翌朝、キリエは重く霞がかったような頭で目を覚ました。疼く頭を巡らすと、視線の先にギョームの姿があった。彼はすでに着替えており、思い詰めた表情で寝台の淵に腰掛けている。
「……ギョーム」
彼ははっとして振り返った。その顔はどこか怯えた表情にも見えなくもなかった。
「……起きたか」
キリエはもぞもぞと体を起こし、額を押さえる。
「……頭が痛い……」
「無理をしてあんなに飲むからだ」
思わず強い口調で言い放つ夫に驚いて体を竦める。
「ご、ごめんなさい。私、昨夜何かしたの?」
涙目で詫びる妻に、ギョームは慌てて肩を撫でる。
「すまん。ただ、心配だったのだ。また急に倒れたのだぞ」
またやってしまったのか、自分は。情けない思いでいっぱいのキリエは力なく肩を落とした。
「昨日のこと、あまり覚えてないの……。私、またあなたに迷惑をかけたの?」
「……大丈夫だ」
キリエは戴冠式の時も昏倒した。酔いに任せてエスタドのビセンテをやりこめる一面を見せたりもした。昨夜のキリエはいつになく浮き足立った様子だった。前回と違って正式な帰国でもあり、気分が開放的になったのか、酔いの回りも早かった。ジュビリーとの一件も、昔を懐かしんでのことだったのかもしれない。と、そこまで考えてギョームは顔をしかめた。バラの言う通りだ。事実を直視せず、いつまで目を逸らしているつもりだ?
「昨夜はいつもより酔っていたな。でも、大丈夫だ。何もない。何も……」
「本当に?」
「風邪もひいていたしな。今日はゆっくり休め」
そう呟いてギョームはキリエの頬をゆっくりと撫でた。彼女は黙ったまま眉をひそめると夫の手に自らの手を重ねる。この手……、昨夜握り締めたような……。あれは、夢?
その時、扉の向こう側から「王妃」と声がかけられ、静かに扉が開かれる。顔を出したのがジゼル・ヴィリエだと気づいたギョームは、かっとなって怒鳴りつけた。
「外で待っておれッ!」
「も、申し訳ございません!」
慌てて顔を引っ込めるジゼル。夫の怒鳴り声が頭に響き、思わず耳を押さえるキリエに、ギョームは慌てて頭を撫でる。
「すまん。頭が痛いのか。薬を持ってこさせよう」
「……大丈夫」
「良いな、今日は大人しくしておけ」
小さく頷く妻をぎゅっと抱きしめると、ギョームは何かに怯えたような顔つきでキリエの背をそっと撫でた。
大掛かりな新年の式典が終わると、ジュビリーは宴の後始末に取り掛かった。バラの挑発に乗ってしまったがために、いらぬ出費がかさんだ。ただでさえガリア王が参加するとあって莫大な護衛費用がかかっているのだ。祝宴の追加費用をどう捻出するか、ジュビリーは頭を悩ませた。
そんな中、執務室に篭る宰相に側近が来客を告げた。やってきたのはヒースだった。
「クレド侯、今回はお招きありがとうございました。そろそろ、聖アルビオン大聖堂に帰らせていただきます」
「もう少しいらっしゃれば……。女王もお喜びになるでしょう」
ヒースは穏やかに微笑んだ。
「しばらく滞在するのでしょう? お呼びがかかればすぐに参ります。ただ、私は一司教に過ぎません。いつまでも聖堂を留守にして遊んでいるわけにはいきません」
海を隔てた遠い異国へ嫁いだ妹の帰国を、誰よりも喜んでいるのは彼だろう。いつもに比べてヒースの顔色も明るい。
「聞くところによると、キリエはずいぶん綺麗になったそうですね」
「……はい。ますますレディ・ケイナに似ておいでになりました」
ヒースはわずかに俯き、遠い日のことを思い出そうとする素振りを見せた。
「……お綺麗な方でしたね」
「はい」
二人はそれきり口を閉ざし、室内が静寂に包まれる。やがてヒースは息をつくと顔を上げた。
「……クレド侯。キリエの滞在中、色々相談に乗ってあげて下さい」
「しかし、司教……」
「異国の生活は辛いでしょう」
ジュビリーは黙り込むと司教をじっと見つめた。やがて、低い声で「はい」と呟いた。両手を合わせて頭を下げ、背を向けようとしたヒースは思い出したように立ち止まった。
「帰りに、ベイズヒル宮殿に寄ります」
「……レディ・エレソナに?」
「ええ。〈女王陛下〉のお許しが下りました故……」
激しい確執があったものの、弟レノックスを最後まで救おうとしたヒース。残されたもう一人の妹、エレソナも気がかりなのだろう。
「キリエの代わりに、会いに行ってまいります」
ジュビリーは静かに頷いた。
「お願いいたします」
女王が二日酔いで寝込んでいる間、アングルの廷臣たちはギョームとバラを招いて会議を開いていた。主に大陸の動向について意見が交わされ、エスタドに対する戦略が練られた。ギョームは大陸における持論を展開し、アングルの廷臣たちをひそかに驚かせた。この若者は本当に二十歳なのだろうかと、皆が舌を巻いたのだ。だが、一見いつもと変わらないように見えたガリア王だが、いまひとつ機嫌が良くないことにジュビリーとバラは気づいていた。昨夜のことがまだ尾を引いているのだろう。ジュビリーは眉をひそめてガリア王を見つめた。
遠く目をやれば灰色の海が見える、イングレス郊外のベイズヒル宮殿。中庭に面した全面ガラス窓の温室で、ソファに横たわって本を読んでいる少女がいた。白金に輝く髪が肩を流れ、細く白い指が頁をめくる。床には大きな本が数十冊散らかっている。かつて王太后ベル・フォン・ユヴェーレンが幽閉されていたこの宮殿に、今は女王の異母姉が幽閉されている。
外は寒い風が吹きつけているが、温室はほの温かい空気が満ちている。宮殿の内外には多くの衛士が闊歩しているものの、エレソナは概して開放的に過ごしていた。十二年間狭苦しい塔に閉じ込められていた姉を、できるだけ自由な環境に置きたいというキリエの希望によるものだった。もちろん、そんな妹の気遣いを素直に受け入れられるわけもなかったが、四ヶ月経った今、諦めというよりももう全てがどうでもよくなったエレソナは宮殿で静かに過ごしていた。ただ、静かな宮殿に身を置いていると兄レノックスのことが思い出され、時々発作的に泣き叫ぶなど暴れることがあった。
エレソナは分厚い本を抱え、周りを忘れて読みふけっていたが、やがて扉が静かに叩かれる。
「……エレソナ様」
ローザの低い声に本から目を上げる。
「入れ」
扉が開かれると、エレソナははっと息を呑んだ。ローザの手を借りて部屋に入ってきたのは、目を固く閉じ、黒いローブを着込んだ青年だった。エレソナは半ば呆然と青年を見上げた。刈り上げられた短い黒髪。端正な顔立ち。穏やかな微笑が浮かぶ口許。頭の片隅に眠っていた記憶が呼び覚まされてゆく。
「……兄、上……?」
「エレソナ」
ヒースは嬉しそうに笑うと名を呼んだ。
「お元気でしたか」
踏み出した足にこつんと何かが当たる。首を傾げる司教にローザが耳元で囁く。
「申し訳ございません。お足下を片付けます」
「これは……?」
「御本です」
ローザが床に落ちた本を拾い上げる。
「エレソナ、本は大事にお扱いなさい」
「……変わらんな、兄上は」
ヒースはわずかに顔をほころばせた。
「本が好きなのですか?」
「好きも嫌いも……。シャイナーの塔にいた時の過ごし方と言えば、本を読むことぐらいだった」
妹の返事にヒースは悲しそうな表情になる。エレソナは細い体を起こした。
「そこに転がっているのは、キリエがよこしたものだ」
「……キリエが」
エレソナは不機嫌そうな声で続けた。
「新年の祝いだか何だか知らんが。ガウンとコートが一着ずつ、薬草が大箱に三つ、それから本が数十冊……」
「あなたの体を心配しているのですよ」
「ふん」
異母妹は興味がなさそうに鼻を鳴らす。ヒースはそっと歩み寄ると手を伸ばした。少しの間その手を見つめていたエレソナは、どこか緊張した顔つきでそっと握りしめた。ヒースは穏やかに微笑んだ。エレソナは静かに息をつくと兄を隣に座らせた。
「お体は? 体調が良くなかったとお聞きしていましたが」
「……もう大丈夫だ」
ヒースは手を上げると妹の肩を撫でた。
「大きくなりましたね。聞きましたよ。背が高くて、とても体が細いそうですね。今も綺麗な髪なのですか?」
ヒースの記憶に残っているエレソナは四歳の幼子だった。輝く美しい白金の髪とは裏腹に、見る者を圧迫させるやぶ睨みの瞳。
「よく覚えていますよ。宮殿を訪れる度に、あなたはレノックスと喧嘩をしていましたね」
「兄上」
やや鋭い声にヒースは口をつぐんだ。
「レノックス兄様が死んで嬉しいか。あなたから光を奪った兄様が死んで――」
「嬉しいわけがないでしょう」
ヒースは落ち着いて言葉を返した。体を固くする妹の肩をそっと撫でる。
「……確かにあの子を恨みましたよ。でも、あの子を許して、私もあの子に許してもらいたかった」
兄の口から思わぬ言葉を聞き、エレソナは顔を歪めた。妹が黙り込んだことで彼女の戸惑いを察したヒースはぎこちない手付きで肩を抱いた。
「……私はレノックスを憎むことを生きる糧としてきました。彼を軽蔑していました。父上を尊敬すると見せかけ、父上をも軽蔑していました。あの子は、それをすべて見通していた」
エレソナはただ黙って兄の言葉に耳を傾けた。そこにいたのは、自分が知っている長兄ではなかった。父に溺愛された、「良い子」の兄ではない。
「まだまだ修行せねばなりません。私はまだ、浅はかな執着に囚われています。でも」
ヒースはしばし口をつぐみ、静かに息を吐き出した。
「……死んでしまっては、どうすることもできません」
死。その言葉にエレソナの瞳に激しい光が宿る。
「キリエが兄上を殺した。私の兄上を、キリエが殺したんだ……!」
怒りと絶望に満ちた妹の叫びにヒースは哀しげに眉をひそめた。
「レノックスの遺体と対面した時、キリエは我を忘れて取り乱しましたよ。自分が殺したのだ、と」
「信じるものか!」
「エレソナ」
震える妹の手を探り、優しく握りしめる。
「キリエは一生、その責めを受け続けるのですよ」
エレソナが息を呑むのを肌で感じ、ヒースは頷いた。
「……残された者はいつでも辛いのです。残された者が死んだ者に対して何ができるのか、それを考えねばなりません」
兄の言葉にエレソナは目を伏せた。
「……私に何ができる」
「まずは、生きることです。生きたくても生きることができなかった兄弟たちのために」
生きる。エレソナは、返事の代わりに兄の手を握りしめた。その手をそっと撫でると、ヒースの表情が柔らかに微笑む。
「……エレソナ。キリエから預かってきたものがあります」
兄の言葉にエレソナは顔をしかめて目を上げる。ヒースは懐に手を入れると、大事そうに何かを取り出した。ゆっくり広げた手のひらの上に、きらりと光る金の指輪が載せられている。エレソナの目が大きく見開かれる。
「キリエが、あなたに持っていてもらいたい、と」
エレソナは恐る恐る指輪を手にした。艶やかな金の台座。中央には、心臓(ハート)が彫られたルビーが輝いている。
「……兄上……!」
レノックスの指輪だ。エレソナの目が潤む。ヒースは自らの首元に手をやると、ネックレスを引き出した。ネックレスには、やはり金の指輪が揺れている。ゴーン家の紋章、〈車輪〉が彫られたルビーが輝きを放っている。
「私たち兄妹をつなぐ大事な指輪です。……後の災禍を省みなかった父上ですが、私たちを愛してくれていたのですよ」
「嘘だ!」
エレソナは指輪を握り締めて叫んだ。
「父上は、私を……、十二年間塔に閉じ込めた!」
「私が聞いた話では、あなたが成人を迎えたら解放するつもりだったと……」
「言い訳だ!」
「本当に、身勝手な父上ですね」
あっさりと認める兄の言葉に、エレソナははっと息を呑んだ。そうだ。こうして父の思い出話ができるのも、父の愚痴をこぼせるのも、父に振り回された者同士、血を分けた兄妹でしかもうできないではないか。エレソナは大きく息をつくと、気分を落ち着かせた。ヒースは妹の頭を撫でた。
「……私は嬉しいですよ。十三年ぶりにこうしてあなたと再会できたのですから」
自分を待ってくれていた母は死んだ。自分に寄り添ってくれた兄も死んだ。自分を守り支えてくれていたシェルトンは生死がわからない。もう、生きていく理由もないはずだった。誰にも必要とされていない。そう、信じていたのに。エレソナの眇めた瞳から涙が溢れ出す。妹の涙に気づかぬまま、ヒースは優しく呼びかけた。
「本がお好きなら、今度持ってきましょう」
エレソナは涙を拭うと低い声で言い返す。
「……兄上の本など御免だ。抹香臭い教典だろう」
妹の言葉にヒースは苦笑した。
「わかりました。教典以外で探しておきましょう」
深夜のプレセア宮殿。人々は寝静まり、深海のような群青色の暗闇が王宮にたゆたう。執政棟の通路には弱々しい明かりのランプがぽつりぽつりと灯され、重厚な扉が並ぶ。その内のひとつで、ジュビリーは執務を続けていた。キリエとギョームが滞在している間は何かと時間を取られることが多く、落ち着いて仕事に取り組もうとすれば、どうしてもこんな時間になる。
手を休め、顔を上げると息をつく。暖炉の炎が眉間に皺を寄せた顔を照らす。昼間のギョームの表情が頭を離れなかった。酔っていたとはいえ、キリエのあの言動に心を乱されているはずだ。恐らく記憶をなくしているであろうキリエにどんな態度で接しているのか、そればかりが気がかりだった。自分にどれだけ辛辣な言葉を投げつけられても構わない。だが……。ジュビリーは険しい表情で額に手をやった。
その時、冷たい空気がわずかに頬を撫でた。眉間の皺を深める。目を上げると燭台の灯火がゆらりと踊る。ジュビリーの背中に向かって、黒い影が音もなく近づいてゆく。その細い手がそうっと伸ばされ、彼の肩に触れる直前。
「!」
剣に伸ばした左手を押さえられる。背筋が寒くなるほど冷たい手。
「……うっかり斬られてはたまりませんわ」
女の声が笑いかける。ジュビリーは顔を歪めて目を上げた。黒髪の美女。形の良い唇の端が釣りあがり、笑窪が浮かぶ。
「……マダム・ヴィリエ?」
いつもは慎ましげにキリエの背後に佇んでいる女官は、妖艶に微笑みかけてきた。ジュビリーは不快感を露に言い放った。
「女王陛下の女官が何故ここに」
「道に迷ってしまいました」
艶やかな唇から白々しい囁きが漏れ出る。暖炉の火が舐めるようにジゼルの顔を照らし出す。
「悪いが、見ての通り手が離せない」
そう言って夥しい書類の山を見やる。ジゼルは自らの細い腕を抱くと肩をすくめた。
「あの寒々しい石の廊下に一人きりで放り出すって仰るの?」
上目遣いで首を傾げ、白い項が薄暗がりに浮かび上がる。
「……召使いを呼ぼう」
溜息混じりに呟き、腰を浮かしかけた宰相の頬を冷たい手が撫でた。
「あなたに案内していただきたいわ」
そう囁くや否やジゼルは両腕を首に巻き付けてきた。
「……!」
咄嗟に突き飛ばそうとした右手に激痛が走り、顔を歪ませる。ジゼルはその隙を逃さずに唇を重ねてきた。生温かい柔らかな唇の感触に背中がぞくりと粟立つ。が、ジュビリーは左手で相手の腰を掴むと力任せに振り払った。
「あっ!」
ジゼルの細い体が書棚に叩きつけられ、書類が床に舞い落ちる。ジュビリーは荒い息遣いで立ち上がるとガリアの女官を睨みつけた。
「……バラの女か」
ジゼルは息を呑んで顔を上げた。
「そなたの素性など、とうに知れている」
冷たく乾いた声色にジゼルは目を眇め、唇を噛みしめた。
「奴に伝えろ。ガリアにはこの程度の女しかいないのか、とな」
「何ですって……!」
思わず噛み付くジゼルにジュビリーはふんと鼻を鳴らす。
「あの男は自分の利益になることしか考えん。そなたもいつまでも奴に飼われるな」
「あなたほどひどい人じゃないわ!」
顔を歪めて叫んだジゼルの言葉にジュビリーは目を見開いた。ジゼルは身を屈め、手負いの獣のように睨みつけた。
「王妃を見ていればわかるわ。王妃はあなたに心を奪われている」
ジュビリーの顔が引き攣る。
「あなたは純粋な修道女を弄んだ挙句、異国の王に売り渡した。最低だわ!」
「黙れ!」
宰相の怒鳴り声にも屈せず、ジゼルはゆっくりと歩み寄った。
「あなたの心には、まだ亡くなった奥方がいる。なのに王妃の心を奪った。その思いが邪魔をして、王にまだ身を任せないでいる。お可愛そうな王妃……!」
ジュビリーは奥歯を噛みしめると右手を静かに剣の柄にかけた。
「それ以上吠えたら……、二度と口が開けぬようにするぞ」
「その右手で出来るの?」
「売女の一人ぐらい、素手で殺せる」
その時、初めてジゼルの背中に戦慄が走る。震える手を握りしめ、ジュビリーを見上げる。
「……去れ」
宰相の一言に、ジゼルはごくりと唾を飲み込んだ。震える足で後ずさると、やがて身を翻して部屋を飛び出した。残されたジュビリーは大きく息を吐き出すと椅子に座り込んだ。
(あなたは女王を売り渡した。純粋な修道女を弄んだ)
ジゼルの言葉が呪詛のように胸を覆い尽くす。
「違う……!」
ジュビリーは肘掛に拳を叩きつけると奥歯を噛みしめ、頭を振って項垂れた。
薄暗い廊下を転びかけながら走り抜けるジゼル。胸の鼓動が破裂しそうに叩きつけられ、恐怖で頭がどうかなりそうだった。足がもつれ、廊下に倒れこむ。冷たい石の廊下で震えながら蹲っていると、
「夫人」
ジゼルは飛び上がると、声がした方を振り返った。足音を忍ばせ、暗がりから男が現れる。細身ながら肩幅は広く、吊り下げられたランプの明かりを受けた赤毛が炎のように浮かび上がる。
「ジュール……!」
思わずそう口走ると体を起こす。が、すぐに言葉を失って立ち尽くす。
「……亡くなられたご夫君のお名前ですね」
「サー・ロバート……!」
ジゼルは辱めでも受けたような心持ちでモーティマーを見返した。彼はどこか気の毒そうな顔つきで呟いた。
「あなたのお心にいらっしゃるのは亡きご夫君。アンジェ侯ではないはずです」
思わず顔を背けるジゼルにモーティマーはなおも追い討ちをかける。
「いつまであの方の影でいるつもりなのですか。あの方は不誠実だ」
モーティマーに説教されていると亡夫に責められているようで、ジゼルは悔しげに目を閉じた。
「あなたを幸せにしてくれる人が他にいるはずだ。だが、あの方の側にい続ければ、不幸になる」
「だったら!」
ジゼルは顔を上げると鋭い声を投げつけた。
「だったら……、あなたは私を幸せにできると言うの?」
モーティマーは眉をひそめた。
「私をさらって! このままどこかへ連れて行ってみせて!」
「それは……」
答えに窮するモーティマーに、ジゼルは悔しげに囁く。
「できもしないくせに、勝手なことを言わないで……! 男はいつもそう! 女のことなんか、ただの道具にしか思っていないのだから……!」
「夫人!」
「私のことは放っておいて!」
ジゼルは悲痛な叫びを上げるとその場を走り去った。一人残されたモーティマーは、暗闇が続く廊下の先を見つめた。
翌朝。女王と王配は馬車に乗り込み、プレセア宮殿を後にした。ギョームの希望で、求婚の時に果たせなかった聖マーガレット修道院を訪問することになっていたのだ。
道中、ギョームはアングルの気候や風土についてあれこれと尋ねたが、その間絶えずキリエの手を握って離さなかった。まるで、手を離すとどこかへ行ってしまうのではないかと恐れているかのような夫にキリエは戸惑いながらも、それを口に出すようなことはしなかった。
そしてその頃、理由を作って聖マーガレット修道院への同行を断ったジゼルは、辺りを伺いながら後宮の廊下を歩いていた。やがて辿りついたのは王妃の衣裳部屋。周りに人がいないことを確認してそっと中へ入り込み、扉を後ろ手で閉める。目にも鮮やかな上衣。金糸が縫い取られた胸当て。妖精の羽根を思わせる繊細なレースで仕上げられた
実はプレセア宮殿に到着してからこれまでずっと、王妃の目を盗んであちこち出歩いて情報を集めていたのだ。当初、キリエのことを島国の田舎娘にしか思っていなかったジゼルだったが、時と共にその純朴さに心を惹かれ始め、このような密偵じみた真似をすることに後ろめたさがあった。だが、愛人バラの要求は断りきれなかった。断れば彼は自分の元を去るかもしれない。夫を亡くした直後のあの恐ろしい孤独を思い出すと心が震えた。バラを失いたくない。ジゼルはその一心で情報を探り続けた。そして、昨夜の一件で自尊心を傷つけられたこともあり、半ば自暴自棄になったジゼルは大胆な手段に出たのだった。
身を隠してしばらくすると、衣裳部屋の外が騒がしくなる。やがて扉が開け放たれ、複数の人間が話しながら入ってくる。
「やれやれ。陛下がお戻りになったら、きっとドレスは埃だらけよ」
「埃はともかく、今回はご無事にお戻りなればよろしいけど」
「そうね、前はお二人とも命を落とすところだったものね」
衣裳部屋付きの侍女が三人、仕事の合間に手を休めながらおしゃべりをしているらしい。ジゼルは聞き耳を立てた。
「今日はクレド侯がご同行されているのでしょう? 暗殺未遂があった不吉な遠出ですもの。心配でしょうがないのでしょうね」
「そういえば侯爵ったら、陛下がご帰国されたから少しはご機嫌がよくなるのかと思ったら、そうでもないわね」
侍女の言葉に、もう一人が声をひそめる。
「当たり前よ、ギョーム王がご一緒なんだもの。穏やかじゃないでしょうよ」
「ねぇ……、本当なのかしら。クレド侯が、陛下をお慕いしているというのは……」
衣装に隠れたジゼルが息を呑む。侍女たちの口からせつなげな吐息が漏れる。
「ご結婚前からずっと噂が囁かれていたけれど……、どうかしら。だって、親子ほどお歳が離れていらっしゃるし……」
「でも、お二人のあの親密さは異常だわ」
「ギョーム王の機嫌を損ねないためにも、クレド侯に再婚をお勧めする者が後を絶たなかったじゃない」
「でも結局、まだお独りなのよね……」
侍女たちは束の間黙り込んだ。が、一人が恐る恐る囁く。
「……あたし、聞いたことがあるの。クレド侯の奥方を、先王陛下が手篭めにしたって……」
ジゼルが思わず声を上げそうになって慌てて口を押さえる。破裂しそうなほど胸の鼓動が早まる。先王といえばキリエの父、エドガー・オブ・アングル……!
「私も聞いたことがあるわ……! トレーズ伯夫人が仰っていたわ。上のお方の間では有名なお話みたいよ」
「それが元で奥方がお亡くなりになったそうじゃない……」
「陛下は、ご存知なのかしら……」
「……さぁ……」
一人の侍女が低い声で呟く。
「きっと、天罰が下ったのだわ」
「天罰?」
「だって、その後でしょう? エドワード王太子が落馬事故でお亡くなりになったのは」
(……落馬?)
ジゼルは眉をひそめた。そういえば、キリエの異母兄、エドガーの嫡男エドワードは十歳で夭逝している。……まさか……?
「ああ、嫌だ嫌だ。女垂らしの王様なんてろくなもんじゃないわ! 大変な思いをするのは、いつだって女なのだから!」
「まったくだわ。それに引き替え、陛下は誠実なギョーム王とご結婚できて良かったわ」
「そうかしら。このままじゃギョーム王はクレド侯に嫉妬の目を向けるわよ。何も起らなければいいけれど」
それからは、貴族や女官たちの噂話になり、ジゼルは侍女たちが部屋を出るまで息を殺して蹲っていた。