船と早馬を乗り継いだアングルの使者がガリアのビジュー宮殿に到着した。報せは真っ先にギョームへと伝えられ、彼はすぐさま援軍を組織するよう命じた。
「ギョーム!」
レノックス挙兵の報を受けたキリエが、転びかねない勢いで王の間へ飛び込んでくる。真っ青な顔付きの妻にギョームが険しい表情を向ける。
「落ち着け、キリエ」
「でも……!」
「援軍を送るよう指示した。すぐに駆けつける」
キリエがおろおろして視線を彷徨わせる中、
ギョームが鋭い声で宰相を呼ぶ。
「バラ、エスタドからも目を離すな。国境及び沿岸の警備を強化せよ。カンパニュラとポルトゥスにも沿岸警備を呼びかけろ」
「御意」
バラが一礼すると王の間を足早に立ち去る。その後姿を見送ったキリエは、思わず額に手をやり、女官が慌てて両側から支える。
「……キリエ」
ギョームは目で女官たちを下がらせると、妻の肩を抱いて耳元で囁いた。
「アングルへ帰ろう」
彼女は眉をひそめ、両目を見開いて夫を見つめる。
「ここにいても気を揉むだけだろう。援軍と共にアングルへ帰ろう。私も一緒に行く」
「ギョーム……」
震える息を吐き出すと、キリエはギョームの胸に顔を埋めた。
「……ありがとう」
ビジュー宮殿が慌ただしく動き始める中、旅装に着替えたキリエは、ギョームと連れ立ってマリーの居室へと向かった。妊娠がわかった彼女をアングルまで同行させるわけにはいかなかったのだ。
「マリー」
「王妃……」
マリーは固い表情でソファから立ち上がった。
「ゆっくりしていて、マリー。行ってくるわ」
「申し訳ございません。女官長として同行しなければならないのに……」
いつも穏やかなマリーの表情が今回ばかりは強張り、キリエはそっと手を握り締めた。
「体を大事にしないと。あなたもアングルが気になるでしょうけど……」
「体を労っておれ、グローリア伯夫人」
「ありがとうございます、陛下……」
マリーが深々と頭を下げると、ギョームが微笑みながら付け加える。
「そなたに何かあったら、グローリア伯がまた倒れてしまうからな」
王の冗談にマリーは苦笑してみせる。ジョンは今、エスタドとの国境を警備するために、聖女王騎士団を率いて出動していた。
「失礼、王妃」
振り返ると、ルイーズが女官と共に入ってくる。
「妊娠中のグローリア伯夫人に代わってお仕えする、新たな寝室付き女官をご紹介いたします」
「まぁ、ありがとう、ルイーズ」
ルイーズが前に出るよう促すと、女官は優雅に跪いて頭を垂れた。年の頃は三十前後だろうか。
「お初にお目にかかります、キリエ王妃。ジゼル・ヴィリエと申します」
ジゼルの名を耳にしたギョームが顔を引きつらせるが、キリエはそれには気づかず、微笑むと両手を合わせて軽く会釈を返した。
「キリエです。初めまして」
「マダム・ジゼルは三年前にご夫君のパルム伯を亡くされ、宮廷を一時離れておりましたが、教養の高さは有名でございました。グローリア伯夫人のご出産まで、代わりを務めていただきます」
「まぁ、そのお年でご夫君を亡くされたの?」
キリエが眉をひそめるとジゼルはにっこりと微笑んだ。美しい黒髪に薔薇色の頬が肌の白さを際立たせている。細めた目がどこか艶やかな印象を与えるが、自然と引き込まれてしまいそうな彼女の黒い瞳にキリエも笑顔になる。
「屋敷で退屈な時間を過ごしておりましたが、縁あって王妃にお仕えさせていただけることになりました。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
キリエが右手を差し出すとジゼルは恭しく手を取り、再び跪いた。その優美な仕草にすっかり魅了された様子のキリエに、ギョームが眉をひそめたことにマリーは気がついた。
やがて一向は慌しさに満ちたアプローチへと向かった。自らの傍らに控えているバラに、ギョームが不機嫌そうに囁く。
「どういうつもりだ。パルム伯夫人はそなたの……」
ジゼル・ヴィリエがバラの愛人だということを、さすがのギョームも知っていた。だが、バラは涼しい顔で答える。
「私の女です。ですが、あれはアングル語が堪能ですし、頭も良い。お役に立つでしょう」
ジゼルの美貌と教養の高さは、夫が健在中の時からギョームも知っていた。だが、夫を病で喪った彼女とバラが愛人関係となり、潔癖性のギョームは良い顔をしなかった。
「キリエに良からぬ影響を与えてもらっては困る」
「大丈夫でございますよ。その辺りはわきまえた女です。それに、アングルの文化にも精通し、機転が利くところは女官として才能を発揮してくれるだろうと思いまして」
王は腹心を一瞥した。女性をどこか軽視するところや妻をなおざりにするところは父リシャールとよく似ている。結局は似た者同士だったか。バラの目端が利く点を評価していたギョームは諦めに似た思いで息を吐き出す。
「予の気に入らぬことがあれば、すぐに追放するぞ」
「もちろんでございます」
アーチを潜ると馬車が用意されている。ギョームは表情を引き締めた。
「後は頼んだぞ。警戒を怠るな」
「御意」
本来ならば二日かかるところをかなり強行な行程を組んだため、キリエたちは一日半でルファーン港に到着することができた。到着した翌日には軍艦に乗り込み、一路アングルを目指す。王と王妃を乗せた旗艦に、多くの兵や馬を満載した船が続く。船室でギョームが廷臣たちと会議を開いている間、落ち着かない様子で甲板を彷徨う王妃の姿があった。
やがて洋上で日没を迎え、船団は深い夜に包まれた。満月の青白い明かりだけが降り注ぎ、船縁を叩く波の音が静かに響く甲板で白い影がふわりと浮かび上がる。船室を抜け出したキリエがモスリンの肩掛けを胸で掻き合わせ、音を忍ばせて船縁へ向かう。夜風に体を震わせ、アングルの方角を黙って見つめる。本国の戦闘はどうなっているのだろう。レノックスは、エレソナは、今どうしているのだろう。早く。早くアングルへ。
「王妃」
不意に呼びかけられ、キリエは飛び上がって振り返った。そこには、ランタンを手にした美貌の女官が心配そうな面持ちで佇んでいる。
「お足元が危のうございますよ」
流暢なアングル語。キリエはほっと微笑を浮かべた。
「綺麗なアングル語ね。マダム・ジゼル」
「ジゼルとお呼び下さい」
彼女は船縁にランタンを置くと、沈みがちの王妃を見つめた。
「……ご心配でしょう、王妃」
「……ええ」
キリエは眉を寄せると再びアングルの方向を振り仰いだ。
「……アングルに帰るのは半年後だと思っていたけれど、まさか二ヶ月で帰ることになるなんて……」
女官は眉をひそめて囁いた。
「すぐに制圧されますわ、きっと」
だが、キリエは表情を変えずに呟く。
「……嫌な予感がするの。何だか、胸がざわついて……、落ち着かないの」
「王妃」
ジゼルがキリエの手をそっと握る。彼女は真剣な眼差しで王妃を見つめた。
「ご心配でしょうが、王妃。あなた様はもはやお一人ではございませんわ。ギョーム王陛下が王妃を守って下さいます。どうぞお気を強くお持ちになって下さい」
「……そうね」
キリエはようやく口元をほころばせた。確かに、一人で帰るよりもギョームがいると思えば心強かった。キリエは女官を見上げた。そういえば、エヴァは元気だろうか……。
「ジゼル、あなたはどこでアングル語を覚えたの?」
「親戚にアングル出身の者がおりまして、幼い頃に教えてもらいました。でも、アングルを実際に訪れるのはこれが初めてです」
「オイールに比べたら田舎よ。驚かないでね」
「あら、そうなんですの?」
ジゼルが笑いかけるが、すぐに口をつぐむ。そして、王妃が寂しげな瞳でアングルの方向を見つめるのを黙って見守った。
この空の向こうに、ジュビリーがいる。そして、レノックスも。……早く。船よ、もっと早く……!
兜のバイザーから鋭い目がのぞく。馬上の騎士はおもむろに右手を上げると、一気に振り下ろした。
「てぇッ!」
風を切る音が唸ると一斉に
「迎え撃て!」
騎士の雄叫びに、歩兵たちが一斉に武器を構え、叫び声を上げながら突撃してゆく。その様子を見守る男に、騎士が駆け寄る。
「マーブル伯! ルール公がそろそろ合流いたします」
「遅かったな」
シェルトンは目を細めた。
「エレソナ様は?」
「ルール城に」
「そうか」
戦況は一進一退だった。イングレスにはまだ聖女王騎士団の一部が駐留している。それだけではない。各地の諸侯から編成されたアングル軍はかなりの規模を誇っている。それを、ここまで互角に戦っているのだ。手間隙をかけてエスタドから武具や防具を手に入れた甲斐があった。だが……。
「ホワイトピークに動きは?」
「まだ報せは届いておりませんが……」
「動きがあればすぐに知らせろ。すぐにだ」
「はっ」
女王が不在中とは言え、彼女が
ホワイトピークに到着したのは翌日の昼だった。港に懐かしい顔ぶれが集まっているのを目にして、キリエは思わず胸を詰まらせた。
「ありがとうございます、ギョーム王陛下」
ホワイトピークを守るウィリアムが険しい表情で跪いて出迎える。傍らにはイングレスから駆けつけたレスターも控えている。ギョームも緊張した面持ちで頷くと暗い表情の妻の手を握り締めた。下船した女王の顔つきから疲労と船酔いを察し、老臣は顔をしかめた。
「医師をお呼びしましょうか」
「大丈夫よ、船医に診てもらったから」
ウィリアムとレスターが強張った表情で顔を見合わせ、キリエは嫌な予感を感じて眉をひそめた。
「……どうしたの?」
二人はしばらく迷っていたが、やがてウィリアムが重々しく口を開く。
「今……、ヒース司教がルール公の陣地へ向かっております」
キリエの目が大きく見開かれる。
「……何ですって」
キリエのかすれた声に、ウィリアムが険しい顔つきで項垂れる。ギョームが身を乗り出す。
「キリエの兄君か」
「御意……」
「殺されるわッ!」
突然キリエが叫び、ギョームが慌てて肩を押さえる。
「どうして……、どうしてそんなことをッ!」
「落ち着け、キリエ!」
振りほどこうとする妻を抱きすくめると、彼らに問いただす。
「一体何があったのだ」
「それが……。ルール公が挙兵したとお聞きになって、すぐにヒース司教が弟君を説得したいとお申し出になり……」
しどろもどろに答えるレスターに代わってウィリアムが進み出る。
「司教を危険に晒すことはできないとクレド侯が拒んだのですが、ルール公の進撃が止まらないため、今日半ば強引に司教がルール公の元へ。サー・ロバート・モーティマーが同行しております」
「サー・ロバート……!」
混乱した様子で呟くキリエをしっかり抱きしめながら、ギョームはレスターに命じた。
「とにかく、イングレスへ向かおう。話はそれからだ」
「御意」
イングレスとルールの中間地点、ヒーリス伯領。シェルトンの軍と合流したレノックスはここに陣を構えている。一足先に使者を送り込んだモーティマーは、ヒースと共にレノックスの陣へ向かっていた。ヒースの脳裏には、最後に弟と
最後に会ったのは、聖アルビオン大聖堂。異母弟エドワードの五回忌だった。異母兄として参列すると、聖堂内は異様なざわめきが広がった。そこには、エドワード王太子の暗殺と、ヒース司教の暗殺未遂を噂されていた冷血公レノックスが参列していたのだ。
目の見えないヒースが不安げにその場に立ち尽くしていると、付き添っていた修道士が息を呑んでヒースの手を引こうとした。と、もう片方の手を不意にぐいと握られた。
「……!」
ヒースは顔を歪めた。そして、息を潜めて親指の腹で相手の手のひらをなぞる。固い皮膚。自分よりも大きな手。
「……レノックス?」
その場が静まり返った。相手は沈黙を守っている。ヒースは我慢強く反応を待った。すると、耳朶に熱い息がかかる。
「……よくわかったな、兄上」
ぞくりと背に寒気が走る。何年ぶりかに耳にする、弟の声。激しい性格とは裏腹に、練れた低い声は、耳から離れることはない。ヒースはごくりと唾を飲み込むと気を落ち着けた。
「……あなたの手は、よく覚えています。剣だこがありますから」
弟がふんと鼻先で笑ったのがわかった。彼はそっと手を離した。温もりが薄れ、乾いた風が指先を舐めた。
その日は、それきり言葉を交わすことなく二人は別れた。あれ以来、レノックスとは会っていない。
陣地の天幕が見え始めた頃、ルール軍から出迎えの騎士が現れた。
「お迎えに参上いたしました、ヒース司教」
「……ありがとう」
「ルール公がお待ちです」
騎士の言葉にモーティマーはごくりと唾を飲み込む。彼の緊張を感じ取ったのか、ヒースが顔を巡らせた。
「……サー・ロバート、ご迷惑をおかけします」
「いいえ、お気になさらず、司教」
ヒースはふっと微笑を浮かべた。
「あなたには世話になりっ放しですね」
モーティマーは静かに息をつくと「こちらこそ」と呟いた。
二人の付き合いは意外と長いものだった。十三歳で小姓見習いとして王宮に出仕したモーティマーが最初に任された勤めは、王の書斎控えだった。利発で勤勉なモーティマーは年少でありながら書物の造詣に深く、また蔵書に関する記憶も素晴らしかった。そのため、国王エドガーはすぐにこの少年を気に入り、どこに行くにも連れ歩くようになる。
そして、時同じくして勉学好きだった幼い長男ヒースを自らの書斎に出入りさせるようになった。自分を好奇の目で盗み見る人々に囲まれ、居心地の悪い思いをしていたヒースをモーティマーは何かと面倒を見てやっていた。そのヒースがレノックスによって光を奪われたと聞いた時、モーティマーは愕然とした。その頃から、モーティマーはレノックスに対して嫌悪と軽蔑の念を抱いていた。が、それは相手も同じだった。
レノックスにとっては、父に溺愛されている異母兄ヒースと同じく、父に目をかけられているモーティマーの存在が目障りでならなかった。二人とも自分と違って勤勉で、温和で、皆に好かれている。自分は騙されぬぞ。その厚い化けの皮の下には欲が渦巻いているのだ。父上の機嫌を取り、その恩恵に与る蛆虫めが! レノックスとモーティマーの間には、長きに渡って厳然とした確執があったのだ。
一行は黙って陣へ向かった。モーティマーを始めとした、ヒースを囲んだ武装した騎士たちは皆緊張に顔を引き攣らせている。ルールの騎士が、白い天幕の一つを指し示した。
やがて、ヒースの耳に馬の鼻息や甲冑が触れ合う金属音が絶え間なく流れ込む。人の囁き声なども聞こえるが、皆抑えた口調だ。手を取って先導するモーティマーの手が、汗でじっとりしてくるのがわかる。やがてモーティマーが立ち止まり、ヒースもその場に立ち尽くす。しばらく押し殺した話し声が聞こえていたが、不意に背後から大股に歩く武装した男の足音が聞こえてくる。足音は近付いてくると前方へと回り込む。そして、話し声がぴたりと止まる。
「兄上」
正面から呼びかけられ、ヒースは顔を上げた。
「……レノックス」
「久しぶりだな」
久方ぶりに耳にする弟の声に、ヒースは眉間に皺を寄せ、わずかに首を傾げた。
「……レノックス……? 本当にあなたなのですか?」
「私以外の誰がレノックス・ハートだ?」
ヒースは顔つきを険しくすると呟いた。
「あなた……、変わりましたね」
「……そうか?」
モーティマーは思わず固唾を飲んでヒースを見つめた。彼の正面に立つ冷血公は、相変わらず冷たい笑みを浮かべている。だが、確かにヒースの指摘どおり、何かが違う。剣の切っ先のように危うい激情を迸らせていた若者は、今やどこか痛々しげな寂寥感を背負っている。この盲目の司教は、声だけでそれを察知した。
「エドワードの五回忌で会って以来だな」
ヒースは耳を澄ませる仕草をすると囁いた。
「エレソナは? ここにいますか」
「いや」
レノックスは目を細めた。
「ルール城に置いてきた。……少し体調を崩している」
「悪いのですか」
「大丈夫だろう。大人しくさえしていれば」
ヒースは眉をひそめたまま、弟がいるであろう方向に見えぬ目を向けた。しばらく無言で向き合う兄弟を、皆は息をひそめて見守った。不測の事態に対応できるよう、モーティマーはそっと足を肩幅に開き、冷血公をそっと見据える。ヒースが静かに口を開いた。
「……あなたを、説得しに来ました」
「私を?」
「お願いです。これ以上無益な争いはやめて下さい」
兄の言葉に弟は鼻先で笑った。
「同じことをキリエに言ってくれたか?」
「何故王位にこだわるのです? 国民はあなたではなく、キリエを選んだのですよ」
「ふん。キリエでも女王になれたのだ。私だって王になれるだろう。それどころか、あの糞親父だって王になれたのだからな」
レノックスが自らの父を糞親父と呼ぶのを、ヒースは初めて聞いた。
「父上はあなたを可愛がっていたではありませんか」
「確かに。欲しいものは何でもくれた。だから、最後に欲しいものを要求しただけだ」
ヒースの表情が哀しみに歪む。わずかにかすれた声で、必死に呼びかける。
「そんなに、憎いですか。……父上の愛情を奪ったキリエが」
モーティマーは胸を打つ鼓動を抑えながら二人に視線を彷徨わせた。一方、レノックスの背後で控えているシェルトンは、興味がなさそうに目を逸らしている。レノックスはにんまりと嗤うと身を乗り出した。
「私が本当に憎んでいるのは、あなたですよ、兄上」
その場の空気が一瞬にして冷たくなったのを、ヒースは肌で感じた。隣のモーティマーがごくりと唾を飲み込む気配さえわかった。言われなくとも、ずっと前から知っていたことだ。ヒースは顎を引くと口を閉ざした。
「……父上は、すべての期待と愛情を兄上に注いだ。キリエの猫可愛がりようなど、どうでもよかった。あれは女だからな。だが、兄上への溺愛ぶりは我慢できなかった。そして、どうやってもあなたにはかなわないことも、知っていた」
「レノックス……」
弟は面白がるような口調で続けた。
「しかし、兄上の勇気には毎度驚かされる。……生きては帰れぬかもしれないと、考えなかったのか?」
「ルール公……!」
「黙っていろ、モーティマー」
思わず気色ばむモーティマーにレノックスが牽制する。ヒースは表情を変えないまま、立ち尽くしている。
「……何もしないで望まぬ結末に終われば、私は一生後悔するでしょう」
「兄上の望む結末とは何だ。キリエとの和解か? それなら無理だ」
「どうして……」
「それより、兄上にずっと聞きたいことがあった」
「……何です?」
レノックスは目の前で固く目を閉じた兄を見つめ、静かに口を開いた。
「私を、憎いとは思わないのか」
皆が息を飲んで二人を凝視する。公では、ヒースが視力を失ったのは薬による「中毒」ということになっていたが、宮廷ではレノックスが毒殺を謀った結果だということが知れ渡っていた。
ヒースはしばらく口をつぐんでいた。レノックスは辛抱強く兄の答えを待ち、やがてヒースは小さく息をついてから口を開いた。
「……私が、一生をかけて克服しなければならないのは、あなたへの憎しみです」
ヒースの答えに、思わずモーティマーは振り返った。司教は低い声で言い添えた。
「……死ぬまでには、消し去りたいものです」
その言葉を聞いたレノックスは嬉しそうに笑みを浮かべた。まるで、待ち望んでいた答えを手にしたような表情。
「兄上の口から、そんな言葉が出るとはな」
強張った顔つきの兄を楽しげな表情で眺めると、言葉を続ける。
「因果なものだな。兄上は私に両目を奪われ、私はキリエの宰相に右目を奪われた」
「何ですって」
「イングレスを奪い返された時だ」
ヒースは黙って眉をひそめた。レノックスは抑えた口調で呟いた。
「何かを奪えば何かを失う。……キリエもそうだ。王冠を手に入れたものの、体を異国の王に差し出した。……哀れな奴よ」
その言葉にヒースはぎくりとして顔を上げる。
「キリエは……、身を売ったわけでは」
「あいつがあの若造との結婚を望んでいたと、本気で思っているのかッ、兄上!」
ヒースが息を呑んだのは、レノックスの激しい口調だけが理由ではなかった。レノックスは低い声で言い放った。
「兄上もバートランドも、キリエを手放したことを一生後悔するがいい」
弟の言葉に、ヒースはかすかに唇を震わせて黙り込んだ。キリエは、ガリアに嫁ぐのをあんなに恐れていたではないか。彼女はガリアに行きたくない一心で、突然現れたレノックスの元へと向かった。彼に、殺されるために。
(ガリアに嫁ぐぐらいなら、レノックスに殺されようと思いましたね? そんなこと、絶対に許しません!)
あの時、そう言って妹を叱咤した。だが、彼女の恐れと苦悩を、本当にわかってやれただろうか。
「……キリエ……」
やりきれない表情で呟くヒースをモーティマーが見つめていると、天幕の外が騒がしくなる。
「公爵……!」
斥候が駆け寄るとレノックスに耳打ちする。わずかに表情を変えた冷血公は、目を細めると兄を見つめた。
「兄上。キリエが帰ってきたらしい。……夫と一緒にな」
途端にその場が騒然となる。キリエの帰国は援軍の到着を意味するからだ。レノックスは息をつくと背筋を伸ばし、兄を見つめた。
「時間だ、兄上。お帰り下さい」
「レノックス!」
ヒースが思わず体を乗り出すがモーティマーが押し留める。
「レノックス……! 今なら……、まだ間に合います!」
「もう手遅れだ」
「レノックス!」
「……兄上は変わらないな」
苦笑混じりに呟かれた言葉に、ヒースは思わず言葉を飲み込んだ。
「本当に父上の子どもなのか? どうしてそんなに高潔でいられる?」
モーティマーをふりほどくようにヒースは激しく頭を振った。
「レノックス……! 私は、あなたが思っているような人間じゃありません! 非力で、臆病な……、偽善者です!」
「司教……!」
モーティマーが必死で肩を押さえるが、ヒースはなおも身を乗り出した。
「でも、これ以上……、家族を失いたくないのです! 本当です!」
目を閉じたまま必死で叫ぶ兄を、レノックスはじっと見つめた。が、やがて口元に笑みを浮かべると呟いた。
「兄上、キリエに伝えてくれ。……また会おう、と」
「レノックス!」
「司教……!」
ヒースを半ば羽交い絞めにするモーティマーに、レノックスが黙ったまま笑いかける。ごくりと唾を飲み込むモーティマーに、レノックスは顎をしゃくって帰るよう告げる。
「サー・ロバート! 離して下さい!」
ヒースの叫びが耳を裂く。モーティマーは口を歪めると司教の耳元で囁いた。
「司教……! 弟君の最後の慈悲でございますよ。お察し下さい……!」
モーティマーの言葉にヒースは息を呑む。やがて、甲冑の軋む音が響き、遠ざかってゆく。
「レノックス……! レノックス! 待って! レノックス!」