同じ頃、女王とその夫を乗せた馬車がプレセア宮殿に到着した。イングレス市民は結婚後に初めて女王が王配を伴って帰国したことに沸き立っていた。冷血公の挙兵に皆恐れと不安を抱えていたものの、女王が援軍を率いて帰国したことに喜びを爆発させたのだ。
馬車の窓から顔を覗かせると、アプローチの入り口に黒衣の男が佇んでいる。目に馴染んだその姿にキリエの胸が懐かしさで締め付けられる。
「ジュビリー……」
思わず呟くが、その手をそっと握られ、ぎくりとする。そして、まるでジュビリーの名を口にしたことを詫びるかのように夫の手を強く握り返した。ギョームは黙ったまま妻の腰に手を添え、馬車から降り立つのを手伝った。
「王妃」
険しい表情で宰相が歩み寄る。
「兄上は……!」
「部隊を派遣しております。……申し訳ございません。お引き留めしたのですが……」
頭を深く垂れて詫びるジュビリーに、キリエは強張った顔つきで呟いた。
「……仕方ないわ。意志の強いお方だから……」
ジュビリーは、次いでギョームに向かって恭しく跪いた。
「ギョーム王陛下。この度は援軍の派遣、感謝いたします」
ギョームは相変わらず柔らかな笑顔で頷くが、かすかに眉をひそめる。
「痩せたな、クレド侯」
「……いえ。ご心配なく」
口ごもるジュビリーをじっと見つめてから、ギョームはキリエを先に歩ませた。アングルの君主である妻を立てる行為に、レスターは内心感心しながら後に続いた。
「……怪我は?」
大広間に向かいながらキリエが尋ねる。
「ずいぶん良くなりました」
「無理しないで」
「御意」
キリエは宰相をそっと見上げた。
「マリーもジョンも、元気よ。……お腹の子も」
ジュビリーは目を細めると無言で頷いた。
大広間に入ると巨大なテーブルの周りに廷臣たちが行き交い、斥候が絶え間なく出入りしている。キリエは鎮痛な面持ちになった。戦争が始まれば、城や宮殿の大広間ではすぐに戦略会議が開かれる。この騒がしくも張り詰めた空気に、キリエはいつまでも慣れることができなかった。
顔色の悪いキリエを高座に座らせると、ジゼルは侍従に冷たい飲み物を持ってくるよう頼んだ。セヴィル伯が傍らにやってくると戦況が報告され、キリエは黙ったままそれに耳を傾ける。一方、テーブルに広げられた戦略地図に目を走らせたギョームは眉をひそめた。平野を示した部分に馬を象った駒があちこちで陣形を組み、王都イングレスを守っている。やがて目を上げてジュビリーを招き寄せる。
「砲兵隊はどうした」
「……待機させております」
「使わねば意味がない」
「……はっ」
歯切れの悪いジュビリーに、ギョームは顔をしかめて囁く。
「いつからそんな弱気になった」
ジュビリーは、真っ直ぐに見上げてくる若い王の視線を逸らすと口を閉ざした。普段はともすれば冷酷にも見える黒衣の宰相だが、表情に苦悶が見え隠れしている。ギョームは小さく息をついた。
「気持ちはわかる。相手が相手だからな。だが、そんな弱気なようではキリエの留守は任せられんぞ」
「……申し訳ございません」
強張った表情のまま頭を下げるジュビリーに、ギョームは周囲に聞こえるように声を高める。
「援軍を合流させよう。いつまでもヒーリス伯だけに戦わせるわけにはいかないであろう」
その時、大広間に従者が数人駆け込んでくる。
「申し上げます! ルール公が攻撃を再開した模様です!」
一瞬、皆が息を呑んでその場に立ち尽くすが、キリエが立ち上がって叫ぶ。
「兄上は?」
「サー・ロバート・モーティマーによってその場を脱し、こちらの部隊と合流いたしました。ご無事です!」
無事と聞いてもキリエは体を震わせてその場に立ち尽くし、ジゼルが椅子に座るよう手を取る。ヒーリス伯領を突破されると、イングレスとは目と鼻の先だ。ジュビリーはセヴィル伯に向かって言い放つ。
「イングレス郊外に待機させていたエルガー侯の軍を向かわせろ。作戦通り、砲兵隊とロングボウ隊を連携させる」
「はっ!」
途端に大広間が騒然となり、廷臣たちが出撃命令を出すべく駆け出してゆく。キリエは両手を握り締めて額に押し付け、祈りの言葉を呟いた。嫌な予感がする。これまでのレノックスとの戦いでは感じなかった胸騒ぎ。正体のわからない、黒い煙が胸を覆いつくす。王位継承戦争ではただがむしゃらに異母兄と戦っていたが、今回は何かが違う。
「……兄上……」
震える囁きにジュビリーが振り返る。呼びかけた相手はヒースか。それとも……。体を小刻みに震わせる王妃の肩をジゼルがそっと撫でた。
荒々しいルール軍の攻撃は、ついにヒーリス伯の軍を破った。守りを突破したルール軍とマーブル軍は、真っ直ぐイングレスへと進路を取った。散り散りに敗走するヒーリス軍の兵士たちがイングレス郊外に逃げ込むと、待機していたエルガー侯の軍が一斉に出撃してゆく。
軍の後方で馬を駆るレノックスに、併走するヒューイットが叫ぶ。
「公爵!」
一瞥すると、ヒューイットが自分の兜を指差している。レノックスは苦笑いを浮かべると鞍にぶら下げていた兜を被った。
ルール・マーブル連合軍は怒涛の勢いでイングレスへと迫った。が、一時間もしないうちだった。軍の前方でざわめきが起こる。顔をしかめたレノックスの耳に、遠くから乾いた轟音が響いてくる。
「何の音だ」
思わずそう口走った時、破裂音と共に軍馬の一群が跳ね上がる。
「砲撃か……!」
次の瞬間、彼の目に吹き飛ばされる騎兵たちの姿が飛び込む。
「ちッ……!」
レノックスは苦々しげに舌打ちした。
ガリアから持ち込まれた砲兵隊は次々に砲弾を撃ち込んだが、ガリアとは勝手の違うアングルの大地では車輪付きの砲台を思うように移動させることができず、連続した砲撃はできなかった。砲撃を浴びながらもルール軍はなおも進撃した。指揮官であるエルガー侯はやむなく砲兵隊を下げ、騎兵隊に迎撃を命じる。
槍を構えた騎兵たちが一斉に突撃し、両軍は真っ向から激突した。砲撃による損害を受けていたルール・マーブル軍は攻撃を跳ね返され、じりじりと後退を始めた。押し返すだけの勢いも削がれている。反乱軍の将兵らの顔に焦りと恐怖の色が広がる。と、後方から雄叫びが上がったかと思うと一頭の黒馬が飛び出す。
「邪魔だ! 退け!」
猛獣の咆哮。双方の兵士は咄嗟に振り仰いだ。赤い甲冑に血塗れの大剣。鮮血に染まった外衣が風に煽られ、バイザーを跳ね上げると隻眼が現れる。皆は息を呑んで後ずさった。
「怯むな! 蹴散らせ! 奴らを突破すればイングレスは目の前だ!」
狂気に満ちたその怒鳴り声にエルガー軍の兵士たちは震え上がった。
「……冷血公!」
敵の動揺を見逃さず、ルール軍の兵士たちは一斉に攻撃に転じた。大剣を振るい、襲い掛かる騎士たちを次々と薙ぎ倒す冷血公レノックスの姿に、エルガー軍の兵士らが悲鳴を上げて逃げ始めるのをエルガー侯は唇を噛み締めて見つめた。が、傍らの騎士に向かって命令を下す。
「……良いな、作戦どおりに動け」
「はっ!」
騎士の指示で兵士がラッパを吹き鳴らす。レノックスに恐れをなしたエルガー軍が東西に分かれて一斉に退却してゆく。そのあまりの素早さにレノックスが目を剥く。と、突然開けた前方から黒い霞のようなものが視界に飛び込む。
「あっ……!」
退却を命じる暇もなかった。真正面から撃ち込まれたロングボウの一斉射撃にルール軍の兵士らは次々と倒れてゆく。
「クレドの……、寝取られ男がッ……!」
思わずレノックスが吐き捨てるが、ルール軍が怯んだ隙を狙ってエルガー侯の軍が左右から挟撃する。騎士と騎士、歩兵と歩兵がぶつかり合い、戦場は地獄さながらの光景が繰り広げられる。ほとんどの騎士たちは馬から叩き落され、白兵戦に持ち込まれた。
槍で攻撃を受けたレノックスが馬から転げ落ちると立ち上がりざまに相手を斬り捨てる。が、ぐらりとよろめくと剣を大地に突き立てて片膝を突く。思えば右目を失ってから初めての戦場だった。思った以上に感覚が掴めず、均衡を保てない。激しい目眩に襲われ、レノックスは苦しげに喘いだ。
「くそッ……!」
憎々しげに吐き捨て、唇を噛み締めると剣の柄を握り、視界を妨げる兜を脱ぎ捨てた。頭の隅で、ヒューイットが兜を取るなと叫んだような気がしたがそのまま立ち上がる。
「私にも意地がある……!」
レノックスは奥歯を噛み締め、胸の中で呟いた。
「いつも誰かに守られてばかりのキリエとは、違う!」
背後から叫び声を上げて襲いかかる兵士に、振り向くと同時に斬り捨てる。
「貴様らとは、違うのだ!」
レノックスの咆哮にエルガー軍の兵士らが思わず後ずさるが、彼が再び目眩を起して頭を押さえると一斉に襲いかかる。だが、冷血公はそれでも剣を振るい、次々に打ちかかる敵兵を薙ぎ倒した。血飛沫を浴びながら敵兵を斬り伏せ、恐怖の悲鳴を上げる者には狂気じみた笑い声を上げながら容赦なく剣を叩き込む。レノックスの周囲には、血に染まった死体が次々と折り重なっていった。
見失った主君を捜していたヒューイットが、髪を振り乱して戦うレノックスを見つけ、馬を走らせた。その時、突然耳を裂く風の音が飛び込んだかと思うと歩兵たちが次々に倒れる。彼らの首元には太く短い矢が撃ち込まれている。
「クロスボウ!」
ヒューイットが短く叫ぶ。公爵を狙っている。
「いけない、公爵!」
叫んだ瞬間だった。数本の矢がレノックスの首と顔に撃ち込まれる。
「公爵!」
ヒューイットの絶叫にルール軍の兵士らが振り返る。
「……ッ!」
レノックスは篭手を嵌めた手で顔を押さえた。そして、固く太い矢の肌触りに目を細めて歯噛みする。取り囲んだ兵士らが固唾を呑んで見守る中、冷血公はゆっくりとその場に倒れた。
「公爵ッ!」
ルール軍の兵士らが一斉にその場を取り囲み、馬から転げ落ちるようにして降り立ったヒューイットが主君に駆け寄る。
「公爵! 公爵ッ!」
レノックスは血塗れの手をぼんやりと眺めた。そして、血で真っ赤な顔から覗く左目でヒューイットを見つめる。彼の従順な騎士は髪を振り乱し、汚れた顔で叫んだ。
「公爵……! だ、だから、兜を被るよう、あれほど……!」
ヒューイットの言葉にレノックスはにやりと笑ってみせた。いつもと変わらぬ、冷酷で、残忍な、哀しい笑み。そして、従者の肩越しに、すでに夕焼けへと変わった空を見上げる。血と見紛うばかりの鮮烈な赤い空。脳裏に、自分に襲われて気を失ったキリエの姿がよぎった。
(何故……、あの時殺しておかなかったのだろう)
遠ざかる意識の中でレノックスは呟いた。そして、諦めにも似た苦笑いが口から漏れる。
(……妹か)
あの日、最後に会ったキリエの言葉が頭にこだました。
(お願い、服従して、レノックス。私、これ以上争いたくないの)
もう一人の妹、エレソナが泣き叫ぶ姿も浮かんだ。
(行くな! 兄上……!)
レノックスはゆっくりと瞳を閉じた。赤い世界が消え、暗い闇が出迎える。兄は、この世界でずっと生きていたのか。自分が追いやったのだ。
(これ以上家族を失いたくないのです!)
家族か。本当に家族と呼べる者と過ごせたのはいつだったのだろう。だが、疲れた。もうどうでもいい。
「公爵! 公爵! 目を……!」
剣戟や馬の嘶きで満ちた音の渦の中、ヒューイットの悲痛な叫びが耳に飛び込む。忠実な彼は最後まで叫び続けた。レノックスは最後の力でヒューイットの手を握り締め、絶命した。
「王妃!」
大広間に上がった叫び声に、キリエは体をびくりと震わせた。
「ヒース司教が無事にご帰還されました!」
その言葉にキリエが弾かれるように立ち上がり、大広間の入り口へと走る。ざわめきが広がる人並みが左右に分かれ、その中央を走り抜けると騎士に囲まれたヒースが現れる。
「兄上!」
泣き叫ぶ妹に抱きつかれ、ヒースは震える手で抱き返した。
「……キリエ……」
「良かった……、ご無事で……!」
後からギョームがやってくるとヒースの耳元で囁く。
「ギョームです。義兄上」
その声にヒースは首を巡らす。
「戴冠式でお会いして以来ですね」
「ギョーム王……」
ヒースは眉間に皴を寄せ、苦しげに呟いた。
「……申し訳ございません。弟を、止めることができませんでした」
「あなたがご無事で何よりです」
「兄上……、お怪我は? お怪我はない?」
キリエがまだ震える声で尋ねてくるが、彼は顔を横に振る。
「……キリエ、レノックスが」
兄の言葉にキリエが身を乗り出す。
「レノックスが、また会おう、と」
眉をひそめるキリエの肩にギョームが手を添える。ヒースは泣き出しそうな表情で囁いた。
「……死ぬつもりです、あの子は」
キリエが息を呑み、ギョームは険しい顔つきで目を眇めた。その背後では、モーティマーがそっとジュビリーの隣に控える。
「……エレソナ・タイバーンは?」
「ルール城にいらっしゃるそうです」
それを聞くと、ジュビリーはレスターに目配せした。老臣は一礼するとローブを翻した。
「……冷血公は」
モーティマーはどこから話すべきか迷う素振りを見せたが、やがて抑えた口調で語り始めた。
「……ルール公は、今までとは違ったご様子でした。挙兵したものの、どこか諦めの表情というか、その……」
どう説明してよいかわからない様子のモーティマーに、ジュビリーは険しい表情で頷いた。
「司教をお部屋に。お疲れだろう」
「はっ」
だがその時、再び大広間にどよめきが起こる。
「……申し上げます……!」
突然ぼろぼろの甲冑を身にまとった斥候が現れ、大広間の空気が一変する。皆が息を呑んで見守る中、斥候は跪くと途切れ途切れに言上した。
「ルール公が……、う、討ち死になさいました……!」
その場が静まり返る。それまでの喧騒が嘘のように静まり返り、皆は息をひそめてその場に立ち尽くした。斥候の声が聞き取れなかったキリエが不安げに夫を見上げる。
「……何て言ったの?」
青ざめたギョームは言葉が出なかった。
「ねぇ……、今、何て……」
廷臣たちが眉をひそめ、幼い女王を見つめる。やがて、ジュビリーがゆっくりと前へ進み出る。宰相は眉間に皴を寄せると、ギョームの腕に縋って立ち尽くす女王を見つめた。
「……ルール公が戦死されました」
一瞬、その意味がわからずにキリエは首を傾げた。だが、見る見るうちに顔から血の気が引いてゆく。
「……嘘よ」
「……王妃」
「嘘よ、信じない!」
甲高い悲鳴。だが、その手はがくがくと震えている。
「キリエ」
ギョームが肩を抱くが、キリエは頭を振って叫んだ。
「だって、また会おうって……、兄上にそう言ったのよ……!」
ジュビリーが斥候に前へ出るよう促す。斥候は、取り乱した女王がこれ以上興奮しないようゆっくりと慎重に告げた。
「……ルール公はクロスボウの攻撃を受け、絶命したそうでございます。配下の将兵がルール公を守っておりましたが、エルガー侯の攻撃に耐え切れず、敗走いたしました。……ご遺体を、回収しております」
キリエは無言で口を覆った。妻の目から涙が溢れ、ギョームはそっと腰に手を回すと抱き寄せた。
「……キリエ」
彼らの背後からヒースの声が呼びかけられる。ヒースの閉じられた目から、涙が一筋流れ落ちる。
「……許して下さい。彼を、止められなかった」
「……兄上……!」
キリエは夫の手から離れると兄に抱きついた。悔しげに口許を歪め、嗚咽を堪えながらヒースは妹を抱きしめた。こんな結末しかなかったのか、弟よ。生きながらえる道は、いくらでもあったのに……! 噛み締めた唇から悲痛な吐息が漏れる。
兄妹が声を押し殺して咽び泣く姿を見つめると、ギョームはジュビリーに耳打ちした。
「遺体をプレセア宮殿へ。……キリエの兄だ」
「……御意」
軍勢の陣形が崩れたことにシェルトンが顔を歪め、胸騒ぎを感じながら馬を走らせていると、前方から自分の名を呼ぶ騎士が現れる。
「マーブル伯……!」
「ヒューイット?」
手綱を引くと、兜を失い、傷だらけの鎧をまとったヒューイットが馬を寄せてくる。血と泥で汚れた顔。騎士は歪めた口から悔しげに囁いた。
「ルール公が……、お亡くなりに」
予想していなかった言葉にシェルトンは絶句する。いや、予想していなかったわけではなかった。この度の挙兵の性急さがシェルトンはずっと胸に引っかかっていた。まるで死に急ぐようなレノックスの態度に不吉な思いを抱いていたが、まさか本当に……。
シェルトンは奥歯を噛み締めた。冷血公は死んだ。これで、キリエ・アッサーの即位に抗う者はエレソナただ一人となる。キリエ・アッサーは兄の反逆に容赦はしなかった。それは、姉も同じのはず。
「退却だ……」
シェルトンは呻くように呟くと、傍らの騎士に言い放つ。
「全軍、ルール城に退却させろ! エレソナ様をお守りせねばならん!」
兵士が退却のラッパを吹き鳴らす。手綱を引こうとしたシェルトンは、馬上で項垂れたヒューイットに目を留めた。
「ヒューイット」
相手は生気のない目を上げた。そして、しわがれた声で呟く。
「私は……、ここで降ります」
ヒューイットの言葉に、シェルトンは目を細めた。彼は空ろな目で抑揚のない声で言葉を続ける。
「私の主君は、死にました。もう、私が戦う理由も、意味も、ありません」
冷血公のためにずっと仕えてきたヒューイット。汚い仕事も黙って引き受け、主人の傍若無人な振る舞いにもずっと耐え忍んできた。あれほど過酷な仕打ちを受け続けてきたにも関わらず、ヒューイットにとってはレノックスこそがただ一人の主君だった。それは、レノックスの「本当の顔貌」を知っていたからに他ならない。王の庶子として生を受け、妾腹と蔑まれて過ごした多感な少年時代。その苦悩を、その怒りを、誰よりも近くで受け止めたのがヒューイットだったのだ。誰もがレノックスを硝子のように傷つきやすい少年だと思わず、狂獣と呼んで忌み嫌った。彼の苦しみも知らないで! そのやるせなさこそが、ヒューイットの忠誠心を堅固なものにした。
だが、今思えばレノックスは変わった。イングレスを奪われ、エレソナと行動を共にするようになってからは、冷血公と呼ばれてきた彼も少しずつ人間的な振る舞いができるようになっていった。その矢先に、
「……そうか」
シェルトンは言葉少なく頷いた。
「息災でな」
「……はっ」
シェルトンは手綱を引くと軍勢と共にルール領へ向かった。ルール・マーブルの軍勢が一斉に退却していく様子を、ヒューイットは黙って見送った。やがて、日が落ちかけた空を見上げる。燃え立つ夕焼け空は青い帳へと姿を変えようとしていた。レノックスの氷のような瞳が脳裏をよぎり、ヒューイットは顔を歪めた。そして、空に向かって慟哭した。
「若殿……!」