戴冠式から数日後、アングル全土から訪れている諸侯から臣従の礼を受ける儀式が始まった。諸侯の数が多いため、数日間に及ぶ儀式に、戴冠式の疲れが取れきっていないキリエにとっては重労働だった。
正直、キリエも知らないような地名も多々あり、誰がどこの地域をどう治めているかもわからない。それに、本当はそれどころではなかった。周囲から知らされた戴冠式の晩餐での出来事。そのことで頭が一杯だったのだ。
「陛下、グラスヒルのアルバート子爵でございます」
セヴィル伯の言葉と共に、一人の男が前へ進み出る。年の頃は四十代後半に見えるグラスヒル子爵は、緊張した面持ちで跪いた。
「グラスヒルから参りました、アルバート・グラスヒルと申します。この度のキリエ女王陛下のご即位、心よりお喜び申し上げます。ヴァイス・クロイツの天の下、このアングルを統べたもう陛下に多くの祝福がもたらされますよう、お祈り申し上げます」
子爵は女王陛下の右手を取ると恭しく口を付ける。
「そなたに天の祝福がありますよう……。アングル女王の名の下に、グラスヒルを平和に治めるよう」
「身に余る光栄。女王陛下及びアングル島全土をお守りし、お仕え続けることを天に誓います」
その日の臣従式が終わり、キリエは廷臣たちを引き連れて玉座の間を後にした。
「お疲れ様でございます」
「本当に疲れたわ」
ジョンの言葉にキリエは肩をすくめて呟いた。貴族たちがひしめく大廊下に差し掛かった時、先ほど臣従の礼を受けたグラスヒル子爵が侍従たちと言葉を交わしているのが目に入った。穏やかそうな顔つきの彼の側に、エヴァンジェリン・リードがいるのにキリエが気づく。子爵に言葉をかけられ、エヴァはやや緊張した顔つきで耳を傾けている。身内だろうか、と思いながらキリエはその場を後にした。
自室に戻ったキリエにジョンが少し興奮した様子で口を開く。
「お疲れでしょうが、キリエ様。少しお時間よろしいでしょうか」
「何?」
マリーエレンが入れた薬湯を受け取りながらキリエが尋ねる。
「早速ですが、これよりアングル全土から騎士を集め、王都にて馬上槍試合を開催する予定です。集まった騎士たちの中から、優れた技量を持つ者を選び、騎士団を結成する……。私の夢が実現するのも間もなくです」
熱く語るジョンを、マリーもどこか嬉しそうな様子で見守っている。ジョンがキリエのために奔走していることを、素直に喜んでいるのだろう。
「馬上槍試合はいつ?」
「遅くとも春には」
三人がしばらく談笑していると、扉の外から侍従が声をかける。
「陛下、セヴィル伯がおいでです」
キリエは薬湯のカップを置くと溜息をついた。
「ゆっくりする時間もないわ」
「キリエ様、あまり無理をなさらず……」
「大丈夫よ、マリー」
キリエは微笑を浮かべると穏やかに囁いた。
一日の執務を終え、入浴を済ませて寝衣に着替えたキリエに、エヴァが温かいミルクを手渡す。
「明日で臣従の礼は終わりだそうです。それから、聖アルビオン大聖堂の大司教が挨拶に訪れる予定です」
セヴィル伯から手渡された明日の執務予定をエヴァが読み上げ、キリエはふっと息をついた。暖炉の火が小さくくすぶっているのを眺めながら小さく呟く。
「……聖アルビオン……」
エヴァが眉をひそめる。
「お体はいかがですか? 決して無理はなさらないよう……」
「……ありがとう、大丈夫よ」
キリエが微笑むと小さく囁く。そして、表情を明るくすると身を乗り出した。
「さぁ、エヴァ、昨日の続きを話して」
「はい」
エヴァが嬉しそうに返事をする。キリエは毎晩、エヴァから彼女の生まれ育ったエクスで見聞きした港にまつわる話に耳を傾けるのを楽しみにしていたのだ。
「昨日はどこまでお話ししましたっけ」
「海賊に捕まった船乗りが、数年後にやっとアングルに帰ってきたところまでよ」
「そうでした。ええと、彼は長い海での生活のために体を壊し、しばらくして死んでしまったのです。けれど、その後妙な噂が広がったのです。入り江に彼の幽霊が出歩くという……」
「幽霊?」
キリエは羽織ったショールをぎゅっと握り締める。エヴァが身を寄せ、声を低めて続ける。
「夜な夜なカンテラを持って入り江をうろつくという話は多くの人々の間で伝えられました。そして、あまりにも頻繁に目撃されるので、彼の身内が入り江を調べたところ……、近くの洞窟からエスタドのペス金貨が山のように見つかったそうです」
キリエは目を丸くした。
「……金貨?」
「つまり……、彼は死んだ後も自分が隠した財宝が気になって気になって仕方がなかったんでしょうね」
そこで二人は黙って見つめあい、やがて同時に吹き出した。
「信じられない!」
「お金を隠していても、幽霊には使えませんのにね!」
二人がしばらく笑いあっていると、不意に扉が叩かれる。
「陛下、サー・ロバートがおいでです」
「えっ?」
女官の言葉にキリエは戸惑った様子で顔を上げる。エヴァが椅子から立ち上がる。
「私が代わりに伺ってきましょう」
部屋を出ると、薄暗い廊下にモーティマーがぽつりと立ち尽くしている。
「サー・ロバート。申し訳ございません、陛下はすでに寝衣に着替えられたので……」
「承知している。ただ、クレド侯からのご伝言を取り次いでもらいたい」
「侯爵から?」
モーティマーは腰を屈めると小さく呟く。
「侯爵は……、陛下がお疲れになっているのではないかと大変ご心配されている。体調が思わしくなければ、すぐにでも執務の予定を変更すると仰せだ」
エヴァは思わず嬉しそうに微笑んだ。
「お優しいですね、侯爵は。陛下にお伝えします」
「で、陛下は今……?」
「確かにお疲れになっているようです。真面目なお方ですから、あまり口には出されませんが……」
女王の秘書官は神妙な顔付きで頷く。
「そなたも、陛下のことで何か気づいたらすぐ私か、もしくは侯爵にお伝えしてくれ」
「はい。お任せ下さい」
エヴァは胸を張って返事をした。部屋へ戻ると、祈りの準備をしていたキリエが顔を上げる。
「モーティマーは何て?」
「クレド侯からのご伝言です。あまり無理はなさらないようにと。体調が悪ければ、執務の予定をいつでも変更すると」
「……ジュビリーが……」
そう言えば今日はあまり彼と言葉を交わしていない。いつも側にいるようで、お互い執務に追われ、慌しい日々が続いている。だが、それでも彼はいつでもこうして気遣ってくれる。
「本当に素敵なお方ですね、クレド侯は」
「そうね」
「戴冠式でのお言葉、覚えていらっしゃいますか?」
「戴冠式?」
キリエが首を傾げる。エヴァは明るい顔つきで続ける。
「お化粧をされた陛下よりも、いつもの陛下の方が素敵だって、仰っていたじゃないですか。素晴らしいですわ。侯爵が、陛下の良さを一番わかってらっしゃるんですね」
キリエが思わず顔を赤らめる。確かに、その言葉にはキリエ自身もどきりとさせられた。だがそれをエヴァに指摘されると、何か秘密を知られたような気がして動揺する。
「陛下は、どんな殿方がお好きです?」
「えッ?」
ますます狼狽したキリエだったが、エヴァはどこか遠くを見つめるような仕草で呟いた。
「私は……、優しくて誠実な男性が良いですわ。弱い女性を守ってくださるような、強くて優しいお方が……」
キリエが思わず黙ってエヴァを見つめていると、エヴァが振り返る。
「陛下はどんなお方がお好きですか? 陛下だって、いつかはご結婚されるのでしょう」
「わ、私は……」
キリエは眉をひそめると目を伏せた。そして、思わずぎゅっと手を握り締める。
「……私は、男性が、怖いわ……」
「……陛下……?」
キリエにとって、男性は力ずくで何もかも奪っていく存在という印象が拭いきれなかった。脳裏にまず、自分に襲い掛かったレノックスの顔がよぎった。彼は自分を襲っただけではない。ヒースから光を奪った男でもある。
それから、結婚という言葉を耳にするとどうしてもギョームのことを思い出してしまう。ガリアからはまだ使者は訪れないが、ジュビリーの言う通り、いつか正式に使者がやってくるだろう。ギョームは自分に対し誠実だし、穏やかで優しい。だが、彼は父王を武力で廃した恐るべき青年だ。リシャール王も父エドガーも正妻を省みず、複数の愛人を作り、妻を孤独に追いやっている。キリエは強張った表情のまま呟いた。
「男性は……、女性には抗うことのできない恐ろしい力を持っているわ」
エヴァは眉をひそめるが、やがておずおずと口を開く。
「でも……、その力で女性を守ってくださる方もいらっしゃいますわ」
エヴァの言葉にキリエははっとして顔を上げる。エヴァは思わず手で口を覆う。
「……申し訳ございません。差し出がましいことを……」
「……いえ、あなたの言う通りね」
キリエは微笑むと呟いた。
「確かに、女性を守ってくれるような優しい男性は素敵ね。……エヴァ、あなたの婚約者も優しいお方?」
キリエの言葉に、今度はエヴァが息を呑む。
「マリーから聞いたわ。婚約者がいらっしゃるのね」
エヴァはどういうわけか寂しそうに表情を暗くした。
「……ええ」
「一年しか宮廷にいられないなんて、残念だわ」
「……私もです。せっかく……、こうして陛下にお仕えできるのに」
キリエはふっと微笑むとエヴァの手を取った。
「二人で素敵な思い出を作りましょう。そして、できれば結婚してからも、ご夫君と宮廷に出仕してもらえるように私も手を尽すわ」
エヴァは胸が一杯になって言葉が口から出なかった。少し目を潤ませ、微笑むとゆっくり頷いた。
海路と陸路を経て、半月ぶりにビセンテは王都ヒスパニオラに帰還した。ピエドラ宮殿に戻るとすぐさまガルシアの所在を尋ねる。
「陛下はただ今お食事中でございます」
「……フアナ王女もか」
「ご一緒です」
ビセンテは眉をひそめると、「後にしよう」と呟いた。
その後、ビセンテは側近を連れて執務室を訪れた。
「オリーヴ公がご帰還されました」
侍従は強張った表情でガルシアに言上した。王は、先日のムンディ襲撃の失敗にすこぶる機嫌を損ねていたのだ。
「ただ今戻りました」
「ご苦労だったな。田舎娘の戴冠式はどうだった」
「それが……、思わぬ展開に」
表情を曇らせるビセンテにガルシアも真顔で向き直る。
「どうした」
どこから説明したものかしばし逡巡したビセンテは、やがて単刀直入に告げた。
「ギョーム王が、キリエ女王に求婚いたしました」
ガルシアの両目が大きく見開かれる。
「はっきりとした言葉での求婚ではありませんでしたが、祝宴の最中、各国の王子たちの目の前でダンスを申し入れました。……事実上の、求婚でしょう」
ガルシアは穴があくほどビセンテの顔を見つめ、やがて唇をかすかに震わせると項垂れた。ビセンテが思わずごくりと唾を飲み込む。
「あの……、あの、若造めがッ!」
ガルシアはテーブルに置かれたゴブレットを壁に叩きつけた。壁に掛けられていた鏡が派手な音を立てて砕け散る。侍従が飛び上がり、ビセンテは顔をしかめた。
「陛下……!」
「よりによって……、ちっぽけな島国の修道女だと!」
結婚が成立すれば両国は強固な同盟で結ばれることになり、エスタドにとっては目障りな存在になる。だが、ガルシアにとってはそんなことよりも、愛娘を拒絶したギョームが田舎育ちの修道女に求婚したことが耐えがたい屈辱だった。
「アングル側はすぐに回答を出すとは思えません。しばらく……、交渉が続くでしょう」
「どうでもいい!」
「陛下! どうか冷静に……!」
盟友の懇願に、ガルシアは大きく息を吐き出した。頭を振り、怒りで震える指先で額を押さえる。
「……修道女は返事をしたのか」
「ギョーム王の足を踏みました」
「何?」
「よほど慌てたのでしょう」
「……ふん」
ようやく落ち着きを取り戻したガルシアはソファに背中を預け、ビセンテを見上げる。
「どんな娘だった」
「見るからに世間擦れしていないような、素朴な娘でした。ただ……、あの度胸は修道女とは思えません」
「度胸?」
「修道女が民の上に立つのは道理に合わぬと申し上げたのですが……」
ビセンテは、ガルシアの表情を慎重に読み取りつつ、正直に告げた。
「民のために尽くすのであれば、ガルシア王も立派な聖職者である、と」
ガルシアは眉毛をぴくりと釣り上げた。部屋の隅に控えた侍従が縮み上がる。が、やがてガルシアは含み笑いを漏らした。
「ふふっ……。聖職者? 私が? くくくっ……」
ビセンテがわずかに引きつった笑みを浮かべる。
「誠に……、怖い物知らずを絵に描いたようなお方です」
「〈エスタドの大鷲〉を恐れぬ上に、〈ガリアの若獅子王〉の足を踏みつけるとは……、たいした修道女だ!」
ガルシアはすっくと立ち上がると壁を飾る世界地図を見上げる。
「……冷血公は服従したのか」
「いえ、まだ降ってはいないようです」
「……ガリアの若造から目を放すな」
「はっ」
ガルシアは目を眇め、地図上のアングルとガリアを見つめた。弱く小さな国どもがいくら寄り集まったところで無駄だ。青二才の若造が台所事情の異なる国々をまとめられるものか。ガルシアは口元に笑みを浮かべた。
戴冠式を終え、その年の暮れまでは息つく暇もないほどの慌ただしさだった。新年を間近に控えたある日、ジュビリーは私室にジョンたちを集めた。
「もう年も暮れますな」
レスターの言葉に皆が頷く。
「……まだ、ガリアから使者は来ていないな」
ジュビリーがいつにも増して険しい表情で呟く。
「モーティマー、ガリアの様子はどうだった」
戸口に控えめに佇んでいたモーティマーが顔を上げる。彼は単身大陸へ向かい、ガリアを含めた各国の動向を調べ、帰国したばかりだった。
「ギョーム王は早速動き始めております」
モーティマーはゆっくりと語り始めた。
「即位後、すぐにカンパニュラと同盟を結んだことはご承知かと思います。それから、リシャール王時代に圧力をかけていた隣国ポルトゥスに対し、歩み寄る姿勢を見せています」
「カンパニュラ、ポルトゥス……」
ジョンが眉をひそめて呟く。
「親クロイツ派を抱き込んで、エスタド包囲網を張るおつもりでしょうか」
「だろうな。……ガルシアにとっては目障りで仕方がなかろう」
「その上でアングルとも同盟を結び、対エスタド戦略を取る……。大主教から篤い信任を得ているキリエ様との同盟は、大きな意味を持つでしょう。しかし……」
ジョンが不安げな表情で義兄を見つめる。
「……ギョーム王は、本気でキリエ様を……?」
一同が固唾を呑んでジュビリーを見守る。宰相は目を細め、しばらく沈黙を守っていたが、やがてかすかにかすれた声で答える。
「……ギョームは、キリエに好意を持っている」
末席に座したマリーが眉をひそめる。ジョンやレスターも、クレドでのギョームのキリエに対する熱い視線には気づいていた。
「彼は同盟のためではなく、キリエを手に入れるために結婚を望むだろう」
「……それで、キリエ様は何と」
レスターの問いにジュビリーがわずかに顔を上げる。
「自分は修道女だ、と」
ジョンとレスターは思わず顔を見合わせる。
「マリーエレン」
兄に名を呼ばれ、マリーはびくりと肩を震わせて顔を上げる。
「おまえには何か言っていないか」
「……ギョーム王のお話は嫌がっておられます。侍女のエヴァに聞いたところ、普段の会話でもギョーム王のお名前は出ないそうです」
ジョンはそっとジュビリーを見つめた。端から見れば、政略結婚によってガリアと縁戚を結ぶことは、エスタドの脅威から国を守るまたとない好機である。だが、キリエ本人が拒絶するのならば……。
「……まさか、ご自分が結婚相手に望まれるとは、思いもしなかったでしょうね……」
ジョンの言葉からは痛ましい思いが滲み出ている。それを感じ取ったジュビリーは固い口調で口を開く。
「アングルに充分な国力があれば、キリエが修道女であることと、二人が従兄妹であることを理由に断れただろう。だが、我が国はまだ、単独ではエスタドに対抗できん」
「義兄上は……、国策のためには結婚も致し方ないと? しかし、それでは……!」
ジョンの懇願するような問いかけにジュビリーは目を閉じ、顔を伏せる。その時、モーティマーがおずおずと口を開いた。
「……大陸では、ギョーム王が事実上、キリエ女王に求婚したと見なしています」
皆の視線を一斉に受け、モーティマーは居心地悪そうに言葉を続ける。
「……噂では、カンパニュラのコンスタンツァ王女と、ポルトゥスのロザ王女がギョーム王のお妃候補として挙がっていたそうですが……」
押し黙る一同だったが、やがてジュビリーが静かに息をつく。
「……マリー、キリエは今どこにいる」
「……リッピ殿のアトリエに」
それを聞くと、ジュビリーは重い腰を上げた。
アトリエでは、リッピが最後の仕上げに取りかかっていた。数人の弟子が師のために絵の具や画材の準備に勤しむ中、キリエは興味深そうにリッピたちを見守っている。だが、その表情はややもすれば沈みがちだ。そこへ、リッピが筆を止めると大きなくしゃみを数回する。
「ああ……。アングルの寒さは老体に堪えます」
「大丈夫?」
鼻を啜るリッピにキリエが声をかける。冬のアングルは昼過ぎにはすでに日が暮れ始めるため、室内には大量の燭台が灯されている。
「カンパニュラは暖かいの?」
「私の生まれた村は海沿いで、比較的暖かい地です」
「フェルナンド王子が仰っていたわ。美しい教会がたくさんあると」
「ああ、〈カンパニュラの好色王子〉ですか」
「えぇっ?」
キリエが目を丸くして声を上げる。リッピは苦笑いを浮かべると肩をすくめた。
「有名でございますよ。二十歳にしてすでに複数の愛人を囲っているそうです。母君や兄君は大変なご苦労だとか」
「そうなの」
驚いた様子で眉をひそめ、エヴァを振り返る。侍女も顔をしかめて見せる。
そうするうち、外から話し声が聞こえてくる。そして「陛下」と呼びかけられ、振り向くと扉からジュビリーがゆっくりと入ってくるところだった。キリエは微笑むと「見て」とリッピの絵を示す。
「もう少しで完成だわ」
「順調ですね」
ジュビリーは、戴冠式の様子を描いた作品を眺めて呟いた。ムンディがキリエに冠を授ける瞬間を捉えたものだ。
「寂しいわ。絵が出来上がると、リッピ殿はカンパニュラに帰ってしまうのでしょう」
キリエの呟きにジュビリーが横顔をじっと見つめる。するとキリエが振り向き、真顔で囁く。
「何かあったの?」
いつも忙しいジュビリーがアトリエにまで来るのだから、何か伝えに来たのではないかと思ったキリエだったが、ジュビリーは「いや」と小さく返す。すると、キリエが少しだけ顔を明るくする。
「少し、時間ある?」
「……はい?」
「エヴァ、ちょっと部屋に戻るわ」
「はい」
キリエはアトリエを出る前にリッピたちに向かって両手を合わせ、頭を軽く下げる。
「カンパニュラの皆さん、風邪には気をつけて」
「ありがとうございます」
リッピとその弟子たちは微笑んで女王の一行を見送った。
キリエたちは私室に向かうと、エヴァや侍従たちはそのまま控えの間に引き下がった。二人はいつも一緒にいるが、常に周りには廷臣が侍っているため、二人きりになるのは久しぶりのことだった。部屋に入ると書き机に向かうキリエの後ろ姿を眺めながら、ジュビリーがぼそりと声をかける。
「……体調は、どうだ」
「悪そうに見える?」
振り向かずに聞き返すキリエに、ジュビリーは眉間に皺を寄せる。
「最近は眠れるのか? 相変わらず食も細いようだが……」
「大丈夫よ」
キリエが少し寂しげに微笑みながら振り返る。
「侍従に女官、召使いや侍女に至るまで、皆が私に気を遣ってくれるわ」
それでも感じる孤独は一体何なのだろう。クレドとは違う生活にまだ慣れない。キリエは口にこそ出さないが、ジュビリーはその心情を敏感に読み取った。所在なげに立ち尽くし、ギョームのことをどう切り出そうかと悩むジュビリーに、キリエがどこか嬉しそうな表情で歩み寄る。
「ジュビリー、あなたの祈祷書を見せて」
「祈祷書?」
祈祷書とは、ヴァイス・クロイツ教徒が常に持ち歩く、手の平に乗る程の小さな教典だ。一般には黒の革表紙の素朴なものだが、王侯貴族や裕福な商人たちは贅を尽くした豪奢な飾り付けを施すのが常だ。ジュビリーが懐から取り出した祈祷書は、何の飾りもされていないままだった。キリエはそれを大事そうに受け取ると、艶のある絹地のカバーをかけた。ジュビリーが思わず黙ったままキリエの所作を見守る。カバーは鮮やかな深緑色で、美しい赤薔薇が刺繍で縫い取られている。薔薇の中央には小粒のガラスビーズがきらりと輝く。最後に上から金色のリボンをかけると、キリエはわずかにはにかんだ表情でジュビリーに手渡す。
「ちょっと早いけど……、お誕生日おめでとう」
すぐには言葉が出ず、ジュビリーは珍しく狼狽えた顔つきでキリエを見つめる。彼女は首を傾げて宰相を見上げた。
「お誕生日は、ほら、議会があるからゆっくりお祝いできないでしょう。だから、今渡しておくわ」
それでも黙ったままのジュビリーにキリエが畳みかけるように言い募る。
「ねぇ見て。私、何度も何度も練習して、ここまで刺繍ができるようになったのよ」
ジュビリーは祈祷書をじっと見つめた。慌ただしい執務の合間に、少しずつ作ったのだろう。去年の誕生日に贈られた刺繍はお世辞にも上手とはいえない代物だったが、彼女の言うとおり、今この手にある祈祷書の刺繍は見違えるように美しく繊細な出来栄えだ。まったく口を開かないジュビリーに、キリエは不安そうに眉をひそめた。
「……ごめんなさい。もしかして、余計なことだった……?」
「謝るな」
唐突に言い返され、キリエがびくりと体を震わせるが、ジュビリーは慌てて手を挙げ、顔を振る。
「いや、違う、すまん。おまえは……、すぐに謝る癖がある」
狼狽しているのだ、ジュビリーは。すぐに気づいたキリエはふっと微笑んだ。
「あなたは……、言葉が足らないのが悪い癖だわ」
まるで母親が言い聞かせるような、慈愛が込められた声色に、ジュビリーは胸が詰まった。やがてキリエは小さな手を胸で合わせた。
「憂いも無く、悲しみも無く、孤独も無く、常に光と喜びに包まれ、人の輪と共に歩む一年にならんことを……。来年は……、あなたにとって良い年になりますように……」
祈りを終え、顔を上げようとした瞬間、彼女は不意に抱きしめられた。
「ジュビリー……!」
突然のことで、キリエが怯えた声を上げる。が、ジュビリーは沈黙したままだ。キリエは緊張で体を強張らせ、思わず彼の胴着を握りしめた。こんな風に抱きしめられるのはいつぶりだろう。キリエの脳裏に、去年クレド城で行われた誕生日の宴が蘇る。
「……ジュビリー」
こんな風に、いつまであなたと一緒にいられるのかしら……。彼の答えを聞くのが怖いキリエは、その問いを口に出すことができなかった。