馬上槍試合が終わり、特に選ばれた候補生から騎士団を編成する作業が始まり、プレセア宮殿は雑然とする日々が続いていた。そんなある日、キリエが触れたくなかったあの問題が、思いもかけない形で目の前に立ち塞がった。
会議を終えたキリエは、後宮へ戻ろうと側近を連れて大廊下を渡っていた。居合わせた貴族たちが優雅に挨拶をしていく中、不意に「女王陛下!」と大声が上がった。キリエがぎょっとして振り返ると同時に、ジュビリーがさっと前へ出る。傍らのモーティマーも眉をひそめてキリエを後ろに下がらせる。と、大廊下の先から、供を連れた男が大股に歩み寄ってくる。
「……ブリー公?」
ジュビリーが目を眇めて呟き、キリエは思わず彼の後ろに隠れた。
「女王陛下、申し上げたい議がございます!」
有無を言わさぬ形相で言い放つブリー公に近衛兵たちが立ちはだかる。
「退け、私は女王陛下に進言せねばならんのだ」
いらいらした様子で口走るブリー公にジュビリーが眉をひそめて近衛兵を下がらせる。公爵はその場に跪いた。
「突然の参上、お許し下さいませ。ですが、どうしても陛下にご高聴いただきとうございます」
キリエは怯えで顔を引き攣らせながらもおずおずと前へ進み出る。ブリー公は険しい顔付きのまま鋭い眼差しで見上げた。
「陛下の忠実なる僕の一人として申し上げます。私はガリアとの同盟は反対でございます」
思いもしない言葉にキリエの顔が青ざめる。モーティマーが息を呑んでジュビリーを振り仰ぐ。周囲を取り巻いていた貴族たちからも驚きの声が上がる。
「同盟はともかく、ギョーム王陛下とのご結婚は賛意を表せませぬ」
人々がますます騒ぎ立て、ジュビリーは眉間に皴を寄せて口を開いた。
「このような場で申し上げることではありませぬ。公爵、改めて参議官及び宮廷侍従長を通してご進言いただきたい」
「そなたを通してでは、陛下に伝わらぬ」
激しい口調で言い返すブリー公にキリエはますます動揺して顔を引き攣らせる。公爵の態度に貴族たちが非難の声を上げる中、ブリー公はすっくと立ち上がるとジュビリーに詰め寄った。
「陛下にとってそなたの進言が最も影響力を持つ。だからこそ、こうして私が直接陛下に申し上げなければ国民の声が届かぬではないか」
国民、という言葉にキリエの顔色が変わる。
「……ブリー公」
キリエのか細い声にさっと振り返る。
「国民の声というのは……」
「陛下」
公爵は再び跪いた。
「リシャール王侵攻の折、ブリーはガリア軍に攻め込まれ、苦しい戦いを強いられました。その為、領民はガリアに対して不信感が拭いきれておりませぬ。確かに、ギョーム王陛下は父親の不義を断罪した賢王であらせられます。しかしながら、侵略国家との政略結婚による同盟は、私は時期尚早と考えます」
反論のしようがない意見に、キリエは困惑して口をつぐんだ。イングレスを支配下に置いたリシャールはアングル全域を侵略する足掛かりとして、隣接するブリー公領に攻め入ったことは記憶に新しい。領民がガリアに嫌悪感を持つのも無理はない。キリエは動揺したままジュビリーに視線を走らせた。顔を強張らせ、黙ったままブリー公を睨みつける彼を見てとると、キリエは息をついて乾いた唇を湿した。
「……公爵。あなたの意見は心に留めておきます。……ありがとう」
その言葉にブリー公の表情がわずかにほぐれる。
「もったいないお言葉……。是非とも、ご熟考いただきとう存じます」
何とかその場は収まり、キリエは震えながら息を吐き出した。
ブリー公の一件は、キリエをますます情緒不安定に陥らせる結果となった。公務はこなすものの普段は人々の前に姿を現すことを嫌がるようになったのだ。
「陛下は? そろそろ新任のポルトゥス大使との謁見が始まるのに……。お着替えがまだでしょう?」
緊迫感に包まれた女官たちの控えの間。エヴァは不安そうに女官たちの会話に耳を傾けた。
「それが、礼拝堂からお出ましになられず……」
「今、クレド侯が説得に当たられています」
女官たちは眉をひそめて顔を見合わせる。
「侯爵と二人きり?」
「いえ、サー・ロバートがご一緒のようですが……」
ブリー公の直訴以来、廷臣を始めとした貴族との接触を怖がるようになったキリエはこれまで以上にクレド時代からの側近を重用するようになり、ジュビリーと二人でいる姿も頻繁に目撃されるようになった。そしてそれは、また新たな火種となっていった。
ブリー公の直訴から数日後。ジュビリーが側近を連れて執務室へ向かっていると、侍従次長が後を追ってやってくる。
「クレド侯、よろしいでしょうか」
「どうした」
若い侍従次長バートン子爵は複雑な表情で、口ごもりながら呟いた。
「実は……、ルクルト伯夫人が面会を希望しておりまして……」
ジュビリーは迷惑そうな目つきでバートンを見つめる。
「……誰だ?」
「先日亡くなられたルクルト伯の夫人です。ご夫君が亡くなられたので、クレド侯にぜひ後見人になっていただきたいと……」
それを聞いた途端、ジュビリーは溜息を吐き出して天を仰ぐ。最近、こういった話が多く持ちかけられ、いい加減うんざりしていたのだ。彼女のような未亡人や、親を亡くした女相続人といった女性が、ジュビリーに後見人を依頼しにこぞってプレセア宮殿を訪れている。彼女たちの本当の望みは後見人などではなく、彼との結婚だ。
「追い返せ」
「しかし、クレド侯……。ルクルト伯夫人は父君がソマーズ侯。母君はガリア王家の流れを汲むグロッソ伯爵家のご出身です……」
「関係ない!」
思わず怒鳴り声を上げたジュビリーに、周囲の人々が驚いて振り返る。決まりが悪そうに口をつぐむバートンに、ジュビリーは顔を寄せると吐き捨てた。
「いいか、今後そのような話は取り次ぐな……!」
「……承知いたしました」
バートンが恐縮して頭を下げる。苛立たしげに溜息をつくジュビリーの背後から、耳馴染みのある声で呼びかけられる。
「侯爵」
振り返るとレスターが一人でその場に佇んでいる。
「ご依頼の調査が終了いたしました」
ジュビリーは頷くと側近たちを帰し、執務室へと向かった。彼やキリエの執務室がある建物は、限られた廷臣や侍従しか入ることが許されず、静かな空間が保たれている。
「何があったのです?」
先ほどのやり取りを見ていたレスターが尋ね、ジュビリーは憂鬱そうに顔を振る。
「……後見人希望の未亡人だそうだ」
「ああ……」
レスターが顔を歪めると肩をすくめる。
「まだそんな輩が……」
「迷惑な話だ」
ジュビリーは忌々しげに吐き捨てた。
「それで……」
「はっ。アングル全土に派遣した密偵からの報告をまとめました。キリエ様の結婚問題は地方の諸侯らにも、動揺を引き起こしているようです」
レスターの言葉にジュビリーは眉間に皴を寄せる。
「一部の諸侯はエスタドの機嫌を損ねない方が得策であると考えているようですが、ほとんどの諸侯はガリアとの同盟を望んでおります。しかし、ブリー公のように、ガリアへの不信感を持つ諸侯も少なくありませぬ」
ジュビリーは立ち止まると、近場の窓から外を眺めた。レスターはジュビリーの背中越しに続けた。
「それから……、イングレス市民の間でも女王の結婚問題が話題になっております。市民たちの大部分は、キリエ様が清い修道女であることに誇りと尊敬を抱いておりますため、結婚には否定的です」
「……そうか」
「しかし……」
レスターが言いよどみ、ジュビリーがゆっくり振り返る。
「どうせ王配を迎えるのであれば、ガリアのギョーム王が良い、といった声もあるそうです」
ブリー公の主張と同じく、リシャールによる侵略を目の当たりにしたイングレス市民も、ガリア王国に決して良い印象を持ってはいない。だが、そのリシャールを駆逐したギョームはイングレスにおいては人気が高かった。市民にとってギョームは父王に反逆した息子というより、キリエの即位に尽力した協力者という印象が強かったのだ。
「……世論には常に留意しろ」
「はっ」
ジュビリーは溜息をつくと顔を上げる。エスタドのガルシアが無言の圧力をかけている中、ユヴェーレンまで敵対することになり、キリエの立場は益々危ういものになっている。どうにかしなければならない……。ジュビリーは痛む頭を押さえた。
「……ガリアの使者が来ていたな」
「来週にも、ギョーム王がイングレスにいらっしゃるとか」
レスターの言葉がジュビリーの胸に重く圧し掛かる。
「……キリエは?」
「薬草園に。……モーティマーをお側に配しております」
暖かくなってから、キリエは宮殿内の薬草園に手を入れ始めた。執務を終えると逃げるようにして薬草園を訪れ、しばらく
「……キリエから目を離すな」
「……はっ」
広大なプレセア宮殿の中でもどこか荒っぽい空気が流れる衛士棟の厩舎に、見るからに場違いな少女が辺りを伺いながら歩いている。男たちは興味津々といった表情で見守っていたが、彼女の身なりから身分を推し量り、誰もちょっかいを出そうとはしなかった。
「レディ・エヴァ?」
不意に少年の声が耳に入る。エヴァが振り返ると、エセルバートの小姓が馬の手綱を取っている。
「あら、あなたはエセルバート様の……」
「はい。トビー・ビルと申します」
少年は嬉しそうに笑顔を見せると頭を下げる。
「先日はありがとうございました」
「怪我はもう大丈夫なの?」
「はいっ、おかげさまで」
そして、わずかに身を乗り出す。
「ジョージ様ですか?」
「いらっしゃるかしら」
「はい、少々お待ちを」
トビーは大丈夫と答えたものの、足をわずかに引きずりながら建物の中へ入っていく。やがて、胴着姿のエセルバートが現れ、驚きの声を上げる。
「レディ・エヴァ!」
「ごめんなさい。突然押し掛けてしまって。トビーに傷薬と包帯を持ってまいりました」
「そんな……、申し訳ありません」
「それから、こちらも」
そう言って手にしたバスケットを持ち上げる。
「ワインとパンです」
思わず目を輝かせて身を乗り出すトビーの頭をエセルバートが軽く叩く。
「ありがとうございます、こんなお気遣いまで……」
「いえ、こんなことしかできませんが」
エセルバートは恐縮そうにバスケットを受け取ると、トビーに手渡す。
「少し休んでこい」
「はいっ」
元気のいい返事を返すと、トビーは衛士棟へ向かった。エセルバートは、仲間の視線を感じるとエヴァを衛士棟の裏へ連れていった。
「配属はこれからなのですか?」
「すでに騎士団への入団が決まった者もいるようですが、私はまだ若いという理由で、もう少し先になりそうです」
そう言ってエセルバートは石段に座り込んだ。
「あなたは? お仕事は忙しいですか」
「私はともかく、周りが慌ただしくなりました」
エセルバートが声をひそめて身を乗り出す。
「ギョーム王が女王陛下にご求婚されたことが、大きな問題となっているようですね」
「……ええ」
エヴァは暗い表情で頷く。
「陛下は嫌がっておいでです」
「何故……」
「だって、陛下は修道女ですもの」
エセルバートは、どこか腑に落ちない表情で顔をしかめる。
「では、ご結婚は……」
「まだ、わかりません」
「宰相閣下は何と仰せなんですか」
「クレド侯は、何とか陛下の希望に添いたいとお考えのようですけれど……」
二人が沈黙する中、やがてエセルバートが険しい表情で呟いた。
「……最近、あまり良くない噂を耳にします」
「噂?」
エヴァが眉をひそめて顔を上げる。エセルバートはやや躊躇う素振りを見せてから、そっと囁いた。
「……女王陛下と宰相が、親しすぎるのではないか、と」
エヴァは顔を歪めて口をつぐむ。結婚問題で揺れる中、周囲への不信感を露にするキリエは今まで以上にジュビリーに依存するようになり、それは尾ひれがついた噂を招いた。何かにつけて噂好きな貴族たちがどんな陰口を叩いているのか。ジュビリーが女王のために常に気遣いをしている姿を目の当たりにしているエヴァは、居たたまれなくなった。
「それだけではありません。先王陛下がクレド侯の奥方を手篭めにしたという話も聞きました」
エヴァが絶句してエセルバートを凝視する。
「奥方がお亡くなりになったのも、それが原因だとか。そのような過去がありながら……、何故クレド侯は女王陛下の信頼を得ているのか……」
「そんな……」
困惑の表情で顔を伏せるエヴァは、視線をあてどなく彷徨わせた。
「侯爵は……、教会にお迎えに上がった時から、ずっと陛下を支えてこられたのですよ……。全ては、陛下のためです……!」
「……そうでしたか」
だが、エヴァもキリエのことが心配でならなかった。ジュビリーに再婚を勧める者が増えたことに、キリエが露骨に機嫌を損ねるようになったのだ。これでは二人の関係を疑う者たちがいても不思議はない。エヴァは不安そうな顔つきで呟いた。
「来週にもギョーム王がいらっしゃるそうです。……何も起こらなければよいのですが……」
沈んだ表情の彼女をエセルバートは静かに見つめていたが、やがて背を伸ばし、明るい表情で話題を変えた。
「私はグラムシャーの出身です。あなたは?」
エヴァも表情をゆるめると振り返る。
「南アングルのエクスです」
「港町ですね。私は山育ちだから羨ましいです」
「嵐の時は大変ですよ?」
「確かに」
二人が笑い合うが、エヴァがふと首を傾げる。
「グラムシャーと言えば……、ローランド戦役で戦場になった場所ですね」
「……ええ」
エセルバートは少し寂しげな表情で目を伏せる。
「あの戦いで……、父を亡くしました」
エヴァが思わず口元を覆う。
「……ごめんなさい」
「いえ、よろしいですよ」
「……それで、女王陛下のために騎士団に……」
「ええ」
二人の間に気まずい沈黙が流れるが、やがてエセルバートが笑顔で立ち上がる。
「あなたが生まれた町のお話をぜひ聞かせて下さい。トビーにも聞かせてやりたい」
「はい」
エヴァは嬉しそうに微笑んだ。
エヴァの願いも空しく、噂は留まることを知らなかった。ジュビリーに持ち込まれる縁談も減ることがなく、そして、ついにはこんな噂まで流れ始めた。
ホワイトピーク公ウィリアムがジュビリーに再婚を勧めたというのだ。先王エドガーの甥であり、女王キリエとクレド侯双方から篤い信頼を寄せられる彼の意見ならば、さすがの宰相も無視はできまい……。そんなことが囁かれる中、噂を聞きつけたウィリアム本人が血相を変えてビジュー宮殿に参内した。
「バートランド!」
ビジュー宮殿の大廊下で不意に名を呼ばれ、ジュビリーは顔をしかめて振り返った。彼に付き従っていたレスターは声の主を認めると驚きの表情になる。
「ホワイトピーク公、わざわざおいでにならずとも」
ジュビリーの言葉にウィリアムは顔を振りながら溜息を吐き出す。
「あんな噂を耳にしては黙っておられん。良いか、私はあんな下世話なことなど……」
「わかっております」
宰相は落ち着き払った様子で答えた。
「噂の出所は突き止めました。セロン伯が、ホワイトピーク公の進言ならば私も耳を傾けるのではないか、と口にした言葉が誤って広まったようです」
ウィリアムは呆れた顔付きで目を見開いた。ジュビリーは表情を変えないまま、目を伏せた。
「……皆の気遣いに恐縮するばかりです」
乾いた言葉の端々から苛立ちを感じ取ったウィリアムは気の毒そうに目を眇めた。
「……何故そのような噂が流布するか、わかっておろうな」
ジュビリーは口をつぐんだまま目を逸らした。レスターも顔を強張らせてジュビリーの横顔を見守る。
「そなたは跡継ぎもいないのに後添えを娶っていない」
「公爵」
「聞け」
顔を強張らせて声を上げるジュビリーに手を上げて制する。
「……そなたの細君のことはよく覚えている」
ウィリアムの囁きにジュビリーは拳を握り締めた。
「再婚しようという気が起こらないのもわかる。だがな」
「私も、覚えております」
固い口調で言い放つジュビリーにウィリアムは口を閉ざした。視線を逸らしたまま、ジュビリーは言葉を続ける。
「……あなたが、先王陛下に諫言されたことを」
ウィリアムは溜息をつきながら頷いた。エドガーがジュビリーの妻を襲った事件で王をはっきりと非難したのは側近であるモーティマーと甥のウィリアムだけだ。
「……私の耳にも届いている。そなたと、陛下の仲を勘ぐる噂がな。そなたが独り身でいることがその噂を助長しているのだ。ガリアとの同盟を願う者たちは、その噂がガリアに届くことを怖れている」
ジュビリーはそれでも表情を変えずに黙り込んだままだ。ウィリアムは傍らのレスターに目を向けた。
「陛下は」
「恐らく薬草園に」
「陛下にお会いしたい。良いか」
薬草園の四阿に座り込んでいたキリエは、不意に「陛下」と声をかけられた。モーティマーの声だ。振り返ると、秘書官の背後にウィリアムが佇んでいる。彼女はぱっと明るい表情を見せた。
「おじ上」
キリエがベンチの隣を指し示すと、ウィリアムは律儀に一礼してから腰を下ろした。
「……おじ上も、ジュビリーに縁談を持ってきたのですか?」
いきなりの言葉にウィリアムは顔をしかめて振り返った。キリエは虚ろな表情で庭に咲く花々を見つめている。
「……皆、ジュビリーに再婚を勧めています。私には、結婚を勧める者と反対する者が毎日入れ替わり立ち替わりやってきます」
ウィリアムは黙ったまま目を眇める。
「……私は、結婚などしないと言っているのに」
キリエは両手で顔を覆うと項垂れた。
「……誰も待ってくれません。早く早くと、急かすのです」
「……陛下」
涙交じりの呟きに、ウィリアムはそっとキリエの頭を撫でた。
「……私、どうしたらいいのですか」
消え入りそうな言葉に、ウィリアムは答える言葉が見つからなかった。
アングルに不穏な空気が広がっている頃。大陸では新たな動きが始まろうとしていた。
聖クロイツ大聖堂の拝廊を、大主教ムンディが静かに歩み、信徒たちが恭しく跪いてゆく。信徒一人一人の頭を優しく撫で、彼らに幸運が舞い降りるよう祈りを呟くムンディの表情は慈愛に溢れ、穏やかだ。やがて拝廊を出て長い石畳の通路へ入ると、ヘルツォークが陰のように背後に寄り添う。
「ガリアの使者が参りました」
途端に、大主教の瞳ががらりと変わる。
「近々、ギョーム王がアングルを訪れるそうです」
「……そうか」
ムンディは思慮深げに呟くとしばらく黙ったまま歩き続ける。やがて、左右に広がる美しいレリーフが彫られた壁を見上げる。ヴァイス・クロイツ教の誕生からクロイツ独立戦争までを彫り込んだ、壮大なレリーフだ。
「……ガリアとアングルを連合王国に統合するという計画は、意外と早く実現しそうだな」
「しかし、成婚なるかどうかは……」
「ギョームはどんな手を使ってでも結婚するだろう。……あの子はそういう子だ」
ムンディは最後の言葉を茶目っ気たっぷりに囁いた。ヘルツォークは黙って苦笑いを浮かべる。
「もちろん、ガリア・アングル連合王国も、私の壮大な計画の一部に過ぎん。連合王国を礎に、エスタドやクラシャンキに対抗しうる神聖帝国を樹立する。……キリエがアングルの君主に即位した今を逃す手はない」
「しかし……、キリエ女王を女帝に戴くことに、ギョーム王が我慢できますでしょうか」
「ギョームは飾り物の皇帝よりも、権力を握れる立場を望むだろう」
「……なるほど」
だが、ムンディは歩みを止めると眉間の皴を深めた。
「だからこそ、この政略結婚を潰されては困る。邪魔が入らぬよう、警戒せねば。アングルに使者を送り、冷血公やエスタドの動きに充分警戒するよう伝えろ」
「承知いたしました」