、ますます図に乗るぞ」
苦々しげに呟くガルシアを眺め、フアナは哀しげに目を伏せた。そんなフアナに気づいたビセンテが痛ましい表情で見つめる。
ガルシアは、リシャール、ギョーム親子に並々ならぬ恨みがあった。プレシアス大陸だけでなく、大陸外にも手を伸ばそうとしたガルシアは、アングル王エドガーの嫡男エドワード王太子とフアナ王太女を婚約させた。しかし、エドワードが急死したため、この縁組みは白紙となった。そこへ、ガリアのリシャール王が息子との縁組みを求めてきたのだ。
以前から内乱続きで国力が衰え、大陸における立場が弱くなる一方だったリシャール王は、アングルと同盟を結ぶためにエドガーの妹マーガレットと政略結婚していた。が、マーガレットとも死別し、隆盛を続けるエスタドとの同盟が国益に叶うと考えたリシャールは、息子ギョームとフアナの縁組みを望んだ。つまり、リシャールはエスタドの傘下に入ることで生き残る方法を選んだのである。
ガルシアの方も、フアナをギョームに嫁がせ、将来的にはフアナをガリアの〈女王〉にすげ替えることを目論んだ。彼の父や祖父は同じやり口で、隣国レオン公国とレイノ公国を手に入れたのだ。
そして、ガリア王太子ギョームといえば、幼い頃から頭脳明晰にして容姿端麗と賞賛された〈ガリアの若獅子〉。ガルシアも、自慢の娘を嫁がせるのに申し分ない相手だと考えた。だが、事態は思わぬ方向へ展開した。ギョームがフアナを拒んだのだ。
ビセンテはその現場に居合わせた。彼はガルシアの代理として縁談をまとめるべく、ガリアの王都オイールまで赴いた。しかし、ギョームはその優美な姿とは裏腹に、冷たくこう言い放った。
「ガリアはエスタドの属国にはならぬ」
ビセンテは呆気にとられ、次いで怒りに打ち震えたが、次の瞬間、リシャールが息子を殴り倒した。そのため、その場は何とか収まったものの、ガルシアは当然のことながら激昂した。両国は一触即発の危機に直面したが、フアナの懇願と、リシャールの平身低頭の陳謝によって戦争は回避された。だが、フアナの心には深い傷が残された。そしてその傷は癒えることなく、毎日のように痛みが疼く古傷となった。あの事件以降、父親がガリアやギョームの名を耳にするだけで目の色を変え、周囲に当たり散らすことにフアナはいたたまれない思いでいたのだ。
「あの小僧はそのまま王位に就くつもりか」
「……どうでしょうか」
ビセンテは冷静ながらも疑わしげな顔つきで呟いた。
「ギョーム王太子はすぐには戴冠されないでしょう。まずは国内の収拾に努め、それから王位を宣言するでしょう。もしくは、即位する前に自身もアングルへ乗り込むやもしれません」
ビセンテの言葉にガルシアは顔をしかめた。
「何故なら、王太子の母后はアングル王女マーガレット・オブ・アングル。つまり、王太子はガリアだけでなく、アングルの王位継承権も保持しています」
ガルシアとフアナが目を見開く。
「……アングルの、王位継承権……」
ビセンテは声を低めて続ける。
「きっと、王太子はアングルへも興味を抱いているはずです。それに……、王太子とリシャール王の確執は並々ならぬものがあると聞き及んでおります。王太子は、父親を放ってはおかないでしょう」
「……なるほどな」
ガルシアは低く呻くと腕組みをして考え込んだ。リシャールがアングルへ侵攻したことで、アングルは一層混迷を深めるに違いない。彼にとってはレノックス・ハートが敗戦を喫することは予想していなかった。レノックスがエスタドとの同盟を望んでいることは伝え聞いていた。もしもレノックスが王位継承争いに敗れ、キリエ・アッサーがアングルの女王になれば、アングルはエスタドとは同盟を結ばず、クロイツとの結びつきを強めるに違いない。クロイツが信仰という名の下に全世界に影響力を持つことに我慢ができないガルシアは、これ以上クロイツに力をつけさせたくはなかった。
「ビセンテ」
「はっ」
ガルシアは思案顔で囁いた。
「レノックス・ハートに使者を送れ。……場合によっては、援軍を送ると」
「……御意」
ビセンテは短く応えると頭を下げた。
広大なプレセア宮殿の北に位置する塔。モーティマーは沈んだ表情で地下へ降りていった。地獄への入り口のような暗い暗い階段。湿り気を帯びた暗く湿った壁に、ランプの明かりが広がる。地下牢の住人は、響いてくる足音に耳を傾けながら、傷の痛みに顔を強張らせた。左肩に申し訳程度の包帯が巻かれ、血がにじみ出ている。モーティマーはランプを掲げると低く呼びかけた。
「……ホワイトピーク公」
ウィリアムは眩しそうに目をしばたかせ、自分の名を呼ぶ相手を不審げに眺めた。が、そのやつれた顔が歪む。
「……そなた、まさか……、ロバート・モーティマー?」
「……はい」
呆れた様子でしばらく黙ったままモーティマーを凝視していたウィリアムは、ようやく言葉を搾り出した。
「……どうした、その変わりようは」
ウィリアムの知っているモーティマーは、地味ではあったが王の信頼を得た第一秘書官であり、王に気に入られていながらそれを鼻にかけることのない真面目な側近の姿だった。それが今では頬は痩け、頭には白いものが混じり、元々の痩身はさらに細くなっている。何より目つきが変わった。細く鋭くなりながらも、その実、曇りがちの目には生気が感じられない。曇天のような灰色の濁った瞳。
「……そなた、今どうしているのだ」
ウィリアムの問いに、モーティマーは自らを嘲るような弱々しい笑みを浮かべた。
「……情けないコウモリに成り果てました」
「コウモリ?」
「ルール公がプレセア宮殿を占拠した時、私は秘書官としてここへ留まりました。そして、ルール公から王太后の監視を命じられました。ですが、王太后に言いくるめられ、ルール公を駆逐するべく奔走させられました」
ウィリアムの表情が険しくなる。
「では、まさか……、ガリア軍の上陸を手引きしたのは……」
モーティマーは肩を落とし、うなだれた。
「……私です」
「何故だ」
ウィリアムの詰問に、モーティマーははっきりとした答えが返せなかった。彼はくぐもった声で、途切れ途切れ呟く。
「……主君を失うということが、これほど苦しいものだとは思いもよりませんでした。私は……、ルール公の下僕なのか、王太后の密偵なのか、わからなくなりました。そして、自分が本当に、何を望んでいるのかも……。今いる自分は、自分でないような……」
そこでモーティマーは口をつぐんだ。ウィリアムが気の毒そうな顔つきで耳を傾けているのに気づいたのだ。
「……やめましょう。何を言っても言い訳になります」
重苦しい沈黙が流れる。ウィリアムの溜息が暗がりの中で静かに響く。
「そなた……、檻の外にいながら、生きることをやめた顔をしているな」
モーティマーは力なく頭を振る。
「巨大な檻に捕らわれている故、目に見えぬだけでございます」
「そなたの檻は、出ようと思えば出られるはずだ」
ウィリアムは顔を歪めて苦笑いを浮かべる。
「私は死を待つばかりだ。この傷が元で死ぬのが先か。それとも、奴らによって処刑されるのが先か。どちらにしろ、私は解放されることはない。だが、そなたは生きろ」
モーティマーは面食らった様子で黙り込んだ。まさかそのような言葉をかけられるとは予想だにしていなかった彼は、かすかに体を震わせ始めた。
「わ……、私は国を売ったも同然です……! そんな私が、生きながらえるなど……!」
「私は、そなたをよく知っている」
ウィリアムは諭すように穏やかに語った。
「そなたは幼い頃から、真面目に職務に励んできた。……ガリアの片棒を担いだのも、本意ではあるまい。私にはわかる」
モーティマーは悔しそうに唇を噛みしめると片膝をついてしゃがみ込んだ。ウィリアムは刀傷による熱で目眩を感じながらも、言葉を続けた。
「そなたは隙を見て逃げ出せ。もう、これ以上流れに身を任せるな」
「……公爵」
「私を連れて逃げようなどと考えるな」
ウィリアムの言葉に、モーティマーが顔を上げる。
「……ここを出たところで、私に行くところなど……」
「情けないことを言うなッ」
ウィリアムが鉄格子を握り締め、怒鳴りつける。
「そなたには足がある。どこにでも行ける。国を売ったことを恥じるなら、汚名を濯ぐ方法を考えろ。諦めてはならんッ」
ウィリアムの必死の形相に、モーティマーは黙って彼を見つめた。自分には、まだ運命に抗う力が残されているのだろうか、と。
聖クロイツ大聖堂の自室では、ムンディが一通の書状に目を落としていた。やがて扉が忙しなく叩かれ、騎士団長ヘルツォークが入ってくる。
「猊下!」
いつもは穏やかなヘルツォークが入ってくるなり慌てた様子で声を上げ、ムンディは眉をひそめた。
「どうした」
「アングルにてルール公とグローリア女伯が直接対決に臨んだのですが、予想外の展開に……」
「何があった」
ヘルツォークは少し落ち着くとゆっくりと説明し始めた。
「結局、戦いはグローリア女伯の勝利で終わったのですが、その混乱に乗じてガリアのリシャール王がイングレスを占領した模様です」
「……何だと?」
ムンディの表情が険しくなる。
「嫡男ギョーム王太子との戦いにおいては劣勢だと伝えられていましたが、ガリアを捨て、アングルを乗っ取るおつもりのようで……。どうやら幽閉中の王太后ベル・フォン・ユヴェーレンに唆されたものと」
「愚かな……!」
ムンディは情けないといった表情で頭を振る。
「……リシャールがベル・フォン・ユヴェーレンと繋がりを持ったということは、当然エスタドとの繋がりもできよう。……放ってはおけぬな」
落ち着かない様子でしばらく考えを巡らせていたムンディは、手にしていた書状を掲げてみせた。
「……アングルのヒースから書状が届いた」
「ヒース司教?」
ヘルツォークの表情が変わる。
「妹をぜひアングルの君主に、とある」
ムンディは書状に目をやると呟いた。
「……急がねばならぬ」
二人の視線が書状に注がれ、沈黙が広がる。すると、再び扉が叩かれる。
「猊下!」
「どうした」
扉が開くと、緊張で顔を引きつらせた司教が飛び込んでくる。
「ガリアの……、ギョーム王太子から使者が……!」
ムンディとヘルツォークは黙って顔を見合わせた。
アングルにとって激動の年が明けた。三人の庶子たちはそれぞれが戦いの打撃を被っており、アングルの厳しい寒さもあり、互いに沈黙を守っていた。だが、当然のことながら水面下では激しい諜報戦が繰り広げられ、気の休まることがないまま、春を待つ日々が続いた。
そして、年が明けて八日目。夜が明けないうちから起き出したジュビリーは、召使にコートを持って来るよう命じた。白い息を吐きながら城のアプローチに向かうと、マリーエレンとジョンが待っている。二人とも控えめながら嬉しそうな表情だ。
「兄上、お誕生日おめでとう」
「おめでとうございます」
二人の言葉にジュビリーは黙って頷いた。彼が誕生日であっても嬉しそうな素振りを見せないことは知っていた。妻エレオノールを失ってからはずっとそうだからだ。そして、今年の場合は更に事情が異なる。年末にはレノックスとの戦いがあり、多くの死者が出ている。私的な慶事を祝おうといった気分にはならない。
「義兄上、朝駆けに行かれるならばお供いたしますよ」
義弟の申し出に、ジュビリーは再び頷くと踵を返した。
まだ暗い空の下、二人は馬を駆った。身を切るような冷たい風の中、ひたすら馬を走らす。東の空がうっすらと白み始めた頃、ジュビリーはようやく馬を停めた。白い息を吐きながらじっと前を見据える義兄の視線を追う。この先はトゥリー。ジョンとエレオノールの故郷だ。
相変わらず眉間に皺を寄せたジュビリー。かつては見る者をえぐるような鋭利な眼差しだったが、今は以前ほどではない。キリエとの出会いがそうさせたのか、それとも。
「……義兄上」
ジョンの呼び掛けにジュビリーが振り向く。
「……後悔なさっていますか」
彼が言う「後悔」とは、復讐のためにエドワードを暗殺したことなのか。それとも、エレオノールと出会い、愛したことなのか。ジュビリーはわずかに目を伏せた。
「先に申し上げておきますが」
ジョンがどこか得意げな様子で声を高める。
「私は、義兄上に従ったことを悔いてはいませんよ」
ジュビリーは無言で義弟を見つめた。彼は畳み掛けるように宣言した。
「これからも、勝手についていきます」
その言葉に、ジュビリーはかすかに口許を緩めた。それを認めたジョンは人知れずほっと胸を撫で下ろした。
「そろそろ戻りましょう。今頃プディングが焼き上がっていますよ。クレド城名物のローズ・プディングが」
そして、ぬかりなく付け加える。
「キリエ様も、お帰りをお待ちですよ」
だが、キリエの名にジュビリーは眉をひそめる。キリエはレノックスとの戦いの後、ふさぎ込んで部屋へ引きこもることが多くなった。礼拝堂に閉じこもったり、寒空の下、中庭で思い詰めた表情で佇む姿も見かけられた。自分のせいで多くの犠牲者が出たことに、このまま王位を目指して良いものか、迷いが生じているのだとすれば、無理もない。
「……早くお元気になっていただきたいですね」
義兄の不安を見透かし、ジョンは小さく呟いた。
クレド城へ戻ると、ジョンの予想通り甘い香りで迎えられた。食堂へ向かうと、家令のハーバードが使用人を率いて待ち受けている。
「殿、お誕生日おめでとうございます」
「おめでとうございます」
小間使いらがはにかんだ様子で大盆に盛られたプディングを誇らしげに見せる。乾燥させた木の実や苺だけでなく、薔薇の花びらが混ぜ込んであるのがクレド流だ。かつてはプディングに加え、エレオノールが作った夫の好きな料理が並んでいた。あの頃は、ジュビリーの誕生日はもっと賑やかなものだった。
「今年はレディ・キリエにも手伝っていただきました」
言われてジュビリーは室内を見渡した。マリーやレスターはいるが、キリエの姿がない。
「……キリエは」
その言葉にマリーが苦笑しながら奥の扉を見遣る。
「恥ずかしがってなかなかおいでにならなくて」
ジュビリーは意味がわからずに顔をしかめる。
「我々がいてはお邪魔でございますな。皆様、ごゆるりと」
ハーバードが深々と一礼すると使用人らを連れて食堂を辞する。が、キリエはまだ現れない。
「ほら、キリエ様」
レスターが扉まで歩み寄ると何やら囁きかける。その様子を見てジョンとマリーが顔を見合わせて微笑む。やがて、戸口からキリエがそっと顔だけ覗かせる。
「…………」
「キリエ様、兄にお渡ししたいものがございますでしょう?」
マリーの言葉にキリエの顔が見る見るうちに赤く染まっていく。
「ほら」
レスターがそっと背を押し、キリエは恐々と顔を強張らせた様子で食堂に足を踏み込んだ。後ろ手に何かを隠し持ったまま、もじもじと俯く。
「あ、あの、……お誕生日おめでとう」
「……ああ」
キリエは益々緊張して項垂れた。そして、身を乗り出さねば聞こえないほど小さな声で続ける。
「……いつも、私のためにありがとう……」
「……いや……」
ジュビリーの方もそれ以上どう返せばよいかわからない表情で曖昧に呟く。
「……私、何もできないけど、がんばって作ったの」
心なしか震える声で囁くと、背中に隠していた包みをそっと差し出す。艶のある純白の絹が折り畳まれ、ピンクのリボンが結んである。ジュビリーは黙って受け取るとリボンを解いた。花が咲くようにふわりと広げられたハンカチ。金糸で縁取られ、中央には赤い刺繍。
「……赤獅子か」
「赤薔薇っ!」
泣き出しそうなキリエの叫びにジュビリーは「しまった」と言いたげな顔つきになる。
「あ、赤薔薇か、すまない」
「兄上! せっかくキリエ様が一針一針縫い取られた刺繍を!」
妹の非難にたじたじしながら、ジュビリーは慌ててキリエに呼び掛ける。
「すまない、その、よく作ってくれた」
キリエは目に涙を溜めて見上げてくる。
「ごめんなさい、不器用で……。母上は刺繍が上手だったって聞いたから、マリーに教えてもらいながら作ったのだけど、でも……」
「いや、充分だ。……ありがとう」
内心焦りを隠しながら礼を言うと、ハンカチに目を落とす。
(ほら、ジュビリー様、マリー様。手袋を編んでみたの。よかったらお使いになって)
在りし日のレディ・ケイナの姿が蘇る。彼女は、自分たちを家族のように面倒をみてくれた。手芸が得意だった彼女が、何かにつけて手作りの品を贈ってくれたのが思い出される。もう少し長生きしていれば、彼女はキリエに手芸を教えていたに違いない。そう思うと、やりきれない。
思わず感傷に浸っていたが、妹の鋭い視線に気付く。何か気の利いた言葉をかけろ、という無言の圧力だ。ジュビリーは口を開きかけては閉じるのを何度か繰り返した挙げ句、ようやく短く呟いた。
「……来年も、期待する」
だが、その言葉にキリエは顔を歪めた。
「……来年の今頃、私たちどうしているのかしら」
皆は思わず黙り込んだ。ローランド戦役以降、キリエは神経が過敏になっている。ジュビリーは小さく息をついた。
「争いを最小限に留めることはできるはずだ。おまえは一人ではない。協力者は増えている。恐れるな」
「……はい」
キリエは素直に頷いた。やがて両手を胸で合わせ、誕生日を祝う祈りの言葉を囁く。
「憂いも孤独も悲しみも無く、常に光と喜びに包まれ、人の輪と共に歩む良き年にならんことを」
そこで言葉を切り、ジュビリーを見上げるとそっと囁く。
「ジュビリー。三五歳のお誕生日、おめでとう」
「年は言わんでいい」
間髪を入れずに言い返した言葉に、まずレスターが吹き出した。つられて皆が笑い声を上げる。一人憮然とするジュビリーにキリエも声を上げて笑った。ようやく場が明るくなったかと思ったのも束の間。不意に肩を震わせたキリエが両手で顔を覆う。
「……キリエ?」
途端に皆が口をつぐむ。ジュビリーがそっと肩に手をかけると、キリエは激しく嗚咽を漏らした。
「わ、私……! 怖かった……! ローランドで、あなたが死んだらどうしようって……! あなただけじゃない……! ジョンも、レスターも、マリーもいなくなったらどうしようって……!」
しゃくり上げながら必死に叫ぶキリエに、皆は悲しげに項垂れた。ジュビリーは黙って彼女の肩を撫でた。
「だから、こうして、あなたのお誕生日を祝えて嬉しい……。でも! 大勢の人が亡くなっているの! 私のせいで……!」
「キリエ」
ジュビリーの呼び掛けにキリエは顔を上げた。涙で汚れた真っ赤な顔。恐怖と悲しみが入り混じった表情に、ジュビリーは痛ましげに目を細める。
「わ、私、約束する」
口ごもりながらもキリエははっきりと告げた。
「これからは、皆に笑ってお誕生日を迎えてもらう……! 絶対に……!」
キリエは孤児として教会で育てられた。家族の存在も知らず、誕生日さえ知らなかった。ローランド戦役でも、多くの孤児が出たことだろう。彼らはもう、家族に誕生日を祝ってもらえないのだ。キリエは、そんな悲劇を引き起こした自分が許せなかった。
ジュビリーは小さく頷くとキリエの肩を引き寄せ、静かに抱きしめた。小刻みに震える背を撫でると、彼女は力いっぱい抱き返した。
「……来年も、皆で祝おう」
「はい……!」
これから先、何が起こるかわからない。だが、もう立ち止まる術はないのだ。ジュビリーは、自身にそう言い聞かせた。