街が燃えている。多くの人と建物がひしめきあう、西の島国アングルの都は戦火に覆われていた。宮殿の一室からも火の手が蛇の舌のようにちらちらと踊る様が目に入る。街は阿鼻叫喚の地獄絵図であろう。黒々とした雨雲が垂れ込める街を見つめる一人の男。無言のまま街を見下ろしていた彼は、やがて踵を返すと床に置かれた甲冑に手を伸ばした。
イングレス市内は異様な熱気に包まれていた。普段はリシャール軍に行動を抑圧されていた市民たちが、再び武器を手にして立ち上がったのだ。リシャールが攻め込んできた時と違い、彼は今宮殿にいない。そして、反リシャール派によってギョーム王太子と神聖ヴァイス・クロイツ騎士団がホワイトピークを目指している情報ももたらされ、市民の団結は一層高まった。
「ガリア王を追い出せ!」
「イングレスを取り戻せ!」
「神も我々の味方だ!」
クロイツが支援に乗り出したという事実に、イングレス市民は沸き立った。大主教は、天は、我々を忘れてはいなかった。そのことは市民に信じられないほど大きな力の源になった。市民は口々に天への祈りを叫び、ガリア軍に襲いかかった。
プレセア宮殿へと続くジョージアン大通りは、激しいぶつかり合いが繰り広げられた。男たちは農具や粗末な武器を手に騎兵に立ち向かい、女や子どもたちは建物の窓から鉢や鍋、汚物などを投げつけて加勢した。
「破門された王様なんざ怖くないわ!」
髪を振り乱した中年の女が怒鳴ると、一斉に歓声が上がる。
「ガリアの罰当たりどもは出て行けッ!」
「ノーヴァ川の魚の餌にしてやる!」
なりふり構わぬ市民の攻撃に、ガリア軍はじりじりと後退をし始めた、その時。騎士の一人が遙か彼方に翻った紋章旗を捉え、譫言のように呻いた。
「……〈赤薔薇〉と、〈青蝶〉……!」
プレセア宮殿の城門近くは、一際大きな人だかりができていた。城門の内側では、門を破られぬよう大勢の兵士たちが様々な荷物を積み上げていた。武器が収められた箱、馬具、荷車といったものが次々に運ばれていく。
市民と軍の競り合う罵声が宮殿の内部にまで響く中、顔をヴェールで隠した女性が数人の従者や女官を連れて中庭を駆け抜けていた。すると、唐突に彼らの前に一人の武装した騎士が立ちはだかり、ヴェールの女がぎょっとして立ちすくむ。
「どちらへ行かれる、王太后」
低いがはっきりとした声で言い放つ騎士に、従者が前に進み出る。
「人違いだ! 道を開けろ」
が、その言葉を最後まで聞き終わらないうちに、騎士は長剣を引き抜くと従者を袈裟掛けに斬り捨てた。
「ひぃッ!」
女官たちは甲高い悲鳴を上げるとその場を逃げ出す。ヴェールの女も背を向けようとするが、騎士の右手が腕をねじ上げ、その場に組み伏せる。そして顔を覆い隠しているヴェールをはぎ取る。
「や、やめてッ……! モーティマーッ!」
激痛に顔を歪ませたベル・フォン・ユヴェーレンが切れ切れに叫ぶ。
「貴様は……、アングルへ何をしに来た?」
無表情ながら、静かに怒りに燃えた瞳でモーティマーは囁いた。
「異国の王と通じ、国を売り、国を戦火で焼き尽くすために来たのかッ……!」
「わ、私のせいじゃないッ……!」
乱れた髪が顔に張り付いたままベルは泣き叫んだ。モーティマーはわずかに力をゆるめた。
「エドガーのせいよ! 彼が……、私だけを愛してくれたなら、こんなことには……、こんなことにはッ……!」
モーティマーは少しの間目を眇めてベルを見つめていたが、やがて両手を後ろ手に縛り上げる。
「サー・ロバート!」
背後から近衛兵たちが駆け寄ってくる。プレセア宮殿にわずかに残っていた、旧来の王宮警護の騎士たちだ。
「グローリア女伯とクレド伯の軍が市内に到着しました!」
ベルがはっとして顔を上げる。モーティマーはベルを近衛兵に託すと城門を仰ぎ見た。ようやく、王都イングレスが正当な主を迎えられる。それは、モーティマー自身の解放も意味した。
「王太后を拘束しておけ。城門を開けろ。……女王陛下をお迎えせねば」
「……はッ!」
グローリア伯爵家とクレド伯爵家の紋章旗に気づいたガリア軍は我先に逃げ出し、市民はますます勢いづいて彼らを追い立てた。やがてガリア軍がプレセア宮殿まで退却するが、城門はすでに開かれ、アングル王国の〈赤獅子〉の旗を振りかざす近衛兵たちが立ちはだかった。そこへクレド軍とグローリア軍の軍勢が背後から襲いかかり、挟撃されたガリア軍は城門の下を流れるノーヴァ川へと投げ込まれていった。その様子を目の当たりにした市民たちは、熱狂して大歓声を上げて騒ぎ立てた。
「宮殿は?」
先陣を切ったジョンが近衛兵に尋ねると、相手は城門を目で指し示しながら答えた。
「ご覧の通りです。ほぼ制圧されました」
「王太后は」
「すでに拘束しております」
その時、背後のジョージアン大通りから新たに歓声が沸き起こった。ジョンが目を細めて眺めると、遥か後方から〈青蝶〉の紋章旗を高々と掲げた一団がこちらへ向かっている。
騎兵たちが守りを固める中心には、アガサを駆るキリエの姿があった。白に金糸の刺繍を施した衣装に軽装の鎧を着込んだキリエは、眼下に広がる市民や兵士らの死体の山に息を呑んだ。そんな彼女の心情に構うことなく、イングレス市民は熱狂的に彼女を迎え入れた。狂気と言ってもいいかもしれない。老若男女を問わず、彼らは言葉にならない叫び声を上げ、拳を振り、涙を流して歓喜した。
「〈ロンディニウム教会の修道女〉に幸あれ!」
「グローリア女伯万歳!」
そんな叫びに混じって、「女王陛下万歳!」と叫ぶ者もいた。眉をひそめたまま、彼らの様子を凝視していたキリエは思わず目を閉じると天を仰ぎ、静かに両手を合わせた。その姿に、市民らは一瞬胸を突かれた様子だったが、再び歓声と喝采が沸き起こる。
「……キリエ」
背後からジュビリーがそっと声をかける。しばらく歓声を一身に受けていたキリエは、やがて決意を固めた様子で目を見開いた。
「……宮殿へ」
キリエは小さく呟くと、アガサを進ませた。
歓迎する市民たちに埋め尽くされたジョージアン大通りを抜け、プレセア宮殿へ到着すると、ジュビリーが馬を下りて一足先に中庭へと向かう。アプローチ前では廷臣たちを従えたジョンが待っている。集団の中から一人の騎士が前へ進み出た。
「クレド伯、お待ち申し上げておりました」
頷きながらも、ジュビリーは顔をしかめた。相手は寂しげな笑みを浮かべて見せた。
「……お久しぶりでございます」
その言葉にジュビリーがはっとする。一年前、まさにこの宮殿で同じ言葉を耳にした記憶が蘇る。
「モーティマー……!」
「ご無事で何よりでございます。ずっと、この日を心待ちにしておりました」
モーティマーの変わりようにジュビリーは驚きを隠せない様子だったが、しばらく相手を見つめると静かに頷く。
「……ご苦労だった」
「……はっ」
「王太后は」
「拘束しております。それより伯爵、ぜひグローリア女伯にお会いしていただきたいお方が……」
ジュビリーが眉をひそめた時、下馬したキリエが中庭に到着した。
「グローリア女伯」
廷臣たちが恭しく跪き、モーティマーは久々に明るい笑顔を見せた。
「グローリア女伯、プレセア宮殿を解放していただき、感謝いたします」
「私ひとりの力では……」
緊張したキリエが小さな声で呟く。ジュビリーが隣に寄り添うと耳打ちする。
「彼を覚えているか、キリエ」
「えっ?」
戸惑った様子でモーティマーを見上げるキリエに、彼は無言で微笑みかけた。キリエに真っ直ぐ見つめられ、モーティマーは申し訳なさそうに呼びかける。
「……おわかりには、ならないでしょう。私はあまりにも変わってしまいました」
その言葉を耳にしてキリエは思わず手で口を押さえた。
「……一年前……、ここでお会いした……!」
「……驚いた」
モーティマーが目を見開く。
「覚えておいででしたか」
「サー・ロバート・モーティマー!」
「そうです」
モーティマーは跪くとキリエの右手を取った。
「ずっとお待ち申し上げておりました。時間がかかってしまいましたが、ようやくプレセア宮殿へあなたを迎え入れることができました。ですが、女伯。玉座の間へ行かれる前に、ぜひお会いしていただきたいお方がいらっしゃいます」
「……どなた?」
「ホワイトピーク公爵ウィリアム・デーバー様です」
その名を耳にして、キリエよりもジュビリーが反応を示した。
「生きておいでなのか」
「はい。宮殿が解放されるのがもう少し遅ければ、危のうございました」
モーティマーは立ち上がるとキリエたちを先導して宮殿へと入っていった。
宮殿の内部では、死者の埋葬や負傷者の手当てが始められていた。キリエが訪れた時の荘厳な王宮はそこにはなく、血や泥に塗れ、まるで喧騒に包まれた野戦病院さながらの様相だった。
「ホワイトピーク公って……?」
騒がしく、殺伐とした宮殿の様子に緊張した表情を崩さないまま、キリエはジュビリーに尋ねた。
「エドガー王の甥だ。おまえとも遠縁に当たる」
「王族……?」
「嫡流ではない。エドガー王の父――おまえにとっては祖父だが――、アルバート王の庶子サラ・デーバーの長男だ。王位継承権はないが真面目な性格で、王家に対して忠誠心が強いことで知られた男だ」
庶子と聞いてキリエは立ち止まった。
「待って。私も庶子よ。ホワイトピーク公には何故王位継承権がないの」
ジュビリーは険しい表情で振り返った。
「王家の血脈を継いではいるが、先王エドガー直系の子孫であるおまえたちがいる以上、ホワイトピーク公の王位継承権は認められない。……裏を返せば、本来庶子であるおまえたちにも王位継承権はない」
そこでジュビリーは一度口をつぐむと、重々しく口を開いた。
「……エドガー王が嫡子を失ったため、庶子に王位継承権が発生したのだ」
その言葉に、キリエはジュビリーが自分の異母兄である王太子エドワードを殺害したことを思い出した。キリエの瞳が一瞬揺れる。
「義兄上……」
ジョンが眉をひそめて囁き、心配そうにキリエをそっと振り返る。しばらくキリエとジュビリーは無言で見つめあっていたが、やがて彼女は顔を歪めて目を伏せた。全ての始まりがジュビリーだとは思いたくなかった。始まりは、あくまで父だ。父の行いが、全ての始まりだ。前を行くモーティマーが振り返り、そっと声をかける。
「……伯爵」
「……すまん」
二人は固い表情で再び歩き出した。
キリエたちが案内されたのは、膨大な数の客間の内の一室だった。厚手のカーテンが引かれた薄暗い部屋の中心には豪奢な天蓋付きの寝台が置かれ、痩せた壮年の男が横たわっている。側に控えていた医師らしき老人がそっと立ち上がると脇へ退く。その光景を見てキリエは胸が詰まった。祖父ベネディクトの最期を思い出したのだ。
「女伯」
モーティマーに促され、キリエは恐る恐る客間へと足を踏み入れた。と、その時。
「止まれ!」
しわがれながらも太い一喝にキリエは息も止まらんばかりに飛び上がった。ジュビリーが黙ってキリエの隣に寄り添う。キリエは震える手で胸を抑えた。寝台に横たわっていた男がゆっくりと体を起こす。
「……何者だ。名を名乗れ」
金髪に近い栗毛が乱れ、痩けた頬に張り付く。左肩には分厚い包帯が幾重にも巻かれている。痩せ衰えていながらも鋭い眼光を投げかけてくる男。手負いではあるが、滲み出る威厳にキリエは圧倒された。しばし黙って相手を凝視していた彼女は、意を決して手を合わせ、片膝を突いた。
「……グローリア女伯、キリエ・アッサーでございます」
「何をしに参った」
再び投げかけられた言葉に、キリエはごくりと唾を飲み込んだ。
「秩序を、取り戻すためにございます」
客間に張り詰めた空気が満ち満ちてゆく。キリエは大きく目を見開いたまま真っ直ぐ相手を見据えた。男は、やがて鳶色の瞳を細めると表情をゆるめた。
「……良い目だ」
キリエは瞬間、困惑の表情を浮かべると傍らのジュビリーを見上げた。彼は黙って頷くだけだ。男は息をつくと居住まいを正した。
「ホワイトピーク公爵ウィリアム・デーバーだ」
ウィリアムは緊張した面持ちの少女を見つめた。わずかにひそめた眉、大きなアーモンド型の瞳、美しい栗毛。その容姿には、確かに見覚えがあった。彼の脳裏に、プレセア宮殿で見かけた光景が蘇る。栗毛の幼子がおぼつかない足取りで懸命に駆け、「ちちうえ、ちちうえ」とたどたどしい言葉で父親を追いかけていた。その傍らには、穏やかに微笑む若い母親が寄り添っていた。やがてウィリアムは疲れた顔に笑みを浮かべ、しわがれた声で呟く。
「……なるほど、確かにレディ・ケイナに瓜二つだ」
キリエはようやく穏やかに微笑んだ。
「……皆様そう仰います。そんなに、似ていますか」
ウィリアムが腰を曲げ、キリエは枕を背にするのを手伝ってやった。
「……彼女はいつも寂しそうな笑顔をしていた。今の、そなたのような」
その言葉に、キリエは胸を突かれた。
「……母は、幸せではなかったのですか……?」
ウィリアムは不安そうな口調で尋ねるキリエをじっと見つめると、ちらりと後ろに控えるジュビリーを見やる。そして、溜め息をつくとそっと手を伸ばしてキリエの頭を撫でた。先ほどまでの威圧感に満ちた表情はもはやない。
「叔父上は……、エドガー王はそなたの母を寵愛していた。いつも側に置きたがったが、レディ・ケイナは王宮での生活を好まなかった。そのはずだ。王宮には王妃がいるのだからな。色々と辛い目にもあっていた。そして生まれたのがそなただ。叔父上は溺愛していたよ。だが……、二年後にエレソナ・タイバーンの事件があり、その直後にレディ・ケイナは病死した」
そこで大きく息をつくと天蓋を見上げた。
「グローリア伯は娘の遺言通り、孫を引き取ると教会へ預けた。叔父上はそなたを取り戻そうとしたが、レディ・ケイナの遺言と、グローリア伯の強い抵抗で諦めたそうだ。年に一度、教会に人をやって様子を見に行かせていたらしい。そして、そなたが成人したら王宮に連れ戻すつもりでいた」
キリエは、今まで聞いたことがなかった自分に対する父の思いを知って驚愕した。妻を顧みることなく次々と愛人を作り、後の禍根を振りまいた挙句に急死した父。その父が、そこまでして自分を取り戻そうとしていた。
「正直、何故そこまでそなたに執着するのかわからなかったが……、今ならわかる。彼は、レディ・ケイナとそなたを愛していたのだよ。レディ・ケイナを失い、そなたまで失うのが耐えられなかった。……身勝手極まりない話だがな」
「でも」
キリエが低い呟き、ウィリアムは顔を向けた。彼女は青ざめた顔で眉をひそめ、視線を不安げに彷徨わせた。
「父が……、父がしたことは、裏切りです! お妃だけでなく、多くの人を傷つけた……。そのために、多くの人の人生が狂わされました。私だけじゃない……!」
「許してやれ」
ウィリアムの短い言葉にキリエは思わず視線を上げた。彼は気の毒そうな表情で続けた。
「人間、誰しも間違いを犯す。正しい道を生きたくとも、それができないことの方が多い。……エドガーはもう死んだのだ」
キリエは俯くと何か言いたげに口を開くが、言葉にならなかった。そうだ。自分は修道女ではないか。その者の罪を許し、その者を受け入れ、神の慈悲を求めるのが自分の役割ではなかったのか。だが、それでも父を許せなかった。ジュビリーの妻に対する仕打ちのせいだ。あの事件がなければ、ジュビリーは怒りと憎しみに苛まれることもなかった。そして、自分を女王に祭り上げようなどと考えもしなかっただろう。そんなキリエの心情を察したのか、背後で佇むジュビリーは思わず目を閉じると重たい溜め息を吐き出した。
「ところで……」
ウィリアムの声が固い口調に変わる。
「イングレスを完全に制圧したのか」
「……はい」
キリエは顔を上げた。
「リシャールは」
「兄が拘束したそうです。今、ギョーム王太子が向かっているはずです」
「見事な手腕だ」
「いえ、まだです」
きっぱりと言い切るキリエの表情は十四歳の修道女ではなく、王位を目指す女伯爵のものだった。
「王太子がリシャール王を連れてガリアへ帰国されるまでは予断を許しません。それに、遅かれ早かれ、私が王都を制圧したことに兄が気づくでしょう」
「その前に、王位を宣言せねばな」
王位宣言。キリエは背筋がすっと寒くなるのを感じた。一年前、この宮殿で王位を宣言した直後、兄レノックスの軍が襲い掛かった。あれから随分と時間が経った気がするが、自分は成長できたのだろうか。
「……公爵」
キリエが不安そうに囁く。
「私は、本当に君主に値する人間なのでしょうか……」
ウィリアムは幼い女伯をじっと見つめた。
「今まで、無我夢中でこのイングレスを目指してきました。でも……、王位に就けば、今以上の困難が待っているのです」
か細い声でそう囁くキリエに、ウィリアムは身を乗り出した。
「ここまで来るのに、どれだけの助けがあった? 多くの家臣や諸侯がそなたのために動いた。そなたは一人ではない。……だが」
ウィリアムはそこで口をつぐむとキリエを見据えた。
「先ほど私にこう申したな。『秩序を取り戻す』と。これからはそなたがこの国の秩序となるのだ」
キリエは眉をひそめると怯えた瞳で唇を震わせた。
「……この国の新たな秩序となる覚悟が、できておるか」
「……私、が……」
消え入るようなな小さな声で呟くと、キリエは動揺した表情を隠すように項垂れた。しばしの沈黙の後、ウィリアムは再びキリエの髪を優しく撫でた。
「……無理もない。そなたは修道女だったのだから。だが、国民はそう思わぬ」
「……はい」
「女王となる以上、そなたが秩序となって国を守らねばならん」
黙ったままこくりと頷く少女の肩を力強く叩く。
「自信を持つがよい。そなたはここまで辿り着いたのだ。それだけの力を得たのだ。もちろん、これからも強くならねばならん」
キリエは力なく顔を振った。
「私は……、まだまだ非力です。ここへ辿り着くことができたのも、周囲の支えがあってこそです。人を動かせたのはすべて、クレド伯のおかげです」
ウィリアムは顔を上げるとジュビリーに視線を向けた。そして、わずかに目を細める。
「ご苦労だったな、クレド伯」
「……はっ」
「久方ぶりだ。まさか……、そなたがキリエ・アッサーを擁立することになるとはな」
「伯爵も私の遠縁です。祖父とも親しかったので、私の後見人に……」
ウィリアムの突き刺さるような視線に、ジュビリーはわずかに青ざめた表情で立ち尽くした。
ジュビリーの妻エレオノールは公には産褥死ということになっていたが、その原因がエドガーに陵辱された結果であることはひそかに知れ渡っていた。クレドへ帰ったジュビリーは、風の便りでウィリアムが叔父のエドガーに諫言したことを伝え聞いていた。エドガーの漁色ぶりは廷臣たちの悩みの種ではあったが、誰も諌めることはできなかった。そんな中、ただ一人王に苦言を呈したウィリアムに皆は心の中で賛辞を贈ったに違いない。
だが、今こうして王の庶子であるキリエを擁立したことを、ウィリアムはどう思うだろう。ジュビリーは胸の内を探るような彼の視線に思わず目を逸らした。
その時、キリエが身を乗り出して囁いた。
「彼が後見人で、私は幸運でした」
ジュビリーは息を呑んで拳を握りしめた。ウィリアムはゆっくりキリエを振り返った。彼女は控えめに微笑んだ。
「ここまで来られたのも伯爵がいたからです。……感謝しています。これからも、支えてもらうつもりです」
キリエはまっすぐにウィリアムを見据えた。しばらく重い沈黙が流れた後、ウィリアムは穏やかな笑みを浮かべた。
「……感謝を忘れぬようにな。私も、できる限り協力しよう」
キリエは嬉しそうに微笑むと「ありがとう」と囁いた。そしてそっと立ち上がるとジュビリーに声をかける。
「行きましょう、ジュビリー」
「はい」
ジュビリーは深々と頭を下げた。その姿を見た瞬間、キリエは思わず立ちすくんだ。自分が女王になればジュビリーは臣下になる。そのことを今、思い知らされたのだ。
「臣下を敬称で呼ぶな」
出会った頃、ジュビリーを「伯爵様」と呼んで叱られたことを思い出した。女王に即位すれば、自分を取り巻く環境は更に大きく変わるだろう。ジュビリーとの関係も変化するのだろうか。彼女は急に不安になった。かつて、異母兄を殺したと告白した彼を恐れ、城を飛び出したことがあったのも今では信じられないほど、ジュビリーへの信頼は篤いものになっていた。
ウィリアムの部屋を出ると、ジュビリーはモーティマーらに命令を下した。
「玉座の間に廷臣を集めろ。それからジョン、ブリーの様子を見に行かせ、すぐに部隊を出せるようにしておけ」
「はっ」
モーティマーとジョンが足早にその場を立ち去ると、キリエがそっとジュビリーを呼ぶ。
「ジュビリー……」
振り返った彼の表情は、いつもと変わらないものだった。眉間の皺、鋭い目。だが、顔に刻まれた皺は以前より深くなったような気がする。黙って自分を見つめるキリエに、ジュビリーは静かに歩み寄った。
「……キリエ」
名前で呼ばれたことに安心したキリエは、思わずすがりつくと胸に顔を押しつけた。キリエの目や声色に不安を読みとったのか、ジュビリーは腫れ物に触るかのように、ぎこちなく彼女の頭を撫でた。いつもと変わらない温かく大きなその手に、キリエは胸が締め付けられた。
「キリエ」
再び名を呼ぶが、返事はない。ただ、押し殺したような息遣いだけが聞こえる。ジュビリーは耳元に口を寄せると低い声で呟いた。
「……良いのか」
キリエがわずかに顔を上げる。
「私はおまえを強引に教会から連れ出した。……それだけじゃない。私は、おまえの兄を……」
キリエは思わず指先でジュビリーの唇を押さえた。そして、すぐ離そうとしたその手を、ジュビリーがそっと握る。キリエは目を上げ、黙って顔を横に振った。黙って見つめ合っていると、階下から人々のざわめきが聞こえてくる。やがてジュビリーはキリエの指先を握ると呟いた。
「……行こう」
彼はキリエの手を引くと、長い廊下をゆっくり先導していった。