砕ける波頭。踊る細波。船首が波間を裂いて滑るように海原をゆくのを見るのは、何度見ても飽きることがなかった。七月のぎらつく陽射しが容赦なく照り付ける甲板。迸る白波に胸が踊るが、ふと眼差しを上げると遥か彼方にぼんやりと陸地が霞む。それを目にすると、彼は憂鬱そうに眉を寄せた。
年の頃は十四、五歳。幼いながらも端整な顔立ち。陶器のように滑らかな肌を、白に近い金髪が撫でる。瞬いたその瞳は海のように碧い。
「見えてきましたね、ギヨ様」
不意に声をかけられ、ぎくりとして振り返る。そこにいたのは、身なりの良い少年。
「ギルフォード」
「ギヨ様らしいですね。後ろではなく、前を見る」
その言葉にギヨは苦笑を漏らす。
「……後ろを向いたら後悔しそうだからな」
「まさか」
ギルフォードはギヨの隣に立つと、ぼんやりと姿を見せる陸地、ルファーン岬を仰いだ。二人の少年はしばし黙ったまま海原を見つめた。やがて、ギヨがぽつりと呟く。
「……父上に報告してからオイールに向かおうと思う」
「それが良いですね」
ギルフォードが頷く。
「きっと、お喜びになるでしょう」
ギョーム二世。若獅子王と称せられたガリア王の忘れ形見。親しい者からはギヨと呼ばれているガリアの幼い王だ。そして、神聖ヴァイス・クロイツ帝国女帝、キリエの後継者でもある。正式名はギョーム・タイバーン・ド・ガリアだが、出生地からギョーム・ド・ルファーンと呼ばれることが多い。これは、「第二夫人」である生母の名を表に出したくないという周囲の者たちの配慮によるものだ。しかし、ギヨ本人はこの配慮を苦々しく感じていた。「生母」の存在を殊更隠される方が苦痛だからだ。
母、エレソナ・タイバーンの身分は死後、「側室」から「第二夫人」へと高められた。それは、養母である女帝キリエの尽力によるものだ。ギヨは物心がついた頃からキリエによって亡き母エレソナを敬うよう教えられてきた。それでも、育ての母であるキリエに対する思慕に比べれば、生母エレソナはどこか遠い存在であるのが本音ではある。だが、それを口にすれば養母が哀しむのは目に見えていたし、ギヨは普段、エレソナの話題は避けていた。
だが、彼は「一人の父」と「二人の母」を心から慕う少年に成長した。美しい顔貌は父親から。白金のように艶やかな髪色は母親譲りだ。ギヨがまだ幼い頃、ガリアの廷臣が「母君のやぶ睨みを受け継いでいらっしゃらなくて良かった」と口にしたのを聞き付け、癇癪を起こして暴れたこともあった。そんな「母親思い」なところすらも夫ギョームにそっくりだと、キリエは懐かしげに思ったものだった。
「でも、ギヨ様」
隣のギルフォードが少し笑いながら話しかける。
「一番お喜びなのは、アンジェ公ではないのですか?」
「そうだろうな」
ギヨは大袈裟に肩を竦めてみせた。
「あんなに取り乱した手紙は初めて読んだ」
「よほど嬉しかったのでしょうね」
ギルフォードはアングルの聖女王騎士団団長、グローリア侯ジョン・トゥリーの長男だ。ギヨよりもひとつ年上で、宮殿で兄弟同然に育てられてきた。ギヨは六歳になってからキリエと共に「ガリア王」としてアングルとガリアを半年毎に往復する生活を続けているが、ギルフォードもその度に同行している。それは「未来の宰相」となることを期待されている故だ。今、彼らを乗せている船もアングルからガリアへ向かう途中だ。だが、今回の旅はいつもとは事情が異なる。
二人の背後から、子どものはしゃぎ声が聞こえてくる。振り返ると、少年に抱きかかえられた幼い少女が笑顔を振り撒きながら空を指さしている。
「見て、兄上! 鴎よ! 大きい!」
「あぁ、大きいな」
屈託ない晴れやかな笑顔の少女に、かかえ上げた少年は嬉しそうに頬擦りをする。その様子にギヨが微笑を浮かべる。
「相変わらず仲がいいな。ヘンリーとフランセスは」
「納得いきません」
仏頂面でぼやくギルフォードに思わずギヨが吹き出す。二人はギルフォードの弟と妹だ。ヘンリーは十二歳。フランセスは七歳。父親に似て、朴訥で優しい顔立ちをした長男ギルフォードに対し、次男のヘンリーは母親の美貌を受け継いだらしく、少女と見紛うほどの愛らしい顔貌だ。だが、「女の子のようだ」と言われることを嫌い、その反発のせいか悪戯癖がひどく、家族の悩みの種になっている。一方、末っ子のフランセスも愛くるしい顔立ちをしているが、今のところ父親であるジョンは「自分似だ」と言い張っている。
「ねぇ、どうやったら鴎が寄ってくるのかしら」
「簡単だ。金貨を撒けば集まってくる」
「こら、ヘンリー!」
弟のいい加減な言葉にギルフォードが目くじらを立てる。
「フランセスに変なことを吹き込むな!」
「あぁ、そうか。光るものに集まってくるのは人間でしたね、兄上」
「おまえは……!」
子どもとは思えぬ可愛いげのない言葉にギルフォードは頭を抱え、一方のギヨは腹を抱えて笑う。
「さすがだな、ヘンリー!」
「光栄です、陛下」
慇懃に頭を下げるヘンリー。ギルフォードはたまらず妹に向かって両手を差し出す。
「おいで、フランセス! ヘンリーと一緒にいちゃ駄目だ。ギルフォード兄様のところへおいで!」
だが、愛くるしい顔立ちのフランセスは顔をくしゃっとさせるとヘンリーの首許にしがみつく。
「いや! ヘンリー兄様がいい!」
「おまえ……」
その返答にギヨがますます声を上げて笑う。
「どう思います、ギヨ様……。ヘンリーはもう、養子に出された身だと言うのに!」
「まぁまぁ。兄妹であることに違いはないのだから。大目にみてやれ」
おかしそうに笑いを堪えながら返すギヨに、ギルフォードは憮然とした表情で黙り込む。ヘンリーは六歳の時に伯父の養子となっていた。アングルの宰相、クレド公ジュビリー・バートランドだ。だが、養子に出されても同じ宮殿で暮らしていれば兄妹同士の交流が途絶えることはない。養父のせいか、順調に皮肉屋で毒舌家に育つヘンリーにギルフォードはひそかに不安を持っているが、どういうわけか末っ子の妹フランセスはヘンリーになついている。
「フランセス、兄上が寂しがっているぞ」
ギヨの言葉にもフランセスは「うふふ」と笑うばかりだ。そうしているうち、甲板にざわめきが上がる。
「ギヨ」
目を上げると、側近を連れた養母が歩み寄ってくる。繊細な模様を施された極薄いレースを使った
「陛下!」
ヘンリーの腕からフランセスが声を上げて両手を差し出す。キリエは嬉しそうにフランセスの頬に唇を押し付けた。
「いい子ね、フランセス。ガリアに行くのは初めてでしょう? 兄上と一緒で嬉しいわね」
「はい!」
キリエの背後には、ギルフォードたちの両親、ジョンとマリーエレン。秘書官のモーティマー男爵とその娘、ローズ・アン。そして、黒い胴衣に身を包んだ宰相、ジュビリー・バートランド。ふっくらとした頬を女帝に優しく撫でられていたフランセスだったが、やがて伯父に向かって手を差し出す。
「伯父上、高い高いして!」
ジュビリーは眉間に皺を寄せたまま肩をすくめる。
「もう七歳なのに、はしたないぞ」
「じゃあ、いいもん。ギヨ様にやってもらう」
「フランセス」
父親のジョンが慌てて引き止めるが、ギヨは喜んでフランセスを抱き上げた。フランセスの甲高い笑い声にキリエが頬をゆるませる。が、その時。突風に煽られ、船体が大きく揺れて甲板に悲鳴が上がる。
「あ……!」
足がもつれ、倒れそうになる女帝の腰を黒衣の宰相が咄嗟に抱き寄せ、手を取る。
「驚いた。揺れるわね」
どこか嬉しそうに顔をほころばせて囁く養母に、ギヨの表情がむっと引き攣る。そして、すたすたと歩み寄ると二人の間に割り込んで養母の腕を取る。ジュビリーは誤解だと弁明するように両手を肩まで上げる。
「……ご容赦を、陛下」
「まぁ」
キリエの方は無邪気な笑顔でギヨの頬を指でくすぐる。
「あなたはいつでも私の
「そうですよ」
ギヨは素っ気なくぼそりと呟く。か弱げな容貌でありながら、女帝としてしなやかな強さを見せる養母。だが、時折今のように不安になるほど無邪気で無防備になることがある。そして、そんな表情を見せる相手がよりによって「黒衣の宰相」であることが、ギヨは納得できないでいる。
甲板を見渡すと、相変わらずヘンリーにまとわりついているフランセスをギルフォードがちょっかいを出している。その、いつもの風景にどこか安堵の息をつく。
「……ねぇ、ギヨ」
背中にかけられる、寂しげな声。
「もうすぐホワイトピークが見えなくなるわ。……いいの?」
その言葉に、ギヨは気弱げな笑いを浮かべて振り返った。
「ひどいな、
「そんなこと……」
慌てた様子で言い直すが、それでもどこか寂しげに見据えてくるキリエ。
「でも……、しばらくアングルには帰れないのよ」
ギヨは養母を安心させるように笑ってみせた。が、母の隣に控えているローズ・アンが寂しそうに俯いたのを目にすると、思わず黙り込む。秘書官の娘は、侍女見習いとして女帝の側近くで仕えている。王都イングレスのプレセア宮殿では、毎日のように顔を合わせる仲だ。ギヨは、養母だけでなく皆に言い聞かせるように声を高めた。
「大丈夫ですよ。もう二度とアングルに帰らないわけではありません。少し……、長くガリアにいるだけですよ」
少し大人になった口ぶりの愛し子に、キリエは誇らしげに頷いた。
旅の発端は、数ヶ月前に遡る。春の温もりにようやく木々が芽吹き始めた頃。私室で手紙を認めていたキリエは、扉を叩く音に顔を上げた。
「陛下」
扉を開いたモーティマーの脇からギヨが姿を見せる。
「あら、どうしたの」
「お忙しいですか?」
「大丈夫よ」
ギヨはどこか固い表情で歩み寄った。
「ちょっと、お話があるのですが……」
「なぁに、改まって」
キリエはどこか不安げな表情で席を立つと、息子にソファを勧める。そして、傍らの秘書官を見上げる。
「まだ時間はあるかしら、ロバート」
「はい。閣僚会議までにはあと一時間ございます」
モーティマーは男爵位を叙位されたものの、官職は主席秘書官のままだ。だが、義理の父であるレスターが設立した諜報組織「レスター機関」を受け継ぎ、長官に就任している。職務内容の特殊さから公表されていないだけである。レスター本人は数年前に第一線を退き、故郷グローリアで隠居生活を送っている。
「では、失礼いたします」
一礼し、部屋を退出してゆく秘書官を見送ると、ギヨは少しぎこちない口調で口を開く。
「今度のガリア行きは、七月に決まりましたね」
「そうね」
そう答えてから、思い詰めた表情のギヨの顔を覗きこむ。
「……それがどうかしたの?」
それでもギヨは前を見据えたままなかなか言葉を発しようとしない。ぎゅっと引き結んだ唇。大きく見開いた目。いつもは朗らかな息子の変化にキリエは胸騒ぎを感じた。
「……ギヨ」
「ごめんなさい」
ギヨは唐突に声を上げた。
「ちょっと、緊張してしまって」
「一体、どうしたの?」
養母の声に励まされるように、ギヨは目を瞑ると大きく息を吐き出した。そして、再び開いた瞳には強い光が宿っている。
「養母上」
居住まいを正し、養母に向き直る。
「この度は……、しばらくガリアに留まろうと思います」
「……え?」
キリエは目を見開いた。最初の第一声で緊張が解けたのか、ギヨは晴れやかな顔つきで言葉を続けた。
「しばらく、アングルには帰らないつもりです。……ガリア王として、オイールに留まります」
キリエは両手で口許を覆い隠した。六歳から今まで、ギヨはキリエと共にアングルとガリアを行き来してきた。それを、やめると言うのか。ガリアに居を移すと? 呆然とする養母にギヨはなだめるように言い聞かせる。
「アングルにもう帰らないわけではありませんよ、養母上。でも、私も来年には十五歳になります。王としてガリアの民に受け入れられるために、しばらくオイールに留まろうと思うのです」
「で、でも、どうして? どうして、今……」
おろおろと問いかけるキリエに、ギヨはちょっと気恥ずかしそうに笑う。
「きっかけは、この冬に養母上の寝室に久しぶりに入ったことです」
「寝室?」
「ほら、冬に大風邪を召されたでしょう」
キリエは去年の冬に風邪をこじらせ、数日間寝込んだ。その間、ギヨは養母のために甲斐甲斐しく看病をした。
「久しぶりに、寝室の絵を見て思ったのです。私も、王にふさわしい男にならねばと」
「寝室の、絵……」
プレセア宮殿の女帝の寝室には、カンパニュラ人画家リッピの手になる絵が掛けられている。まだ幼さを残した少女が祈祷書を読み耽る姿。ギヨの父、ギョームが女王の戴冠祝いとしてリッピに描かせた絵だ。
「あの絵に描かれていた頃でしょう、養母上が女王に即位なさったのは」
「そうよ」
「養母上は十五歳で女王に戴冠された。その時からずっと親政を続けていらっしゃる。私も、王としてガリアに留まるべきだと思ったのです」
真剣な眼差しで語る息子に、キリエの胸に熱いものがこみ上げてくる。この子は、いつの間にこんなにも成長していた。
「……親政を、するつもりなの?」
「はい。もちろん、バラの助言を受けながらになるでしょう」
ギヨの言うとおり、自身は十五歳で戴冠し、宰相であるジュビリーや廷臣たちの助けを借りて親政を行った。毎日が決断の連続で、気の休まる時もなかった。その暮らしも、ギョームとの結婚で大きく変わった。夫も君主であり、互いに助け合って国を治めた。辛いことも多かったが、安らぎのひと時もあったのだ。キリエのこれまでの人生の中で、最も幸せだった時期だ。ギヨは、自分やギョームのように「君主」になろうとしている。自分をまっすぐ見つめる、澄んだ碧眼。大きくなるにつれ、ギョームの生き写しのように美しく、逞しく成長してゆく息子。彼は、これからももっと成長してゆくのだ。思わず両腕を伸ばすと息子を抱きしめる。ギヨは照れくさそうに微笑むと、母の耳許で囁く。
「……養母上。時々相談に乗ってくれますか」
キリエは無言で頷いた。ギヨは安堵の表情で息をついた。
(……ギョーム)
胸の中で夫に呼びかける。
(あなたの子は立派な王になるわ、きっと)
だが、ギヨの下した決断は、キリエにもある決意を促すことになった。
やがて、女帝キリエとギョーム二世を乗せた船はガリアの港湾都市、ルファーンに到着した。艀から波止場が見えてくると、ギヨは苦笑を浮かべて母の袖を引っ張った。
「バラが」
キリエも身を乗り出して目を凝らす。出迎えた大勢の廷臣たちの中から、相変わらず洒落た身なりの宰相の姿を見つける。その顔は弾けんばかりの笑顔だ。
「喜んでいるのよ。あなたがガリアに留まってくれると聞いたから」
「はい。手紙もひどいものでした。喜びが爆発して、支離滅裂な文章で」
ガリアの宰相は、幼い王がガリアに留まり、親政を行うと宣言した書簡を受け取ると、喜びに満ち溢れた返事を送ってきた。だが、あまりの歓喜乱舞に論理は破綻し、読みにくいことこの上ない手紙に、ギヨはこれから助言を仰ぐべき宰相がこれで良いものかとひそかに危ぶんだ。
やがて艀が波止場に着くと、バラが飛んでくる。
「陛下! ご無事のご帰国、何よりでございます!」
「落ち着け、バラ」
「落ち着いております! それはもう、澄み渡る湖面のように!」
ギヨは目を丸くすると養母を振り返る。キリエも思わず声を上げて笑う。
「こんなに舞い上がっているあなたを見るのは初めてだわ、アンジェ公!」
そう言われ、バラは照れ笑いのように顔を歪ませ、恐縮して頭を垂れた。
「申し訳ございませぬ。つい、この喜びを抑え切れず」
大きく息をつき、改めて女帝と王を見つめる宰相。
「しかし、女帝陛下はまったくお変わりございませんな」
「そうかしら」
首を傾げて見上げてくるキリエに、バラは懐かしげに目を細める。
「初めてお会いした時のまま、純粋無垢な美しさはお変わりございません」
「まぁ。あなたの上手なところは変わっていないわね」
上目遣いにそう返すキリエに、バラは豪快な笑い声を上げる。いつになく機嫌の良いガリアの宰相に、アングル側の廷臣たちも内心呆気に取られて見守る。だが、事実キリエの美しさは年齢を重ねても変わることがなかった。バラが出会った頃は垢抜けない純朴な修道女に過ぎなかったが、ギョームと結婚したことで急激にその美しさが花開いた。今ではキリエも三一歳。穏やかで静謐な美しさの中にも、内面の慈愛が垣間見え、まるで聖女のような佇まいを醸し出している。そのため、実は今でも大陸各国から縁談が持ちかけられていることも事実であった。バラはやがて、背後に控える黒衣の男に目を向ける。
「それに比べ、貴殿は一気に老け込んだな。私より若いというのに」
あけすけな言葉ではあったが、厭味な口調ではなく、ジュビリーは思わず含み笑いを零す。
「私ももう、五十を超えましたから」
確かに、ジュビリーの頭には白いものが目立つようになり、小皺も増えた。そして、彼は隣にくっついている養子の肩を叩く。
「それと、原因の半分はこれです」
貶されているはずなのに、どういうわけかヘンリーは誇らしげに胸を張ってみせ、実父のジョンが「こら」とたしなめる。だが、バラは笑いながらジュビリーの顔を指し示す。
「もう半分はこの髭のせいではないのか?」
バラの言うとおり、ジュビリーの面立ちが変わったように見えるのは頬を半分ほど隠す髭のせいでもあった。だが、そのやり取りにキリエは一瞬眉を寄せた。ジュビリーが口髭と顎髭だけでなく、頬の髭も生やし始めたのは痩せ衰えた頬を隠すためだと気づいていたからだ。
「それに引き替え、貴殿は今も隙のない身だしなみ。見習いたいものです」
真面目くさった顔つきで深々と頭を下げるジュビリーに、皆が笑い声を上げる。
「では、バラ。父上に挨拶をしに行きたい」
「はっ、是非お願いいたします」
ルファーンを訪れると、キリエとギヨはいつも決まってルファーン城の礼拝堂に向かう。そこには、キリエの愛しい人が永遠の眠りについているのだ。
ルファーン城の城郭内に建てられた礼拝堂。荘厳なその礼拝堂は、キリエとギヨを静寂で出迎えた。
「……ギョーム」
礼拝堂の霊廟には、ギョームの名が刻まれた石の棺が安置されている。跪き、棺を愛おしげに撫でるキリエ。その様子に、側近たちが神妙な顔つきで見守る。ギョームが崩御して十四年。〈王妃〉はまだ王を慕い続けている。やがてキリエは棺に唇を寄せて囁いた。
「……ギヨがね、ガリアで親政を始めるのよ」
そして、隣に跪くギヨに微笑みかける。彼は少し恥ずかしそうにはにかむと腰を屈め、額を棺に押し当てた。
「……どうか見守って下さい、父上」
しばらく、母子はそうして棺の側に佇んでいたが、やがてギヨが立ち上がる。
「行きましょう、養母上」
「ええ」
そう言って腰を上げたキリエだったが、先ほどまでの穏やかな表情が消え失せていることにギヨが気づく。
「……養母上?」
息子の呼びかけにも応じない。固い表情でじっと棺を見つめていたキリエは、唐突に膝を折ると棺にすがりついた。
「養母上……」
思わず駆け寄ろうとしたギヨだったが、その動きが止まる。父と二人きりでいたいのだろう。黙って数歩ほど下がる。キリエはかすかに震えながら棺に伏していた。石の冷たさが衣服を通して染み入る。その冷たさは、すでに息絶えたギョームを迎え入れた時を思い起こさせた。あんなに温かく、柔らかだった頬が、冷たく、固いものになっていたのだ。あの日の無念は、忘れることなどできない。だが。
「……ギョーム……」
震える声で囁く。
「……あなたのことは忘れないわ、決して。だから、お願い……。私のわがままを聞いてくれる……?」
キリエとギョームはルファーンから三日かけて王都オイールに到着した。これから親政の準備を始め、年明け後、ギヨの生誕記念式典で親政宣言を行う。それと同時に、キリエは摂政としての任を終えることになる。
「色々と学んでいただかなくてはなりません。これまで以上にです。しかし、陛下ならば大丈夫でございます。これまで女帝陛下の執政をお側でご覧になってこられたのですから」
力強くそう語るバラに、ギヨは素直に「よろしく頼む」と答える。
「それにしても……、十五歳におなりになる前に、陛下御自ら親政を決意していただけるとは……」
誰に語るでもなく、感慨深げに呟くバラをキリエが穏やかな表情で見守る。先王の宰相だったバラは、ギヨに対して並々ならぬ期待と希望を抱いている。それは、ギョームを守りきれなかったという自責の念もあるのだろう。偉大な王に育てねば。その思いは自分と同じはずだと、キリエは胸で囁いた。
(だからこそ、アンジェ公にも理解してもらわねば)
キリエは、老いたガリアの宰相を見つめた。