結局その日、キリエたちは無事に聖マーガレット修道院を訪問し、予定通りプレセア宮殿へと戻った。悲願だった修道院の訪問を終え、ギョームもようやく顔の表情がほぐれたが、それでも晩餐の間中もずっと妻を側から離したがらず、キリエは困惑した。
晩餐が終わり、大広間で静かに後片付けが行われている間、ジゼルは人目を気にしつつ愛人の元へと向かった。バラの客間に入ると、彼女はやや興奮しながら愛人の手を握り締めた。
「今日はいろんな話を耳にしたわ」
「今日は一日、陛下も王妃も宮殿を留守にしていたからな」
ジゼルは身を寄せ、声をひそめる。
「侍女たちが噂をしていたの。クレド侯の奥方は先王に陵辱されたそうよ……!」
バラの両目が大きく見開かれる。
「何だと」
だが、険しい表情で目を伏せると自らに言い聞かせるように呟く。
「先王……、エドガー王か。あの男なら充分にあり得る話だ」
「それが元で奥方は亡くなったらしいわ。でも、それだけじゃないの」
「もったいをつけるな」
ジゼルは脈打つ胸を押さえつつ言葉を続けた。
「その事件の後に、エドワード王太子が落馬事故で亡くなっているわ」
バラは顔をしかめると頭の中で計算した。
「……今から、確か八年前だな」
「奥方が亡くなられた後ずっと領地に引き篭もっていた侯爵を、エドガー王は毎年狩の時期に王都へ召喚していたそうだけど、毎年断っていたらしいわ。そしてその年、初めて招きに応じて狩に参加して……、エドワード王太子が落馬した」
まるで怪談話でもしているかのように身をすくめ、口を閉ざす。バラは目を細めて愛人を見つめた。
「……だが、それだけでは証拠がない」
「クレド侯は剣だけでなく、弓の名人でもいらっしゃるそうよ」
ジゼルは低い声で言い添えた。国王直属のロングボウ隊を率いるクレド侯爵家の当主であるジュビリーは剣だけでなく、弓矢の扱いにも長けていたという話を、ジゼルはすでに仕入れていた。バラはそれでも用心深く表情を崩さない。
「その噂だけでも問い詰める材料にはなるな。だが、もっと決定的な証拠が欲しい」
慎重な愛人にジゼルは不満そうに眉をひそめる。だが、そんな彼女の腰に手を回すと耳元で囁く。
「よくやった。ここまで情報を集めたことは感謝するぞ。あともう少しだ」
バラは抱き寄せたジゼルの頬を撫で上げると口付けを落とした。ジゼルの表情が一瞬にして喜びに変わる。思わず両腕を首に巻き付け、もう一度口付けをねだる。満ち足りた表情で貪るように口付けを交わすが、やがてジゼルはかすかに顔をしかめた。穏やかに微笑むキリエの姿が脳裏をよぎる。自分は、王妃は、これからどうなるのだろう……。
自分たちの周辺で焦臭い動きがあることなど知らないまま、キリエは新年の華やかながらも慌ただしい日々を過ごしていた。お祭り気分が幾分落ち着き始めた頃。薬草園を訪れていたキリエの元に、モーティマーが現れた。
「ギョーム王陛下がお呼びです」
「ギョームが?」
すぐに薬草園を出ようとしたキリエに秘書官が身を乗り出す。
「――女王陛下」
「何?」
呼びかけたものの口をつぐみ、ややあって「何でもありません」と呟く。
「……どうしたの?」
「……いえ」
秘書官はじっと見つめてきた。何かが起る。キリエの直感が警告を発する。漠然とした不安に胸がだんだんと圧迫されてゆく。だが、彼女はそれ以上モーティマーを追及せず、夫の元へと向かった。
ガリア王の客間を訪れると、入った瞬間に重苦しい空気にキリエは気づいた。室内にはギョームとバラしかいない。女官や侍従、モーティマーすら下がるよう命じられた。
「どうしたの……? ギョーム」
不安で怯えた表情で囁く妻に、ギョームは思い詰めた表情で頷く。
「……キリエ、良くない噂を耳にした」
「噂?」
キリエは顔をしかめた。主君の言葉を受け、バラが一歩前へ出る。
「誠に申し上げにくいことでございますが、王妃」
「申し上げにくいなら仰らないで」
怯えた表情ながらもキリエはきっぱりと言い放った。彼女にとって、バラはすっかり不愉快な人物となっていた。だが、バラは首を傾げて困ったように笑ってみせる。まただ。いつも彼は自分を子ども扱いする。キリエの目付きが鋭く変わるが、それに気づいたギョームが間に割って入る。
「落ち着いてくれ、キリエ」
「一体、何のお話なの?」
胸騒ぎを抑えつつ、キリエは尋ねた。バラは探るような目つきで幼い王妃に語りかけた。
「プレセア宮殿を訪れてから、恐ろしい噂を耳にしました」
「……恐ろしい噂?」
「ご無礼を承知で申し上げなければなりません」
もったいをつけて押し黙る宰相にキリエは思わず両手を握り締めて見上げる。バラは息をついてから再び口を開いた。
「クレド侯の奥方が……、先代エドガー王陛下に陵辱されたと」
陵辱。キリエは息が止まるほど衝撃を受けて絶句した。顔から血の気が引き、一瞬遅れて全身から汗が噴き出す。周りの時間が止まってしまったような感覚。目を眇めて凝視してくるバラ。キリエは震える両手を上げると口許を覆う。誰から……、誰からその話を……!
「キリエ」
夫の声にびくりと体がはねる。ギョームは眉をひそめて見つめてくる。疑いというよりも、心配そうな表情だ。
「そなたの父君だ。予も最初は心ないただの噂話だと思って聞き流していたのだが……」
だが、主君の言葉を打ち消すようにバラが追い討ちをかける。
「しかし、もしもこの噂が真実ならばクレド侯は先王陛下のご息女であるキリエ女王に対し、何やら不穏な考えを持ちやしないかと……」
「無礼だわッ!」
突然キリエが吼え、二人の男は口をつぐんだ。
「父に対しても、クレド侯に対しても無礼極まりない話だわ!」
「王妃」
「ただの噂よ! プレセア宮殿にも、ビジュー宮殿にも、根も葉もない噂話に興じる貴族たちはいくらでもいるでしょう!」
小さなキリエが体を震わせながらも必死で叫び、ギョームは辛そうに目を伏せる。
「確かにその通りだ。だが……」
「アンジェ侯! どうして、そんなありもしない話を信じようとするのッ」
守らなければ。ジュビリーは自分が守らなければ。今まで自分を守ってくれていた、彼を! キリエはそのことしか考えられなかった。
「その話だけならば、私もくだらない噂だと取り合わなかったのですが」
バラは落ち着き払って答えた。
「今から八年前、王妃の異母兄エドワード王太子殿下が身罷られておりますな」
キリエは衝撃を受けて後ずさった。一体、彼らはどこまでこの話を知っているのだ。バラは眼光鋭くキリエに迫ってきた。
「奥方が亡くなられてからずっとクレドに篭っていた侯爵を、エドガー王は毎年王都に召喚されていたそうですが、毎回断られていたようです。ですが八年前、侯爵はようやく重い腰を上げて王都を訪れ、エドガー王が催した狩りに参加されたそうです。そしてその時、エドワード王太子が落馬し、お命を落とされた。……これはただの偶然でしょうか」
キリエは両手で耳を塞ぎ、その場に蹲った。
「嫌よ……、そんな話、聞きたくないッ!」
「キリエ」
ギョームが慌てて妻を抱き起こし、肩を撫でる。
「しかし、バラ。予も俄かには信じられぬ。本当にそんなことがあり得るのか」
「目撃者がいるとのことです」
キリエはびくりと体を震わせた。目撃者?
「弓矢が得意なクレド侯が、王太子に向かって矢をつがえたという……」
「嘘よ……!」
失神しかねない表情でキリエは
「ジュビリーが、そんなこと……!」
キリエは、ジュビリー自身から王太子を暗殺したことを告げられた時のことを思い出した。彼女にとっても大きな衝撃だったし、告白をした彼に恐れをなし、一度はクレド城から逃げ出した。あの後真相を知り、ジュビリーの苦悩を理解した。だが、あれから時が経ち、ジュビリーに恋心を抱いてからはその事実を忘れようと目を逸らし続け、実際、今の今までそのことを忘れていた。何故、今になって……!
「……キリエ」
ギョームの低い声が耳元で囁かれ、ぎゅっと抱きしめられる。彼もジュビリーを疑っているのだろうか。妻が信頼を寄せる寵臣を快く思ってはいない彼のことだ。疑いの目を持っても仕方がない。どうすればジュビリーの疑いを晴らし、なおかつ夫の嫉妬心を静めることができるのか。
「……ギョーム、私は……、クレド侯を信じるわ」
妻の囁きにギョームは目を細めた。
「ずっと、自分の身を省みずに私を守ってきてくれたのよ。女王に即位できたのも、あなたと結婚できたのも、彼のおかげだもの。だから、私は、彼を信じる」
キリエは顔を上げるとギョームの手を握り締めて訴えた。
「知らないでしょう? 私とあなたの結婚に反対する廷臣は多かった。でも、クレド侯が賛成してくれたおかげで皆を説得できたのよ……!」
「……そうだったのか」
ギョームは幼子をあやすようにキリエの肩を撫でた。やがて顔をめぐらすと宰相に視線を投げかける。
「キリエにとってクレド侯は教会を出てからずっと守り育ててきた恩人だ。そればかりではない。予の命も救ってくれた」
「確かに、それは紛うことなき事実でございます。しかし、内容が内容だけに聞き流すわけには参りません」
「それはそうだが……」
今ひとつ乗り気ではなさそうな主君に、バラは自信ありげに身を乗り出した。
「クレド侯自身に問い質すのが、一番ではないかと」
キリエは恐る恐る振り返った。アンジェ侯の狙いが読めた。ジュビリーを失脚させるつもりだ。ギョームの腹心として、ガリアの宰相として、アングルを手中に納めたいのだ。そのために……。
「身が潔白であれば、応じるはずでございましょう」
「……そうだな」
ギョームは青ざめた妻に囁きかけた。
「クレド侯に聞いてもよいか? これで疑いが晴れれば、それで良いではないか」
夫の言葉はもっともだ。キリエは頷くしかなかった。ギョームが黙ったまま目配せし、バラは身を翻すと客間を辞した。キリエはがたがたと体を震わせたままギョームに抱かれていた。彼が優しく背を撫でるたびにぞくりと寒気が走る。
もしも、もしもジュビリーの過去が暴かれ、断罪されることになれば、自分はどうなる。どうすればいい。彼がいないアングルを、自分ひとりが治められるのか。バラが目をつけたのはまさしくそこだ。ギョームにアングルを統治させようと目論んでいるのだ。そんなことは許さない! でも、本当はアングルの統治など関係ない。ジュビリーを、守らなければ……。
しばらくして、モーティマーがジュビリーを連れてやってくる。彼は相変わらず眉間に皴を寄せ、感情を読み取らせない表情で客間へと入ってきた。が、声を出せずに震えている女王に気づいて顔をしかめる。
「ご苦労、モーティマー。下がってよいぞ」
ガリアの宰相の言葉にモーティマーはおとなしく一礼した。が、キリエの背後に回った瞬間、そっと耳打ちする。
「陛下、ご安心を」
キリエは息を呑んで秘書官を凝視した。彼は口許に微笑を浮かべると小さく頷き、客間から退出していった。
「一体、何事でございますか」
尋常ではないキリエの様子に、ジュビリーはギョームとバラに鋭い視線を向けた。その言葉を受け、バラが自信ありげな顔つきで前へ進み出る。
「クレド侯、貴殿に確かめたいことがある」
「何でございましょう」
警戒を緩めないまま、ジュビリーは真っ向から視線を投げ返す。
「貴殿の名誉にも関わることだ。ご無礼を承知で申し上げる。この度プレセア宮殿に滞在し、聞き捨てならない噂を耳にした」
「……お聞き捨て下さい」
ジュビリーは目を眇めて言い返した。
「ただの噂話であれば、いちいち取り上げることもないでしょう」
「ただの噂であれば、ね」
「どういった噂ですか」
バラはゆっくりと歩み寄るとジュビリーの真正面に立ちはだかった。そして灰色の目を細め、唇の端を持ち上げると口を開く。
「貴殿の奥方が、先王陛下に陵辱されたと」
ジュビリーの眉がぴくりと吊り上る。眉間の皺を一段と深める彼に、キリエは息を呑んで見守った。妻の肩を抱くギョームもごくりと唾を飲み込む。黒衣の宰相はそれ以上表情を変えないまま、口を開いた。
「……噂です」
一度口を閉ざし、再び呟く。
「ただの噂です」
バラは大げさな身振りで両手を広げて言い放つ。
「しかし、奥方が出産の際に亡くなられたのは事実のはず。そう、十年ほど前のことかな」
「……それは事実だ。私の子だ」
ジュビリーの口調が変わった。キリエは辛そうに目を閉じ、顔を背けた。こんなことをジュビリーの口から言わせるなど……。だが、バラは追求の手をゆるめない。
「私は複数の人間から同じ噂を耳にした。どこの宮殿でも噂好きな人間はたくさんいるらしい……。皆、一様にクレド侯は妻を王に寝取られたと――」
「噂だと言っておろうッ!」
突然ジュビリーが怒鳴り、ギョームとキリエはぎくりと体を硬直させた。言葉を飲み込んだバラをきっと睨みつけ、ジュビリーは身を乗り出すと顔を寄せた。
「私は……、この十年間、謂(いわ)れのない中傷に心を傷つけられてきた。貴殿まで言うかッ!」
「ジュビリー……!」
そのままバラを殴りかねないジュビリーに、キリエが悲鳴に近い声を上げる。ジュビリーの剣幕に気圧され、バラは思わず後ずさった。
「妻は死んだ。子と共に。だがその後にそのような噂が流れ、私だけでなく、妻の名誉まで傷つけられた! 私はそんな噂がはびこる宮廷に嫌気がさし、クレドに引き篭もった。それが事実だ!」
「しかし、クレド侯……」
バラは落ち着きを取り戻すと言い返した。
「私が耳にした噂はそれだけではない。八年間領地を出ることがなかった貴殿が、何故あの年に限って王都に舞い戻ったのだ?」
「あの年?」
「とぼけないでもらおう。あの年、貴殿が参加した狩りでエドワード王太子が身罷られたであろう!」
ジュビリーは苦々しげに鼻を鳴らした。
「偶然としか答えようがない」
「まことしやかに語られておるぞ。弓矢が得意な貴殿が王太子に向かって矢をつがえ、王太子が落馬したと……」
「おやめ、アンジェ侯!」
ついにキリエが叫んだ。
「これ以上の狼藉は、私が許さないわ!」
「王妃」
「証拠でもあるの? ただの噂話をそのように鵜呑みにしては、国政は任せられないわ!」
「落ち着け、キリエ」
ギョームがキリエを押し留め、宰相を見やる。
「バラ、予とキリエを納得させられる証拠があるのか」
「……左様」
その言葉を待っていたかのように、バラはにやりと嗤った。
「ご遺体を、確認させていただければ」
キリエだけでなく、ギョームやジュビリーまでもが息を呑む。
「伝えられた如く、落馬による事故であれば矢傷などないはず。ご遺体をご確認させていただければ、どなたも納得できましょう」
「そんなこと、私が許さないわ!」
夫の手を振りほどくとキリエはバラに駆け寄った。
「私の兄よ! 修道女である私が、そんなことを許すと思って……!」
「ですが、王妃。やましいことがなければ、クレド侯も応じていただけるはずでございますぞ」
「……アンジェ侯……!」
キリエは目を真っ赤に充血させてバラを凝視した。その時、ジュビリーがそっと隣に寄り添う。
「……女王陛下」
キリエがぎくりとして振り返る。ジュビリーはじっと瞳を見つめてきた。
「……お願いいたします。私は潔白です。何も隠すことはございません」
「……ジュビリー……」
キリエは不安で一杯の目で彼を見上げた。ジュビリーは目を細め、小さく頷く。バラは満足げに笑みを浮かべた。
「ご遺体は聖アルビオン大聖堂でございましたな」
聖アルビオン大聖堂には兄ヒースがいる。彼にも迷惑がかかる。キリエは肩を落とし、項垂れた。
聖アルビオン大聖堂は、女王とガリア王の突然の訪問に皆が慌てて出迎えた。司教や修道士らが何事かと遠巻きで見守る中、バラは王太子エドワードの墓所へ案内を乞うた。
「王太子殿下の廟でございますか」
出迎えた司教は困惑気味ながらも一行を大聖堂の奥へと案内した。王族の墓は最奥部に集められている。薄暗い、重苦しい空気が満ちる廟の中、美しい装飾を施した石棺が目に入る。季節の花々が刻まれ、楽器を携えた二体の天使像が石棺に佇んでいる。幼くして急死した息子を悼み、エドガーが豪華絢爛な石棺を作らせたのだ。
「こちらが、王太子殿下の石棺でございます」
司教が尋ねた時、一同の背後から数人の司教が現れた。
「一体、何事でございましょうか」
「バウンサー大司教」
キリエは青い顔で聖アルビオン大聖堂の主を振り返った。堂々とした体格の大司教はゆったりとした純白のローブをまとい、不意に現れた国王夫妻に怪訝そうに尋ねてきた。そして、その傍らに兄ヒースの姿を見つける。
「兄上!」
「キリエ?」
妹のただならぬ叫びにヒースは眉をひそめた。
「一体、どうしたのです?」
キリエは兄に駆け寄ると震えながら抱きついた。ヒースは戸惑いながら妹を抱き締めた。そんな王妃に一瞥をくれると、バラはバウンサーの前へ進み出た。
「バウンサー大司教。誠に申し訳ないが、エドワード王太子殿下の墓を開けていただきたい」
異国の宰相の申し出に、バウンサーだけでなく、他の者たちは唖然となった。廟に不穏なざわめきが反響し、ヒースは不安そうに眉をひそめると耳をそばだてる。バウンサーは険しい表情でバラに詰め寄った。
「一体、何のためにそのようなことを……!」
「クレド侯に王太子暗殺の疑いがかけられている」
「そんな……!」
その場が一層ざわめき、ヒースは息を呑んだ。喧騒の渦の中、微動せず立ち尽くしているジュビリーに皆が視線を注ぐ。
「疑いを晴らすためには、王太子のお体に矢傷がないことを確認せねばなりません。ご協力願えますか」
「しかし、そんなことのために死者の眠りを妨げるわけには……」
バウンサーは顔をしかめ、むしろバラに対して疑いの目を向ける。
「よりによって王太子殿下とは……。女王陛下の兄君でございますぞ」
「女王陛下のお許しは得ております」
言われて大司教はキリエに目を向ける。体を震わせてヒースにすがりついている幼い女王を見る限り、とても許しを与えたとは思えない。
「……陛下がお許しになったのであれば、ですが……」
「誠ですか」
廟にヒースの凛とした声が響き、皆が口をつぐむ。廟はようやく静寂を取り戻した。バラは落ち着き払って盲目の司教を見つめた。
「本当に、キリエの許しを得たのですか?」
「ヒース司教……。弟君の死の真相を、知りたくはありませんか」
「エドワードは馬から落ちて死にました。それが事実です」
「しかし、事実ではないかもしれない。墓を開ければ、全てが明らかに」
ヒースは口元を歪めた。
「そんな軽い気持ちで弟の墓を暴かれたくありません!」
いつも温厚なヒースの怒鳴り声にキリエは息を呑んで身を竦めた。ヒースの眉間に深い皺が刻まれ、奥歯を噛み締めた口許が歪む。
「……あの時のことは思い出したくもありません」
低く、抑えられた口調にも怒りと絶望が滲む。
「あの幼かったエドワードが、狩りの最中に馬から落ちて死んだと聞いて、本当に遣り切れなかった。それだけではありません。一緒に馬を走らせていたレノックスが疑われ、あの子は深い心の傷を負ったのです!」
「……兄上……」
思わずキリエは兄の言葉を遮るように背中を抱き締めた。レノックスは、この時の怒りの矛先をやがて兄ヒースに向けたのだ。結果、彼は光を失った。
「司教」
聞き覚えのある声にヒースははっと顔を上げた。
「……クレド侯……?」
「……お願いいたします。私の潔白を証明するためにも」
ジュビリーの言葉に、一同は押し黙った。やがて、バウンサー大司教は重い溜息をつくと司教たちに目配せをした。
金銀で飾られた石棺の蓋は衛士が数人がかりで挑み、やっと動いた。蓋を持ち上げ、静かに床に下ろす。すると、中には重厚な黒檀の棺が納められている。司教たちが両手を胸で合わせ、しばらく祈りを捧げてから蓋に手をかける。ぎしっと不気味な音を上げて蓋が開かれる。瞬間、表現しがたい臭いがさっと流れる。キリエは必死で震える手を合わせ、口の中で祈りを囁いた。
「……頼む」
バラの言葉で、プレセア宮殿の医師たちが暗い表情で棺を覗き込む。そして、少年の遺骸をそうっと抱え上げる。
「いや……!」
そのおぞましい姿にキリエは顔を手で覆い隠し、ギョームは覆い被さるようにして抱き締めた。
王族や名門の貴族たちは遺骸に防腐処理を施し、見た目には生前と変わりない姿で埋葬するしきたりがあった。今でも百年前に埋葬された聖人などが祭礼の時に墓が開けられ、信徒たちに公開されることがある。だが、キリエはこんな形で異母兄エドワードと対面するとは夢にも思わず、とても受け入れられなかった。
医師たちは慎重にエドワードの遺骸を絹の敷き布に横たえ、再び手を合わせる。その遺骸を前に、ジュビリーは立ち尽くした。
八年前に自らの手で死に追いやった少年。幼さを残した顔立ちは乾燥し、黄色く変色している。骨ばった小さな手は胸で合わせられ、肌と同様、黄ばんだ絹の経帷子を着せられている。黄金で作られた冠が頭に被せられているのが痛々しい。光沢を失った巻き毛。かすかにひび割れた青白い唇。八年前のあの日から、時の流れを止められたのだ。ジュビリーは、自らの「罪」と直面した。いつか来ると覚悟していた瞬間だった。
「では、失礼いたします」
医師はぼそりと呟くと、ナイフを手にして遺骸に屈みこんだ。ナイフが経帷子を切り裂く音がまるで死者の悲鳴のように響き渡り、キリエは背筋が凍りついた。医師たちはエドワードの体から経帷子を剥ぎ取ると慣れた手つきでひっくり返し、丹念に調べる。頭、首、背中、腰、脚……。まるで人形のように固く白い体。だが、頭部と肩、腰の周辺は青黒く変色している。たくさんの細かな傷を指で示しながら医師たちがひそひそと囁き合う。その様子を見守っていたバラの顔がやがて引き攣ってゆく。
「……どうだ」
ギョームが低い声で尋ねる。
「矢傷は、あるか」
医師が陰鬱な顔を上げた。
「――ありません」
バラの顔から血の気が引き、額に玉のような汗が吹き出る。
「矢傷はございません」
キリエは覆い隠していた手を震えながら下ろした。陰気な声が廟に響く。
「側頭部に陥没の痕が……。それから、頚椎が折れています。腰や膝にも打撲の痕が……。恐らく落馬した際に頭を陥没し、首を折ったことが致命傷になったのでは。その他の外傷は、見当たりませぬ」
そして、医師はガリアの宰相を見上げた。
「ご覧になりますか」
「や、やめてくれッ!」
思わず叫んだバラに、皆の目が一斉に注がれる。その場は、まるで地獄の底のような恐ろしい静寂に包まれた。そして、
「バラッ!」
ギョームの一喝にバラは弾けるようにして振り返る。ガリアの若獅子王は震える妻を抱いたまま、鋭い目つきで宰相を見据えた。
「そなた……、自分が何をしたか、わかっておろうな!」
バラは崩れ落ちるようにしてその場にひれ伏した。
「お……、お許しをッ! お許しを……! 陛下ッ!」
「そなたが許しを乞わねばならんのは予ではない!」
「王妃……!」
バラは真っ青になってアングルの女王を見上げた。身を震わせて凝視してくるバラを、キリエは憎々しげに見つめた。
「……私はいいわ。クレド侯に謝って! あなたはクレド侯だけでなく、彼の奥方も侮辱した。そして、兄上の墓まで……!」
「陛下」
ジュビリーの呼びかけにキリエは振り返った。どこか憔悴した面立ちで、ジュビリーはキリエに頷いてみせた。バラは恐る恐る首を巡らすとアングルの宰相を振り仰いだ。黒衣の宰相は突き刺さるような冷たい視線を送ってきた。バラはひそかに奥歯を噛み締めた。
「クレド侯……、許してくれ……!」
ジュビリーは哀しげに目を伏せた。
「私は、女王陛下の命に従います」
ギョームは妻の耳元で囁いた。
「キリエ……。バラを許してくれるか?」
キリエはじっとバラを睨み付けていたが、やがて夫の手をそっと離す。ゆっくりとバラに歩み寄り、腰を屈めた。
「……ギョームのためでしょう?」
幾分落ち着いた声色で呼びかける。
「全ては、ギョームを思ってのことでしょう? あなたは忠義に篤いお人だから……」
バラは黙ったまま項垂れた。こんな……、こんな島国の田舎娘に、このような屈辱を受けるとは……!
「ギョームや私を思ってのことであれば、あなたを許すわ。でも、忘れないで。物事を見誤ればどんなことが起るのか……。ガリアの国政を担うあなたには、それを忘れないでほしいわ」
「……御意……!」
キリエは震える息を吐き出すとすっくと立ち上がった。
「……終わりましたか」
兄の声に振り返る。まだ固い表情の彼に、キリエは囁いた。
「お騒がせしました、兄上……」
「疑いは晴れましたね。墓を暴くこともなかったと思いますが。……ただ」
彼はそこで言葉を切り、意味深に後を続けた。
「……眠りを妨げられたエドワードが、悪さをしなければいいのですが」
司教の言葉にバラは青ざめた。だが、ヒースはふっと微笑んだ。
「でも、大丈夫でしょう。あの子は優しい子でしたから」
キリエは兄を見つめ、そしてゆっくりと振り返ると修道士たちによって新しい経帷子を着せられたもう一人の兄を見つめた。病弱そうな細面の顔。わずかに縮れた栗毛。この少年が、自分の兄。生きながらえていれば、アングルの王になっていたはずの少年。そして、ジュビリーが憎しみに任せて手をかけた王太子……。キリエはそっと両手を合わせると、片膝を突いて頭を垂れた。
(……兄上)
胸の中でそっと呼びかける。
(お許し下さい、兄上……)