結婚の儀が終わると若い王と幼い王妃は手を取り合い、祝福の声が飛び交う中、ゆっくりと拝廊へと向かった。拝廊のアーチの向こう側では、大広場に詰め掛けた国民が大歓声を上げて待ち構えている。思わず足元を震わせるキリエの耳元でギョームが囁く。
「慌てないでいい。ゆっくり」
「……はい」
相変わらず優しい気遣いを見せるギョームだったが、キリエの表情はまだ強張っていた。結婚の儀という大舞台は終わったが、これから先の不安が大きく膨れ上がっている。不安の種は夜の〈見届け〉だ。晩餐会が終わった後、床入りの様子を見られると思うと、結婚の儀よりも憂鬱だった。
「無事に終わって良かったわ」
王と王妃の後に続きながら、ほっとした表情で語るロベルタに夫のシャルルも黙って頷く。が、すぐ背後から鋭い声が投げかけられる。
「これからが大事でございますわ。たった今から、ガリア王妃としての精進が始まるのですよ」
ルイーズ・ヴァン=ダールだ。ロベルタは美しい眉をひそめ、きっと女官長を振り返った。
「おまえはそうやってまた、異国から嫁いだ妃を苛めるつもりなの」
「まぁ、苛めるですって?」
「よせ」
かっとなって身を乗り出そうとする妻をシャルルが制する。そして、納得できないといった顔付きのロベルタをなだめるように肩を撫でる。だが、ルイーズは意に介さない様子で相変わらず取り澄ました顔のまま踵を返す。その後姿をロベルタは苦々しげに見送った。
一方、ジュビリーは二人の姿を見失わぬよう人波を掻き分けて追いかけていた。式の直前に現れた亡妻の警告を、どうしても無視することができなかったのだ。
大聖堂の
「見てごらん、キリエ」
まだぎこちないながらもギョームは妻に呼びかけた。
「皆がこんなにも私たちの結婚を祝ってくれている」
「……はい」
あまりの熱狂ぶりに、キリエは恐怖を感じながらも大広場を見渡した。ギョームが晴れやかな笑顔で民衆に応えて手を振る。夫に促され、キリエも手を振ると皆喜びの声を上げた。その背後で、ようやく追いついたジュビリーが二人の後姿を見守る。油断なく辺りに目を配るが、周りは近衛兵が厳重に守りを固めている。
「まずは無事に終わりましたね」
そう声をかけてきたのは、護衛のために大主教に随行した神聖ヴァイス・クロイツ騎士団のヨハン・ヘルツォークだった。
「初めてキリエ女王陛下にお会いした時を思い出しましたよ。何とも感慨深いものがございます」
「ああ……」
自分の言葉など耳に入らない様子の宰相にヘルツォークは首を傾げた。
「いかがなさいました」
「式はまだ終わってはいない。ビジュー宮殿に入城するまでは気を抜けん」
「仰せの通り」
ジュビリーの言葉に騎士団長は表情を引き締めた。そして、改めて大広場を見渡す。ファサードには神聖ヴァイス・クロイツ騎士団とガリア騎士団の騎士らが整然と並んでいる。ガリアにとってもエスタドやユヴェーレンと緊迫した時期での挙式のため、警備体制は万全のはず。だが……。ジュビリーは目を眇めて王と王妃を見つめた。
ギョームは一年越しの恋を実らせ、ようやくキリエを妃に迎えられたことが嬉しくてたまらない様子だった。幸せに満ちた笑顔にキリエもようやく顔をほころばせた。彼の笑顔は確かに惹かれるものがある。これからは夫婦として長い時を共に過ごすのだ。ならば、この身を彼に委ねた方が良いに決まっている……。キリエは決心したように彼の手をぎゅっと握りしめた。ギョームはますます嬉しそうに微笑んだ――、その時。
不意に、ズシン!という地響きが起こるとぎょっとして群衆が静まり返る。
「何……!」
キリエが怯えた声を上げ、思わずギョームの腕にしがみつく。と、再び二度三度と地響きが続き、大広場に集まった群衆は大混乱に陥った。
「大砲ッ……!」
ギョームがキリエの肩を抱いて口走った瞬間、一際大きな轟音が響き渡り、皆が悲鳴を上げてその場に伏せる。その時、ジュビリーの目がオルリーンの街に上がる火の手と煙を捉えた。
「……あれは……!」
「猊下を安全な場所へ……!」
片膝を突き、立ち上がろうとしたヘルツォークが配下の者へ叫ぶ。
「何事だ!」
騒然とする中、バラが慌てて聖堂の高台を駆け上がる。その一方、守りを固める近衛兵たちを不意に殴り倒すと階段を駆け上がる数人の男たちがいた。彼らは王と王妃に向かってマントを跳ね上げ、その手を突き出し――、
(クロスボウ!)
考える時間などなかった。
「陛下ッ!」
ジュビリーは二人に向かって組み付いた。瞬間、男たちの腕から鋭い矢が放たれ、キリエらの後ろにいた司教や侍祭に撃ち込まれる。
「いやあぁッ!」
キリエの絶叫が晴れ上がったオルリーンの空に響き渡る。群衆が悲鳴を上げる中、長剣を抜き放ったヘルツォークが賊を斬り捨てる。
倒れた衝撃で一瞬気が遠くなったギョームが顔を歪めて起き上がる。と、ぎょっとして動きを止める。キリエの衣装が真っ赤に染まっている。
「き……、キリエ!」
思わず妻を抱き起こすが、顔面蒼白の彼女の傍らに倒れているジュビリーの姿が目に入る。胴衣からは夥しい鮮血が滴り落ちている。
「クレド侯!」
王の呼びかけに、ジュビリーは歯を食いしばって囁く。
「……お怪我は……」
クロスボウの矢がジュビリーの右腕を貫通し、胴衣の肩の部分も裂いている。痛みを堪えるジュビリーに向かってギョームが叫ぶ。
「予は大丈夫だッ! キリエ……!」
キリエは顔を引きつらせ、がたがたと震えたまま寵臣を凝視している。
「キリエ! 怪我はないかッ!」
ギョームの呼びかけも耳に入らないキリエは、視線の先で司教たちが血を流して倒れているのを目にしてますます狂乱に陥った。
「あ……、あああ……! あああッ……!」
「落ち着け!」
ギョームはキリエの肩から背中を撫でて外傷がないことを確認すると立ち上がり、高台を駆け上がった。
「何があった!」
見晴らしの良い高台では、バラが衛兵に向かって矢継ぎ早に指示を出している。街のあちこちで火の手が上がっているのを目の当たりにし、ギョームは奥歯を噛みしめた。
「バラ……!」
「陛下!」
バラがオルリーン郊外に向かって指さす。そこには、武装した集団が王都オイールに向かっているのが見える。
「どこの手の者だ……!」
「それが……、報告によると……」
バラが険しい顔つきで若い王を見つめる。
「〈白百合〉の紋章旗を掲げているそうです……!」
ギョームは目を見開き、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……父上……?」
「フラン城にも部隊を派遣します」
「放っておけッ!」
途端にギョームが吐き捨てる。
「それよりも、オイールに向かっている賊を討つのが先決だ! 予が行く……!」
「陛下が?」
「絶対に許さん……!」
ギョームが短く口走った言葉にバラは息を呑んだ。ギョームが階段を駆け降りると、キリエがジュビリーにすがりついて泣き叫んでいる。
「ジュビリー……! ジュビリー……! ああ……!」
「キリエ!」
妻に駆け寄るとギョームは両肩を掴んだ。
「落ち着いて聞いてくれ。私は賊軍を討ちに行く。そなたは王都に戻り、市民とビジュー宮殿を守ってくれ。それと、ムンディ大主教もだ」
「わ……、わ、私、が……?」
涙でくしゃくしゃになった顔で呆然と譫言のように呟く。
「そうだ。そなたはガリアの王妃だ。大丈夫、そなたならできる」
ギョームの力強い瞳で見つめられ、キリエは震えながらも小さく頷いた。
「……はい」
「頼むぞ」
そう呟くとギョームはキリエの頬に流れる涙を掌で拭い、唇を合わせた。
「……!」
突然の口付けに、キリエは体を硬直させた。ギョームの唇の感触すらわからない。だが、誓いのキスよりも長い口付けに、キリエの体からゆっくりと力が抜けていく。と、同時に少しずつ混乱も治まり、落ち着きを取り戻し始めた。そんな二人の様子を、顔を歪めたままジュビリーはじっと見つめた。そして、目を閉じると顔を背ける。やがて唇を離すと、ギョームは鼻が触れ合うほどの近さで囁いた。
「……行ってくるぞ。後を頼む」
短くぎゅっと抱きしめると立ち上がる。
「……ギョーム!」
思わず叫んだ言葉に、ギョームは微笑んで振り返った。
「行ってくる」
走り去る夫の後ろ姿を呆然と見つめていたキリエは、急に身震いをして辺りを見渡した。矢を受けた司教たちの中にはすでにまったく動かない者もいる。痛みに泣き叫ぶ侍祭の少年。斬り捨てられたマントの男たち。狂乱に陥った市民たちが大広場をもつれる足で逃げ去ってゆく。キリエが振り返ると、ジュビリーは思わず目を逸らして右腕の傷を押さえた。
「……ジュビリー!」
キリエは這うようにして側へ寄ると、ジュビリーの傷口を震える手で確認する。そして、胸当ての裾を飾っていたサッシュベルトを解くと肩口にきつく縛り付ける。
「キリエ……」
「矢は……、抜かないで……。医師に診せてからでないと……」
震えながら囁くキリエの元にバラが駆け寄る。
「王妃! 馬車をご用意いたしました。急いでビジュー宮殿へ!」
「私はいいわ!」
血と涙で汚れた顔でキリエが叫ぶ。
「馬車にはジュビリーと大主教を乗せて! 私は馬に乗れます!」
「しかし……」
「いいから! 早く!」
「……はッ!」
キリエの剣幕に圧倒されながらもバラはすぐさま身を翻して立ち去り、キリエは恐る恐る立ち上がった。聖オルリーン大聖堂は恐怖と混乱に支配され、悲鳴と怒号が飛び交っている。体を震わせ、目の前に広がる惨状を見つめる。
「……どうして、こんなことに……」
キリエは呆然と呟いた。一体誰が、何のために……! 恐ろしさに体を震わせていると、聖堂からヘルツォークらに守られたムンディが現れる。
「キリエ……! 傷を負ったのか?」
血染めの衣装にムンディが思わず顔を青ざめさせるが、キリエは顔を振る。
「私の血ではありません。猊下こそお怪我は?」
「私は大丈夫だ。ギョームは?」
「鎮圧に向かいました。馬車をご用意いたしております。猊下もビジュー宮殿へ!」
「そなたは……」
ムンディの問いかけは、馬の嘶きでかき消された。バラが再び駆けつける。
「馬をご用意いたしました!」
「ヘルツォーク殿、皆を……、猊下とクレド侯をお願いします」
「承知いたしました」
こんな時でも沈着さを失わない騎士団長は力強く答える。
「アンジェ侯! 宮殿まで先導して!」
「はっ!」
走り出すバラを追いかけようとしたキリエが立ち止まり、蹲ったままのジュビリーの肩に手をかける。
「……もう少し我慢して……。すぐに手当をしてもらえるわ!」
キリエの言葉にジュビリーが青い顔で頷く。じっと互いの目を見つめ合うと、キリエは背を向けて走り去った。溜め込んだ息を荒々しく吐き出すジュビリーの傍らにヘルツォークが跪く。
「衛生兵を連れて参りましょう」
「……すまない」
一方、連れてこられた馬を見上げたキリエは短く呟いた。
「アンジェ侯、短剣を貸して」
「は?」
「早く」
バラが戸惑いながら差し出す短剣を手に取ると、キリエは衣装の長い裾を躊躇うことなく切り裂いた。息を呑むバラに短剣を返すと、キリエはさっと馬に跨り、彼が慌てて手を添える。アガサよりも一回り大きい白馬は、周囲の異様な雰囲気に興奮した様子だった。
「行きましょう!」
「はっ!」
バラが先に馬を走らせ、続いてキリエが馬の腹を蹴る。王妃の周りを近衛兵が数十騎従うと、一行は一路オイールへ向かった。
王都オイールはオルリーンにほど近かった。馬を走らせてから一時間もしないうちに、王都の街並みが見えてくる。
「王妃!」
前を行くバラが怒鳴り、遙か彼方を指で指し示す。キリエは手綱を握りしめたまま目を眇めた。都心付近からも煙が上がっている。賊はすでにオイールを攻撃しているのか。キリエはごくりと唾を飲み込んだ。
「先遣隊を送ります!」
バラがそう叫び、近衛兵に指示を下す。近衛兵の一群が騎馬の速度を上げ、街へと向かう。
王都は襲撃されてはいたものの、未だ侵入を拒んでいた。キリエ一行の後に続いた王軍が時を待たずに合流し、賊軍は間もなく鎮圧された。キリエたちは開放された王都へと乗り入れた。
「道を開けろ!」
バラや近衛兵の呼びかけに市民たちが驚いて道を開け、そして唖然となる。裾が破れた血染めの衣装を身にまとった少女が白馬を操っている。頭上に輝く宝冠を目にし、市民たちが騒ぎ始めた。
「……王妃様?」
「アングルの……、キリエ女王……!」
混乱の喧騒が驚きのざわめきへと変わる。市民の声に応えるように、キリエは手綱を引いて馬を止めた。
「皆、落ち着いて!」
慣れないながらもガリア語で叫ぶ。
「城門を閉めなさい! 女子どもは家から出ぬよう!」
市民らは目を見開き、白馬に跨る少女を凝視する。
「皆でオイールを守るのです! 賊は王が駆逐します! 王がお帰りになるまで……、王都は我々で守るのです!」
それまで恐怖に打ち震えていた市民らは、幼い少女の呼びかけに歓声を上げた。
「王妃!」
バラの呼びかけで、キリエは再び馬を走らせた。やがて大通りの先に壮麗な宮殿が見えてくる。ビジュー宮殿。マリーエレンから聞いていたとおり、イングレスのプレセア宮殿よりも広大で豪華絢爛な宮殿だ。王妃の一行は宮殿に乗り込むと、すぐさまアプローチから大広間へ向かう。
「医師を待機させなさい! それから、聖職者も! 彼らは医療の知識があるわ!」
キリエの呼びかけに応じ、宮殿の侍従たちが四方へ散ってゆく。
「戦いが終われば、負傷者で人が溢れ返るわ。今のうちに準備を」
「はっ」
バラが側近たちに指示を出し、更に付け加える。
「各地の国境警備隊に早馬を送り、警戒を怠るなと伝えろ! 特にエスタドとユヴェーレンとの国境は厳戒態勢を崩すな!」
その言葉を耳にしてキリエははっとする。アングルは島国のため、海上に睨みを利かすことが侵略を防ぐ策だった。だが、ここは大陸だ。エスタド、ユヴェーレン、ポルトゥス、カンパニュラと接したガリアは、いつどこから侵略者が現れるか予想がつかない。カンパニュラやポルトゥスと同盟を結んでいるにしろ、何が起こるかわからない。
そこでキリエはにわかに背筋が寒くなった。賊はどこから現れたのだ? エスタドから? それとも、ガリア国内の者なのか? ギョームはどこまで賊を追跡したのだろう。
「……アンジェ侯」
ガリアの宰相は、王妃の震えた声に振り返った。キリエは我に返ったように恐怖に身を竦めて立ち尽くしている。
「……ギョームは……」
「ご心配なく」
バラが幼い王妃を安心させるよう言い含める。
「国王陛下直属の近衛騎士団と共にご出陣なさいました。すぐに謀反を鎮圧されるでしょう」
「……謀反?」
何気ないバラの言葉にキリエが眉をひそめる。
「賊は……、国内の反逆者なの?」
キリエの指摘にバラは内心ぎくりとするが、顔には出さずに答える。
「もちろんまだわかりませぬ。今は鎮圧に全力を注ぎましょう」
「……そうね。そうだわ」
納得した様子でキリエが頷き、息をつく。そんな王妃を見つめ、バラは賊の背後にリシャールが関わっているらしいことはまだ言わない方がよいだろうと、口をつぐんだ。と、その時、キリエが唐突に後ろへ倒れかかり、慌ててバラが抱き止める。
「王妃!」
「ご、ごめんなさい……。少し、目眩がしただけ……」
バラが侍従に向かって王妃の寝室を整えるよう命じるが、キリエが顔を振る。
「駄目よ……。こんな時に、私だけ休めないわ」
「何かあってからでは遅うございます。まずはお召し物をお着替えなされて……」
言われて自分の姿を改めて見直すと、思わず口元を手で覆う。衣装は無惨に破れ、血と泥で汚れている。その上、先ほどまでは芳しい香油の香りが漂っていたはずなのに、今では硝煙と血の匂いでむせ返るほどだ。キリエはその時初めて涙がこみ上げてきた。望んでいた結婚ではなかったがそれでも、式を滅茶苦茶にされ、輝くばかりの純白の結婚衣装は汚れに塗れ、さすがに自分が惨めでならなかった。両手で顔を覆い、溢れる涙が止まらない王妃を女官が衣装部屋へ連れてゆく。
衣装部屋では、女官が数人がかりで着替えを手伝った。ビジュー宮殿の女官たちは黙って王妃の汚れた衣装を脱がし、新しい衣装をゆっくり着付けてゆく。クレド城の侍女たちは皆明るく朗らかだったのが思い出され、キリエは急に寂しさに襲われた。気づけばマリーもジョンも、レスターやモーティマーすら側にいない。皆無事だろうか。ジュビリーは手当てをしてもらったのだろうか。着替えが終わる頃、外が騒がしくなったと思うと扉が激しく叩かれる。
「王妃! ご無事でございましたか!」
扉が開け放たれると、多くの女官を伴ったルイーズが衣装部屋に飛び込んでくる。その後にはロベルタの姿も見える。
「大丈夫よ。あなたこそ怪我は」
「ありません。……おいたわしや、まさか、まさか、こんな……」
さすがに取り乱した様子のルイーズにキリエがそっと肩を撫でる。
「私は大丈夫。ギョームがいない王都は私たちが守らなければ」
予想もしていないキリエの冷静な言葉にルイーズが目を見開く。
「アンジェ侯は? どこかしら。宮殿を開放して負傷した市民の救護に当てましょう」
「宮殿を?」
ルイーズが甲高い声を上げるがキリエは毅然とした表情で頷く。
「非常事態よ。市民を守らないと」
「しかし、宮殿には機密も……」
「およし、ルイーズ」
背後からロベルタが鋭い声を上げる。
「王妃の命令よ、従いなさい」
その言葉にルイーズは不服げに振り返るが、キリエが間に割って入る。
「もちろん、宮廷侍従長の指示に従うわ。宮殿を危険に晒すわけにはいかないもの。侍従長はどこ」
女官の報せでビジュー宮殿侍従長ペール伯がやってくる。
「王妃、ご無事で何よりでございます。宮廷侍従長、ペール伯にございます」
「宮殿を開放して市民の救護をお願いします。できますね」
「はっ」
「状況は? ギョームが心配だわ……」
衣装部屋を後にするとざわめきが響いてくる。キリエは胸騒ぎを感じながら小走りで大廊下へ向かう。
「キリエ……」
「猊下!」
大廊下にはオルリーンから逃れてきた一行が到着していた。疲れた表情のムンディを目にするや、キリエは駆け寄ると両手を握りしめる。
「ご無事で何よりです! お疲れでしょう……!」
「私は大丈夫だ。それより……」
顔を歪めたムンディの目が涙で光る。彼は法衣を広げ、キリエを抱きしめた。
「哀れな……、なんて哀れな子だ……! 晴れ舞台がこのようなことになるとは……!」
「……猊下……」
思いも寄らなかった言葉に、キリエは胸を突かれた。そして、涙を堪えて大主教の胸にすがりつく。二人の様子を目の当たりにした女官や侍従たちも思わず黙り込み、中には目頭を押さえる者もいる。だが、その場に現れたバラはひとり冷ややかな目を向けた。
(……演出がお上手でございますな、大主教猊下)
強固な同盟を結ぶための政略結婚とはいえ、宮廷にはキリエのことをアングル王の妾腹だと蔑視する者も多い。だが、ムンディのこの言動によって、キリエは数奇な運命に翻弄された悲劇の少女となった。彼女はまさしく、ギョームが呼ぶように「天使」の如く扱われることになるだろう。
「……私は、大丈夫です」
震える声でキリエが囁き、バラを振り返る。
「アンジェ侯、猊下に休んでいただくよう……」
「はっ」
ちょうどその時、「陛下!」と声が上がる。キリエが振り返ると、ごった返す人々の隙間を縫ってモーティマーが駆け寄ってくる。
「サー・ロバート!」
「陛下、お怪我は……!」
「私は大丈夫。ジュビリーは? 他の皆は?」
キリエの問いにモーティマーが後ろを指し示す。そこには、マリーエレンとレスターに寄り添われたジュビリーの姿があった。足取りは重そうながらも、自分の足で歩いている。右腕に貫通していた矢は抜かれ、新たに包帯を巻かれていた。肩にも有り合わせの布地があてがわれている。
「ジュビリー……!」
駆け寄ろうとするがジュビリーは顔を歪めると横に振り、マリーがキリエに向かって力強く頷く。彼らはガリアの侍従によって治療のために別室へと連れて行かれた。後に残されたキリエの耳元でモーティマーが囁く。
「応急処置はしていただきました。ご安心を」
「……ジョンは?」
「聖女王騎士団を伴って、ギョーム王陛下に随行されました」
キリエが更に口を開こうとした時、「アンジェ侯!」と叫ぶ者がいた。皆が振り向くと、血と泥で汚れた兵士の姿に驚いて道を開ける。
「陛下からのご命令です。フラン城を攻撃するようにと……!」
バラが思わず言葉を失って体を硬直させる。兵士が更に耳元で囁く。
「リシャール様を捕らえるよう。場合によっては……、生死を問わない、と仰せです」
バラはわずかに震えながら息を吐き出した。そして、視線を感じて振り返ると眉をひそめたキリエと目が合う。
「……陛下からのご命令です。フラン城へ向かいます。宮殿をお頼み申します」
「……気をつけて、アンジェ侯」
「はっ。王妃も決してご無理はなさらぬよう」
バラは一礼するとその場を足早に立ち去った。不安げに見送るキリエに、モーティマーが耳打ちする。
「フラン城には……、リシャール・ド・ガリアが幽閉されております」
「……リシャール」
キリエの背筋がぞくりとする。結局、直接顔を合わすことはなかったが、あの男が今回の騒動の首謀者だというのか。キリエはごくりと唾を飲み込む。父親への強い憎しみを持つギョームが、彼を捕らえるだけで怒りが治まるとは思えない。キリエの胸に群雲のように不安が広がる。だが、今はそんなことを憂えている場合ではない。キリエは顔を上げると指示を下すべく、大広間へと向かった。