神聖暦一四九四年十一月十六日。キリエは未明に起き出すと礼拝堂に向かい、静かに祈りを捧げた。今日は一五歳の誕生日。そして、戴冠式を迎える。
礼拝堂を出るとすぐさま衣装部屋に連行され、入念に身支度を整える。専門の化粧師に化粧を施され、いつもは化粧を嫌がる彼女もこの日ばかりは周囲に言われるがままだ。
「まだか」
衝立の向こう側から、少々苛立ったジュビリーの声が投げかけられる。
「もう少しお待ち下さい、兄上」
マリーの返事にジュビリーは溜息をつく。
「落ち着け、バートランド」
ホワイトピーク公ウィリアムにたしなめられ、ジュビリーは神妙そうに頷いた。隣のレスターやジョンも思わず苦笑する。やがて、レスターはグローリア城から持参したアッサー家の紋章があしらわれた胸飾りに目を落とし、今は亡きグローリア伯ベネディクトと、ケイナ・アッサーに思いを馳せた。ケイナが抱く乳飲み子のキリエの頭を嬉しそうな表情で撫でていたベネディクトの顔が思い出される。紆余曲折あったが、いよいよ、戴冠を迎えるのだ。ケイナが存命であれば、せめてエドガーがまだ王であったなら、そう思わずにはいられない。複雑な思いを胸に吐息をつくレスターだったが、衝立の向こうから女たちのはしゃいだ声が響いてくる。
「ねぇ、マリー、本当にこれでいいの? 化粧が濃くない?」
「大丈夫ですよ。これぐらいのお化粧でなければ、衣装に負けてしまいますわ」
「そうでございますよ、女伯。これから王冠も戴くのですよ?」
マリーや女官の言葉に、キリエは納得いかない様子で鏡を覗き込む。
「……何だか、私じゃないみたい」
「お綺麗ですよ。皆様にもご覧になっていただきましょう!」
エヴァの明るく弾んだ声にマリーも頷くと、侍女たちに衝立を移動させた。
「いかがです? 兄上」
振り向いた男たちの前に、鮮やかな真紅のドレスに身を包んだキリエが心細げに姿を見せる。その姿にジュビリーが思わず息を呑んだ瞬間。隣のレスターが胸飾りを取り落とした。
「レスター!」
すんでの所でジョンが胸飾りを掴む。
「し、失礼いたしました……!」
思わずどもりながら謝罪するレスターに、ジョンが苦笑しながら肩を叩く。
「驚き過ぎだぞ、レスター!」
「いや、誠に、その……、ここまでお美しくなられるとは……」
「確かに! きっと、大陸の王侯たちも目を瞠るに違いありませんよ。ねぇ、義兄上?」
と、先ほどから黙ったままのジュビリーを振り返ると、ジョンは首を傾げる。
「……義兄上?」
ほんのりと桃色の肌に薄紅色の艶やかな唇。つぶらなアーモンド型の瞳がじっと眼差しを投げかける。柔らかな栗毛は綺麗に結い上げられ、天使の羽衣のような繊細なレースの
「……確かに、化粧が濃いな」
「兄上!」
マリーが思わず兄の胸を叩く。
「何てことを仰るんですか!」
「い、いや……」
思わずたじろぐジュビリーにウィリアムが吹き出し、女官らもわっと声を上げて笑う。ジュビリーは不本意そうに顔をしかめながらも、眩しそうな目でキリエを見つめた。キリエは真剣な表情でマリーを振り返る。
「ねぇ、やっぱりこの化粧……」
「大丈夫です! 兄の言葉はお聞き流し下さい!」
そして半ば呆れた表情で兄を振り返る。
「この程度で化粧が濃いなど、ありえませんわ!」
「いや、私が言いたいのは……」
妹に一方的に言われっぱなしのジュビリーは、不服そうにぼやく。
「……いつものキリエで充分だろう」
その言葉に、キリエが目を見開く。隣に寄り添ったエヴァも思わず微笑んだ。すると、扉の外からモーティマーの声が聞こえてくる。
「皆様。そろそろ……」
「わかった」
ジュビリーが答えると、キリエは途端に表情を固くし、大きく息を吐き出した。緊張で顔つきまで変わってしまった彼女に、ウィリアムが歩み寄る。
「案ずるな。国民はそなたを待ち望んでいる。天も祝福してくださるだろう。自信を持て」
「……はい」
そして、キリエは顔を強ばらせながらも笑顔を見せた。
「ウィリアム様。色々とありがとうございます。王家のしきたりなど、私たちが知らないことを教えていただいて、感謝しております」
両手を合わせ、静かに一礼するキリエに頷いたものの、ウィリアムは表情を引き締めた。
「レディ・キリエ。戴冠式が終われば私はそなたを『陛下』と呼ぶぞ」
その言葉にキリエははっと顔を上げた。
「私は臣下のひとりに過ぎん。『ウィリアム様』などと呼ぶな」
「でも……」
寂しげな顔つきで口ごもったキリエだったが、やがて不意に明るい表情で身を乗り出す。
「わかりました。では、おじ上と呼ばせて下さい」
「おじ上?」
ウィリアムが眉毛を釣り上げて目を丸くする。
「あなたは父の甥御ですもの。いいでしょう?」
どこか目を輝かせて言い寄る相手に、ウィリアムは困ったように肩をすくめる。そして、ちらりとジュビリーを見やってから息をつく。
「……わかった、そうしてもらおう」
「ありがとうございます!」
そして、キリエは一同を振り返った。
「皆にもお願いがあるの」
マリーらが何事かと真顔でキリエを見つめる。彼女は一人一人の顔を見つめ、囁いた。
「女王になってからもずっと……、キリエと呼んでくれる?」
皆は一瞬胸を突かれたように息を呑んだ。そして、マリーが一歩前に進み出る。
「……キリエ様」
キリエは思わず両手を広げるとマリーと抱き合う。
「キリエ様は、これからもずっとキリエ様ですよ」
「……ありがとう」
「参りましょう」
マリーの言葉にキリエは頷くと腕をほどいた。そして、もう一度大きく深呼吸をすると一歩を踏み出す。後に続くジュビリーがレスターの耳元で囁く。
「……似てきたな」
「……はい」
レスターの脳裏に、在りし日のケイナ・アッサーの姿が鮮やかに蘇る。成長するにつれ、ますます母親に似てくるキリエに、レスターは胸が一杯になった。
プレセア宮殿のアプローチへ向かうまで、宮廷中の廷臣たちが総出でキリエを見送る。戴冠式が行われるのは郊外の聖アルビオン大聖堂だ。兄レノックスが惨殺したカトラー大司教と、父エドガーが眠る大聖堂。キリエは段々緊張で胸が締め付けられていくのを実感した。アプローチまでやってきた時だった。
「キリエ!」
突然、名を呼ばれて彼女は足を止めた。
「……この声……」
キリエが視線を彷徨わせると、ジュビリーがそっとキリエの肩に手を添えた。すると、彼の視線の先に純白の祭礼服を身にまとったヒースが佇んでいる。
「兄上!」
思わずドレスの裾を上げ、走り出すと人目も憚らずに兄に抱きついた。
「兄上……、来て下さったんですね!」
「ええ」
ヒースは目を閉じたまま、嬉しそうな表情で妹の背を撫でる。
「実は、大主教からあなたに宝珠を授ける役目を仰せつかりました」
「本当に?」
キリエが驚いて顔を上げる。
「あなたの晴れ姿を見られないのが残念ですが……、私は私の役目を立派に務めましょう」
「お願いします、兄上」
妹の明るい声に、ヒースは安心したように微笑んだ。
イングレス郊外聖アルビオン大聖堂。アングルにおけるヴァイス・クロイツ教総本山の大聖堂には、国内の有力貴族を始め、大陸から招かれた王侯貴族でひしめき合っていた。 聖堂の煌びやかなステンドグラスからは七色の光が差し込み、天井を支える木々のように林立する柱には極彩色の紋章旗が掲げられている。
内陣に近い場所には、ガリアからの一行が陣取っている。ギョームの戴冠式では下にも置かぬもてなしを受けたアングルとしては、最上級の位置を用意する必要があったのだ。そして、エスタドやユヴェーレンといった、キリエが王位に就くことに懐疑的な立場をとっている国々は内陣からは離れた場所を与えられ、おとなしく佇んでいる。
ガリアの青に身を包み、王冠を戴いたギョームは落ち着かない様子で女王の到着を待ちわびていた。そして、苦笑を漏らしてバラに囁く。
「おかしなものだな。つい先月は自分が同じ式典の主役だったのに」
ギョームにしては子どもらしい言葉にバラの表情もゆるむ。
大陸から参列している王国の国家君主はギョームだけだ。他の王国は皆、王子か王弟といった王族で、例外はレオン、レイノ、バーガンディなど公国の大公ぐらいだった。エスタド、ユヴェーレンに至っては、ギョームの時と同じく、王族は参列せず、宰相が赴いているに過ぎない。ギョームが周りの参列者の様子を窺っていると、廷臣が大主教の到着を声高に告げた。皆は一斉に手を合わせ、片膝を突く。と、背廊から司教を伴った大主教ムンディが現れる。その場は瞬時に厳かな空気に包まれる。
戴冠式の式次第は基本的にはガリアと変わりない。だが、即位するのが女王のせいか、ガリアの戴冠式に比べるとどこか穏やかでたおやかな雰囲気に満ちている。司教を引き連れたムンディが静かに聖堂を進んでいく。ギョームの前を通り過ぎる際、ムンディはちらりと彼を一瞥した。
ムンディが大主教座に腰掛けて間もなく、聖堂の拝廊に廷臣を従えたキリエが現れた。鮮やかな真紅のドレス。細かな刺繍が施された金糸の外衣。蝶紋の胸当て。純白のウィンプル。彼女が現れた瞬間、その場に花が咲いたように明るい光が満ちる。居並ぶ王侯貴族たちは思わず感嘆の声を上げた。島国の片田舎で育った修道女が、いよいよ女王となるのだ。その歴史的な瞬間に、皆は複雑な心境で見守る。
キリエは、わずかに青ざめた面持ちで真っ直ぐに真正面を見据え、ゆっくりと歩み始めた。彼女の後ろには、ジュビリーとウィリアムが付き従っている。
(……キリエ様……)
少しずつ近づいてくるキリエの美しさにギョームは思わず息を呑んだ。クレド城で初めて見かけた時は、化粧を施していない素朴な美しさに惹かれた。だが今は女王の気品に満ち溢れ、神々しくさえ見える。キリエ本人は緊張でギョームなど目に入っていない。彼女はやがてムンディの前までやってくると、司教たちによって純白の法衣を着せられた。そして、かすかに震える両手を合わせ、静かに跪く。
「……キリエ・アッサー」
ムンディは小さく囁くと、司教から王冠を受け取る。アングルの象徴であるルビーがふんだんにあしらわれた華やかな王冠。キリエは、その王冠を目にした瞬間、顔を歪めた。目も眩むような眩い王冠。「これ」を求めて、自分たちは血を流して戦ってきたのか。そう思うと胸が焼け付くような罪悪感に襲われる。だが、こうしてこの王冠を戴く以上、自分は民に約束した平和を勝ち得なければならない。キリエは観念したように目を閉じるとそっと頭を垂れた。ムンディは王冠を天に掲げてから慎重に王冠を被せる。その瞬間、ジュビリーは胸に重たいものを感じ、思わず目を閉じた。自分が教会から連れ出した修道女が、ついに戴冠した。この国の女王になったのだ。自分は、最後まで寄り添う義務がある……。
司教たちに手を取られ、キリエが立ち上がると王笏を手渡される。そして、侍祭の少年に支えられたヒースが宝珠を捧げ持ち、そっと妹に歩み寄る。
「……キリエ」
ヒースの囁きに、キリエは強張った表情の中でもかすかに微笑む。
「……兄上」
ヒースの手から宝珠を受け取ると、わずかな間だけ、彼の肩に顔を埋める。やがて顔を上げると、戴冠を見守る大勢の参列者に向き直る。大聖堂にひしめく参列者からの視線を受け、キリエは思わず気が遠くなる感覚に襲われた。皆が自分を見つめている。これからこの国を担う自分を。万感の思いを胸に秘めた者、未熟な自分を憂う者、様々だろう。自分を取り巻く人々は必ずしも自分を歓迎しているとは限らない。キリエはごくりと唾を飲み込んだ。
「……キリエ」
すぐ後ろに控えているジュビリーがそっと名を呼ぶ。キリエは頷くと、震える足で一歩前へ進み出た。
「我が名はキリエ・アッサー・オブ・アングル。〈聖女王〉である!」
ジュビリーが剣を抜き放つと天に突き立てる。
「女王陛下万歳!」
「女王陛下万歳! 女王陛下万歳! 女王陛下万歳!」
大聖堂を揺るがす大合唱に、キリエの緊張は頂点に達した。王笏と宝珠を持つ手も震え、思わず泣き出したいのを堪えて前を見据えた時。観衆の中に、彼女は一人の女性を目にして絶句した。
(……ロレイン様ッ?)
目を凝らして見つめ直した時には、すでに彼女の姿は見えなくなっていた。
(……ロレイン様……)
天に召されてからも、彼女は自分を見守ってくれている。キリエの目から一筋の涙がこぼれた
聖アルビオン大聖堂から、華やかなパレードでプレセア宮殿に帰還したキリエは、息つく間もなく議会による承認の儀式を行い、そのまま盛大な晩餐が催された。
しきたりで、王侯貴族よりも先に聖都クロイツの司教たちから挨拶を受けるのが礼儀となっている。様々な役職の聖職者たちから祝福を受け、その度に祝杯を上げさせられたキリエは、すでにワインを何杯飲んだかわからなくなっていた。
「キリエ様、少し休みましょう」
見かねたレスターがキリエを高座の椅子に座らせる。
「ありがとう」
キリエの目元が赤い。かなり酔っているようだ。
「ご気分は……」
「……大丈夫。あともう少しがんばるわ」
そう囁くと、キリエはようやく落ち着いた様子で
「ホワイトピーク公が仰っていました。ギョーム王の戴冠式にも劣らぬ立派なお姿だったと」
キリエは肩をすくめて微笑んだ。そして、辺りに視線を彷徨わせる。
「……ジュビリーは?」
「……侯爵は……」
レスターが顔をしかめて言葉を濁す。その意図がわからないキリエは、背筋を伸ばすとホールを見渡す。と、人だかりの中心にジュビリーの姿が見えた。
「……あの方たちは?」
「キリエ様がお気になさるような輩ではございません」
珍しく批判的なレスターの言葉にキリエは眉をひそめる。よく見ると、身なりからしてそれなりの地位と身分を持った人々らしい。そして、皆例外なく妙齢の婦人を伴っている。皆頬を朱に染め、扇で口許を覆い、目を細めて宰相の立ち居振る舞いを見つめる。そして、どうにかして皆を出し抜こうと機会を虎視眈々と狙っている様子が伺える。だが、当のジュビリーは迷惑そうな顔つきで簡単な挨拶を返すだけだ。しかし、誰も簡単には引き下がらないように見える。
「……忙しそうね」
キリエの言葉に、レスターが耳元で囁く。
「……欲に目が眩んだ不届者たちですよ」
「どういう事?」
「つまり……、自らの子女を侯爵に差し出すことで利権を得ようとしているのです」
キリエは思わずレスターを振り返った。彼は苦虫を噛み潰したような顔つきで肩をすくめてみせる。
「……侯爵だけではございません。恐らく、ジョン様やマリー様にもああいった輩が接近していることでしょう」
「……どうして……」
「侯爵に近づけば、女王陛下にも近づけるからですよ」
キリエは眉をひそめ、ジュビリーに群がる人々を見つめた。人はそこまでして権力者に近づきたいものなのか。一見、善良そうに見える人々の心の奥底を覗き見た気がして、キリエは気分が悪くなった。そんなキリエの心を知ってか知らずか、ジュビリーの姿を見つめながらレスターが独り言のように呟く。
「侯爵は……、当分再婚はなさらないでしょうな……」
その言葉に、キリエはぎくりとした。胸が締め付けられ、顔を歪める。胸の鼓動が少しずつ早まり、息苦しくなる。
レスターの言葉でキリエは唐突に理解した。ジュビリーが何故、普段黒い衣装しか身につけないのか。どうして今まで気づかなかったのだろう。あれは喪服だ……。今日は珍しく色鮮やかな赤い礼装だが、恐らくバートランド家の紋章〈赤薔薇〉に合わせたのであろう。普段は黒尽くめの衣装で、髪も瞳も黒いジュビリーは「黒衣の宰相」と呼ばれていた。きっと、戴冠にまつわる全ての式典が終われば、いつも通りの黒衣に戻るのだろう。
ジュビリーの心には今も妻エレオノールがいる。そのことに動揺する自分に、キリエは困惑した。
「子爵」
不意に背後から声をかけられ、二人が振り返るとモーティマーが影のようにひっそりと佇んでいる。
「申し訳ございませんが、手をお貸しいただけますか」
「どうしたのだ」
秘書官は顔をしかめて呟いた。
「レディ・マリーエレンから離れない男がおります」
「それはいかん」
レスターが申し訳なさそうにキリエを振り返ると、「行ってあげて」と囁く。レスターとモーティマーが人波に分け行っていくのを見送り、キリエは息苦しい胸を静めようと、ゴブレットに残ったワインを一気に飲み干した。が、余計に酔いが回るだけでかえって気分が悪くなり、顔を歪める。すると、律儀な召使いがすぐにやってくると再びゴブレットにワインを満たす。キリエは、どきどきする胸を押さえ、血のように赤いワインを見つめた。
何だろう、この息苦しさは。この胸騒ぎは一体……。まだ味わったことのない感情に戸惑っていると、ぼんやりとした瞳にジュビリーが映る。彼はキリエの顔色に気づくと周囲の人々を置いてキリエの元へと歩み寄った。
「キリエ」
思わず言葉が出てこないキリエを見てとると、彼は召使いに何事が耳打ちした。すると、間もなく召使いが新しいゴブレットを持ってやってくる。
「こちらと替えろ」
ジュビリーに言われるがままにゴブレットを受け取ると、漂ってくる新鮮な香りにキリエは目を見開き、そして微笑んだ。見た目はワインだが、葡萄の果汁だ。
「……ありがとう」
ジュビリーの気遣いに嬉しそうな表情を見せるが、すぐに目を伏せる。
「……いいの? こんな所へ来て」
「あんな連中を相手にする暇はない」
苦々しげに呟くジュビリーだが、キリエは今ひとつ釈然としない。
「そう? 人脈を作る良い機会じゃないの? それに……、ひょっとしたら、あなたにとってもいい人がいるかもしれないし……」
「キリエ」
耳元で囁かれ、キリエはどきりとして顔を上げる。ジュビリーは眉間に皺を寄せ、じっと見つめてきた。
「レスターに何を言われた」
「べ……、別に……」
思わず目を逸らすキリエに、ジュビリーがさらに問いかけようとした時、不意にざわめきが起こり、二人は同時に顔を上げた。
「陛下、カンパニュラ王国第二王子フェルナンド殿下でございます」
セヴィル伯の紹介と共に、華やかな衣装を身につけた青年が現れる。キリエは慌てて居住まいを正した。二十歳になったばかりのフェルナンドは満面の笑みを浮かべて優雅に跪いた。
「この度のご即位、誠に慶賀の至りに存じます。敬虔なヴァイス・クロイツ教徒であられる女王陛下のご即位によって、アングルにも平和が訪れることでしょう」
「ありがとうございます」
穏やかな笑顔で挨拶を返すキリエに、フェルナンドは顔を上げて畳み掛けた。
「お噂には伺っておりましたが、これほどお美しい女王陛下だとは……、大変驚いております」
キリエの笑顔が引きつった表情に変わり、思わず隣のジュビリーと目を合わせる。
「我が国が誇る画家リッピとはすでにお会いになったとか。カンパニュラには彼を始めとした多くの芸術家がおります。また、ヴァイス・クロイツ教の美しい教会群は、大陸随一と自負いたしております。ぜひ、一度カンパニュラへお運びいただければ……」
「……ええ、機会があれば」
キリエは何とかその一言を返すと、フェルナンドは深々と頭を下げた。ジュビリーが思わず呟く。
「カンパニュラの好色王子とは……、言い得て妙だ」
だが、フェルナンドの挨拶が引き金となり、次々と大陸の王侯たちが挨拶にやってくる。ポルトゥス王国のジョゼ王太子、クラシャンキ帝国の第三皇子ルスラン、ナッサウ王弟ライン公マウリッツ。
ナッサウはエスタドにつくか、クロイツにつくか未だに国内の勢力が二分している。クラシャンキは異端〈極東派〉を奉じるため、クロイツからは白眼視されている。ポルトゥスは長年隣国ガリアとの軋轢があり、アングルとの外交は慎重策を取っている。事前の打ち合わせで、大陸各国との微妙な関係を学んでいたキリエは、何とか当たり障りのない言葉を返す。
最後のライン公が下がると同時に、キリエは溜め込んだ息を吐き出した。実は先ほどから猛烈な眠気に襲われ、目を開けているのもやっとだったのだ。元々酒が弱いにも関わらず、ワインを何倍も飲まされているのだから当然だ。神経をすり減らす問答を、後何回すればいいのだ? 思わずキリエが額に手をやった時。
「お疲れのようですね?」
聞き覚えのある声に、はっと顔を上げる。瞬間、バンケティング・ホールにざわめきが広がる。キリエの目の前がさぁっと眩い空気が立ち込めたかと思うと、美しい金髪の青年が前に進み出る
「……ギョーム様!」