深く黒い森。馬の嘶きや人々の罵声が飛び交う。耳を裂くような鳥の鳴き声や羽ばたき、木々を渡る風のざわめきが不穏な空気をさらに駆り立てる。
「殿下がッ……! 王太子殿下がッ……!」
悲痛な叫び声を上げる男たち。そこへ、馬が駆り立てられる蹄の音が響く。
「陛下ッ!」
その場にいた者たちは真っ青な顔つきで立ち上がった。一人の男が馬から転げ落ちるようにして降り立つ。
「エドワード!」
人だかりが散り散りになり、男がその場に蹲る。
「エド……! エドワード! エドワードッ!」
男は白髪がわずかに混じった栗毛を振り乱し、なりふり構わぬ様子で叫び続けた。男の側には一人の少年が倒れている。幼いながらも美しい装飾を施された狩猟用の胴着を身にまとい、ぐったりとした体の脇には、銀細工で作られた花冠が転がっている。見るからに病弱そうな顔は蒼白で、首があり得ない方向を向いている。
「何故だ……、何故だ! どうしてッ……! エドワード!」
「……ッ!」
薄暗がりでジュビリーは目を覚ました。忙しなく繰り返す呼吸。胸に響く不吉な鼓動。しばらくそのまま微動だにせずベッドに横になっていたが、やがてのろのろと手を上げ、首の汗を拭う。寝汗で濡れた顎髭が気持ち悪い。ジュビリーは目を閉じると唾を飲み込もうとしたが、口の中はからからだった。
ジュビリーがこれからも永遠に逃れられないであろう悪夢。それが、王太子エドワード暗殺の記憶だった。
六年前、エドワードを手にかけた時は、エドガーに対する憎しみが強かったせいか罪悪感に苛まれることなどなかった。それが、キリエと出会ってからはがらりと変わった。これまでは犯した罪を直視することを避けてきたが、キリエを教会から連れだしてからは彼を思い返す時間が増えた。そして、キリエとの距離が縮めば縮むほど、頻繁に夢を見るようになっていった。
暗闇の中でゆっくりと体を起こす。寝間着が寝汗で張り付いている。彼はゆっくりと右手を開き、じっと見つめた。
「あなたの罪は、私の罪です」
あの日、キリエに告げられた言葉が胸に甦る。
「私がいなければ、あなたが傷つくことはなかった。あなたが地獄に堕ちるなら、私も一緒に堕ちます」
だが次の瞬間、レノックスに投げかけられた言葉が頭に響く。
「貴様がやっていることは、私怨の復讐に過ぎん! キリエはその道具だ!」
ジュビリーは苦しげに目を眇めた。
「……違う……!」
ジュビリーは搾り出すようにして囁くと、右手で顔を覆う。
(おまえなら……、私を救ってくれるか? 修道女……)
背を丸め、息を殺して肩を震わせるジュビリーは、悔しげに唇を噛みしめた。
解放から一ヶ月近く経ち、ようやく落ち着きを取り戻したプレセア宮殿。朝食を済ませたジュビリーたちは、執務室の前で待機していた。やがて、モーティマーや侍従らを連れたキリエが現れる。
「おはよう。……伯爵」
かつてはそう呼んでいたはずなのに、今更他人行儀な呼び方に、キリエはまだ違和感があった。
「おはようございます」
一礼するジュビリーの前を通り過ぎようとして、キリエは立ち止まると眉をひそめた。
「……少し痩せた?」
キリエの探るような瞳に、昨夜見た悪夢を見透かされたようで思わずジュビリーはぎくりとするが、小さく「ご心配なく」と答える。それでも心配そうな顔つきだったキリエは少し首を傾げ、爪先立つと突然ジュビリーの左頬の傷痕を指でなぞった。
「!」
廷臣たちが顔を強張らせ、その場が一瞬にして凍り付くがキリエは気づかない。
「傷が残ってしまったわね。顔なのに……」
「女伯」
ジュビリーが鋭い声を上げると一歩後退する。そこでようやく周囲の目に気づいたキリエは、はっとして手を引っ込める。
「…………」
気まずい空気が流れる中、キリエは引きつった笑顔で囁いた。
「……古傷に効く薬草を知っているわ」
そして、隣で困惑気味な表情をしているセヴィル伯に問いかける。
「宮殿内に薬草園はありますか?」
「……小規模ですが、ございます」
「今度案内して」
「はっ」
何とかその場を取り繕ったキリエに、ジョンはほっと胸を撫で下ろした。
毎日行われる廷臣たちとの会議の前に、キリエは執務室でジュビリーやジョン、レスターといった「古株」たちとの打ち合わせを欠かさなかった。四人が執務室に入り、扉が閉まった途端。
「キリエ!」
「ごめんなさい!」
ジュビリーの鋭い呼びかけに、キリエが跳ね返すような返事をする。レスターが思わず苦笑を漏らすとなだめるように声をかける。
「今すぐ君主の振る舞いをせよと申しましても、無理がございますからな」
「だからこそ、今のうちに正しておかねばならん」
「……わかってます」
キリエがしおらしくぽつりと呟く。
「義兄上、今日は報告もたくさんありますし、それ位に……」
ジョンの言葉にジュビリーは眉間に皺を寄せたまま、黙って頷く。それぞれが席につくと、レスターが差し出した書類をジョンが読み上げる。
「まずユヴェーレンの件ですが、予定では明後日、迎えの船が到着します」
キリエの表情が固くなる。
「王太后のご様子は?」
「少し痩せたそうですが、特に問題はございません」
イングレス解放から半月ほど経った頃、ベル・フォン・ユヴェーレンの父、オーギュスト王が使者を派遣し、娘の即時解放を求めてきた。だが、使者に対して〈アングルの宰相〉ジュビリーは「立場をわきまえよ」と一喝。さらに、畳みかけるように〈アングル女王〉キリエが修道女としての立場から、家族愛について懇々と説き、使者はすごすごと帰国していった。そして、再びイングレスを訪れた使者は、アングルに対して身代金五十万マークを支払うと返答したのである。アングルの通貨に換算しておよそ六十万スターリング。財政が逼迫しているアングルにとっては貴重な「臨時収入」となった。
「五十万マークでしたか。こう言ってはなんですが、助かりますな」
「ユヴェーレンも今は金に困っているはずだ。妥当な金額だろう」
クロイツやカンパニュラと戦争状態にあるユヴェーレンは、台所事情においてはアングル以上に火の車だ。
「それから、ガリアのギョーム王太子から戴冠式への出席を求められています」
ジョンの言葉に、だいぶ間を置いてキリエが振り返る。
「……私が?」
「はい」
キリエは困った表情でジュビリーを見やる。
「……おまえを行かすわけにはいかんな」
ジュビリーは考え込みながら呟いた。
「まだ戴冠式を済ませていないおまえが国を留守にはできまい。私が代理人になろう」
「伯爵と……、他にどなたかご同行されますか」
「ホワイトピーク公に頼もう。嫡流ではないが、仮にも先王の甥御だ」
「……王太子は残念がるでしょうね」
「ジョン」
ジュビリーがたしなめ、ジョンは慌てて「申し訳ございません」と失言を詫びる。そして、恐る恐るキリエの顔色を伺うが、本人は気づいていないようだった。
「では、キリエ様の代理としてクレド伯とホワイトピーク公が公式の使者としてご出席ということで」
「……ちょっと待って」
その時、キリエが身を乗り出して遮る。
「使者には……、ホワイトピーク公と、
ジュビリーが顔をしかめて振り返る。キリエは真顔でゆっくり続けた。
「女王として最初の仕事よ。ジュビリー、あなたは侯爵。ジョンは伯爵、レスターは子爵に叙位するわ」
ジョンとレスターが思わず顔を見合わせる。
「待て、誰に何を言われた」
「あ、義兄上、落ち着いて下さい」
思わず腰を浮かしかけたジュビリーにジョンが慌てて声をかける。キリエの方はジュビリーの反応に戸惑いの表情を浮かべている。
「ウィリアム様が……、自分を支えてくれた者に報いなければならない、って……」
「余計なことを……」
「余計なことじゃないわ。彼が教えてくれなければ、私、気づかなかったもの。あなたには、宰相としてこれからも支えてもらいたい。そのために必要な身分よ」
素直に感謝の言葉を口に出来ないジュビリーは、黙り込んでキリエを凝視する。そんなジュビリーの性格を知り抜いているキリエは、微笑んでみせると視線をジョンへ移す。
「それから、ジョン。私が戴冠した後、あなたにグローリア伯爵位を継いでもらいたいの」
「えッ……!」
思ってもみなかった申し出にジョンは息を呑んだ。
「そんな……、名門グローリア伯爵家を……、わ、私が……?」
「あなたになら、安心しておじい様が遺したグローリアの地を任せられるわ。それに……」
そこでキリエは口をつぐむと、ちらりとジュビリーに視線を走らせ、いたずらっぽい目で笑う。
「伯爵位の方が……、結婚しやすくなるでしょう?」
「……はッ?」
ジョンは益々混乱して裏返った声を上げる。ジュビリーがじろりとレスターを睨み付ける。
「……おまえが知恵をつけたな」
レスターは目を閉じると肩をすくめて見せる。
「さぁ……、何の話でございましょう」
「……とぼけおって」
そんな二人を放って、キリエは体を乗り出した。
「絶対、マリーと結婚するべきだわ! 今すぐ!」
「き、キリエ様ッ……!」
ジョンは真っ青になって義兄を振り返る。ジュビリーが鋭い目つきで見返し、ジョンはごくりと唾を飲み込む。そして、しばらく落ち着かない素振りを見せていたが、やがて意を決したように顔を上げる。
「……キリエ様、実は私、折り入ってお願いが……」
「何?」
期待に胸を膨らませてキリエが尋ねる。ジョンはごくりと唾を飲み込んでから口を開いた。
「私は……、キリエ様のために、独自の騎士団を創設したいと思っております」
「……騎士団?」
全く予想していなかった言葉に、キリエのみならずジュビリーやレスターも目を丸くする。ジョンは居住まいを正すと一気にまくし立てた。
「この度、王都奪還におけるヘルツォークの戦いぶりを見て、痛感いたしました。クロイツの神聖ヴァイス・クロイツ騎士団のように、屈強な騎士団が我が国にも必要だと。キリエ様をお守りする近衛騎士団を創設し、ゆくゆくはプレシアス大陸最強の騎士団に育て上げたいのです!」
キリエはジョンの必死さに圧倒され、しばし唖然としていたが、やがてジュビリーと顔を見合わせる。
「確かに……、女王直属の軍備は必要だな」
ジュビリーの言葉に、ジョンは力強く頷く。
「私にお任せいただければ、アングルでも選り抜きの騎士たちを集め、最強の騎士団を組織してみせます。そのためには……、私事は後回しでございます」
「ジョン!」
「お願いです、キリエ様! あなたのために、できることをなしたいのです!」
馬鹿がつくほど生真面目なジョンのこと、言い出したら聞かないであろう。キリエは助けを求めるかのようにジュビリーを見つめる。彼は溜息をつくと低く呟いた。
「……好きにさせたらいいだろう」
「ジュビリー、あなたがそんなことを言うから……!」
「キリエ様! お許しいただけますか」
「それは……、いいけれど……」
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げるジョンに、キリエは呆れた様子で溜息をつく。せっかく、自分のために今まで尽くしてくれた二人をこの機会に結婚させてやりたかったのに……。
「……クロイツと言えば……」
ぎこちない空気を変えるため、レスターが遠慮がちに声を上げる。
「来週にも、クロイツに使者を送らねばなりませんな」
「そうだな」
ジュビリーも表情を引き締めて呟く。
「戴冠のために大主教を呼ばねばならん」
「大主教は大忙しですね。ガリアで戴冠式を済ませたら、すぐさまアングルで戴冠式ですから」
「戴冠式って、そんなに大変なの?」
キリエが眉をひそめて尋ねる。
「戴冠式の後に王都で祝賀パレード。夜は各国の来賓を招いた祝宴。国内諸侯たちとの臣従の礼。議会での承認。ざっと一週間はかかりますな」
「そんなに……! それでは費用が……!」
「大変な出費です」
レスターが重々しく言い切る。不安そうな表情のキリエに、ジュビリーが言い含める。
「戴冠式は国内外におまえの地位と権威を知らしめる重要な儀式だ。みすぼらしい戴冠式を挙げるわけにはいかん。それに、各国の王侯の警備もある。こればかりは予算を削るわけにはいかん」
「……外国からの来賓」
「まだこちらから正式に招待しておりませぬが、恐らく大多数が王族になるでしょうな。王子や、王弟といったところでしょう」
そこでジュビリーが何か言いたげな表情になるが、思い直すと口を閉ざす。
「でも……、そんなに華やかにして大丈夫なのかしら。まだレノックスやエレソナは服従していないのに」
「だからこそですよ。アングルの女王はキリエ様だと、知らしめなければなりません」
「その、レノックス・ハートだが」
ジュビリーの言葉にキリエが振り返る。
「明日、モーティマーが降伏を勧告するためにルールへ赴く予定だ」
一同は思わず黙り込むとジュビリーを見つめた。キリエが恐る恐る口を開く。
「……大丈夫なの?」
「本人の希望だ」
短く答えるジュビリーに、キリエは不安そうな目を向けた。
クレド城にも匹敵する堅牢なルール城に、王都イングレスから派遣された一個部隊が到着した。武装した大勢の騎士を引き連れたモーティマーを、従者や侍女たちはただならぬ雰囲気で見守る。
重苦しい沈黙が流れる中、応接間でモーティマーらは待たされていたが、やがてエレソナを連れたレノックスが現れる。彼らに付き従うように、シェルトンとヒューイットが続く。
レノックスとモーティマーが相見えるのはローランド会戦以来。つまり、およそ一年ぶりだ。椅子に腰を下ろしたレノックスをモーティマーは目を眇めて見上げた。頬の肉が若干削げ落ち、少し老け込んだ感があったが、それよりも目を引くのは右目を覆う痛々しい眼帯だ。レノックスは目を細めて呟いた。
「……久しぶりだな」
すでに実質的な〈女王〉の使者であるモーティマーは軽く頭を下げただけで跪いて礼を取ることはしなかった。視線を動かすと、後ろで控えているヒューイットと目が合う。陰気な表情をした彼は、ひそかに肩をすくめてみせた。モーティマーは気を取り直すと一歩前へ進み出た。
「グローリア女伯の使者として参りました。ルール公と、タイバーン女子爵に申し上げます」
そして、ちらりとエレソナに視線を向ける。彼女が身にまとった黒いドレスは、美しいプラチナブロンドと白い肌を際立たせ、余計に冷徹な印象を持たせていた。
「女伯が戴冠されるのも、もう間もなくでございます。女伯は、早々に臣従を表明すればルール公爵位は剥奪しない、と仰せでございます。……レディ・エレソナも同様でございます」
レノックスはにやりと笑うと手摺りに肘をつき、わずかに身を乗り出した。
「……降伏せよ、というわけか」
「女伯は、これ以上ご自分のご家族を失いたくないとお考えです。……どうぞ、ご決断を」
「家族だと」
エレソナが毒でも吐き出すような口調で呟き、その場が静まり返る。
「私は……、あの娘を妹だと思ったことなどない!」
「エレソナ」
レノックスが顔を向けないままたしなめる。
「……同盟を反故にし、騙し討ち同然にイングレスを手中に収めておきながら、臣従せよとは片腹痛い。……帰って伝えよ。私は、死んでもそなたの臣下にはならんと」
モーティマーは眉をひそめてレノックスを凝視した。
「……よくお考えを。すでに、アングル全土の諸侯が臣従を表明しております。このまま孤立すれば、あなたも……」
「帰るがよい」
レノックスは穏やかに言い放った。
「帰って……、戦の準備でもするがよい」
モーティマーは険しい顔つきで頭を下げると踵を返した。
「モーティマー」
レノックスが名を呼び、立ち止まったモーティマーはゆっくりと振り返った。椅子に腰を下ろしたままのレノックスは、にっと冷笑を浮かべてみせた。
「……キリエ・アッサーが、おまえが言うところの〈正しい君主〉か」
プレセア宮殿を占拠した際、モーティマーがレノックスに語った「自分は正しい君主を迎えたい」という言葉を、彼は覚えていた。モーティマーは口元をわずかにほころばせた。
「……いかにも」
〈冷血公〉レノックス・ハートと、〈タイバーンの雌狼〉エレソナ・タイバーンが臣従を拒んだ。その事実は瞬く間に人々に知られることとなった。貴族や廷臣らが不安げに噂を囁き、様々な憶測が飛び交う中、ジュビリーはあの人物の元へと向かった。
プレセア宮殿の一室を訪れると、肌着姿で医師の診察を受けていたウィリアムがジュビリーの訪問を告げられ、顔を上げた。
「お怪我の具合はいかがでございますか」
「ああ、ずいぶん良くなった」
そう答えながらウィリアムは胴着を羽織り、少し嬉しそうな表情で付け加える。
「これで、やっとホワイトピークへ帰れる」
ジュビリーは若干口許をゆるめると黙って頷いた。
「レディ・キリエは?」
「礼拝堂に」
なるほど、と言わんばかりの表情でウィリアムは頷いた。一方のジュビリーは息をつくと眉間の皴を深め、居住まいを正す。
「お帰りになられる前に、お伝えしたいことがございます」
「何かな」
医者が一礼して部屋を辞するのを見届けてから、ジュビリーは静かに口を開いた。
「他でもございません。……レディ・キリエのことでございます」
ウィリアムの表情も引き締まる。
「単刀直入に申し上げます。私は……、レディ・キリエに親政を行っていただきたいと考えております」
二人の男は黙り込んだ。ウィリアムはどこか疑い深い眼差しで見つめてくる。が、ジュビリーは表情を変えずにその視線を受け止める。やがて、ウィリアムがふっと笑う。
「……廷臣たちの間で、私を摂政に、という声が上がっているらしいな」
「……はっ」
ウィリアムは本来王族の一員であり、代々アングルの要衝ホワイトピークを守る名門公爵家の当主であり、影響力もある。加えて、何より誠実で忠義に篤い。まだ幼いキリエの摂政になるには申し分がない、というのが廷臣たちの意見だった。
「レディ・キリエはまだ十四歳であったな。成人するまでまだ四年ある。なのに……、親政させると?」
ジュビリーは探るような鋭い瞳で口を開いた。
「時間が、ないのです」
ウィリアムは目を眇めた。
「レディ・キリエはこれまで帝王学を学ぶ機会がございませんでした。この一年の間、クレドの地で現在のアングルの状況を学んでいただきましたが、充分ではありません。それは承知しております。ですが、成年に達するのを待つ時間はございません。アングルは優れた女王を戴いたことを示す必要があります。エスタドに、ユヴェーレンに、そして、ガリアも例外ではございませぬ」
一気にここまで語り、ジュビリーは息をついた。
「もちろん、我々廷臣が支えていくことになりましょう。ですが、それでも私は親政にこだわりたいのです」
「……なるほどな」
ウィリアムは思案げに腕組みをすると顎をさする。
「……あの娘が賢いことは私だけでなく、皆にもわかっていよう」
「はい」
慎重な態度のウィリアムに、ジュビリーは険しい表情を崩さない。張り詰めた空気が続く中、ジュビリーは身を乗り出すと声を低めて囁いた。
「そこで……、あなたに宰相になっていただきたいのです」
ウィリアムは眉を吊り上げた。
「皆からの信頼も篤く、王族でもあるあなたに……」
「バートランド」
鋭い声にジュビリーは口をつぐんだ。相手は半ば苦笑交じりに言葉を続けた。
「回りくどいことはよせ。そなた、自分が宰相になるつもりであろう」
ジュビリーは答えられなかった。黙り込んだままの黒衣の男に、ウィリアムは溜息をつく。
「自分が連れ出した修道女を、今になって投げ出すのか? そんな心積もりは最初からなかろう。何があっても、一番近い場所で支えたいと思っているはずだ。だが、それを周りが認めないかもしれないと、不安なのであろう」
ジュビリーは溜め込んでいた息を静かに吐き出した。さすがだ、この男。
「私はホワイトピークを守る義務がある。それがこの国を守ることになる。だから、王都はそなたに任せる」
そこでウィリアムは茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「私がそれを表明すれば、そなたは晴れて宰相となれる」
「……ありがとうございます」
ジュビリーは深々と頭を下げた。その殊勝げな態度にウィリアムは気の毒そうに眉をひそめる。
「だが、これからの道のりは一層険しくなるぞ」
「元より承知しております。レディ・キリエを迎えに教会を訪れたあの日から、それは覚悟しております」
「……何故だ。何故そこまでして彼女を守ろうとする」
その問いに、ジュビリーは一瞬言葉に詰まった。そして、目を伏せるとしばらく躊躇った後、口を開く。
「……約束したのです。レディ・キリエの祖父、グローリア伯爵と。彼女を命に代えてもお守りすると」
ウィリアムの表情が痛ましげに歪む。
「彼は私の父親代わりでした。彼の最後の願いだったのです。孫を守ってほしいと」
男たちは沈黙した。ウィリアムは、ジュビリーの少ない言葉からキリエに対する思いを汲み取った。彼はキリエを守ることでアングルを守ろうとしている。自分はホワイトピークを守ることで国を守る。手段は違えど、思いは同じだ。
重苦しい沈黙を破ったのは、扉を叩く音だった。扉が開き、侍従がキリエの訪問を告げる。部屋に入ってきた彼女は、男たちの緊迫した様子に怯えた様子だった。
「あの……、お邪魔でしたか」
「いや、大丈夫だ」
ウィリアムは表情をゆるめると手招いた。
「ウィリアム様、そろそろホワイトピークにお帰りになられるとお聞きしましたので……」
言いながらキリエは背中に隠していた瓶を差し出した。
「私が調合した軟膏です。傷痕を消して、温めてくれる効能があります」
ウィリアムは目を見開くと、瓶を受け取る。キリエはもじもじしながら小さな声で囁いた。
「……どうぞよかったら、お使い下さい」
頬を赤く染め、消え入りそうな声でぼそぼそと囁くキリエに、ウィリアムは思わず笑いを漏らした。
「これはこれは。思わぬ贈り物だ。ありがとう。ぜひ使わせていただこう」
厳しくも温厚なウィリアムに心を許しているのだろう。キリエは嬉しそうな表情で顔を上げた。その子どもらしい表情にウィリアムはどこか胸が痛んだ。この無垢な少女がこれから女王へと変わってゆくのか。多くのものを失い、多くのものを得ながら。だが、それでも。
「レディ・キリエ」
「はい」
「そなたは幸せ者だな」
唐突に言われた言葉にキリエはきょとんとした。そして、黙ったままのジュビリーを振り返る。〈黒衣の宰相〉のどこか寂しげな表情に一瞬首を傾げながらも、キリエは笑顔でウィリアムに向き直った。
「はい!」