アングル島の西に位置する町、ブライストール。モーティマーがやってきたこの港町は商業港としてはアングル最大の規模を誇る。軍港のホワイトピークと違い、多くの商人や水夫が行きかう通りは、荒々しくも活気に溢れている。連れてきた部下たちを待たせ、モーティマーはソーキンズが常宿にしているという宿屋に向かった。
そこはブライストールの多くの宿屋と同様、一階が居酒屋になっており、荒っぽい喧噪に包まれていた。まだ日が落ち切っていないにも関わらず、飲んだくれた船乗りがそこかしこで杯を傾け、喧嘩沙汰になりそうな勢いで言い争う者たちもいる。迫力のある女将が、癖の悪い客に容赦ない罵声を飛ばし、愛想のない娘が酒や料理を運んでいる。
「おまえがここの主人か」
奥でふんぞり返った小太りの男に声をかける。男は胡散臭げな顔つきでモーティマーを見上げた。
「何の用だい」
「ここにフィリップ・ソーキンズがいると聞いてきた」
途端に、周囲の者たちが次々と振り返る。皆、癖のある凶悪そうな顔つきの水夫ばかりだ。いや、真っ当な水夫ではないのもしれない。主人は面倒くさそうに体を起こし、探るような目つきで睨みつけた。
「……あんた誰だ?」
「ロバート・モーティマー。もっとも、向こうは覚えてはおらんだろうが」
主人は重そうに腰を上げ、階段の昇り口へ向かうと怒鳴った。
「フィル! お客だ! フィル!」
ややあって天井がぎしぎし軋むと、しわがれた声が返ってくる。
「
「おめぇに会ったことがあるんだとよ!」
再び軋んだ音がすると、階段をゆっくり降りてくる靴音が響く。モーティマーが階段の下まで歩み寄ると視線を上げる。
薄暗い空間に痩せた長身の男が仁王立ちしている。浅黒い顔に黒い髭。タールが染み込んだぼろぼろの服。油染みたブーツ。柄に黒く変色した血がこびりついた剣。しわがれた声から想像されるよりもずっと若い顔つき。フィリップ・ソーキンズは目を眇めると呟いた。
「……誰だ?」
「ロバート・モーティマー」
「いつ会ったって?」
「十年前、おまえに騎士号が授与された時だ」
それを耳にすると、ソーキンズはにやりと笑ってみせた。
「……あいつか。何とか伯爵……」
「今はクレド侯だ」
ソーキンズは無言で顎をしゃくると背を向けた。モーティマーが階段を上がると、扉が開け放たれた部屋が目に入る。用心深く室内に入ると、夕闇が迫る部屋の隅で、ソーキンズが酒をラッパ飲みしている。
「あいつ、侯爵になったのか」
口元を拭うとソーキンズは椅子を指さす。モーティマーはゆっくり腰を下ろした。
「聞いているだろう。グローリア女伯の擁立に尽力したのだ」
「らしいな」
ソーキンズは細めた目から鋭い視線を送ってきた。
「で? 何をしに来た?」
モーティマーは表情を変えないまま答えた。
「私は〈女王〉の直属秘書官としてここへ来た。つまり、これは女王からの依頼だ」
「命令じゃなく?」
「そう言い換えてもいい」
ソーキンズは薄ら笑いを浮かべた。
「聞くだけ聞こうか」
モーティマーは頷くとわずかに身を乗り出し、語り始めた。
「女伯は王位を宣言し、国民やほとんどの諸侯からも支持を受けている。王位にふさわしい人物は他には存在しない。後はクロイツのムンディ大主教による戴冠を待つだけだ」
相手の説明に、ソーキンズは特に反応は示さない。
「大主教は戴冠する意志を表明されたが、アングルまでの航海に不安が残る。エスタドの沿岸を航行せねばならんのだ。そこで、そなたに白羽の矢が当てられた」
「……誰が言い出した」
「クレド侯だ」
「他の石頭どもが嫌がるんじゃねぇのか? 大体、女伯も納得したのか?」
「女伯はクレド侯を信頼されている」
「ふん」
疑り深そうな顔つきでソーキンズはモーティマーを見つめると、やおら酒瓶を呷った。ふぅと息を吐いてから酒瓶を持ち上げる。
「飲むか」
「……結構だ」
モーティマーは辛抱強く海賊を凝視した。相当強い酒を飲んでいるようだが、頭はしっかりしているらしい。じれったい沈黙の後、海賊は少しばかり迷惑そうな表情でぼやく。
「……なんで俺なんだ?」
「そなたの実力を買っておられるのだ。そなたならば、エスタド海軍など敵ではなかろう」
「サー・ロバートよ」
「……なんだ」
海賊はテーブルに酒瓶を置いた。椅子にふんぞり返り、相手をじっと見つめる。
「あんたの意見を聞きたい。その、何とか女伯ってのは、女王の器か?」
モーティマーは眉間に皴を寄せた。
「教会で育った修道女らしいな」
相手の言葉に、モーティマーは体を乗り出した。
「グローリア女伯は限りない可能性を秘めておられる」
「……ふん」
「あの冷血公を破ったのだ。ガリアのギョーム王とも同盟を結び、侵略者であるリシャール王を駆逐した実績がある。あのお方は、人を動かせる」
いつしか必死に言い募るモーティマーに、ソーキンズは不敵な笑みを浮かべてみせた。
「女伯は何をくれるんだ?」
そして、狡猾そうな表情で言い添える。
「爵位なんぞ何の役にも立ちゃしねぇからな」
「クレド侯は、私掠許可状を検討している」
私掠許可状とは、言い換えれば敵国船拿捕許可状だ。つまり、国家が敵と見なした国の船舶を攻撃することを認めるものだ。だが、ソーキンズはふんと鼻先で笑う。
「許可状なんか、あってもなくても俺には関係ねぇ」
「そうだろうな」
モーティマーは予想していたかのように頷く。
「大主教をアングルまでお連れし、さらにクロイツまで無事に送り届けることができたら、引き続き王宮がそなたの〈交易〉に出資しよう。それだけの価値があるのだ」
ソーキンズの海賊行為を交易と言い換えたモーティマーに、本人は愉快そうに含み笑いを漏らした。
「王宮は今、金がないんだろ?」
「そうだ。だから、そなたの助けが必要なのだ。女伯は間違いなく国を安定させ、繁栄に導く」
「やれやれ、気の長い話だな」
溜息混じりに、だが愉快そうに呟くソーキンズをモーティマーがじっと見守る。海賊は細い体を起こした。
「……試してみるか。女伯のお手並みを」
「ソーキンズ」
「条件がある。俺の船と部下をそのまま使わせろ」
「わかった」
モーティマーは安堵の表情を押し隠し、椅子から立ち上がった。
数日後、アングル王国はプレシアス大陸の各王家に、キリエ・アッサー・オブ・アングルが戴冠することを通告した。アングルの王位継承戦争は世界中から注目を浴びており、〈修道女〉キリエ・アッサーの勝利という大方の予想を覆した結果に各国は驚きを隠せなかった。そして、それぞれこぞって戴冠式参加を伝える使者を寄越してきた。噂の修道女をひと目見ようという冷やかしもあったのだ。
戴冠式への準備が一気に加速する中、キリエはマリーエレンと共にプレセア宮殿の広大な衣裳部屋にいた。戴冠式で着用する衣装の仮縫いが出来上がったのだ。侍女たちが数人がかりで着せる豪奢な衣装に、キリエは息が詰まる思いで人形のようにじっと立ち尽くしていた。
「キリエ様、エヴァはいかがでした? 粗相はありませんでしたか?」
「粗相なんかないわ。とっても真面目で良い娘ね」
キリエの言葉に、マリーは安心したように笑顔を見せる。
「多分、私たち良い友達になれるわ。これからが楽しみだわ」
「そうですね。ぜひ良い思い出を作ってあげて下さい」
「思い出?」
キリエが衣装に袖を通す手を止めて振り返る。マリーは少し気の毒そうな表情で答えた。
「実は……、エヴァは一年間の期限付きの出仕なのです」
一年間。キリエは思わず絶句してマリーを見上げる。
「エヴァには婚約者がいるのです。つまり、花嫁修業といったところですね」
「……そうなの……」
キリエは寂しそうに目を伏せ、呟く。思いも寄らない事実に困惑の表情だ。
「……一年」
「ええ。婚約者との約束だそうです」
「残念だわ」
沈んだ声に、マリーが優しく微笑みかける。
「エヴァの婚約者は地方の子爵だそうです。場合によっては、夫妻共々宮廷に出仕させることも不可能ではありませんわ」
「……そうね」
キリエは無理やり笑顔を作ると、再び衣装を身にまとい始めた。同い年のエヴァ。だが、その身にはすでに決まった結婚相手がいるのか。キリエは複雑な気持ちを押し隠し、姿見に映った自身の姿に目をやる。
「着心地はいかがです? キリエ様」
「何だか変な感じ」
キリエは肩をすくめると正直に答えた。アングル王家の象徴である真紅のドレスに、金糸で織られた繊細な模様の外衣。アッサー家の紋章〈青蝶〉文様が織り込まれた胸当て。薄く白い頭布を被り、当日は王冠を戴くことになる。
「注文した装飾品も、ほとんどが出来上がっているそうですよ」
「あまり派手にしたくはないのだけれど……」
「戴冠式ですよ? 相応しいお姿でなければ。ねぇ? レスター」
二人の後ろに衝立があり、その向こう側には着替えを待っているレスターが佇んでいる。
「そうでございますよ、キリエ様。当日は大陸中の王侯貴族がお集まりになりますからな」
「でも、私、こんな衣装似合わないわ……」
「そんなことございませんわ。とってもお綺麗ですよ。レスター、ご覧になって」
「どれどれ」
マリーに呼びかけられ、レスターが衝立から顔を覗かせる。
「ほう、これはこれは。素晴らしい!」
「そう?」
キリエは納得いかない表情で呟く。
「きっと、キリエ様のお姿をご覧になったら、ガリアのギョーム王も驚かれるでしょうね」
「ギョーム様もいらっしゃるのかしら」
「もちろんでございますよ」
レスターが懐から書類を取り出した。
「ガリアからはギョーム王。カンパニュラからはフェルナンド王子。ポルトゥスからはジョゼ王太子。ナッサウは王弟ライン公マウリッツ。それと、クラシャンキ帝国からはルスラン皇子が参列される予定です」
「そうそうたる顔ぶれですね」
マリーが驚きの表情でキリエを振り返る。レスターは重々しい口調で言い添えた。
「全て、未婚の男子でございます」
キリエは眉をひそめた。
「……何か意味があるの?」
「大有りでございますよ。皆、結婚も視野に入れた同盟策を検討していることでしょう」
結婚という思いもかけない言葉が出てきたことにキリエは息を呑んだ。
「ギョーム王の戴冠式でも、未婚の王女を擁する国々の使者が積極的に陛下に接近していたそうでございます」
不安そうな面持ちのキリエを見て、マリーがそっと肩に手を添える。
「侯爵も、王族との接触は慎重にと仰せでございました」
「ジュビリー……」
キリエの脳裏に、先日の会議が思い起こされる。フィリップ・ソーキンズとの交渉が成功し、近々ムンディ大主教を迎えにいく使節団が出発することになっている。だが、キリエにはあの時のジュビリーの態度が気になって仕方がなかった。
「大主教をお迎えする目処も立ちましたし、戴冠式まで後わずかでございますな。まさか、フィリップ・ソーキンズを召還することになろうとは思いも寄りませんでしたが……」
「レスター」
いつになく固い声で呼びかけられ、レスターは思わずぎくりとして顔を上げた。キリエは強張った表情で周囲をちらりと見やった。その意図を読み取ったマリーが侍女たちを退出させる。最後の侍女が扉を閉ざすと、キリエはレスターを振り返った。
「ジュビリーがフィリップ・ソーキンズと会ったのは十年前だったわね」
「……はい」
レスターは眉をひそめて呻いた。
「その時、何かあったんじゃないの?」
「……いえ、別に」
「嘘」
キリエは鋭く言い放った。レスターとマリーが思わず顔を見合わせる。
「絶対、何かあったはずよ。だって、十年前と言えば……!」
キリエの勘の良さにレスターは内心驚きを隠せなかったが、このままではキリエはおさまらないであろう。
「……キリエ様」
観念した様子でレスターは呟いた。
「十年前と言えば……、レディ・エレオノールがお亡くなりになった年でございます。……正確には、翌年お亡くなりになったのですが」
やはり……。キリエの胸騒ぎは的中していた。だが、彼女は心のざわめきを抑えられなかった。目を伏せ、落ち着かない様子で口走る。
「誰も、教えてくれないの。エレオノール様のこと」
キリエは痛々しいほど強張った表情で呟き、震える手をぎゅっと握りしめた。
「レスターも、ジョンも、マリーも。……ジュビリーも。誰も……、何も教えてくれない」
「キリエ様」
「父がしたことだから? 私には関係ない? そんなことないわ!」
キリエの剣幕に気圧され、マリーたちは絶句した。キリエは悔しそうに唇を噛み締め、俯いた。
「父がしたことで……、私の人生は変わったわ。私だけじゃない。みんな……、運命を変えられたのよ! なのに、私だけが真実から遠ざけられている……!」
「キリエ様、落ち着いて」
マリーが泣き出しそうな顔で声を上げ、キリエははっと我に返ったような表情になる。レスターがゆっくりと前に進み出る。
「……左様。キリエ様にも、知る権利と義務がございますな」
キリエは気を落ち着かせようと深呼吸を繰り返し、息を整えた。
「……教えて。何があったのか」
レスターは静かに頷いた。ゆっくりと頭をもたげ、遠い記憶を手繰り寄せる老臣の言葉にキリエは耳を傾けた。
「……十年前……。あの頃、侯爵は廷臣として王宮に出仕されており、ご夫妻共々宮廷内に住まわれておりました。レディ・エレオノールは控えめなお方で、決して宮廷で目立つ存在ではございませんでした。しかしその頃、エスタドの貿易船を次々と攻撃し、王家に多大な財宝を献上したフィリップ・ソーキンズが話題となり、エドガー王は侯爵にソーキンズをイングレスに連れてくるよう命じられました。その、侯爵が留守中に……、エドガー王は……」
キリエは思わず両手で口元を押さえた。マリーも辛そうに目を閉じ、うな垂れた。臣下の留守を狙い、その妻を襲ったというのか。何という卑劣なことを……! マリーが目を閉じたままそっと口を開く。
「ジョンが……、ホワイトピークまで馬を走らせ、帰国した兄に知らせてくれました。兄はその足でイングレスへ駆けつけると、義姉を連れてそのままクレドへ戻りました」
そこで口をつぐみ、悔しげに搾り出すように付け加える。
「……兄がイングレスに到着するまで……、エレオノール様は錯乱状態に陥り、何度も自ら命を絶とうとなさいました」
(離して! お願い、死なせて!)
あの時のエレオノールの断末魔の叫びが、今もマリーの脳裏から離れない。キリエは小刻みに震えながらマリーを凝視することしかできない。レスターが溜息をついてから再び口を開く。
「王の許可なく領地に帰られた侯爵は、本来ならば職務放棄とみなされて罰せられるところでございましたが、モーティマーの取り成しで処分は下されませんでした」
「……サー・ロバート……」
「実際には取り成しではなく、かなり激しい口調で王を非難したとか。ひとつ間違えれば、モーティマー自身が処分されていたかもしれませんな」
控えめで多くを語ることはないモーティマーの姿が思い起こされる。
「クレドへ戻られたエレオノール様は侯爵の献身的な支えもあり、少しずつ健康を回復されていたのですが……、お子を身篭られたことがわかり……」
結局、エレオノールは身篭った王の子と共に命を失った。あの日のジュビリーの言葉が頭に響いた。
「エレオノールは生きることを選んだ。絶望から這い上がろうとした。私も、エレオノールがいればそれでよかった……」
キリエは溜め込んでいた息を大きく吐き出すと、震える手でこめかみを押さえる。
「……私の、父が、そんな……」
「キリエ様……」
レスターが苦しそうな表情で声をかける。
「……母上が、王に最も愛されていた女性だった……? 嘘だわ! 母上が亡くなった後で、そんな卑劣なことを……! 私の体に、そんな男の血が……!」
「キリエ様……!」
マリーが咄嗟に抱き締めると、キリエは縋りついて咽び泣いた。衣装部屋に響く嗚咽に、レスターは痛ましげに唇を噛み締めた。
ガリアの王都オイール。君主の居城、ビジュー宮殿ではギョーム新王がアングルへの出発の準備を進めさせていた。キリエにまた会える。大陸中から一目置かれている〈若獅子王〉は、アングルで出会った天使との再会に密かに胸を躍らせていた。
「半年ぶりでございますな。アングルを訪れるのは」
ギョームの心を見透かすように、アンジェ侯バラが声をかける。
「そうだな」
ギョームは視線を向けないまま、そっけない返事を返す。
「ルール公やエレソナ・タイバーンの動きも気になる中での戴冠式だ。女王も大変だ」
「エスタドのガルシア王が、女王の王位を認めないと発言されているそうです」
「放っておけ」
「陛下」
バラが眉をひそめて歩み寄る。
「陛下は……、本気で、キリエ女王を王妃にお迎えするおつもりですか」
バラの緊張した声色に、ギョームは冷静にならざるを得なかった。姿見で合わせていた装身具を置き、ゆっくりと振り返る。
「申し分のない相手だと、予は思っている」
「それは……、そうでございますが」
「キリエ女王では不満か」
「そうではなく……。女王陛下は、アングルの君主であらせられます。君主同士のご成婚には、色々と問題が……」
「わかっている」
キリエのことについて多くを語りたがらないギョームに対し、バラは一歩も退こうとはしなかった。
「陛下。正直に仰って下さいませ。陛下は……、キリエ女王に好意をお持ちでございますね」
「ああ」
ギョームは半ば自棄気味に声を上げる。美しくも鋭い碧眼でバラを見据え、固い口調で淀みなく言い返す。
「その通りだ。だが、アングルとの同盟は必要不可欠であるし、国益にも叶う。何も問題はない」
「陛下。どうか冷静にお考え下さい。王族の恋愛結婚は、後々火種になることがお多うございます」
「関係ない」
ギョームが鋭く言い放つ。バラは困り果てた様子で黙り込む。
「アングルにとっても、我が国と縁戚を結ぶのは利益になるはずだ。誰にも文句は言わさぬ」
「陛下……」
冷静沈着なギョームが、田舎育ちの修道女ごときにこれほどまで執着を見せるとは、バラは全く予想していなかった。猟色家の父親を見て育ったためか、ギョームは極度の潔癖症であり、これまで浮いた話などまったくなかった。だがその分、恋愛感情を抑えることもできないはず。不吉な予感が胸を支配し、不安げな面持ちで主君を見つめていると、部屋の扉を叩く音が響く。
「陛下」
侍従がギョームに呼びかける。
「マダム・ルイーズ・ヴァン=ダールがお越しです」
ルイーズ・ヴァン=ダール。その名を耳にした途端、ギョームはうんざりした表情で天を仰ぐ。バラも思わず肩をすくめる。
「陛下、ご機嫌麗しゅうございます」
耳障りな高い声が部屋に響き、美しく着飾った初老の貴婦人がやってくる。細い目と尖った鼻が印象的な女性だ。
「お妃候補の件、いかが相成りましたでしょうか」
「そなたが心配することではない」
ギョームが不機嫌そうに言い返す。ルイーズは神経質そうに眉を吊り上げる。
「そうは参りませぬ。いずれお迎えする王妃の教育は私の役目。ガリアの未来のため、最も重要な案件でございますわ」
「そなたに言われなくともわかっている。妃は予が決める。そなたには、妃を迎えた後を頼む」
「どなたになさるおつもりです?」
すばり尋ねるルイーズに、バラは思わず目を見開き、恐る恐るギョームの様子を窺う。
「僭越ながら、私はカンパニュラのコンスタンツァ王女がよろしいのではないかと」
「ルイーズ」
ギョームはとうとう苛立たしげに声を上げると、何とか冷静さを保ちつつ、ルイーズに歩み寄るとまっすぐに凝視した。
「そなたには幼い頃から世話になってきた。予の性格だけでなく、我が国の状況も知り尽くしている。だからそなたの意見は心に留めておく。それで良いな?」
ルイーズはじっとギョームを見つめていたが、やがてにっこりと微笑んだ。
「ええ。何とぞ、ご熟考なさって下さいませ」
言いたいだけ言うとルイーズは踵を返して部屋を去っていった。ギョームはほっとした顔つきで溜息をつく。
「……相変わらずですな、マダム・ルイーズ……」
「あれにとっては、予はいつまでたっても子どもらしい」
ギョームが忌々しげに呟くが、その表情はどこか戦々恐々としたものだった。
ルイーズ・ヴァン=ダール。ギョームの少年時代の礼節担当教師であり、現在はビジュー宮殿の女官長である。王妃マーガレットの死後、ギョームの母親代わりであると自任しており、今でもこのように政治に口出しをしたがる彼女に、ギョームは不快さを感じながらも逆らえないでいた。だが、ルイーズの言うことももっともだった。これは、ガリアの未来に関わることだ。バラが懸念するのもわかる。ギョームは険しい表情のまま、海を隔てたアングルの女王を思った。