その日の午餐は気まずいものだった。王と王妃が黙り込んで食事を進めるため、侍従や召使も、いつも以上に緊張した様子で給仕を務めた。午餐が終わり、昼の祈りを捧げたキリエにマリーが心配そうに声をかける。
「キリエ様……、モーティマーから聞きました。陛下と口論をなさったとか……」
キリエは顔を強張らせると、戸口で気まずそうに立ち尽くしているモーティマーに目をやる。
「……口論ではないわ。私が悪いの」
そして、それきり口をつぐむ。わからなかった。母を冷遇し、災いの元となる庶子を始末させた罪深い男であったとしても、自分の父だ。何故、手にかけることができる? だが同時に、自分自身も父を憎み、許せないでいることを思うとギョームを責め続けることはできない。
「キリエ様……。もう一度陛下とお話をなさっては……」
マリーが呼びかけた時、王妃の間に突然女官を引き連れたマダム・ルイーズが現れた。彼女の目はいつにも増して見開かれ、引きつった表情だった。
「王妃。お話がございます」
「後にして下さる? マダム・ルイーズ……」
マリーが眉をひそめて告げるが、ルイーズは眉を吊り上げて言い放った。
「先ほどの陛下との口論について、大事なお話でございます」
思わず顔を強張らせるキリエとマリーの側に、アングルの女官たちが二人を守るようにして集う。モーティマーも慌ててキリエの背後に控えた。王妃の間は一気に不穏な空気に満ちる。
「先王陛下が引き起こした反乱について、陛下と口論なされたとか」
「私が悪いの。それはわかっているわ」
「本当にご理解いただけているのでしょうか」
ルイーズの言葉にキリエはますます困惑の表情になる。
「私が申し上げたいのは、今回の反乱についてではなく、陛下にご意見を申し上げることをお控えいただきたい、ということでございます」
マリーが眉をひそめてルイーズの顔を見つめる。その眼差しには不信と敵愾心に溢れている。
「王妃、あなた様はガリアの王妃であらせられます。妻たる者は夫に絶対服従することが求められます。国政に口出しなさるなど、言語道断でございます」
「マダム・ルイーズ、あなたこそ!」
「グローリア伯夫人……!」
思わず声を上げるマリーを、モーティマーが押し留める。
「……私はガリアの王妃です」
キリエが抑えた口調で言い放つ。
「王妃として夫を支え、ガリアを平和にしたい。だから思ったことをギョームに告げただけです。……私が間違っていることは、ギョームに指摘してもらったわ。だから、もうこのことは……」
「ガリアを平和にしたいなど……」
ルイーズは怒りを必死で抑えながら低く呟いた。
「それこそ余計な干渉というもの。国政はご夫君でいらっしゃるギョーム王陛下にお任せすればよろしいこと」
「では、私は妃として何をすれば良いの?」
「お世継ぎをお生みになられることです」
あけすけな言葉に、キリエもマリーも思わず絶句する。ルイーズは息をつくと一気にまくし立てた。
「健康な男児を生み、ガリア王に相応しいお子をお育てになられることが、王妃としての第一の務めにございます。もちろん、王妃はまだ幼うございます。これから来るべき日々のために精進なさることが、当面の務めでございましょう。王妃とお認めするには、まだまだお勉強なさらないと……」
「無礼ですわ!」
マリーが怒りを露にすると、一斉にアングルの女官たちも前に進み出る。
「王妃はアングルの女王です! 女王陛下に対する無礼な発言、許せませんわ!」
ルイーズは目を眇めるとマリーたちを睨み付けた。
「教育せねばならないのは、王妃だけではございませんね」
「何ですって」
「モーティマー殿」
唐突に呼ばれ、モーティマーは驚いて顔を上げる。
「あなたは未だに王妃を『女王陛下』とお呼びですね。ここはガリアです。『王妃』とお呼びするように」
どうでもいいような細かいことに、モーティマーは思わず口をあんぐりとさせる。
「グローリア伯夫人や他の女官たちも、ガリア国内にいる間はアングル語での会話を慎むように」
「そんな……!」
女官たちが一斉に非難の声を上げると、キリエが手を挙げて一同を制する。
「ルイーズ」
キリエは怒りと戸惑いを押し隠しながらゆっくりと呟く。
「私に非があるなら、私にだけ仰って。他の者には関係ないわ」
「関係ないことなど……」
ルイーズがなおも言い募ろうとした時。外から、数人の足音が聞こえてくるのにモーティマーが気づいた。
「ルイーズ!」
背後からギョームの声が投げかけられ、ルイーズは落ち着き払って振り返った。王妃の間に側近を連れたギョームが現れ、マリーたちが慌ててその場に跪く。
「……ギョーム……」
キリエがおどおどした顔つきで呟くと、ギョームはつかつかと妻に歩み寄った。
「キリエ、話がある。ルイーズ、そなたの話は後だ」
「陛下!」
途端にルイーズが甲高い声を上げる。
「陛下がそのように甘やかされるから……! 私は、王妃を教育するのが務めでございます!」
非難めいた言葉に、ギョームが口許に笑みを浮かべながら振り返ると言い放つ。
「妻を守るのも夫の務めだ」
「陛下!」
キリエの手を取ると、ギョームはさっさと王妃の間から連れ出す。と、王妃の間を出た瞬間、ギョームはキリエの耳元で囁いた。
「走るぞ、キリエ」
「えっ?」
返事を聞く前に、ギョームはキリエの手を握り締めたまま、廊下を走り出した。
「ギョーム……!」
慌てて夫について走るキリエ。彼は隠し扉を開き、入り組んだ暗く細い通路を駆け抜けた。王妃の間の前では、忽然と姿を消した王と王妃を捜して騒ぎになっている。
「ど、どこへ行くの?」
「秘密の場所だ」
二人はやがて宮殿の外へ出ると、厩舎が並ぶ中庭へ向かった。
「陛下! 王妃も……!」
馬の手入れをしていた馬丁が驚いて声を上げる。
「頼む」
ギョームの言葉に、馬丁たちは手際よく王を厩舎の中へ案内する。その様子を見る限り、こうして王が突然訪れるのはよくあることらしい。ギョームは中で飼葉を食んでいた一頭の白馬の首を撫でた。
「ジャン、今日は二人乗せてもらうぞ」
王の囁きを理解したかのように、ジャンは目を大きく見開いた。白馬に颯爽と跨ったギョームがキリエに手を伸ばす。
「キリエ、乗れ」
言われるままに引き上げられると、ギョームは勢いよく馬の腹を蹴る。
「ギョーム……!」
慌てて夫の腰にしがみついたキリエが不安げな声を上げるが、ギョームはそのまま宮殿を後にする。馬を駆る王に、通りで遊んでいた子どもたちが気づいて声を上げる。
「王様だ!」
「本当だ! お妃様も一緒だ!」
ギョームが笑顔で手を振ると、子どもたちも嬉しそうに手を振り返す。
「ギョーム……、秘密の場所って……」
「もう少し先だ」
夏の日差しを浴びた通りが砂埃を上げる。その先に霞む緑の森。王家が所有する広大な狩猟地だ。ギョームの背に顔を押し付けていたキリエは、彼の温もりに今になって頬を染めた。
ギョームはキリエを乗せたまま、しばらく馬を走らせた。そのうちに小高い山にさしかかり、速度を落としたジャンは器用に山道を登ってゆく。夏の木立は瑞々しい若葉を揺らし、二人に木漏れ陽を降り注いだ。川のせせらぎ、鳥の囀り、さざ波のように降り注ぐ葉擦れの音。宮廷に閉じ篭っていたキリエにとっては、心が少しずつ洗われてゆくようだった。やがて山を登りきるとジャンは歩みを止めた。
「あ……!」
思わず声を上げる。
「どうだ?」
ギョームが得意げに呟く。
「良い眺めだろう。聖オルリーン大聖堂の尖塔も見える」
キリエは、美しい家並みとのどかな田園が混在する風景に息を呑んだ。温かなオレンジ色の屋根瓦の家々がひしめき、そこかしこに教会の鐘楼が立ち上っている。中でも聖オルリーン聖堂の姿は抜きん出ている。真夏の太陽の眩しい光を浴び、眼下の人々を遍く見守るその姿は堂々としたものだ。キリエは目を輝かせた。
「ここが秘密の場所だ」
「……綺麗」
妻の囁きにギョームは嬉しそうな表情になる。
「考え事をする時や、一人になりたい時など、よくここへ来ていた。……ここへ、誰かを連れてくる日が来るなど、考えられなかったがな」
ギョームの言葉に、思わずキリエが振り向く。夫は、先ほどとは打って変わって穏やかな表情をしていた。ギョームは先に馬を降りるとキリエの手を取って降りさせる。しばらく二人は無言でオイールの街並みを眺めていたが、やがてキリエが気まずそうに呼びかける。
「ギョーム。……さっきは、ごめんなさい」
「……私も大人げなかった」
ギョームはそう呟くとキリエの頭を撫でる。
「すまない」
「……ごめんなさい」
「ルイーズのことは気にするな」
ルイーズの名を耳にして、キリエは思わず涙ぐんだ。そんな妻に気づくと、ギョームは自らのケープを肩から外し、地面に広げてその上に座らせる。そして、そっと肩を抱くと幼子に言い聞かせるように語り出した。
「……あれは昔からそうだ。私の母親気取りで、あれこれうるさい。確かに私も頭は上がらない。だが、これからはそうはいかない。そなたを守ってみせる」
「でも……、彼女の言う通りだわ」
キリエのか細い声にギョームは顔を覗きこむ。
「ガリアの国政に、私が口出しするべきではなかったのよ……」
「そなたは真面目だな」
ギョームは微笑むと優しく肩を撫でた。
「国政というよりも、あれは……、私の父に関することだ。そなたが驚いて問いただすのも当然だ」
黙りこむキリエに、ギョームは目を街並みに戻し、問わず語りに呟いた。
「私はな、ずっと前から父が憎かった。母を省みず、愛人を後宮に囲い込む男など、父親ではない。ずっとそう思って育ってきた」
そこで口を閉ざし、低い声で言い添える。
「……それだけでは、そなたは納得しないであろうな」
「ギョーム……」
「あれは、姉が生まれた時のことだ」
「お姉様?」
キリエが思わずギョームを見上げる。彼に姉がいたなど、初耳だ。
「生まれたのが女子だと知って、父は何と言ったと思う?『誰が女を生めと言った』」
思わず絶句するキリエに、ギョームは切なそうに目をやる。
「アングルと違って、ガリア王国には女子に王位継承権がない。だからと言って……、その言い草はなかろう。後から聞いて私は呆れて物も言えなかった。生まれつき体が弱かった姉は一歳になる前に病死した。その後に生まれたのが私だ」
ギョームの母、マーガレットはそんな辛い目に遭っていたのか。キリエは胸が締め付けられ、俯いた。
「だが、姉が死んだ直後のことだ。父の子を身篭りながら堕胎させられた一人の女が母の元へやってきたそうだ」
「えっ」
思わず声を上げ、目を見開いて自分を凝視してくる妻にギョームは恥じ入るように顔を歪めた。
「自分は王と国のためにこの手で我が子を殺めた。なのに、あなたは自分の子を満足に育てることもできないのか、と母を責めたそうだ」
キリエは信じられない、といった表情で顔を振る。
「姉を亡くした哀しみと、父の冷たい仕打ちに心を傷つけられていた母は、突然のことに平常心を保てなくなったらしい。目を離すと何をしでかすかわからないほど取り乱し、落ち着くまでに長い時間がかかったそうだ」
「その愛人はどうなったの」
その問いに口を閉ざすギョームの腕に手を掛け、キリエは答えをせがんだ。
「……処刑されたそうだ。反逆罪という罪状でな」
反逆罪。王の寵を受け、子を身篭りながらも堕胎を強いられた女が、反逆罪? 恐れの表情で小刻みに体を震わせるキリエをギョームはそっと抱き寄せた。
「信じられないことに、そんなことがあっても父は女遊びをやめなかった。私が生まれても、父は相変わらず母に辛く当たった。だから、私は心に決めたのだ。父のような男にはならないと」
ギョームの横顔は、どこか悲壮感が漂っていた。キリエはじっと夫を見つめた。
「身勝手なくせに臆病で、優柔不断。傲慢で……、冷酷。かつて、冷血公が言っていたのは本当だ。愚かな王だった」
脳裏に、口汚い言葉で母を罵倒していた父の姿が浮かび上がり、ギョームは顔を振ってその幻影を振り払った。キリエは思わず彼にすがりつくとぎこちない手つきで背を撫でる。ギョームは少しだけ表情をゆるませると顔を上げた。
「……父が王のままでは、ガリアは滅びる。エスタドに飲み込まれるのも時間の問題だと思った。私が即位するのを待っていては間に合わない。だから挙兵したのだ」
「エスタドとの同盟が、引き金だったの?」
「同盟か……。違うな、あれは服従だ」
ギョームが自嘲気味に苦笑する。
「フアナ王太女と結婚すれば、ガルシアがガリアを乗っ取るのは目に見えていた。奴の父親はそうやってレオンやレイノを手中に納めてきた」
ギョームはそこで言葉を止め、低く呟いた。
「……私はフアナ王太女との結婚を拒んだのではなく、エスタドへの服従を拒んだのだ。ガリアの独立を守るためだ」
乾いた風が二人の髪を揺らし、沈黙の間を通り抜けてゆく。しばらくしてギョームがぽつりと呟いた。
「……私はずっと……、一人きりでガリアを背負うと思っていた」
一人、という言葉が胸に突き刺さる。キリエは黙ってギョームを見つめた。
「君主ほど孤独な……、そして、呪われた人種はいない」
「呪われた人種?」
「全ては国のためだ。だが、そのために血が流れることもあろう。人は為政者を呪う。人の痛みも、苦しみも、罪も、全てを背負って生きていかねばならん。……一人では重過ぎる」
キリエは、ごくりと唾を飲み込んだ。このお方は、私と同じ絶望を抱えている。だとしたら、わかり合える? わかり合えたら、愛することができるだろうか……。
「キリエ、そなたも為政者だ。だが、私と違って慈悲がある。だから……、心配だ」
その言葉にキリエが思わずギョームを見上げると、彼は哀しげな瞳で見つめてきた。どういう意味か、問いかけようとしたその唇が不意に塞がれる。思わず体を強張らせるキリエに唇を離す。そして、もう一度切なげな瞳で見つめたかと思うと再び覆いかぶさるようにして唇を重ねた。
ギョームのまっすぐな愛情にキリエはどこか恐れと戸惑いを感じた。だが、愛されているという感触にキリエは応えたいと願った。彼の抑え込まれた哀しみと怒りにわずかながら触れることはできた。どうすれば、その苦悩から解き放ってやることができるのだろうか。長い口付けの末に、ギョームの唇から熱い吐息が漏れる。キリエは震えながらもギョームの背をしっかりと抱きしめた。
「……ギョーム……」
自分の名を呼ぶ妻に、ギョームは穏やかに微笑む。そして、再び唇を求めた。
ルイーズと衝突したものの、キリエは表面上は何とか穏やかな日々を送っていた。後宮での嫌がらせもあれからはほとんどなくなった。だが、相変わらず息が詰まるような生活が続き、気晴らしにとマリーがキリエを騎馬訓練の見物に連れ出した。
ガリア軍はリシャールの軍がそうだったように、軍馬まで鎧を着込む重装備だったが、アングルを訪れたギョームが機動力の重要性に気づき、軍の改革に着手した。その改革の指導者に指名されたのが、ジョンだった。
無駄のない筋肉で覆われた軍馬が騎兵の手綱ひとつで華麗な動きを見せる。まるで舞踊のような騎馬たちの流麗な動きに魅せられた女官たちが口々に声援を送る中、自分が誘い出しておきながら、マリーはどこか思い詰めた表情で俯いていた。
「マリー……、大丈夫?」
「えっ?」
キリエの呼びかけに、マリーがはっとして顔を上げる。
「気分でも悪いの?」
「い、いえ、大丈夫です」
慌てて居住まいを正すマリーを、キリエは少し心配そうな目で見つめる。そうするうちに、ジョンがキリエの側へやってくる。
「さすが陸戦の国、ガリアですね」
彼は相変わらず生真面目な表情で語った。
「あの恐ろしい重装備からアングル式の軽装に変えるまでは時間がかかりましたが、機動性の重要さに理解が及ぶと後は楽でしたよ。うまく組織すれば、ガリア軍の兵力も飛躍的に上がるでしょう」
「大変だったでしょう? ギョームも感謝していたわ」
ジョンは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「正直、しんどかったですよ。ガリアの廷臣たちは私のような若輩者に教えを乞うのが癪に障ってならない、といった態度でしたからね。こちらはこちらで慣れないガリア語で……。いや、これは愚痴ですね」
そんな夫を支えながらも、マリーは自分をも守り支えてくれている。キリエは感謝の思いを胸にマリーを見つめた。だが、相変わらず心ここにあらずといった顔付きの彼女にキリエは不安そうに眉をひそめる。妻の表情に気づかないのか、ジョンは言葉を続けた。
「クレドからのロングボウ隊も着実に技術を伝えています。いつ大陸で戦争が始まるかわかりませんからね」
キリエがゆっくり頷く。
「……そういえば」
騎士たちの動きを目で追いながらジョンが声を上げる。
「レスターから手紙が届きました。アングルの情勢は今のところ問題はないようですね」
老臣から届いた手紙を思い返し、キリエは心配そうに声をひそめる。
「私にも手紙がきたわ。私がいない分、ジュビリーが恐ろしく多忙になったそうね」
「そうですね、それが一番の心配の種ですよ」
「彼からは手紙が一切こないから……。大丈夫なのかしら」
寂しそうに呟くキリエを、ジョンが眉をひそめて見つめる。実は、彼の元には義兄から頻繁に手紙が送られていた。その内容の大半はガリアと大陸の情勢を問うものだったが、控えめにキリエの体調を気遣う言葉もあった。だがそれをキリエには伝えるな、とも書き添えてある。ジョンは小さく溜息をついた。
「……キリエ様、ギョーム王とは最近、いかがですか」
キリエはジョンの心配そうな口ぶりに明るい表情をしてみせる。
「あれからは大丈夫よ。私を……、本当に大事にしてくれるわ」
ジョンはどこか複雑な表情で「そうですか……」と呟く。キリエが口を開こうとした時。
「王妃」
一人の女官が声をかける。
「レイムス公妃が謁見を願い出ております」
「ロベルタ様が?」
レイムス公シャルルの妻だ。そういえば久しく会っていない。何の用だろう。キリエは緊張した面持ちで立ち上がった。
王妃の間に赴くと、華やかな衣装を身にまとったロベルタ・デ・レオンが待っていた。
「ご機嫌麗しゅう、王妃」
相変わらず明るい表情で優雅にドレスの裾を摘んで頭を下げるロベルタに、キリエは両手を合わせて挨拶を返す。
「お久しぶりです、ロベルタ様」
「ビジュー宮殿での生活はいかがですか。例の騒動では大変でございましたわね」
キリエは苦笑するとロベルタにソファを勧めた。
「はい。でも、あれからは宮殿も落ち着きました。皆のおかげです」
「お聞きしましたわ。ルイーズ・ヴァン=ダールと一戦交えたそうですね」
その言葉にキリエははっとする。そういえば、オイールが襲撃された時に二人がただならぬ雰囲気で言葉をぶつけ合っていた光景を思い出す。
「お気持ちお察しいたしますわ。本当に嫌な女ですもの」
ロベルタが眉を寄せて囁く様子に、キリエは恐々と身を乗り出す。
「……あなたも、何かあったのですか?」
「ええ、内戦の時のことですが」
内戦と聞いてキリエは思わず顔を強張らせる。
「もうご存知でしょうが、私の夫シャルルは最初、リシャール様の元でギョーム王陛下と戦っておりました」
「……はい」
ロベルタはそこでハーブティーで喉を潤すと、一息ついてから続けた。
「でも、私がギョーム王陛下の下へ降るよう説得したのです」
「……それは、何故……」
キリエの慎重な問いかけに、ロベルタは微笑んでみせた。
「ここだけのお話ですけれど、私、リシャール様が嫌いでした」
ギョームと言い、ロベルタと言い、リシャールを嫌う者は多い。キリエは、思わず父エドガーを思い出した。
「あんな不誠実で冷酷なお方、私は嫌いでした。本当に我が夫シャルルの兄なのか、何度も疑いましたわ」
確かに、レイムス公は穏やかで物静かな印象があった。ギョームも叔父には信頼を寄せているのだろう、彼を敬う言動が多い。
「あんなお方がガリアの王で良いわけがない。ギョーム王陛下の方がよほど賢いお方ですもの。それに……」
ロベルタは少し哀しげに眉をひそめ、どこか遠くを見つめるような眼差しで囁く。
「ギョーム陛下は、エスタドに立ち向かう勇気をお持ちです。私の夢は……、祖国レオンがエスタドから独立することです」
「……ロベルタ様……」
キリエはロベルタの瞳に引き込まれた。彼女は静かに続けた。
「夫は私の願いを聞き入れ、ギョーム王陛下の下に降ってくれました。……辛い決断をさせてしまったのはわかっていますわ。でも、とても嬉しかった」
キリエは小さく頷く。だが、胸の鼓動が段々と早まっていくのを感じて手を握りしめる。自分が彼女の立場だったら……、どうするだろう。
「結局、ギョーム王陛下がガリアの新しい王に即位されたけれど、……あの女」
「……マダム・ルイーズ?」
恐る恐るキリエがその名を口にすると、ロベルタは顔をしかめて頷く。
「妻が夫に決断を迫るなど、悪妻にもほどがある、と言ってきたわ」
「そんなことを?」
思わずキリエは口を手で覆って声を上げる。たかが女官長の分際で、王弟妃にそこまで言い放つとは。ロベルタは少し興奮気味ににじり寄ってきた。
「でも王妃、よくお考えになって。シャルルの協力があったからこそ、ルイーズの大事な大事なギョーム王陛下が王位に就くことができたのではなくて?」
「……はい」
ロベルタは悔しげに呟いた。
「もちろん、二人で何度も話し合いました。決断を下したのはシャルルです。……彼が拒めば、私も諦めるつもりでした。レオンも大事だけど、何よりも夫が大事ですもの」
その言葉を聞いて、キリエはふっと微笑んだ。そして、ガリアの貴族たちがロベルタのことを「レオンの頼もしいお嬢様」と揶揄しているのを思い出した。確かに、この気の強さは誤解を招きかねない。だが、それは自分本位のわがままではなく、愛する祖国と夫のためだ。キリエは、彼女のことが少し好きになった。ロベルタは気を取り直して笑顔で呼びかける。
「だから、王妃がルイーズに負けずに言い返されたことをお聞きして嬉しかったですわ」
「あれは、ギョームが途中で助けてくれたから……」
「あら。うふふ。ギョーム王陛下は本当に王妃を愛していらっしゃるのね」
キリエは耳まで真っ赤になると黙り込んだ。そんな王妃にロベルタは軽やかに笑うと、キリエの肩に手を添えた。
「これからも何か困ったことがあれば、ご相談に乗りますわ。王妃。後宮での嫌がらせだって、もっと早くご相談されていれば」
「はい。ありがとう、ロベルタ様」
キリエの言葉に、ロベルタは愛嬌のある笑顔で優雅に頭を下げて見せた。