結婚式が終わると、中庭で午餐を兼ねた祝宴が行われた。この祝宴は下働きの者たちにも開放された賑やかな無礼講だった。季節の花で飾られたテーブルには数々の料理やワインが饗され、楽士たちが賑やかな音楽を奏でる中、お祭り騒ぎが繰り広げられている。
人々に祝福され、弾けるような笑顔を見せているマリーとジョンを見守っているジュビリーに、ウィリアムが声をかける。
「寂しいか?」
「公爵……」
ジュビリーは苦笑を漏らすと小さく溜息をついた。
「……思い出していたのです。十年ほど前に、ここで妻と式を挙げたことを」
ウィリアムはかすかに眉をひそめた。ジュビリーの瞳には懐かしさと寂しさが滲んでいる。
「あの時、あの二人も心から祝福してくれました。……なのに、私は妻を守れなかった」
「バートランド」
ジュビリーは目を伏せると顔を振った。
「私は非力です」
「だから、女王を若獅子王に託したというのか」
突き刺さる言葉にジュビリーはぎくりとして振り返った。ウィリアムは鋭い眼差しで見つめてくる。返す言葉がないジュビリーは沈黙を守るしかなかった。やがてウィリアムは首を巡らした。
「ところで、陛下は?」
すぐ背後に控えていたモーティマーが前へ進み出る。
「薬草園に。一人にしてほしい、と」
ジュビリーは顔をしかめて振り返る。
「……そろそろ迎えに」
「はっ」
モーティマーは一礼するとその場を辞した。
だが、広大なクレド城は中庭を抜けるだけでも時間がかかった。少し迷いそうになったモーティマーは、宴の様子を黙って見守っている大人しそうな娘に声をかけた。
「失礼、薬草園はどちらかな」
娘は突然の呼びかけに緊張した顔つきで、「あちらです」と、薔薇の蔓で作られたアーチを指差す。
「薔薇園の隣です……」
「ありがとう」
目指すアーチまで辿り着くと、薔薇のほのかな香りに包まれる。アーチを潜り抜けると、そこには予想した通り、思い詰めた表情のキリエが佇んでいた。
「陛下」
すぐには動かず、少し間を置いてからキリエは振り返った。
「……そろそろダンスが始まります。せっかくですから……」
モーティマーの言葉にキリエは小さく頷くと、再び咲き誇る花々を眺める。
「見事な薬草園ですね」
「……ここも私が作ったのよ。きちんと手入れをしてもらっていて、安心したわ」
声の調子が沈みがちなキリエを、モーティマーは心配そうに見つめる。キリエは息をつくと、賑やかな中庭を眺める。
「……ロンディニウムの祭を思い出すわ」
「陛下が幼い頃に過ごされた村でございますね」
「あそこはもっと田舎だったけれど……。祭の時しか村へは行けなかったから……」
寂しげに呟くキリエに、モーティマーは哀しげに目を細めた。そして、わずかに身を乗り出すとおずおずと呼びかける。
「……陛下。毎年、収穫祭の季節に菓子が届けられませんでしたか?」
キリエははっと振り返る。
「……ええ、届いていたわ。毎年、聖アルビオン大聖堂からプディングが……」
モーティマーは微笑を浮かべた。
「それは……、聖アルビオンではなく、王宮からだったのですよ」
キリエは思わず口許を手で覆った。眉をひそめ、無言で見つめてくるキリエに、モーティマーは声を低めて囁いた。
「私が、毎年持参していました。先王陛下の命で」
動揺したキリエは秘書官に背を向け、思わず両肩を抱いた。毎年、収穫祭の時期になると聖アルビオン大聖堂から届けられていた大きなプディング。木の実がぎっしり詰められた甘いプディングは、普段質素な暮らしを送っていたキリエにとっては何にも勝る贈り物だった。それは、どの教会にも送られてくるものだと信じきっていたのだ。
「……毎年、収穫祭の季節にここを訪れ、陛下のご成長の様子を先王陛下に報告しておりました」
モーティマーの穏やかな声が胸に染み込んでゆく。あのプディングは、父から? キリエの胸は激しく掻き乱された。女王に即位してから、少しずつ明らかになる父の愛情。信じたくない。だが、自分が愛されていたという事実は、否定したくない。
「……サー・ロバート」
震える声で名を呼ばれ、モーティマーは静かに歩み寄った。
「……母は、父を、愛していたの?」
「ええ」
彼はきっぱりと答えた。
「数奇な運命に翻弄されたことは否めません。ですが、レディ・ケイナは先王陛下に愛され、また、愛しておられたと信じています」
そして、遠慮がちに付け加える。
「……ご両親に愛されてお育ちになられた陛下は、きっと幸せな結婚生活を築けるものと、信じております」
その言葉にキリエが思わず振り返り、モーティマーは慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません。言葉が過ぎました」
「……いいのよ」
恐る恐る顔を上げると、キリエは寂しそうな笑顔で見つめてきた。
「……ありがとう。あなただったのね、あのプディングを持ってきてくれていたのは」
モーティマーは恐縮して再び頭を垂れる。キリエは表情を明るくすると問いかけた。
「サー・ロバート、あなたは結婚されていたかしら?」
「いえ、独り身です」
わずかに苦笑しながら答えるモーティマーに、キリエが微笑む。
「どうして? あなたみたいに素敵な方なら、人気者でしょうに」
「そんなことはございませんよ。色々ありまして……、気づけば未だに独りです」
モーティマーがエドガーに仕えていた頃は、今のジュビリーのように近づいてくる女性が多かった。それは彼が王のお気に入りだったためで、モーティマーはそんな女たちには目もくれなかった。だが、逆に彼が好意を持った女性は大抵逃げていってしまった。モーティマーの妻になれば、好色な王に狙われるに違いないと恐れたのである。それ故、彼は未だに独身だ。だが、今のモーティマーは女王直属の主席秘書官という身分ではあるが、その実態は危険な任務が伴う密偵だ。キリエがガリアへ嫁げば、彼女以上に両国を往復する日々になろう。それを考えると、身を固めようという気は起こらない。
「好きな人もいらっしゃらないの?」
「おりません。陛下にお仕えすることで頭が一杯でございます」
「もったいないわ」
女王の言葉に、モーティマーが思わず苦笑する。キリエはゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。
「……あと十二日……」
モーティマーは眉をひそめて体を屈める。
「ガリアへ出発するまで、あと十二日……。明日には、イングレスへ戻らないと……」
キリエの憂鬱そうな呟きに、モーティマーも沈んだ表情になる。
「……帰りたくないわ」
「……陛下」
モーティマーはおずおずと呼びかけた。
「せっかくクレドへお戻りになられたのですから、皆様と楽しい一時を過ごされては……」
「……そうね」
しばらくその場にしゃがみ込んだままのキリエだったが、やがて溜息をつくとすっと立ち上がった。
「ダンスが始まっているわ」
無理やり笑顔を作るとキリエが振り返る。
「ええ。参りましょう」
中庭へ戻ると、サークルダンスが始まっていた。男女に分かれた列が、次々と相手を変えて踊るもので、こういった結婚式や祭では定番のダンスである。王宮の廷臣から召使いに至るまで、貴賤入り乱れて踊るのが特徴だ。あちこちで懐かしい顔ぶれが踊りに興じている。
「踊りましょう、サー・ロバート」
キリエの明るい声に、モーティマーは優雅に腰を屈めると一礼した。
「私でよければ」
踊りの列に加わると、二人は軽やかにステップを踏む。どこか滑稽な動きのサークルダンスにキリエの表情が和らぐ。二人の手が離れ、くるりと優雅に回ると、キリエの手は別のパートナーに変わった。
「レスター!」
「お帰りなさいませ」
ステップを踏みながら、レスターがほっとした顔つきで囁く。
「薬草園に?」
「……ええ」
キリエは小さく頷くと、話題を変えるように身を乗り出す。
「さっき、あなたの奥様とお嬢様を見かけたわ」
「久しぶりに会いました」
レスターは大袈裟に顔をしかめてぼやいた。
「妻の方は、しばらく見ない内にずいぶんと太っておりましたよ」
「あら、そんなこと……」
キリエが笑いながらステップを踏むと、彼女の手を別の手が掴んだ。
「キリエ様!」
「ジョン!」
相手に気づくと、キリエは思わずジョンに抱きついた。
「おめでとう! 本当に……、良かったわ、おめでとう!」
「ありがとうございます」
すでに何杯ものワインを飲まされているのだろう。赤ら顔のジョンは満面の笑みで礼を述べる。キリエは遠くで踊っているマリーを眺めた。
「今日のマリーは本当に綺麗ね」
「本当に……、夢の、ようですよ」
「ジョン、呂律が回ってないわ」
二人は明るい笑い声を上げてステップを踏み、くるりくるりと体を翻す。
「キリエ様」
真顔で呼びかけられ、キリエはステップを踏みながら首を傾げる。
「何?」
「義兄上は……、キリエ様を……」
「何、聞こえないわ」
キリエが眉をひそめて聞き返すが、体を回すと次のパートナーが手を取り、ジョンの声は届かなかった。
「光栄です、女王陛下」
「ハーバート」
普段、ジュビリーの留守を預かる城代家令のハーバートはマリーやジョンを幼い頃から知っており、感慨深げな表情でキリエの手を取った。
「レディ・マリーエレンとグローリア伯がこうしてご成婚されて、一安心でございます」
「本当ね。ずいぶん時間がかかってしまったけれど、良かったわ」
「ええ」
キリエは声を落とすと囁いた。
「これからもクレドを……、ジュビリーの留守をお願い」
「はい」
ハーバートが顔の表情を引き締めて答える。そうして二人がくるりと体を離し、次のパートナーが手を握った瞬間。
「……!」
キリエはびくりと体を震わすとその場に立ち尽くした。見上げると、握った相手も息を呑んで見つめてくる。
「……ジュビリー……」
二人が思わず黙り込んで見つめ合っていると、「止まらないで!」と声が投げかけられる。ぎこちない動きで再びステップを踏むが、キリエは俯いたままだ。
「……キリエ」
喧噪の中、ジュビリーの声が聞こえるが、キリエはぎゅっと手を握り締めることしかできなかった。
この手を、間違えるはずがなかった。いつもこの手と共に困難をくぐり抜けてきた。この手が自分を守ってくれたのだ。離したくない……! すると、踊りを続けながらジュビリーはそっと手を握り返してきた。恐る恐る顔を上げると、彼は眉をひそめ、表現しがたい表情で見つめてきた。結局、二人はろくに会話も交わさないまま、それぞれ別のパートナーに変わった。キリエがそっと首を巡らすと、ジュビリーもこちらを見つめてくる。キリエはこみ上げてくる涙を堪えながら、最後までダンスを踊り続けた。
その日の晩餐は、華やかな祝賀会が催された。ダンスや演奏だけでなく、イングレスから招かれた劇団による演劇も催され、昼の宴以上に盛り上がっていた。宮廷の廷臣たちも今夜は皆表情を和らげ、冗談を飛ばし合い、杯を打ち鳴らしては飲み干している。
「陛下、ご気分は?」
キリエの背後からモーティマーがそっと尋ねる。いつもはジュビリーがいつの間にか側へ来て体調を気遣っていたが、今夜ばかりはバートランド家の人間は忙しい。レスターも久しぶりに家族との時間を楽しんでいる。
「大丈夫よ。ありがとう」
昼の祝宴では葡萄の果汁ばかり飲んでいたキリエだが、晩餐ではさすがにワインを口にしていたため、少し目の周りが赤い。
「私なら大丈夫。こんな所にいないで、素敵な女性を探しに行ったらどう?」
「ご冗談を」
苦笑いを浮かべるモーティマーに、キリエがくすくすと笑う。そして、夢見心地な表情で大広間を見渡す。
「去年……、ここで、皆が誕生日を祝ってくれたの」
嬉しそうな表情で呟くキリエに、モーティマーも穏やかな表情で耳を傾ける。
「私、自分に誕生日なんかないと思っていたから……、とっても嬉しかったわ」
「ご生誕日を……、ご存知なかったのですか」
「だって、私はずっと孤児だと教えられてきたんだもの。だから、聖ロンディニウムの祝祭日を誕生日の代わりに祝ってきたの」
キリエは、誕生日の時の光景が今目の前の祝賀会と重なって見え、思わず声を詰まらせた。家臣も召使いも、皆心から祝ってくれた。そして、ジュビリーは苦手なダンスに付き合ってくれた。あの頃に戻れたら……。瞳がシャンデリアの灯りに揺れる。モーティマーは、キリエが昼間に漏らした「イングレスに帰りたくない」という言葉を思い出し、思い詰めた表情で囁く。
「明日……、滞在時間を延長できるよう調整いたしましょう」
だが、キリエは寂しげに微笑むと顔を振った。
「……迷惑はかけたくないわ」
「しかし……」
「心配かけてごめんなさい」
キリエはいつも廷臣の言うことに文句も言わずに耳を傾けてきた。聞き分けが良いだけにいじらしい女王を、モーティマーは気の毒そうに見つめた。
宴もたけなわに差し掛かった頃、気づけばジュビリーの姿が消えていた。彼は、大広間から張り出したバルコニーで一人夜風に当たっていた。
ワインを満たしたゴブレットを手にしたまま、ぼんやりと星空を見上げる。背後からは宴に興じる酔客の声が漏れ聞こえてくる。今までずっと自分を支えてくれた妹が、明日からは別の人間を支えていくと思うと、誇らしい気持ちになると同時に、一抹の寂しさを感じる。
(もっと……、早くこの日が来るべきだったのだ)
ジュビリーは自分に言い聞かせた。二人が互いに好意を持っていることは、さすがのジュビリーでもずっと前から知っていた。それでも、マリーは自分を支え続けてくれた。ジョンも、気持ちを押し隠して自分に仕えてくれた。二人にずっと甘えてきたのだ。そう思うと自分がたまらなく情けなく思えてきた。エレオノールを失ってから、復讐を成し遂げるために周囲の人間をいいように振り回し続けてきた。脳裏に、昼間のダンスが思い出された。泣き出しそうに思い詰めた表情のキリエの顔が忘れられなかった。自分の私怨のために、穏やかな教会から連れ出されたキリエは、海を隔てた異国へ嫁いでゆく。運命は、自分たちをどこまで連れていくのか……。
「兄上……」
突然声をかけられ、ジュビリーは飛び上がって振り返った。そこには、艶やかな赤いドレスを身にまとったマリーが微笑んでいた。
「良いのか、花嫁がこんな所へ来て」
「兄上こそ、こんな所にお一人でいてはいけませんわ」
マリーはそう言って兄の側へ寄り添うと、そっと腕を組んできた。
「……今までありがとう、兄上」
この短い言葉が、こんなに胸にこみ上げてくるとは思わなかったジュビリーは、しばらく黙り込んだ。
「……ジョンから聞きました。キリエ様のことはお任せ下さい。私は女官長として、一生かけてお仕えいたします」
ジュビリーはバルコニーの手摺りにゴブレットを置くと、妹の手を上からそっと包み込んだ。
「……おまえには苦労をかけたし、これからもかける。……すまん」
兄の呟きに、マリーは穏やかに微笑んでみせる。
「私は幸せですわ。こうして、たくさんの人に祝福されて、愛する人と結婚できたのですから」
そして、彼女は居住まいを正すと兄を見上げた。
「私、兄上にお約束します」
「何だ」
「子どもをたくさん生むわ。その一人は、兄上の養子に……」
「子など生まなくていい!」
突然怒鳴られ、マリーの体がびくりと跳ねる。口許を歪めて凝視してくる兄に、マリーは哀しそうに顔を振る。
「……そうはいかないわ」
涙の混じる声にジュビリーは思わず顔を逸らす。
「私は……、ジョンの子どもが欲しい。それに、バートランド家はどうなるの」
「……おまえは、ジョンのために健康な子を無事に生むことだけを考えればいい……!」
身篭った子と共に妻を失った兄は、子を生むことに異常な恐怖を感じている。そのことにマリーはやるせなさで胸が張り裂けそうだった。
「……兄上」
マリーは顔を歪め、兄の手をぎゅっと握り締める。
「ずっと……、お一人でいらっしゃるおつもり?」
項垂れたジュビリーは沈黙を守っている。
「兄上は一人でいることを選べるけれど……、キリエ様はそうじゃないわ」
妹の言葉はジュビリーの胸を刺した。
「私は……、キリエ様がお可哀想でなりません……。ギョーム王はキリエ様に好意を持って王妃に迎えようとなさっているけれど、キリエ様は……、アングルのために嫁いでいこうとなさっている」
「……マリー」
彼女は声を低めて囁いた。
「何より……、兄上と引き離されることを悲しんでいらっしゃるわ」
「……キリエはアングルの女王だ。アングルをずっと離れるわけではない」
「兄上」
マリーの鋭い声に顔を上げる。彼女はまっすぐに視線を投げかけてきた。
「そうやって、いつまでご自分の心から目を逸らすおつもりです?」
その眼差しは、逸らすことができないほど強く訴えかけてきた。
「きっと……、後悔なさるわ」
ジュビリーは、マリーのその言葉がいつまでも頭から離れなかった。
長い一日が終わり、誰もが飲み疲れ、騒ぎ疲れ、クレド城はあの喧噪が幻だったかのように静寂に包まれた。
少しの間うとうとしたものの、キリエは真夜中に目を覚まして起き上がった。そっと夜具から抜け出すと、部屋に掲げられた地図を見上げる。二年前、この地図を見て城を飛び出したのが遠い昔のことのように思われる。この部屋にいると様々なことが思い出され、キリエは益々目を冴え渡らせた。ワインの酔いもすっかり醒め、彼女はガウンを羽織ると部屋を忍び出た。明日にはイングレスに戻らねばならない。そう思うと、ゆっくり眠るのがもったいない気がしたのだ。
石造りの廊下には、相変わらず小さなランプが等間隔で吊り下げられ、ぼんやりと絨毯を照らしている。大階段まで来るとキリエは立ち止まった。以前はよくこうして夜中に部屋を抜け出し、ジュビリーの書斎を訪れたものだ。だが、今夜は行けない。行ったところで、彼は部屋に入れてはくれないだろう。キリエは大階段をそろそろと音も立てずに降りた。
キリエは渡り廊下を伝って礼拝堂に向かった。中庭からは夏の虫の音が聞こえる。初夏の夜はまだ肌寒い。キリエは思わずガウンの裾を前でかき合わせ、中庭を仰ぎ見た。灯りのない中庭は黒々とした闇が続いている。そこから、ほのかな薔薇の香りがゆるい風と共に運ばれてくる。思わず渡り廊下から中庭へ足を踏み出す。
このまま、ここから逃げ出してしまおうか。そんな思いがぼんやりと頭をもたげる。誰にも気づかれぬまま、誰も知らない場所へ。
だが、キリエは背筋を震わせた。ギョームがエスタドのフアナ王太女との縁談を蹴ったため、両国の緊張は一気に高まり、その時の確執は今でも続いている。自分が今、姿を消せばアングルはどうなるのだ。キリエは顔を歪めると闇に背を向けた。
礼拝堂に向かうと、夜でも祈りを捧げる信徒のために常夜灯が灯されていた。昼間、ジョンとマリーエレンが結婚式を挙げた礼拝堂は今ではがらんと寒々しい空間になっている。扉を開けたままキリエは中へ入ると祭壇に向かった。
ロンディニウム教会で暮らしていた頃は、世界といえば教会が全てだった。祭壇は世界で最も聖なる場所。信仰こそキリエの人生の全てだった。修道女として最後まで生きることが彼女の願いであり、当然そうなるはずであった。それが、突然人生に群雲が覆い、嵐が彼女を教会から連れ去った。祭壇の
過去を振り返ってはならない。戻りたくても、戻れないのだから。考えてはならない。後悔してはならない。疑ってはならない。教会を出たのは、ジュビリーが迎えにきたからだ。だが、女王になると決めたのは自分だ。結婚を決めたのも、自分だ。だが、不安でたまらなかった。これから先、何が待っているのか全く予想もつかない。キリエは、心細さに身がすくむ思いで俯いた。
「……天よ」
そっと小さく呟く。
「私をお守り下さいませ……。修道誓願を破り、人の妻となる私を……、どうかお許し下さい……」
天は、許して下さるだろうか。国のためとは言え、誓いを破る自分を……。エヴァの言葉が胸に蘇る。
「私が嫁ぐことで、皆が幸せになるなら……」
(……私も一緒だわ。世界が平和になるなら……、皆が幸せになるなら……)
キリエはそっと顔を上げ、再び祈りの言葉を口にしようとした時。革靴が軋む音が響き、彼女は短い悲鳴を上げて振り返った。
薄暗がりに立つ人物を、常夜灯の淡い明かりがぼんやりと浮かび上がらせる。そこには、ショールを手にしたジュビリーが一人佇んでいた。いつからいたのだろう。キリエはまだ治まらない波打つ胸を押さえ、怯えたように彼をじっと見つめた。いつぶりだろう。こうして、二人きりで眼差しを交わすのは。ジュビリーはいつもと変わらない、眉間に皺を寄せた表情でそっと歩み寄った。
「……体を大事にしろ」
そう呟いて手にしたショールを差し出すが、キリエは顔を歪めて後ずさった。
「……大事なのは、女王? それとも、王妃?」
「……やめろ」
キリエの囁きにジュビリーは苦い表情で呟く。なおも歩み寄ろうとするジュビリーを見上げ、キリエは顔を振って拒む。
「……あなたにとって……、私は何だったの……?」
突然投げかけられた問いにジュビリーは体を硬直させた。
「あなたにとって……、私はやっぱり、ただの王位継承者だったの?」
「違う」
どこか必死な顔付きで訴えかけてくるキリエに、ジュビリーは強い声色で言い切った。だが、キリエは肩を震わせて俯いた。
「……私にとってあなたは……、家族だったのに」
消え入りそうなキリエの声に、ジュビリーは口をつぐんだ。
「かけがえのない……、大事な家族……」
「……キリエ」
「家族なら、ずっと一緒にいられる。側にいられる。ずっと変わらないと思ってた。でも、変わったのは、私」
二人の背後から夜風が忍び寄る。揺れる灯火がキリエの苦しげな横顔を舐めるように照らす。
「……あなたと一緒にいたい。あなたの側にいたい。あなたを離したくない。あなたを……、誰にも渡したくない……! そんな風に……、変わっていく自分が怖くて……」
自らの肩を抱き、俯きながら囁くキリエに、ジュビリーはもうずいぶん前に忘れたはずの痛みに襲われた。
「……エヴァが、教えてくれたの。これが、恋だって。私は……、あなたに、恋をした」
ジュビリーは目を細めた。何よりも修道女であることに誇りを持っているキリエが、罪悪として戒められている恋という言葉を口にすることがどんな意味を持つのか。彼は胸に重たいものを感じて拳を握り締めた。
「でも……!」
涙混じりにキリエが声を上げる。
「私は修道女……。私から信仰を取ったら、何が残るの? 何も、残らないわ……!」
「キリエ」
声を高めるキリエの肩に手をかけるが、彼女は体を固くして振り払う。
「離して……!」
キリエは目に涙を溜め、肩を震わせながら見上げてくる。
「……もう、あなたは側にいてはくれない」
固い声色で投げつけられる言葉にジュビリーはその場に立ち尽くした。
「手を伸ばしても、あなたはもう、いない。私を守ってくれるあなたの手は、もう、ないんだから……!」
ジュビリーの手からショールが落とされる。と、思うと彼は強引にキリエを抱き寄せた。
「離して……!」
なおも拒むキリエだったが、ジュビリーは黙ったまま抱きしめた。
大きな温かい手がキリエの髪を、背中を、ゆっくり撫でてゆく。これまで、何度こうして抱きしめられただろう。孤独な時、絶望した時、いつも隣で支えてくれたジュビリー。温かい言葉をかけるでもなく、優しく接してくれるわけでもない。ただ黙って、しかし、体を張って自分を守ってくれた。もう、この手で抱きしめられることはない。そう思うと胸が張り裂けそうだった。
胴着を通して伝わる体温。耳元には、ジュビリーの押し殺した吐息が聞こえる。彼は、小刻みに震えるキリエの肩を撫でると腕をゆるめ、耳元で低く呟いた。
「……キリエ」
涙を浮かべた瞳を瞬かせる。
「……目を閉じろ」
わずかに眉をひそめ、言われるままに彼女は恐る恐る目を閉じた。愛おしげに髪を撫でていた手が離れ、頬を包む。と、キリエは不意に唇を塞がれた。
「やっ……!」
思いがけない感触にキリエは悲鳴を上げた。怯えた目で見上げてくる彼女を、ジュビリーは目を細めて見つめた。
「……目を、閉じろ」
ジュビリーは頬を撫でながらもう一度囁いた。しばらく黙ったまま見つめていたキリエは、震えながら再び瞳を閉じた。ジュビリーはゆっくり唇を寄せていった。
再び触れた唇の感触に頭が真っ白に弾ける。やがて全身に波のように衝撃が押し寄せる。彼女が嫌がる素振りを見せないことを確認するように、ジュビリーはゆっくりと唇を重ねた。胸を締め付ける衝動。熱い唇。キリエはジュビリーの胴着をぎゅうと握りしめた。頬を撫でていた手が離れ、キリエの手に重ねられる。
初めての口付け。キリエの眦から涙がこぼれ落ち、ジュビリーの頬を濡らす。涙は後から後からこぼれ落ちたが、彼はキリエを離そうとしなかった。