神聖歴一四九四年十月。ガリアの王都オイール郊外に位置する聖オルリーン大聖堂の周辺には、熱狂的な国民たちが押し寄せていた。二年に及ぶ内戦を経て、ついにギョームが戴冠式を迎えたのである。
煌びやかな大聖堂の内部には国内外の賓客と廷臣、国内の貴族や議員たちがひしめき、外では衛兵部隊が国民を中に入れないよう厳重な警戒に当たっている。様々な国の使節団が招かれている中、ジュビリーたちアングル使節団は内陣に最も近い回廊にいた。外国からの使節団としては異例の扱いである。クレド侯爵ジュビリー・バートランド、ホワイトピーク公ウィリアム・デーバー、ジョン・トゥリー伯爵、秘書官サー・ロバート・モーティマーの四人は緊張した面持ちで主役の到着を待っていた。
「……聖オルリーン大聖堂はこれで二度目だ」
ウィリアムが独り言のように呟き、ジュビリーがそっと振り返る。
「二一年前、叔母とリシャールの結婚式で訪れた。その息子が……、こんな形で戴冠しようとはな」
感慨深げなウィリアムの横顔を見つめ、ジュビリーはかすかに頷いた。さらに何か語ろうと口を開きかけたウィリアムが表情を変える。そしてそっとジュビリーに耳打ちする。
「見ろ」
顎で示された方向を見ると、大聖堂の側廊に黒々とした衣装をまとった一団がいた。
「……エスタドの使節団だ」
「では、彼がオリーヴ公?」
「ああ」
ガルシアの懐刀と呼ばれる男、ビセンテ・サルバドール。長身のその姿はよく目立った。灰色の髪と口髭。同じく灰色の瞳は鋭い光をたたえている。鼻筋の通った顔立ちに、広い額は理知的で切れ者といった印象を与えている。
「ガルシア王はギョーム王を蛇蝎の如く嫌っていると言われておりましたから、戴冠は黙殺するものだとばかり……」
「プレシアス大陸の王侯が集う場に、エスタドだけが欠席というわけにはいかなかったのだろう」
ウィリアムはそう呟くと、やがてジュビリーの耳元に顔を寄せた。
「奴をこれから相手にせねばならん。……覚悟を決めておけ」
ジュビリーは思わずウィリアムを凝視した。本当の敵はレノックスでもエレソナでもない。これからキリエの前に立ちはだかるのはエスタドの大鷲、ガルシア。彼との対決のために、自分は命を賭けてキリエを支えなければならない。だがそれは、彼女を迎えに行ったあの日、自分で決めたことではないか。
しばらくじっとビセンテを凝視していると、大聖堂の拝廊に司教が現れ、大主教の到着を声高に告げた。清らかな鐘の音が殷々と響き渡り、大聖堂の空間は神聖な空気に満ちていく。そんな中、拝廊から聖職者を引き連れた大主教が静かに姿を表した。大主教が通り過ぎると、側廊の参列者は次々と跪き、両手を合わせる。
(……大主教カール・ムンディ……)
ゆっくりと跪き、手を合わせながらジュビリーはそっと大主教を上目遣いで見上げた。プレシアス大陸を精神面で支配する絶大な権力者。彼を快く思わないエスタドのガルシア。そのガルシアに牙を剥く、若き王ギョーム。そして、ガリアに追随する形で王位を継承するアングルの女王キリエ。結局……、全ては大主教の思惑通りに事が進んでいる。
ムンディは内陣に据えられた大主教座に腰を下ろすと、新王の到着を待った。まもなく、拝廊に甲冑を身につけた騎士が新王到着を告げる。跪いていた参列者は次々と立ち上がり、一斉に捧げ剣で迎え入れる。
背廊に騎士と司教を伴った青年が現れた。ガリア王室の象徴である青い正装に身を包んだギョームは、さすがに緊張に顔を強張らせ、ゆっくりと玉座へ向かう。
十九歳のギョームはまだ幼さを残しており、大陸各国の参列者は、この若者が武力で父王を廃し、自ら戴冠に漕ぎ着けたことを未だに信じられないといった表情で見守っていた。
ムンディが座する高座までやってくると、司教たちがギョームに法衣を着せる。そして、彼は仮面のように無表情のまま、主教座のムンディを見上げた。
「……大主教猊下」
ムンディはわずかに口元をほころばせると、司教が捧げ持つ王冠に目を移す。大粒の真珠が白百合の形に配され、ガリアの象徴であるサファイアが惜しげもなくあしらわれている。ムンディはそっと両手を伸ばすと慎重に王冠を受け取った。
ギョームは静かに両手を合わせると跪き、ムンディは王冠をゆっくりと被せた。司教たちの詠唱が一際高く大きく響き渡る中、立ち上がったギョームに司教たちが王笏と宝珠を持たせる。そして、並みいる参列者を見渡し、彼は声高に叫んだ。
「我はガリア王、〈聖使徒〉ギョーム・ド・ガリアである!」
瞬間、アンジェ侯バラが剣を天に向かって突き立てる。
「国王陛下万歳!」
すると参列者も一斉に剣を突き上げる。
「国王陛下万歳! 国王陛下万歳! 国王陛下万歳!」
割れんばかりの大合唱が聖堂に殷殷とこだまする。大音声の呼び声は天まで轟かせる勢いで響き渡った。その渦の中心で、ギョームは喜びに震えながら大天井を見上げる。
(……母上、やっと、戴冠できました)
ようやく、ガリアの王になった。ガリアの未来はこの手にある。
(母上、お約束します。父上よりももっとこの国を豊かにし、平和な時代を築くことを。……命に代えてでも)
ギョームは天を仰ぎ、目を閉じて祈った。
聖オルリーン大聖堂から、王都のビジュー宮殿までの距離を、新王は半日かけて祝賀パレードで帰還した。日が暮れるとビジュー宮殿で贅を尽した祝宴が開かれ、各国から派遣された使節団がもてなしを受けた。
「これはまた……、恐ろしく豪華絢爛な祝宴ですね」
ジョンが眉をひそめて呟く。元々、プレシアス大陸の中でも優美で華やかな文化を誇るガリア王国のこと。衣装や料理、会場を彩る豪奢な調度品の数々、心地よい流麗な音楽が流れるその空間に、田舎の貴族に過ぎなかったジョンにはどこか後ろめたさを感じさせた。
「……ここまで華やかにされると、こちらも粗末な戴冠式にするわけにはいきませんね」
「そうだな」
この戴冠式に招かれた各国の使節団は、そのままアングル女王の戴冠式に出席することが充分に考えられる。ジュビリーは頭を悩ませた。
「バートランド」
ウィリアムの呼びかけに、ジュビリーが振り返る。ウィリアムは手にした杯で、会場の中央を指し示した。そこには、新王ギョームと、彼を取り巻く王侯貴族たちの姿があった。
「ポルトゥス、カンパニュラ、ナッサウ。クラシャンキ帝国の宰相までいる。……皆、未婚の王女がいる国ばかりだ」
その言葉の意味するところを読み取ったジュビリーは、複雑な心境でギョームの所作を見守った。彼に積極的に近づこうとしているのは、いわゆる親クロイツ派と呼ばれる国々だ。一方、ギョームに対して警戒心を露にしているエスタドやユヴェーレンの使節団は冷ややかな視線を送っている。他にも、エスタドの属国であるレオン公国やレイノ公国の使者も、宗主であるガルシアの機嫌を損ねないよう、控えめな態度で佇んでいる。
「クラシャンキ帝国の宰相が近づくとは、意外ですね」
ジョンが小さく呟くとウィリアムが推測を述べてみせた。
「近づいているのではなく、警告だろう。クラシャンキ帝国もクロイツとは対立している。むしろエスタドとの結びつきを強めたいはずだ。ギョームに、これ以上自分たちの神経を逆撫でするような行動は慎めと言いたいのだろう」
プレシアス大陸の極東に位置する広大なクラシャンキ帝国は、ヴァイス・クロイツ教から派生した〈極東派〉と呼ばれる宗派を信奉している。クロイツにとっては〈異端〉であり、帝国に対して常々苦言を呈している。
世界はまだまだ、微妙な均衡で成り立っている。エスタドのような強大な国ばかりではない。アングルを始めとする弱小国は、同盟を結ぶことによって自国を守ろうとする。最も手っ取り早く、強い絆を結べる手段が政略結婚だ。だが、政略結婚は時として同盟ではなく、服従を意味することもある。ガルシアの娘、フアナとギョームの婚約がそれだ。結果、ギョームは婚約を拒み、両国の緊張は高まった。
政略結婚。その言葉がジュビリーの頭の中で繰り返し響き渡る。キリエはまだ十四歳だ。だが、いつかは王配として夫を迎えねばならない。自らの後継者のため、結婚して子をなさねばならない。エドガーが後継者を指名していなかったため、王位継承戦争が起こった。同じ悲劇を繰り返すわけにはいかない。
そんなジュビリーの思いを感じ取ったかのように、顔を上げたギョームがジュビリーの姿を見つけた。
「クレド伯!」
ギョームが大きな声で呼びかけ、周囲の視線は一斉にジュビリーへと注がれた。
「失礼。今はクレド侯だったな」
ギョームは笑顔でジュビリーへと歩み寄った。ジュビリーたちは恭しく跪く。
「この度の戴冠、誠に慶賀の至りに存じます」
「ありがとう、これもそなたたちの助けがあってこそだ」
ギョームが口にした感謝の言葉に、他国の使者たちは思わず目を見開いて顔を見合わせる。戴冠式での列席の位置にしろ、アングルへの待遇は目をみはるものがある。ギョームはウィリアムに向かって軽く会釈した。
「お久しぶりです。ホワイトピーク公」
ギョームにとって、ウィリアムは伯父エドガーの甥である。ウィリアムは黙って微笑むと頭を下げる。ギョームの背後にはアンジェ侯爵バラの姿があった。モーティマーの視線に気づいたバラは、にっと微笑を浮かべてみせる。モーティマーはわずかに顔を引きつらせると、一礼した。立ち上がったジュビリーの肩に手を添えるとギョームは小さく囁く。
「女王陛下はお元気か?」
「はい。戦後処理など問題が山積しておりますが、何とか執務をこなしておられます」
「先日、親政宣言を行われたそうだな。良いことだ」
「はっ」
「戴冠式の日取りは?」
「まだはっきり決まってはおりませぬが、近々、ご招待できるものと……」
「今回は残念だったな」
そう言うとギョームはにっこりと微笑んだ。クレドで会見した時に見せた穏やかな笑顔は変わらない。だが、その美しい碧眼の奥底には何かが隠されている。ジュビリーは申し訳なさそうに眉をひそめて見せた。
「お許し下さい。せっかくのご招待でしたが、まだ国内が安定しておりませぬ故……」
「わかっている。戴冠式で再会できるのが楽しみだ」
「はっ」
やはり、戴冠式は代理を立てずに出席するつもりか。ジュビリーは深々と頭を下げた。そんな彼を満足げに見やってから、ギョームは声を高めた。
「バラ、リッピをこれへ」
「はっ」
一礼してその場を離れたバラを見送りながら、ジュビリーが尋ねる。
「リッピというとよもや……」
ギョームが得意げに微笑んでみせる。
「そう。カンパニュラが世界に誇る天才画家、ヴァレンティノ・リッピだ」
ヴァレンティノ・リッピ。プレシアス大陸では知らぬ者はいないほど有名なカンパニュラ人画家。若い頃から数々の名作を世に送り出し、大主教ムンディの依頼によって制作した聖クロイツ大聖堂の大天井画によって、その名声を決定付けた。その頃から、各国の王侯貴族から肖像画の依頼が舞い込み、彼に肖像画を手がけさせることが流行となっていた。そんなリッピには少なからず「武勇伝」が存在していた。中でも有名な逸話が二つある。
リッピは、教会からの依頼には報酬を受け取らない一方、王侯貴族からは、法外な報酬を要求することで有名だった。
リッピの評判を聞きつけたガルシア王が早速肖像画を依頼したところ、リッピは事もあろうに五十万リーブラもの高額を提示した。廷臣たちは激怒したが、ガルシア本人は涼しい顔で「自分にはそれだけの価値がある」と答え、言い値で支払ったという。ガルシアの懐の大きさに感じ入ったリッピは、フアナ、イサベラ、アンヘラの三王女の肖像画を「無償」で手がけた。
もう一つの逸話は、先のものとは打って変わって血生臭いものだ。
リッピの評価が高まってきた頃、ユヴェーレンのオーギュスト王が自身の肖像画を依頼してきたが、折しもユヴェーレンとリッピの祖国カンパニュラは戦争状態。しかもその前年には、捕虜となったカンパニュラのエンリケ王が惨殺されていた。このことは世界中に知られることになり、リッピがどんな対応を取るのか注目が集まった。
そして、依頼があってから二ヵ月後。リッピは一枚の絵を返答の代わりとしてユヴェーレンに送りつけた。それは、惨たらしく殺されるエンリケ王を生々しく描いた壮絶な絵だった。オーギュストは激昂し、宮殿前広場で絵を八つ裂きにした上で火を放った。だが、実はリッピは全く同じ絵をもう一枚仕上げていた。彼はその絵をエンリケ王の妃、フランチェスカに献上。王妃はその絵を背に演説を行い、絶望に打ちひしがれていた国民の士気を高め、再びユヴェーレンとの戦いに臨んだのである。
このように、リッピは芸術家でもあり、政治的な影響力をも持った男であった。
「リッピ、紹介しよう。アングルの宰相、クレド侯だ」
ジュビリーの前に現れたのは、ゆったりとしたローブを身にまとい、凝った作りの帽子を被った小太りの中年男だった。彼はジュビリーに向かってにっと愛嬌のある笑顔を見せると優雅に一礼して見せた。そんな彼に、ジュビリーの方も思わず顔をほころばせる。
「クレド侯ジュビリー・バートランドだ。噂はかねがね聞いている」
「光栄でございます。ヴァレンティノ・リッピと申します」
「この度、予の肖像画と戴冠式の絵を依頼した。キリエ女王も描いてもらうといい。予から戴冠の祝いだ」
「それは……」
リッピの報酬の相場が恐ろしく高いことを知っているジュビリーは、ギョームからの申し出に戸惑った様子で言い淀む。だが、リッピの方は馬鹿丁寧に頭を下げてみせた。
「ガリア王のお願いとあらば、ご相談に応じましょう。……金額の面でも」
王を前にした大胆な冗談に一同は愉快そうに笑い声を上げた。
「さすがはリッピだな。愉快な奴よ」
「しかし、私からもぜひ女王陛下の肖像画を手がけさせていただきたいものです」
リッピは明るい表情で続けた。
「数年前、亡き先王陛下エドガー様の肖像画を描かせていただきました故……」
「なるほど」
ギョームは機嫌よさそうに頷く。
「決まりだな。クレド候、リッピをアングルに連れて帰るが良い。キリエ女王もお喜びになろう」
「……ありがとうございます」
ギョームはそこでリッピやバラを下がらせると、ジュビリーにそっと寄り添った。
「……冷血公はどうしている?」
ジュビリーの表情が引き締まる。
「降伏を勧告いたしましたが、未だ服従を拒んでおります」
「タイバーンの雌狼もか」
「はい」
ギョームは眉をひそめてしばらく考え込む素振りを見せた。
「……制圧できそうか」
「せねばなりますまい」
「いつでも良い。使者を寄越せばすぐに援軍を送る」
「はっ」
ジュビリーが頭を下げると、ギョームは会場を見渡した。
「予とキリエ女王が即位することで、世界は動き始める。何が起こるかわからん状況だ。……協力しあわねばな」
「はい」
「……ところで」
ギョームは相手に視線を向けないまま続けた。
「キリエ女王はおいくつだったかな?」
唐突な問いに、ジュビリーは胸に冷たいものを感じた。
「……来月、十五歳におなりです」
「十五歳か……」
意味ありげに呟く若い王を、ジュビリーはじっと見つめた。ジュビリーの突き刺さるような視線を感じたのか、ギョームはゆっくりと振り返った。そして、その口元に浮かぶ笑みを見て、ジュビリーは胸で「やはり」と呟いた。この王は、キリエを望んでいる……。
「人のことは言えないが、まだまだお若い。若輩者同士、いつでもお力になるとお伝えしてくれ」
「……お心遣い、痛み入ります」
わずかに顔を強張らせて頭を下げた時。周囲にざわめきが起こる。顔を上げると、こちらへ黒尽くめの一団がまっすぐにやってくる。オリーヴ公爵ビセンテ・サルバドールとその側近たちだ。
大聖堂でもそうだったが、全身黒尽くめの一団というのはとかく目を引いた。普段は黒衣がほとんどのジュビリーも、さすがに鮮やかな赤い礼装を身につけていたが、エスタドの使者たちは揃いも揃って黒尽くめだった。
ビセンテはギョームの真正面に立ちはだかると鋭い目で見下ろした。対してギョームは穏やかな微笑を絶やさない。ギョームとガルシアの軋轢は大陸中に知られている。特に、ギョームがフアナとの婚約を拒んだ際、父王リシャールがビセンテの眼前で息子を殴り倒したという逸話まである。列席者たちは皆固唾を飲んで見守った。
「ギョーム王陛下」
練れた太い声にその場の空気が張り詰める。
「ご無事の戴冠、何よりでございます」
一国の君主の即位に対する祝辞にしては、あまりにも簡潔な言葉に、皆は眉をひそめた。
「ありがとう」
ギョームの方も短い礼を返す。
「内戦から二年、とうとう戴冠なされましたな」
内戦という、祝宴には似つかわしくない言葉にジュビリーは他人事ながら冷や汗をかく。が、ギョームは相変わらず静かに微笑んでいる。
「二年は長かった。一刻も早く荒れた国内を立て直そうと思っている」
「左様でございますか。ところで……」
ビセンテはそこで言葉を切ると、目を細めて少年王を見つめる。
「父君は今何処にいらっしゃるのでしょう」
一瞬その場が静まり返るが、すぐにざわめきが起こる。ギョームは落ち着き払ってビセンテに歩み寄ると上目遣いで見つめる。
「父は今、静かな場所で祈りを捧げてもらっている」
「いつまで幽閉なさるおつもりです?」
「神のお許しを得るその日まで」
「……なるほど」
納得したように頷くと、ビセンテは一歩後退して頭を下げた。
「我が君には、そのようにお伝えいたしましょう」
そして踵を返そうとした歩みを止め、ジュビリーに目を留める。ジュビリーは相手の視線を真っ直ぐ受け止めた。思慮深げな灰色の瞳は、どんな秘密をも見透かすようで、ジュビリーは思わずごくりと唾を飲み込んだ。だが、決して退くことはせず、鋭い視線を投げ返す。
「貴公が、クレド侯ジュビリー・バートランド?」
「……はい」
「お若いな」
ジュビリーは黙って軽く頭を下げる。ビセンテ・サルバドールは確か四五歳だ。
「貴公よりも、もっとお若い君主が即位なさるそうだな」
「はい」
ビセンテは意味ありげに笑みを浮かべると、会釈をして背を向けた。ジュビリーの隣にジョンが不安そうな顔つきで寄り添う。
「……義兄上……」
だが、ジュビリーは黙ってビセンテの後姿を見送っていた。
数日後。三日間に及んだ盛大な祝宴を終え、ルファーン港から帰途についたジュビリーは、浮かない顔つきで船縁にもたれていた。
ここ数ヶ月の疲れと、慣れない船旅。さらに拍車をかけるようなギョームの言動。今回のギョームの戴冠式同様、キリエの戴冠式にも各国の王家は未婚の男子を送り込んでくるだろう。あからさまな求婚はしないだろうが、互いに腹の探り合いになることは間違いない。キリエには事前に言い含めておかねばなるまい。
しかし、とジュビリーは胸中で呟いた。どうあがいても、アングルの未来のためにいつかはキリエの夫を迎える日がやってくる。避けては通れない問題だ。だが、舳先に砕け散る波頭をぼんやりと眺めていたジュビリーは、不意にぎくりとした。
「あがいても……?」
キリエが夫を迎えることを、自分はそんなに避けたいのか? ジュビリーは眉間に皺を寄せて顔を振る。違う。キリエは自分にとって娘のような存在だ。多少感傷的になるのは当然だ。
(……おまえの言うとおりだ。レノックス・ハート)
ジュビリーは冬の気配を感じさせる海空を恨めしげに見上げた。
(確かに、最初は私にとってキリエは王位継承権者に過ぎなかった。だが……、今は違う)
そう思うようになったのは果たしていつの頃なのか、考えを巡らすジュビリーの耳に、不意に自分を呼ぶ声が響く。
(ジュビリー……)
彼の眉間の皺が深まる。
(私は、天に召されてもずっとあなたを支え続けるわ。あなたは、あなたを必要とする人を支えてあげて)
「……エレオノール……」
妻の最後の願いは今も胸に刻み込まれている。思わず拳を握りしめ、じっと目を閉じていると、甲板の船板が軋む音が聞こえてきた。
「……侯爵」
遠慮がちに声をかけてきたのはモーティマーだった。振り返ると心配そうに眉をひそめている。
「ご気分が優れないのでは……」
「……多少、船酔い気味だ」
低く呟くと肩をすくめてみせる。そして、顔の表情を穏やかにゆるめる。そんなことを言いに、わざわざ声をかけたのではないだろう。
「どうした」
「……お耳に入れておきたいことが」
そう言ったものの、モーティマーは目を伏せ、迷う素振りを見せる。
「言ってみろ」
穏やかに促され、ようやく顔を上げる。
「決して人のことは言えない身ですが。……アンジェ侯について」
バラもジュビリー同様、ギョーム即位の功で侯爵位を叙位されていた。
「アンジェ侯は……、私がベル・フォン・ユヴェーレンの使者として先王リシャールに謁見した際、彼の隣にいた男です」
ジュビリーは目を眇めてモーティマーを見つめた。
「……つまり、主君に対して離反したと?」
「はい。……あちらも、同じことを考えているでしょう」
モーティマーの自嘲気味な言葉に、ジュビリーは少し気の毒そうな目を向ける。生真面目で誠実な青年は、先王エドガーに引き続いてキリエの秘書官に就任する予定になっている。王位継承戦争の間に顔つきが変わるほど憔悴した彼も、ようやく「本来の主君」を得、少しずつ心身共に健康を取り戻しつつある。だが、本意ではなかったとは言え、リシャールのアングル侵略の手引きをしたことに対する罪悪感は未だに拭いきれないのだろう。
「……アンジェ侯アルマンド・バラ。名前は耳にしたことがある。内戦前からのリシャールの腹心のはずだ」
「はい」
ガリアとの外交時、特に内戦勃発後は、援軍の依頼などでアングルの宮廷では彼の名は度々挙がっていた。ただ、ジュビリーはエレオノールの事件後、十年近く宮廷から遠ざかっていた。一方、モーティマーは王の秘書官として常に情報に接していた。その寵臣が今、ギョームの腹心となっている。
「あのお方は……、機を見るに敏なお方です」
控えめだが、モーティマーの言葉の節々からはバラに対する不信の念が見てとれる。だが、自分もレノックスやベルの間を行き来していた手前、声高に非難することはできないというもどかしさも感じられる。ジュビリーは静かに頷いた。
「……覚えておこう」
「はっ」
一礼して背を向けたモーティマーを呼び止める。
「モーティマー」
「……はい」
少し怯えたような顔つきで振り返ったモーティマーに、ジュビリーは船縁にもたれたまま諭すように呟いた。
「私は、おまえがアンジェ侯と同じ種類の人間だとは思わない」
その言葉に、どこかほっとした表情を見せると、モーティマーは黙って深々と頭を下げた。