キリエとギョームが連れ立って薬草園を出ると、中庭に面したバルコニーでジュビリーやガリアの側近たちが待っていた。
「お帰りなさいませ」
側近らが頭を下げて迎える中、ギョームは高ぶる胸を抑え、ジュビリーに顔を寄せると囁いた。
「ご承諾をいただいたぞ」
ジュビリーは思わず絶句してガリア王を凝視した。彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべるとジュビリーを見返す。爛々と輝く瞳。喜びを抑えきれない口許。ジュビリーの顔から血の気が引く。やがて、
「……陛下!」
慌てて振り返ると、キリエは固い表情で俯いている。目を合わそうとしない彼女に、ジュビリーは思わず奥歯を噛み締める。ギョームは側近の一人に問いかけた。
「クレマンソー伯は」
「落ち着いておられます。意識もはっきりしておりますし」
「では伝えてやってくれ。キリエ女王のご承諾をいただいたと」
ガリアの側近だけでなく、セヴィル伯らアングルの廷臣たちからも驚きの声が上がる。
「陛下……!」
「おめでとうございます!」
ガリアの一行からは明るい声が次々と上がる。キリエは無理やり笑顔を作ると小さく頭を下げる。セヴィル伯はどこかおろおろした表情でキリエとギョームに視線を投げかける。
「で、では、ささやかながら祝宴を……」
「いや、いい。昨日の今日だ。女王陛下もお疲れであろう。ゆっくりお休み頂きたい」
「はっ……」
「……ありがとうございます」
キリエは小さく礼を述べ、「ごめんなさい、失礼いたします」と告げるとその場を逃げるように立ち去る。戸惑うジュビリーに向かって、ギョームは追いかけるように目配せする。ジュビリーは自分の不甲斐なさを情けなく思いながら、キリエの後を追った。
半ば走るように私室へ戻ったキリエはテーブルに両手を突き、嗚咽が混じった溜息を吐き出した。
「……キリエ」
背後からジュビリーがそっと声をかける。キリエの後ろ姿は、いつにも増して小さく見えた。
「……これで……」
震える声が囁かれる。
「これで、いいのでしょう……?」
キリエの消え入るような囁き声にジュビリーは胸が詰まった。
「これで、アングルは守られる……。アングルだけでなく、ガリアも。私が結婚して、世界が平和になるなら……、修道女として本望だわ」
嘘だ……!
ジュビリーは悔しげに唇を噛みしめた。おまえが幸せでなければ、意味がない……!
「……ジュビリー」
涙声で名を呼ばれ、目を眇めて顔を上げる。
「お願いがあるの。マリーとジョンを、結婚させてあげて」
「……キリエ」
「だって、おかしいわ!」
キリエが体を起こすと振り返る。真っ赤に充血した目。青い顔。痛ましい姿にジュビリーは声を失った。
「愛し合っている二人が結婚していないなんて、おかしいもの……! 何かあってからじゃ遅いわ……! 二人を結婚させて……! 私が、アングルを出る前に……!」
「……わかった」
苦しげにそれだけを呟くと、二人は黙って見つめ合った。やがてキリエは堪えきれずにジュビリーにすがりついた。
「……帰りたい……」
キリエのか細い声がジュビリーの胸に突き刺さる。
「クレドに……、帰りたい……!」
ジュビリーは黙ってキリエを抱きしめた。声を押し殺し、二人は互いの体温を確かめるように強く抱きしめ合った。
ギョームが祝宴を断ったとはいえ、それなりに華やかな彩りを添えるべく、宮廷内は落ち着かない慌ただしさに包まれた。そんな中、知らせを聞いたジョンが慌ててジュビリーの執務室に飛び込んできた。
「義兄上!」
ジュビリーは椅子に座り込んでいた。キリエ同様、この数日間でやつれた宰相は顔をもたげてジョンを見上げた。落ち窪んだ目には、生気が感じられない。
「義兄上……。キリエ様が、ギョーム王の求婚を受け入れられたというのは、誠ですかッ!」
「……本当だ」
「どうしてッ……!」
ジョンは悔しそうに頭を振り、義兄に食い下がった。
「キリエ様がお幸せになれると本当にお思いですかッ! 義兄上は、本当にこれで良いのですか? キリエ様は……、義兄上のことを、誰よりも……!」
「ジョン」
有無を言わさぬ表情のジュビリーに、ジョンは言葉を飲み込む。そして、がっくりと肩を落とす。
「……残念です……!」
搾り出すように呻くその言葉に、ジュビリーは眉間の皴を深めて項垂れる。
「……私だってそうだ」
ジョンが泣き出しそうな表情で顔を上げると、ジュビリーはゆっくりと立ち上がった。
「これからギョームと交渉に入る。同盟や結婚に関する諸条件を取り決めねばならん」
ジョンははっとしてジュビリーを見つめた。彼は打ちひしがれる間もなく、宰相としてギョームを相手にしなければならない。最も辛い思いをしているのは彼だ。ジュビリーは険しい表情でまっすぐジョンを見つめた。
「おまえにも頼みがある。これからも、キリエに忠誠を誓ってくれ」
「何を今更……!」
目を剥いて叫ぶ義弟を遮って、言葉を続ける。
「これから、キリエはアングルとガリアを行き来することになる。私の代わりに随行してくれ。……おまえは女王を守る聖女王騎士団の団長として。マリーエレンは女官長として。夫婦でキリエを支えてほしい」
「……はい」
顔を強張らせて返事をしたジョンだったが、一瞬の間を置いてがばっと顔を上げる。
「えっ」
「……待たせたな」
義兄は表情をゆるめると呟いた。
「マリーエレンと、結婚してくれ」
「あ……」
動揺したジョンは瞳を彷徨わせ、顔を横に振る。
「……こ、こんな時に……、私だけ……!」
「キリエの望みだ。おまえたちを結婚させてくれ、と」
「キリエ様……!」
ジョンはせつなそうに囁くと肩を小刻みに震わせた。ジュビリーはジョンの肩に手をかけると言い含めた。
「……ジョン。私はおまえの姉を幸せにすることができなかった。……すまない」
「義兄上! 姉は、幸せでした……! 義兄上の妻であることを、誇りに思っていました……!」
必死に言い募るジョンに、ジュビリーは目を細めて頷いた。
「ありがとう。……頼む。マリーエレンを幸せにしてくれ。そして、おまえも幸せになってくれ」
まだ困惑した様子で落ち着かない様子ながらも、ジョンは不安そうな表情で身を乗り出す。
「……義兄上。あ、あなたは、どうなさるのですか」
「……私は……」
ジョンはまっすぐ射るように見つめて囁いた。
「キリエ様の隣以外に、義兄上が幸せになれる場所は、ないのでは……」
ジュビリーは顔を歪めると目を伏せた。
「……キリエのために、できることはまだあるはずだ」
「義兄上……」
「マリーエレンを頼む」
「……はい」
「行け」
ジュビリーは肩から手を離すと呟いた。
「早く行ってやれ」
「はい……!」
ジョンは深々と頭を下げ、少し躊躇いの表情を浮かべながら背を向けた。残されたジュビリーは、溜息を吐き出すと天井を仰いだ。
ジョンは後宮の廊下をもつれる足で駆け抜けた。侍従や召使たちは皆怪訝そうな表情で若い伯爵を見送る。遠い。マリーエレンの元までが、こんなにも遠く感じるなんて!
そのマリーエレンは、広間に女官や侍女、小間使いたちを集め、臣下としての義務について再度言い聞かせている最中だった。エヴァンジェリン・リードの一件は、彼女たちにも大きな衝撃と深い哀しみをもたらしていた。
「良いですか。私たちの勤めは後宮の運営を支えることだけではないのです。国家に関わることなのです。それを忘れてはなりません。皆もそれはおわかりのはず。今一度、胸に言い聞かせて……」
皆が神妙な顔付きで女官長の言葉に耳を傾けていた、その時。緊迫した空気に満ちた広間の扉が突然開け放たれる。
「マリー様ッ!」
女たちは飛び上がって振り返った。
「……ジョン?」
血相を変えたジョンの様子に、てっきり大事でも起こったかと顔を引きつらせたマリーが、駆け寄ろうとする。
「あ、義兄上のお許しをいただきました!」
「えっ?」
戸惑うマリーの手を握りしめ、ジョンは一気に叫んだ。
「マリー様、私の妻になって下さい!」
「……!」
唖然とするマリー。息を呑む女官たち。思わず石像のように固まるマリーにジョンは更に畳みかけた。
「絶対、あなたを幸せにしてみせます! あなたの側を離れません! ですから……、どうか私の妻に……!」
「ジョン……!」
マリーがようやく名前を口にした途端。広間中から一斉に歓声が上がる。若い女たちのはしゃぐ声にジョンはようやく周りの状況に気がついた。
「……あ……」
今になってジョンは真っ赤になって声を失うが、マリーは目を潤ませて彼にすがりついた。
「ジョン……! ありがとう……!」
その言葉に、ジョンは気が遠くなるような感覚を覚えながらマリーを力強く抱きしめた。
キリエとギョーム。そして、ジョンとマリーの婚約が成立した翌日。北塔に収監されていた八人の反逆者が市中に引き出された。彼らはイングレスの町外れにある処刑場まで、ゆっくり時間をかけて引き回された。市民は罵声を張り上げて石などを反逆者に投げつけ、市街は大変な騒ぎになった。アングル女王とガリア王の暗殺を企てた不届き者は、恐ろしい最期を迎える。その見せしめのため、彼らの処刑は公開された。王族や高位の貴族が大逆を行った場合は斧による斬首が定められていたが、それ以下の者たちは大抵残虐極まりない方法で処刑される。だが、キリエは非人道的な処刑方法は許さなかった。そのため、通常の罪人と同じく、「縛り首」で刑は執行された。だが、それが果たして慈悲と言えるのか、キリエの心には拭いきれないわだかまりが残された。
ジョージ・エセルバートの小姓、トビー・ビルは年齢が幼いことを理由に解放され、わずかな路銀を持たされて田舎へ帰された。一方、エヴァンジェリン・リードはまだ北塔に軟禁されたままだ。処刑が行われるその日、キリエは朝からプレセア宮殿の礼拝堂に籠もり、一心に祈りを捧げていた。
処刑が行われたその日から、ジュビリーはギョームとキリエの結婚に関する交渉に臨んだ。本来ならばアンジェ侯がその交渉に駆り出されるはずだったが、彼が一足先に帰国していたため、交渉はギョームとジュビリーの「一騎打ち」となった。
静かな応接間で、上座に座すギョームを黒衣の宰相は眉間に皺を寄せたいつもの表情で見下ろしていた。
「まず、クロイツの大主教にお許しをいただかねばなりません」
ジュビリーの言葉にギョームが頷く。
「帰国次第、早々に使者を向かわせる。ガリアから使者を送る方が早いな」
ジュビリーが声を低める。
「ご結婚と同時に同盟の成立ということで、よろしいのでしょうか」
「もちろんだ。冷血公もまだ服従してはおるまい。これで、いつでも力になれる」
「はっ」
そこでギョームが思案深げに眉をひそめる。
「気になるのはエスタドだ。ガルシアは女王の王位を認めていない。余計な茶々を入れてこなければよいが。まぁ……、文句は言わさないがな」
「……そうでございますね」
ぎこちない沈黙の後、ジュビリーが言葉を続ける。
「それから……、ご結婚後のことでございますが……。我が君はアングルの君主であられます。アングルを長く不在には……」
「わかっている。女王陛下はガリアとアングルを通う生活になろう。だが、陛下お一人にご負担いただくつもりはない。もちろん予もアングル女王の〈王配〉としてこちらへ参ろう」
「お気遣い痛み入ります」
「……陛下がガリア語に堪能で助かる」
ギョームが子どものような笑顔で呟き、ジュビリーもわずかに表情をゆるめる。
「そういえば、妹御も婚約されたそうだな」
「……はい」
「めでたいな」
ジュビリーは口元をほころばせると、顔を隠すように俯いた。ギョームはからかうように畳みかけた。
「あまり嬉しそうではないな? 手放すのが惜しいか」
「申し分ない相手です。……どうしようもありません」
そう言って肩をすくめるジュビリーに、ギョームは屈託ない笑い声を上げる。ジュビリーは、無邪気に笑う青年をじっと見つめた。
「相手はグローリア伯爵家を譲り受けたジョン・トゥリーだったな。似合いの二人ではないか」
「彼のことはよく知っております。彼ならば安心して妹をやれます」
「確か、そなたの亡くなった奥方の弟御だったな」
ジュビリーは顔にこそ出さなかったが、思わず息を呑んだ。事実ではあるが、それを面と向かって言われると何故だか不快な気分になる。
「……トゥリーとも長い付き合いです」
「そなた、再婚はしないのか」
唐突な問いかけに、さすがにジュビリーは目を眇めた。ギョームは表情を変えないまま見つめてくる。
「……しないでしょうな」
その返答に若い王は意味ありげに笑みを浮かべた。
「そなたの心を射止めるご婦人がアングルにはおらぬか」
何を言い出すのだ。一々顔色を変えるほど若くはないが、自分に対する明らかな挑発に不愉快さが募る。ジュビリーは穏やかならざる心中を押し隠すと、殊勝げな顔付きで口を開いた。
「贅沢は申しません」
「何を言う」
「情けない話ですが……。正直、そのような気分にはなれません」
その言葉に、ギョームは素直にぎくりとしたらしい。気まずそうな表情で顔色を窺ってくる。
「……忘れられないのか」
はっきりとは答えず、ジュビリーは曖昧な表情を浮かべてみせた。ギョームは居住まいを正すと生真面目に詫びの言葉を口にした。
「すまない。余計なことを聞いた」
「いいえ」
だが、ギョームはわずかに身を乗り出した。
「しかし、跡継ぎはどうするのだ」
彼は、自分に子がいないことまで知っている。ジュビリーぐらいの年齢であれば子がいてもおかしくないのに、だ。ガリアの王が自分のことを詳細に知り尽くしていることに、ジュビリーは腹の底が冷たくなるのを感じた。
「……どうにかなるでしょう」
思わぬ答えにギョームは驚きの表情になる。
「そなた……、自分のこととなるとずいぶん投げやりだな」
「今は国政のことしか頭にありませぬ」
そう言ってジュビリーは表情を引き締めてみせた。
「なるほどな。……ところで、クレド侯」
相手が仕切り直し、ジュビリーも背を正す。
「はい」
「そなた、女王陛下とは何年の付き合いだ」
「……六月で丸二年になります」
「そんなものか」
思わず漏らした言葉に、ジュビリーは表情を固くする。
「この二年余り、共に戦場を潜り抜けてまいりました」
「……なるほどな」
ギョームは笑みを浮かべたまま言葉を継いだ。
「陛下のそなたへの信頼ぶりは目を見張るものがある」
「……恐縮です」
しばらく互いを探り合うように二人は視線を交わした。ジュビリーの脳裏に、あの日ギョームの目の前で自分に抱きついてきたキリエの姿が蘇った。きっと、ギョームも思い返しているはずだ。やがてジュビリーは険しい表情で一歩前に進み出た。
「ギョーム王陛下。一つ、お心に留めていただきたいことが……」
「何かな」
相手の真剣な眼差しにギョームも居住まいを正す。
「キリエ女王は……、二歳から十三歳までを教会で過ごしてこられました。厳格な戒律の下、俗世間からは隔絶された世界です」
ギョームが静かに頷く。
「俗世に疎いことは元より……、特に、異性との社交は不得意でいらっしゃいます」
「さもあろう」
「そのため……」
ジュビリーはそこまで言って言い淀む。ギョームが目で先を促し、ジュビリーは躊躇いがちに口を開いた。
「……お世継ぎの誕生は、しばらくご猶予をいただきとうございます」
応接間は静寂に包まれた。ギョームは静かに手を組むと肘をテーブルに突いた。
「……つまり、予の腕前次第ということだな?」
そう言って目を細めるギョームに、ジュビリーは思わず奥歯を噛みしめた。が、必死に自分に言い聞かせる。この無表情の仮面は、絶対に外してはならないと。
「安心しろ、クレド侯。予が恋をしたのは女王ではない。修道女だ」
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げるものの、ジュビリーはひそかに拳を握りしめた。自分に対する言葉のひとつひとつに、ギョームの挑発を感じる。思えば、昨年クレドで初めて会った時からだ。ギョームはあの時キリエに一目惚れをした。それと同時に、彼女が信頼を寄せている寵臣の存在も知った。自分とキリエの間柄を怪しむプレセア宮殿の噂も、海を越えてガリアに伝えられていることだろう。これからも、彼は自分に対して限りなく敵意に近い視線を投げかけてくるはずだ。ジュビリーは、新たな敵の出現に胸騒ぎを抑え切れなかった。
ユヴェーレン・カンパニュラ間の戦闘は予想よりも早く終息傾向に向かった。ガルシアがユヴェーレンに援軍を差し向けたものの、それまでにギョームが張り巡らせていた対エスタド勢力の包囲網が一気に動いたため、ユヴェーレンのオーギュスト王が怖じ気付いたのだ。それと同時に、ガルシアはギョームが本気で自分に刃向かおうとしていることを知り、怒りを新たにする結果となった。大陸の緊張は更に増したと言える。
ギョームの帰国前夜の晩餐は、さすがに華やかなものとなった。加えて、ジョンとマリーの婚約も公表され、一層祝賀の彩りが増した。
ギョームはいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、次々に述べられる祝辞に応えていたが、キリエはいつにも増して口数が少なく、静かな様子で晩餐に臨んでいた。
「ご無事にご婚約が成立されて、よろしゅうございました」
側近の言葉にギョームが頷く。
「……暗殺未遂は想定外だったがな」
側近は、冷静さを保とうとしながらも喜びを滲ませているギョームと、無理に笑顔を作っているキリエとに視線を泳がせた。そして、彼女の背後で相変わらず眉間に皺を寄せている宰相クレド侯。よくも彼が婚約に同意したものだ……。
「帰国したら、すぐにクロイツへ使者を送る。バラを交渉役としてアングルに送らせろ」
「御意」
ギョームはワインを満たしたゴブレットを手に、近い将来妻になる少女を見つめた。その横顔には不安と恐れが見え隠れしているのが手に取るようにわかる。つぶらなはずのアーモンド型の瞳は憂いに沈み、薄紅色の唇は固く閉ざされている。
(大丈夫だ)
彼は心の中で呼びかけた。あなたをひとりにはしない。全ての敵から守ってみせる。だから、笑顔を見せてほしい。自分だけに。
一方、自らも婚約を結んだマリーは複雑な心境でキリエと兄を見つめていた。婚約を決めた日の夜、キリエはまず、マリーとジョンの婚約を祝ってくれた。だが、キリエとジュビリーの心の内を思うと、マリーは手放しで喜べるはずもなかった。虚ろな瞳で中身が減らないゴブレットを見つめるキリエを、マリーは不安げに見守った。
翌朝、ギョーム一行はプレセア宮殿を出発した。別れ際、彼は婚約者の両手を強く握りしめた。〈修道女〉に対して、彼はあくまで礼儀をわきまえた真摯な態度だった。
「……この度は、本当にありがとうございました」
それでも、さすがに思いを抑え切れないといった表情でギョームは熱っぽく語りかけた。
「あなたをビジュー宮殿にお迎えするのが待ち遠しいです。国民も心から喜んでくれるでしょう。偉大な女王陛下を王妃として迎えられることに」
キリエはまっすぐに投げかけられる言葉のひとつひとつに頬を染めながら頷く。恥じらいがちに俯く婚約者の顔を覗き込むと、ギョームは耳元で「またお会いしましょう」と囁いた。そして、ガリアの若獅子王は魅惑的な笑みを残して去っていった。
ギョームを乗せた馬車が遠ざかっていくのを、キリエはまるで他人事のように見送った。そして踵を返そうとした時、ジュビリーと目が合うと動きを止める。いつもと変わらない、鋭い眼差しと、刻まれた眉間の皴。だが、それでもその胸中は今までとは違うのだろうか。キリエは目を伏せると、沈痛な表情で背を向けた。
ギョームが帰った後、キリエはマリーエレンから輿入れに関する細々とした取り決め事を教え込まれた。
「ガリアとアングルに滞在する期間や、随行する侍従の編成。そして、同盟に関する細かな取り決めなどはこれから宰相同士で話し合われる予定です」
沈んだ表情のキリエに、マリーは慎重に語りかける。
「王都オイールのビジュー宮殿は、ここプレセア宮殿よりもずっと華やかだそうです。芸術や料理、衣装など、名実共に大陸文化の中心です。ただ……、口さがない貴族たちは、プレセア宮殿と変わりはないようですが」
プレセア宮殿で虚実ない交ぜの噂が飛び交っていることはキリエの悩みのひとつだったが、オイールでも同じらしい。キリエは憂鬱そうに嘆息を漏らす。
「……同盟に関する条件は?」
「それは今から……。キリエ様がご心配になることはございませんわ。すべて兄が交渉いたします」
「でも、私は」
キリエは強張った表情で訴える。
「ガリアの王妃である前にアングルの女王だもの。国を守るために、知っておかなければ……」
女王としての義務を必死で果たそうとするキリエの姿に、マリーは思わず胸を詰まらせる。
「……ジュビリーは、ギョーム様とどこまで話し合ったのかしら」
「……私が耳にしたのは……」
顔をしかめ、躊躇いがちにマリーが呟く。
「ギョーム王は、クレドのようなロングボウ隊を組織したいので指導してほしい、と仰ったそうです」
ロングボウ。まずその言葉が口に上るのがギョームらしい。彼はただ穏やかで誠実なだけではない。大陸の覇者エスタドの野望を真っ向から阻もうとする、猛々しい一面もある。君主としては実に理想的だ。だが……。キリエは両目をぎゅっと瞑る。
「……私……、これからどうなるの……」
眉をひそめ、椅子の手すりを握りしめて呟くキリエにマリーは辛そうに目を伏せる。しばらくの沈黙の後、マリーは思い切った表情で顔を上げる。
「……キリエ様に、お伝えしなければならないことがございます」
「……何?」
マリーの固い表情にキリエは不安げに目を上げる。
「……王族、それも王と王妃の結婚式には実に様々な儀式がございます。大主教による祝福、王妃としての戴冠、議会の承認、そして、最後に〈見届け〉と呼ばれる儀式がございます」
「……見届け?」
キリエがおうむ返しに尋ね、マリーは躊躇いながら声を低める。
「……初夜の床入りを、両国の重臣が確認する儀式です」
初夜という言葉に、キリエは困惑気味に眉をひそめる。耳にしたことはあっても、実際にはその意味を知ることがなかったのだ。マリーは声を低めて囁いた。
「つまり……、結婚後の初めての夜に……、王と王妃が共に夜具へ入る姿を確認するのです」
「そんな……!」
キリエが顔を真っ赤にして口を両手で覆う。
「あくまで、初夜だけです。これはどの国でも、君主の結婚式では例外なく行われることです」
「どうして、そんなことを……!」
やや取り乱しかけながら、キリエは必死に問いかけた。
「生まれてくる嫡子が、間違いなく初夜以降に生まれたことを確認するためです。形式的なもので……、王と王妃が夜具に入ったことを確認すると、すぐに退出する決まりです」
「確認って……、だ、誰が……」
「クロイツの司教と、両国の主な廷臣です」
キリエは目をあてどなく彷徨わせると黙り込んだ。夜具に入るまで、ということは二人とも寝衣姿ということだ。そんな恥ずかしい思いをしなければならないのか。しかも主な廷臣となると、その中にジュビリーも含まれるのか? キリエは惨めさと情けなさで頭がどうかなりそうだった。口許を覆う両手が震え、目に涙が滲む。マリーがそっと体を屈めると耳元で囁いた。
「……実は、兄がギョーム王に直談判いたしまして」
キリエが恐々と顔を上げる。
「キリエ様の年齢と、修道女としての立場を配慮して、お世継ぎの誕生にご猶予をいただけるよう、嘆願いたしました」
「……ど、どういう、こと?」
まだ混乱した表情で聞き直すと、マリーは眉をひそめたままゆっくり言い聞かせる。
「……お子を作る行為は、しばらく控えていただくように、と……」
キリエは目を大きく見開き、マリーをじっと凝視した。ジュビリーに、そんな気遣いまでさせてしまった。ジュビリーは、どんな胸中だったのだろう。そして、彼にそのことを切り出されたギョームはどう思ったのだろう。キリエは顔を覆うとテーブルに肘を突き、溜め込んだ息を震えながら吐き出した。
「……しばらくって……、いつまで……?」
「それは……」
マリーが言い淀む。キリエはしばらく項垂れていたが、やがて、空ろな響きで呟いた。
「……結婚式は、いつ?」
「まだこれから交渉が続きますので、夏頃になるのでは……」
「そうじゃなくて」
キリエが遮る。
「あなたと、ジョンの結婚式よ」
マリーが思わず胸を突かれて言葉を失う。全てに絶望し、気力を失ったキリエの姿を痛ましい思いで見つめたマリーは、そっと肩に手を添える。
「私事は後回しですわ」
「ジョンと同じことを……」
そう言ってキリエはぼんやりとした表情で顔を上げる。
「……私の結婚式にそんなに時間がかかるなら、それまでに式を挙げてもらわないと……」
「……わかりました。……ありがとうございます、キリエ様」
マリーは思わず涙ぐむとキリエの両手をそっと握り締めた。