ギョームのことが気がかりでならなかったが、バラが出撃すると同時に宮殿は慌ただしさを増した。緊迫した各国境警備隊からも随時早馬が到着し、予断を許さない状況が続いた。わずかに宮殿が落ち着きを取り戻した頃には、すでに夜は更けていた。
客間の外から聞こえる喧騒が静かになったことに気づいて、ジュビリーは寝台から重い体を起こした。治療を受けた後、ビジュー宮殿の豪奢な客間をあてがわれたジュビリーだったが、体は疲れきってはいるものの、絶え間ない激痛に眠ることができなかった。国王夫妻を狙ったクロスボウの矢の一本はジュビリーの右腕を貫き、もう一本は右肩を掠めていた。右半身を覆う包帯を見つめ、また剣を握ることができるのだろうかといぶかしんだ時。部屋の扉がコツコツと叩かれ、静かに開かれる。
「……兄上」
「……マリーエレンか」
疲れが見える様子の妹が小走りに駆けよる。
「ご気分は……」
「……痛くてとても休めん」
珍しく痛みを訴える兄に、マリーは眉をひそめてそっと額に手を添える。
「まだ熱が……。薬を持ってこさせましょう」
体を起こそうとした時、ジュビリーの胴衣がはだけ、胸元でネックレスが光る。思わずネックレスを握り締める兄を、マリーがじっと見つめる。ネックレスには亡妻の結婚指輪が通されていることを彼女は知っていた。
「……エレオノールが……」
「え?」
ジュビリーは険しい表情で呟いた。
「エレオノールが、教えてくれた。キリエに危険が及ぶことを」
マリーは驚きの表情で兄を凝視した。
「……状況は」
固い声でジュビリーが尋ね、マリーが小さく頷く。
「あの後、アンジェ侯がフラン城を攻撃するべく出撃しました」
「フラン城?」
「モーティマーによると、リシャール・ド・ガリアが幽閉されているそうです」
リシャールの名を聞いてジュビリーは眉間の皺を深めた。
「奴一人が起こした騒動とは思えん。背後に……、エスタドが関わっているかもしれん」
「しかし、ガルシア王は……」
「リシャールを嫌ってはいるが、ガルシアが真に憎んでいるのはギョームだ」
兄の指摘にマリーは黙り込んだ。ジュビリーは疲れが混じった息を吐き出す。
「……ジョンは」
「ギョーム王と共に出撃しました。先ほど耳にした話によると、王都を攻撃していた賊軍はほぼ制圧されたそうです。間もなく帰ってくるでしょう」
謀反を鎮圧したその後が大変だ。ギョームはどう落とし前をつけるのか。ジュビリーが枕に体をもたれかけさせた時、部屋の外から足音が聞こえたと思うと扉が叩かれる。
「どうぞ」
マリーの声に、扉が開け放たれる。
「ジュビリー!」
キリエの声にジュビリーはきっと振り返った。まだ青白い顔をしたキリエが駆け寄ろうとした時。
「来るなッ!」
ジュビリーの怒鳴り声にキリエはびくりと体を震わせて立ち止まった。彼女の後ろに控えたレスターも思わず息を呑む。マリーがおろおろした表情で兄とキリエに視線を向ける。ジュビリーは目を眇め、鋭い声で続けた。
「おまえはすでにガリアの王妃だ。みだりに臣下の寝室へ入るな!」
ジュビリーから投げ付けられた言葉にキリエは呆然と目を見開いた。彼は歯を食いしばり、険しい表情でキリエを見つめた。
マリーエレンとレスターしかいない寝室に入れば、きっとキリエは自分にすがりつこうとするだろう。いかに後見人である宰相と言えど、ガリアの側近に目撃されれば瞬く間にギョームの耳に入る。キリエは小刻みに肩を震わせるとマリーに視線を向けた。
「……マリー。ジュビリーを、お願い……」
「キリエ様……」
泣き出しそうな顔で見つめるキリエの視線を受け止め、ジュビリーは目で訴えた。おまえはもう、ギョームの妻なのだ……。やがてキリエは目を伏せると踵を返した。
「キリエ様」
慌ててレスターが後を追い、扉が閉まる。
「兄上……!」
マリーが振り返ると同時に、ジュビリーは顔を歪めると左手で顔を覆い隠す。そして、わずかにかすれた声で呟いた。
「……キリエはもう……、私のものではない」
兄の言葉にマリーは息を呑んだ。肩を震わせ、苦しげに息をつくとジュビリーは唇を噛みしめた。
後宮の渡り廊下を走り抜ける宰相の姿を、女官たちが不安げに見送る。涼しげな噴水の水音。ヒスパニオラ宮殿の後宮にはそこここに池や噴水が配され、瑞々しい潅木や花々が咲き乱れており、うだるような夏の昼下がりでも涼を感じることができる。水の跳ねる音に混じり、少女の笑声が漏れ聞こえる。ビセンテがバルコニーに出ると、中庭の
「……陛下」
宰相の呼びかけに皆が顔を上げる。
「どうした」
ビセンテの表情を読み取ったフアナは妹たちの手を取った。
「父上とビセンテのためにお茶を用意しましょうね、イサベラ、アンヘラ」
「私、器を選ぶわ!」
末の妹アンヘラが両手を上げて声を上げる。
「じゃあ私は茶葉を選ぶ!」
フアナが妹たちを連れて四阿を出て行く間際、ビセンテは申し訳なさそうに頭を下げた。
「何があった」
「たった今早馬が到着いたしました。リシャール・ド・ガリアの王都襲撃は失敗に終わったようです」
その言葉にガルシアの両目がかっと見開かれる。そして、苦々しげに舌打ちする。
「能無しめが……!」
「リシャール・ド・ガリアの生死は定かではございませんが……」
「生きていようが死んでいようがどうでもいい」
忌々しげに吐き捨てる主君にビセンテが口をつぐむ。ガルシアはいらいらした様子で頭を振りながらベンチに腰を下ろした。
「……しかし、ギョーム王にとっては痛手となることでしょう」
「こたえるものか、あの若造」
そう口走っておいて、ガルシアは思慮深げに眉間に皺を寄せる。
「……国内に憂いがなくなればますます増長するな」
「その可能性はございますな。いよいよ強気な外交を展開するやもしれませぬ」
「青二才の分際で……!」
ガルシアは顔を歪めると拳をテーブルに叩き付けた。
絶え間なく唸る耳鳴り。破裂しそうな勢いで脈打つ胸。喧噪の中、一人うずくまる自分の目の前に、血塗れで仰向けに倒れている数人の司教。
「……ああ……、あああ……!」
キリエは顔を引きつらせて両手で頭を抱える。と、背後から呻き声が響く。振り返るとそこには、血塗れでぴくりとも動かないジュビリーが倒れている。
「……ジュビリー……! ジュビリー……! 起きて、ジュビリー! 目を開けて……!」
血に汚れた蒼白の顔。固く閉じられた瞼。
「いや……! いやだ、ジュビリー……!」
「……!」
キリエはそこで飛び起きた。胸がまだ不気味に波打ち、寝汗が額から流れる。忙しなく繰り返される呼吸の合間に、ごくりと唾を飲み込む。夢? 本当に? 胸を抉る悪夢の感触にキリエは身震いした。と、不意に体がふわりと温かくなる。まるで柔らかな羽毛に包まれたような優しい温もりに心が落ち着く。キリエは大きく息をつくと目を上げた。視界の端に、ほんのりと控えめな光が見える。
「え……」
それは、輝く金髪だった。息を呑んで体を起こすと、そこには色白の美しい女性がにっこりと微笑んで佇んでいた。長い前髪を留めた白百合の髪飾りが目を引く。キリエが声も出せずに凝視しているうち、女性は細い手を伸ばすと頬を優しく撫でてきた。彼女はキリエの瞳をじっと見つめると、やがて薄闇に溶け込むようにして姿を消した。
仄暗い寝室に一人取り残されたキリエは恐々と部屋を見渡す。広く豪奢なこの寝室は「王妃の寝室」だ。本来ならば、「王と王妃の寝室」で休むはずだったが、ギョームがいない今、キリエは一人で「王妃の寝室」で過ごしている。優雅な飾り付けが施された天蓋から、薔薇色のカーテンが引かれている。
(……誰だったのだろう)
キリエはまだ波打つ胸を押さえて呟いた。が、やがて頭を振ると夜具から抜け出した。
結局、結婚式の当夜も翌日もギョームは帰ってこなかった。彼はオイールを攻撃する軍を駆逐した後、その足でフラン城へ向かったという。ビジュー宮殿では、相変わらず国境警備やギョームへの支援の指示で慌ただしく時間が過ぎていった。昨日ジョンがオイールに戻り、聖女王騎士団によって王都の守りが強化され、人々の混乱も治まってきた。
早くギョームに帰ってきてほしい。そう思う自分に、キリエは複雑な思いを抱いていた。宮殿の女官や侍従たちは王妃に対して非の打ち所のないもてなしようだったが、まだ慣れないせいかキリエは孤独と不安で一杯だった。早くギョームの優しい笑顔が見たい。だが、そう願いながらもジュビリーの顔が脳裏に浮かび、キリエは頭を振ってジュビリーの幻影を振り払った。
ギョームが帰ってきたのはその日の昼だった。結婚式から実に二日が経っていた。報せを受けたキリエは王妃の間を飛び出した。宮殿のアプローチまで急ぐと、大廊下の先で甲冑が触れ合う不穏なざわめきが聞こえてくる。
「……陛下」
顔を強張らせたギョームにバラが声をかける。目を上げると、視線の先に幼い妻が小走りに駆けよってくる姿が見える。
「……キリエ」
ギョームの目には、四歳年下のはずのキリエが母親のように映った。
「ギョーム……!」
彼は無言で妻を引き寄せると抱き締めた。キリエも素直にそっと背中に手を回す。無事だった。良かった。思わず安堵の吐息をつくが、ギョームの体が小さく震えているのに気づいて眉をひそめる。
「……ギョーム……?」
しばらく無言でキリエの背を撫でていたギョームは、ようやくそっと体を離した。
「すまない、体調を崩していないか?」
「ええ、皆が色々と気を遣ってくれたので……」
そこでギョームはようやくわずかに顔をほころばせた。
「話は聞いている。混乱に陥った市民を落ち着かせ、宮殿を開放して負傷者の治療にあたったそうだな。見事な手腕だ。さすがアングルの女王だな」
「皆の協力があったからですわ」
キリエが笑顔を見せるとギョームも落ち着きを取り戻したらしい。いつもの穏やかな微笑が戻る。
「そうだ。クレド侯は?」
その名を耳にした途端、キリエは動揺して目を伏せる。そして、聞き取りにくい小さな声で囁く。
「……ちゃんと、治療を受けたようです。あれから……、会っていないので……」
キリエの言葉にギョームは意外そうな顔をしてみせる。
「……そうか。礼を言いに行こう。我々にとって、彼は命の恩人だ」
命の恩人。そうだ。彼は自分だけでなく、ギョームの命まで救った。結局、あの場にいた司教二人が亡くなり、一人の司教と三人の侍祭が重傷を負った。ジュビリーが身を挺して守らなければ、二人とも無事では済まなかった。
「……フラン城は? どうなったの」
キリエの言葉にギョームの目の色が変わる。
「……制圧した。……さすがに疲れた。少し休む」
「はい……」
フラン城について多くを語りたがらない夫にキリエはにわかに不安になったが、それ以上は問いかけるようなことはしなかった。
身を清め、着替えを済ませるとギョームはバラと共にジュビリーの客間を訪れた。
「クレド侯」
「陛下」
すでに床を上げ、レスターやウィリアムと話し込んでいたジュビリーが驚いて席を立つ。
「わざわざお越しにならずとも……」
「いや、いい。座ってくれ」
ギョームは椅子を指し示し、自分も腰を下ろす。
「今日お戻りに?」
「つい今し方だ。傷の具合はどうだ?」
「ガリアの医師のおかげで、適切な処置を受けることができました。心より感謝いたします」
深々と頭を下げるジュビリーに、ギョームが穏やかな表情で続ける。
「噂によると、ヘルツォークと渡り合うほどの剣の名手だそうだな。……早く治れば良いな」
「……はっ」
そこでギョームは表情を引き締めた。
「そなたがいなければ、予もキリエもどうなっていたか……。感謝する」
そう言って頭を下げるギョームにジュビリーは慌てて席を立つ。
「陛下……! 私は臣下として当然のことをしたまでにございます!」
「そなたの恩に報いたい。そなたに、ブリュー勲章を授与するつもりだ」
「……ブリュー勲章……」
ジュビリーが目を見開いて呟く。背後でレスターも息を呑み、思わずウィリアムと顔を見合わせる。ブリュー勲章は、ガリアにおいて王族以外が受ける勲章の中で最も権威のあるものだ。アングル人で受けた者は、まだごくわずかしかいない。
「私が、ブリュー勲章など……」
「そなたはガリア王の命を救ったのだ。それに何より、予の大事な妃を守ってくれた」
ジュビリーは若い王をじっと見つめた。その言葉は偽らざる気持ちだろう。だが……。
「今回だけではない。我々の即位はそなたの尽力によるものが大きい。……勲章を受けてくれ」
「……恐縮至極にございます」
ジュビリーが頭を下げ、ギョームも安心したように表情を和らげる。
「そなたの帰国前には授与するつもりだ」
「その……、帰国でございますが」
ジュビリーが居住まいを正す。
「我々が長居しては邪魔になるだけ。アングルを長く留守にするのも不安がございます。よろしければ、明日にも帰国の途につきたいのですが……」
「明日か」
オイールからイングレスに帰るまで四日はかかる。しかも、世が平和ならともかく、今は緊迫した状況だ。ギョームは重々しく頷いた。が、目を逸らすと低く呟く。
「……では、今夜か……」
「……は?」
ジュビリーが眉をひそめる。ギョームはゆっくり視線をジュビリーに戻す。
「〈見届け〉だ。……付き合ってくれるか」
瞬間、ジュビリーは息が止まるほどの圧迫を感じて黙り込んだ。レスターも顔を歪め、辛そうな表情で俯く。
「アングルの廷臣、いや、アングル全ての国民の代表として、見届けてくれぬか」
ギョームの丁寧な言葉にも、ジュビリーはすぐに返答することができなかった。だが、やがて彼はわずかに顔を青ざめさせ、一礼した。
「……伺わせていただきます」
どこか険しい表情のジュビリーに、ギョームはそっと声をかけた。
「……心配するな。予は約束を守る」
「……はっ」
ジュビリーは益々顔を強張らせた。
その後、王妃の間を訪れたマダム・ルイーズによって、今夜〈見届け〉が行われることが告げられた。ギョームの帰りを心待ちにしていたキリエは〈見届け〉をすっかり忘れていた。動揺した彼女はすぐには返事ができず、おろおろした様子で俯いた。
「お察しいたします、王妃」
言葉とは裏腹に、ルイーズははっきりとした口調で続けた。
「王妃はご幼少の砌から教会でお過ごしになられたのでございますから、動揺されるのも無理からぬこと。ですが、これは王妃の義務でございます」
「……わかっています」
キリエが小さく呟くと、ルイーズはようやく気の毒そうに眉をひそめる。結婚式を襲撃された直後には、健気にも冷静に宮殿の守りを取り仕切ったアングルの女王。だが、王冠を脱げばまだ年端もゆかぬ少女だ。
「お部屋近くに女官を控えさせます。ご気分が優れぬ時はすぐに仰って下さいませ。お体を大事にせねばなりませぬ」
「……ありがとう、マダム・ルイーズ」
冷徹に思えるが自分に対する心遣いも感じられるルイーズに対し、キリエはできるだけ恭順の姿勢を見せた。ルイーズは満足そうに頷き、侍女を伴うと王妃の間を辞した。
「……キリエ様」
マリーが心配そうに腰を屈め、キリエの顔を見上げる。目を閉じ、眉間に皺を寄せたキリエは苦しげに呼吸を繰り返している。
「……皆が見届けるのは今夜だけです。それも、確認すればすぐに引き下がります」
それはわかっていた。だが、問題は皆が退出した後だ。ジュビリーがギョームに嘆願したとはいえ、何が起こるかわからない。それも、今夜だけではない。明日も、明後日も、夫婦である限り、ずっとだ。キリエは顔を覆い、震える息を吐き出した。
王が帰還したその日の晩餐は、結婚式直後にしては静かなものだった。王都が落ち着きを取り戻したとはいえ、反乱の制圧直後であり、繁華な晩餐は憚られたのだ。
ギョームは二日ぶりに新妻と食事ができることを素直に喜んでいる様子だったが、キリエは晩餐後のことが頭を離れないらしく、終始俯きがちだった。
そんなキリエが大広間を見渡した時だった。壁に大きな肖像画が飾られている。燭台の明かりに揺れながら浮かび上がるその絵は、鮮やかな青い衣装を身に纏った美女だった。肩に流れる輝く金髪。前髪を留めた白百合の髪飾り……。
(白百合……)
キリエは思わず息を呑んだ。今朝、寝室に現れた女性だ。肖像画をじっと見つめる妻に気づいたギョームが呼びかける。
「どうした、キリエ」
「あ、あの……」
キリエが視線を向けていた方向へ目を向けたギョームが微笑む。
「母上だ。美人であろう」
「……母君?」
ギョームは頷くと前髪を掻き揚げた。
「私の髪色は母上譲りだ。母上はアングルの〈赤獅子〉よりも、ガリアの〈白百合〉をあしらった装身具を好んで身に付けていた」
そして、ちょっと首を傾げるとキリエの目を覗き込む。
「母上の形見がいくつかある。よかったら……、使ってもらえないかな」
「私が? いいのかしら……」
「母上も喜ぶだろう」
夫の言葉に、キリエはわずかに顔をほころばせると頷いた。そうか、あの女性はギョームの母、マーガレットだったのか。穏やかで柔和な表情が印象に残っている。驚きはしたが、不思議と恐怖は感じなかった。息子が選んだ妃を見に現れたのだろうか。だが、キリエはふと眉をひそめて顔を上げた。大広間を見渡すが、マーガレットの肖像画はあるが、父親であるリシャールの肖像画と思われるものは見当たらない。撤去してしまったのだろうか。キリエは、改めてギョームの両親に対する思いを感じて黙り込んだ。そんなキリエを、ジュビリーは固い表情で見守っていた。
長い晩餐が終わり、キリエはいつにも増してゆっくり時間をかけて夜の祈りを捧げた。そして、王妃の寝室でマリーに手伝ってもらいながら寝衣に着替える。寝衣は上質のフランネルで、ふんわりとしたワンピース型だ。宝冠や胸飾りもなく、寝衣だけになると、キリエは心細そうにマリーの手を握りしめた。
「……キリエ様」
マリーはそっとキリエの肩を抱くと髪を撫でる。
「……大丈夫。ギョーム王陛下は優しいお方です」
キリエはこくりと頷いた。やがてそっと体を離すと、扉の前で控えていたルイーズにガウンを差し出される。
「王妃、夜はまだ寒うございます」
「……ありがとう」
差し出されたガウンは金糸の刺繍が施された美しいものだった。袖を通すと温かい空気がキリエの細い体を包む。ルイーズに優しい気遣いがないわけではない。世間知らずなキリエのために、色々と手を尽くしてくれているのはわかっていた。だが、その思いやりは「キリエ」に対するものではなく、「ガリア王妃」に対してだ。マリーとはそこが違う。
「参りましょう」
ルイーズがそう告げると、キリエは顔を強張らせて王妃の間を後にした。
後宮の長く静かな廊下には暖かな色のランプが吊り下げられ、床の赤い絨毯をぼんやりと浮かび上がらせていた。廊下を女官と共に歩いてゆくと、王の寝室の前で侍従を連れたギョームが待っていた。揃いのガウンを身にまとったギョームは、やはりどこか緊張した顔つきながらキリエに微笑みかけた。
「寒くないか」
「……はい」
消え入りそうな小さな声で囁くキリエの手をそっと握ると、彼女はそれだけで顔を真っ赤にして俯いた。
一行が再び静かに廊下を進むと、角を曲がった先から静かな話し声が聞こえてくる。やがて一行が角を曲がると、十数人の男たちが口を閉ざして振り返る。「王と王妃の寝室」の前で待ちかまえていたのは、ガリア、アングル両国の重臣と、クロイツの数人の司教たちだった。
薄暗がりに集う男たちの中から、キリエはすぐにジュビリーの姿を見つけだした。傍らには、心配そうな表情で立ち尽くしているジョンとウィリアムの姿もある。キリエの頭の中で、ジュビリーの「来るな!」という叫びがこだました。結婚式の夜、彼が訣別を告げてからまともに顔を合わせるのはこれが初めてだった。暗いながらも、ジュビリーが眉間に皺を寄せ、息を潜めてキリエを見つめてくるのがわかる。キリエは泣き出しそうな表情で俯く。と、ギョームが手をぎゅっと握りしめてきた。彼女は、握り返そうにも震えて力を入れることもできなかった。
やがて重臣たちが静かに道を開け、王と王妃は音も立てずに寝室へと入っていく。寝室は、暗くてよくわからないながらも優美な調度品が品よく並べられている。中央には、美しい装飾が施された天蓋のついた大きな寝台が置かれている。深い藍色のカーテンの奥には、ランプに照らされた白いシーツが光沢を放っている。
「……王妃」
ルイーズが背後から声をかけ、ガウンを脱がせようとしてキリエが思わず後ずさる。
「ま、待って、ルイーズ」
「大丈夫ですよ」
二人の囁き声にジュビリーが顔を歪める。身分が高い者は普段から着替えや入浴を召使いに任せているため、こういった場での羞恥心はあまりない。だが、キリエはそうではない。修道女として育てられた彼女は、すべてのことを自分でこなしてきた。それが今、見知らぬ者や、よく知っている者たちの視線を受けながら寝衣姿になるのだ。生きた心地もしないだろう。
ゆっくりガウンを脱がされ、皆の視線を肌で感じながらキリエは俯いて両肩を抱いて立ち尽くした。そんな彼女をマリーは思わず涙ぐみながら肩に手を添え、寝台まで導く。
やはり白の寝衣姿になったギョームが寝台を挟んだ向かい側に立つが、さすがに緊張でやや強張った顔つきだ。二人は気まずそうに見つめ合うと、ギョームの方から夜具の中へ体を滑り込ませた。
「……キリエ」
ギョームは心配そうに、寝台に上がろうとする妻の手を取る。キリエは夜具に潜り込むとシーツを首元まで引き上げて縮こまった。暗がりから男たちの視線が寝台へと注がれる中、クロイツの司教が恭しく頭を垂れる。
「……神聖暦一四九五年七月十二日、床入りを確認いたしました。ギョーム王陛下、キリエ王妃、おやすみなさいませ」
司教に続いて、皆が深々と一礼する
「おやすみなさいませ」
キリエの頭と胸はすでに破裂しそうな勢いで脈打ち、ただ黙り込んで蹲っていた。やがて重臣たちが静かに寝室を退出してゆく。その時、ジュビリーが投げかけた視線にキリエが気づいた。先ほどは人に隠れてわからなかったが、右腕にはまだ白い包帯が分厚く巻かれている。目を眇め、口を引き結んだ彼はじっとキリエを見つめた。そして、辛そうにかすかに頷くと寝室を後にした。ジョンやウィリアムも不安げな視線を送り、やがて最後の一人が扉を閉めた。
扉が閉まるとしばらく外で静かな話し声や衣擦れの音が聞こえていたが、やがて静寂が訪れた。扉を見つめていたギョームがぽつりと呟く。
「やっと……、二人になれたな」
「……は……、はい……」
緊張でかすれた声に、ギョームは苦笑しながら振り返る。
「そんなに怖がるな、キリエ」
だが、キリエはシーツにくるまったまま体を固くし、両手を握りしめて俯いていた。二人はしばらく無言だったが、やがてギョームがそっと右手を上げるとキリエの頬に伸ばす。
「……!」
ギョームの手のひらが触れ、キリエは思わずぎゅっと目を閉じた。彼はそぅっと妻の顔を上げさせた。
「……キリエ」
夫の呼びかけに、恐る恐る目を開ける。燭台の灯火がギョームの顔を半分だけ照らし出す。彼は真顔で口を開いた。
「……一年だ。そなたを手に入れるまでに、一年かかった」
小刻みに震えたままのキリエの頬を愛おしげに撫で、ギョームはゆっくり身を乗り出すと唇を重ねた。キリエの体がびくりと跳ねるが、ギョームはそっと背に手を回す。一度唇が離れるがすぐにまた唇を啄まれ、キリエはすでに頭の中が真っ白になった。何度目かの口付けの後、ギョームはキリエをぎゅっと抱きしめた。薄い寝衣越しにギョームの体温が伝わる。ギョームには、キリエの丸みを帯びた胸の感触が伝わり、思わず押し殺した息をつく。
「……キリエ。キリエ」
名前を呼ばれるがとても返事ができる状態ではなかった。しばらくキリエの背を撫でていたギョームは、そっと体を離すと彼女の前髪をかき揚げ、額に優しく唇を押しつける。瞼や頬にも口付けを落とし、首筋に唇を這わせる合間にせつない吐息が漏れる。が、キリエの頭は焦りと恐怖で一杯になってくる。
(待って……、待って……! ギョーム……! 私、まだ……!)
顔を強張らせ、身を捩った時。ギョームの手が胸に触れた、瞬間。
(――レノックス!)
「いやッ!」
痙攣と共に叫び声を上げ、ギョームは咄嗟にキリエを抱きしめた。
「あ、あ……!」
「……すまん、キリエ……、すまない」
がくがくと震える妻の背をぎこちない手つきで撫でる。キリエはどもりながら必死に詫びた。
「ご、ごめんなさい……、ごめんなさい、わ、私……!」
「そなたが謝るな。……謝るな」
閉じた目から涙が滲む。キリエの胸には、今もレノックスの記憶が生々しく残っていた。彼は容赦ない力で自分を組み伏せ、体中をまさぐったのだ。だが、彼女を愕然とさせたのはその記憶だけではなかった。キリエはギョームに抱かれながら、混乱する頭の中で呟いた。
(私は……、なんて恐ろしい女だ……)
ギョームはこんなにも自分を愛おしんでくれる。なのに……。
抱きしめる力、優しく撫でる手のひら、唇の感触。耳元の囁き。極限の緊張の中にありながら、自分はギョームとジュビリーを比べていた。決して再び触れ合うことのないジュビリー。これから先、何度ギョームと口付けを交わしても、ジュビリーとのたった一度の口付けを永遠に忘れないのだ。キリエは、絶望した。そんな妻の胸中を知るはずもなく、ギョームは優しく抱きしめ続けた。