翌月、キリエとジュビリーはアングルに一時帰国を果たした。乗り越えるべき困難がまだある。廷臣団及び議会の承認だ。
「私は、クレド公と再婚したいと思います」
女帝の招集に応じて集まった廷臣と議員たちは、突然の申し出に当然の如く仰天した。居並ぶ男たちは皆目を見開き、口を半開きにして女帝と宰相を凝視した。穏やかならざる沈黙が続く中、ようやく一人の廷臣が困惑を隠しきれぬ表情で身を乗り出す。
「陛下は……、ずっとクレド公と再婚するおつもりでいらっしゃったのでございますか。それ故、外国との縁談を全てお断りに?」
その問いにキリエは小さく頷く。ざわめきが広がる中、ジュビリーは目を閉じたまま黙して語らず、身動きひとつせずに座している。
「では、ライン公にもお断りを……?」
ライン公の名に一際喧噪が広がる。実は、ライン公の心を惹きつけたのはキリエの魅力だけでなく、ナッサウ側にはキリエとの縁戚を是が非でも実現させたい理由が他にあった。
一昨年前に没したエスタド王ガルシア。彼の生母はナッサウの王女であったため、ナッサウとエスタドは縁戚による同盟が結ばれていた。だが、十五年前の戦争を境にナッサウは神聖ヴァイス・クロイツ帝国に加盟。エスタドの影響下から完全に脱するために、キリエとの縁戚を結びたかったのだ。そして、それは帝国の利でもあった。産声を上げたばかりの帝国の安定化を図るためにも、ナッサウとの縁戚は悪い話ではない。そのため、アングル国内でもキリエとナッサウの縁談を推し進めようとする一派が存在していた。
「ナッサウとの同盟が強化されれば帝国にも、アングルにも安寧が……」
「しかし、臣下とのご再婚であれば……」
その言葉に同調するように皆の表情が曇り、口を閉ざす。臣下との結婚では国益に適わない。キリエは不安げに顔を青ざめさせ、項垂れた。駄目なのか。個人の幸せを求めるのは、やはり許されないことなのか。キリエの心がくじけかけた、その時。
「おまえたちの望みは何だ」
不意に上がる太い声。キリエはぎくりとして顔を上げ、ジュビリーは静かに目を開いた。皆の視線を集めているのは、ホワイトピーク公ウィリアム。
「アングルの安寧と、大陸の平和が望みか」
白髪も増え、頬に深い皺が刻まれながらも、威厳ある佇まいは変わらない。ウィリアムは黙り込む廷臣らを見渡した。
「クレド公とご結婚されることが陛下の安寧だ。そして、それが大陸の平和へと繋がるのだ。わからぬのか」
「おじ上」
キリエのか細い声にウィリアムが振り返る。彼女は、今にも泣き出しそうな表情で囁いた。
「これは……、私のわがままですから」
ウィリアムが痛ましげに顔を歪めた時。
「陛下がわがままと仰せだ!」
突然の叫びに皆は飛び上がった。キリエも目を見開いて体を強張らせる。ジュビリーは叫び声の主をじっと見据えた。
「……ジョン」
彼は椅子を蹴って立ち上がった。
「これまでアングルの発展と大陸の平和に貢献されてきた陛下が、ささやかな幸せを願うことをわがままだと仰せだ。皆はそれで良いのか!」
ジョンの言葉に皆が黙り込み、広間は静まり返った。それでもなおジョンは言葉を続けた。
「このままでは、陛下が幸せになることを諦めてしまわれる。それでも良いと? アングルの男として、恥ずかしいとは思わぬのか!」
「グローリア侯……」
宮廷侍従長がおろおろとした様子で声をかけ、皆は沈黙した。テーブルに両手を突き、身を乗り出して廷臣や議員たちを睨みつけるジョンに、ウィリアムは苦笑を漏らすと席に着くよう促す。そして、穏やかな口調で語り始めた。
「幼いうちに母君と死に別れ、父王陛下の存在も知らずに教会でお育ちになられた陛下は、思えばこれまで苦難の連続であった。孤独と不安の中でも女王としての責務を果たし、国の平和に心を砕いてこられた。そして、先王ギョーム王陛下とご結婚され、ようやく幸せを手にされたのも束の間、エスタドめにその幸せを奪われた。……あれから十五年。陛下にもう一度幸せになっていただこうとは思わぬのか」
ウィリアムの呼びかけに、皆の表情が神妙なものへと変わってゆく。キリエは青い顔のままウィリアムを見つめた。耐え難い沈黙が続き、やがてウィリアムは息をつくと臨席の男を見やった。
「アンジェ公」
ガリアの宰相は眉を寄せ、苛立ちとも不安とも取れる曖昧な表情を浮かべていたが、ウィリアムの呼びかけに表情をゆるませて振り返る。
「お国は、女帝陛下のご再婚についてはどうお考えかな」
その問いに、バラはにっと笑ってみせた。
「ガリアでございますか」
洒落者は気取った様子で居住まいを正した。
「申し上げるまでもなく、ガリアは国王陛下の思し召しのまま。王の意思は国民の総意でございます」
その言葉に、アングルの廷臣たちは言葉を失った。ギヨは養母の再婚を認めている。そして、ガリアの国民もそれを認めているというのか。動揺を見せるアングルの廷臣たちに追い打ちをかけるように、バラは身を乗り出すと声を高めた。
「きっと、亡き先王陛下も王妃が笑顔で過ごされることを願っておられるはず。アングルは? よもや願っておられないとでも?」
その問いかけに、人々は冷水を浴びせかけられたかのように衝撃を受けた。そして、廷臣の一人が立ち上がる。
「これまで、陛下が我々を困らせるようなことをなさったか? 一度だってないはずだ」
「そうだ。陛下はいつでも国と民のことを第一に考えてこられた。お幸せになっていただこうではないか……!」
広間に、嬉々とした晴れやかな空気が広がってゆく。キリエの表情がようやく穏やかにほぐれる。ジュビリーも、表情は変えないものの、皆の賛同に目を見開く。
「陛下にご結婚していただこう。陛下が安寧を手にされれば、アングルも大陸も栄える!」
そして、人々はしたり顔で次々と「この日がもっと早く訪れるべきだったのだ」だの、「いつかこうなるであろうと、前々から思っていたのだ」だの、好きなことを言い出し、バラはつくづくアングル人のおめでたさに呆れ果てたように肩をすくめた。
「皆、ありがとう……」
どこか呆然とした表情で思わず席を立ったキリエが声を上げる。と、一瞬遅れてジュビリーも立ち上がる。ざわめきがわずかにおさまり、皆が黒衣の宰相に注目する。
「……感謝いたします」
宰相は、ただ一言だけ口にすると、深々と頭を垂れた。
こうしてキリエの再婚に関し、廷臣団と議会の承認は得られた。だが、事がそれですんなりと決まったわけではもちろんない。キリエとジュビリーの婚姻に際し、様々な事柄が取り決められた。
まず、ジュビリーの爵位や官職に変更はなく、取り分けて権利が与えられることはなかった。二人の間に子ができたとしても王位継承権は認められず、バートランド家も予定通り養子のヘンリーに受け継がれる。そのため、キリエはバートランド姓を名乗らず、アッサー姓のままでいることになった。これに関し、キリエの個人的な希望として、もしも子ができなかった場合は祖父ベネディクトの妹の子孫にアッサー家が引き継がれるよう取り決められた。このように、二人の結婚には法的な利益はほとんどなく、主に宗教的な意味合いが強かった。だが、それでもキリエにとっては大きな意味があった。
正式に結婚が認められたため、キリエは週末をイングレス市内のジュビリーの私邸で過ごすことができるし、気兼ねなくクレドへ里帰りもできるようになった。それは、何物にも代えられない安らぎだ。そして、大陸各国からひっきりなしに持ち掛けられていた縁談もなくなった。だが、熱心に求婚を続けてきたナッサウのライン公の落胆ぶりはひどかったという。それでも、キリエから再婚する意思を伝えられた彼は、キリエの幸せを願う手紙を送り届けてきた。
キリエとジュビリーは無事に婚約を取り交わし、結婚に向けて着々と準備は進められた。が、ここへ来て思わぬ障害が立ちはだかった。アングルの国民、取り分け王都イングレスの市民たちの間で賛否が分かれたのだ。
イングレス市民にとって、キリエの亡夫ギョームは侵略されたイングレスを解放した英雄。そして、キリエとギョームの仲睦まじさを記憶に留める者が多かったためでもある。廷臣や議会に認められても、国民の理解が得られない状態では再婚はできないと思い詰めたキリエだったが、彼女を救ったのは兄、ヒースだった。
ヒースはこれまで政治的な発言は避けてきたが、妹の婚約を受け、次のような談話を発表した。
「女帝陛下がガリアの先王陛下とご結婚されて以来、アングルの留守を預かり、アングルを守り続けてこられたクレド公に敬意を表します。お二人が結ばれることで、アングルはますます発展していくことでしょう」
国民から絶大な尊敬を集めるヒース大司教の言葉に、皆は心を打たれた。そうだ。女帝不在のアングルを守ってきたのはクレド公ではないか。ヒースのおかげで国内は祝福の色に染まり、キリエはほっと安堵した。
こうして、たくさんの細かな手続きを済ませると、キリエとジュビリーは年末には再びガリアへ。出迎えたギヨはすっかり大人びた表情に様変わりしていた。皇帝戴冠への意識が息子を変えたのだと思うと、キリエは誇らしく思うと同時に寂しくも感じた。こうやって、ギヨは少しずつ親離れしていくのだ、と。
そして、新年の祝いと共にギヨは親政を宣言。キリエから帝位を譲位され、華々しい戴冠式が執り行われた。先王の悲劇的な死から十五年。ガリアの人々は時の流れを思い、新しい時代の到来に歓喜した。
皇帝として改めて臣下や連合諸国の君主らと臣従の誓いを交わしたり、生誕祝いを受けたりと目まぐるしい日々を送ったギヨは、「しばらくアングルには帰らない」と宣言していたにも関わらず、春になるとアングルへ帰国した。養母の結婚式に立ち会うためだ。
初夏の陽射しが優しい薔薇園。ゆるい風が甘い香りを運び、小鳥たちが囀りながら足許を遊ぶ。天に庭があるならば、きっとこのような場所に違いない。キリエはそう思いながら薔薇の香りを胸深く吸い込んだ。
キリエの細い体を包んでいるのは純白の長衣。天使の衣のように薄く繊細なレースが頭部を覆い隠し、穏やかな微笑が見え隠れする。彼女は、目の前に広がる薔薇たちを見つめた。十ニ年間過ごした教会を連れ出され、王位継承戦争のただ中にあって、不安で押し潰されそうだったキリエの心の拠り所になったのが、このクレド城の薔薇園だった。可憐な薔薇たちを眺めているうち、キリエは眉をひそめた。この美しくも静かな薔薇園は、あの方の憩いの場でもあったはず。彼女の脳裏に、昨日の出来事が浮かび上がる。
クレド城を久々に訪れたキリエは、ジュビリーに導かれて礼拝堂の裏手に広がる林にやってきた。二年近くをクレド城で過ごしていながら、これまで存在すら知らなかった場所。それが、城に纏わる人々の墓所だった。
林の中ほどに、秘密の庭のように作られた墓所。その一番奥の墓標の前で、ジュビリーは歩みを止めた。墓標に、薔薇と楡の木の紋章が刻まれていることに気付いたキリエがはっと息を呑む。ジュビリーが愛した人、エレオノール。ここに眠っているのか。
ジュビリーは黙ったまま膝を突いた。キリエも片膝を突くと両手を合わせる。二人は言葉も交わさず、長い間祈りを捧げた。やがて、どちらからともなく瞳を開け、墓標を見つめる。ジュビリーは口を閉ざしたままだった。そのため、キリエも何も尋ねなかった。ただ、黙って彼の大きな手を握りしめた。
「キリエ様」
マリーエレンの呼び声に顔を上げる。振り返ると、華やかな衣装に身を包んだマリーエレンとジョンが、レスターの両脇を支えている。年を老い、痩せた老臣は唇を震わせながらキリエの晴れ姿を見つめた。
「……レスター、お願いね」
「キリエ様……!」
すでに目を潤ませた彼はすがりつくようにキリエの手を握り締めた。
「ああ……! ケイナ様が、ベネディクト様が、ご存命であれば……!」
くぐもった囁きと共に涙が溢れ出し、キリエは老臣の手を優しく撫でた。
「いつもありがとう、レスター。……いつまでも心配かけてごめんなさい」
キリエの言葉に、レスターは号泣せんばかりに声を上げて嗚咽を漏らし、ジョンが呆れて肩を叩く。
「これでは介添えしているのか、介添えしていただいているのかわからないではないか」
「そうよ、しっかり。レスター」
マリーも心配そうに囁くが、本人は顔を振って野太い声を上げる。
「大丈夫でございます。これは……、私にしかできないお役目でございますから!」
「頼むぞ」
「さ、そろそろ行かないと。兄上が待っているわ」
その言葉に、キリエはぽっと頬を染めた。それに気づいたマリーが嬉しそうに微笑みかける。
「では、礼拝堂でお待ちしておりますわ、キリエ様」
キリエにレスターを託すと、ジョンとマリーは渡り廊下の先へと消えていった。
「……レスター」
「はい」
レスターはキリエの腕を取ると、静かに歩みを進めた。礼拝堂へと向かう渡り廊下。春の輝く光に満ちた空間が二人を包む。十五年余り前にも、こうしてレスターと共に礼拝堂へ向かった。彼が導いてくれた先には、ギョームが待ってくれていた。彼とは様々な困難を共に乗り越え、幸せな結婚生活を築いた。
「……お幸せになられるのですぞ」
「ええ」
キリエはレスターの腕を取る手に力を込める。皆のために、ギョームのために、自分は幸せにならねばならない。キリエはそう言い聞かせた。
やがて、渡り廊下の突き当りの扉にクレド城の家令、ハーバート・ビュート男爵がはち切れそうな笑顔で控えている。
「おめでとうございます、女王陛下」
「……ありがとう」
はにかみながら低く囁く。
「お開けいたします」
ハーバートが召使と共に扉を押し開ける。と、列席者が一斉に振り返った。礼拝堂に集まったのは、アングルとガリアのごくわずかな廷臣。そして、キリエとジュビリーの親しい友人たち。皆は感慨を胸にキリエを迎えた。緊張で胸が張り裂けそうになりながらも、キリエはベール越しに列席者に目を向けた。
ジョンとマリーエレンの間には、ギルフォードとフランセス。そしてヘンリー。更に目を遠くへ移すと、モーティマーとアン夫妻。娘のローズ・アンがキリエの姿に目を奪われているのが見える。その後ろから覗く人々の姿にキリエの表情がほころぶ。かつて侍女見習いとしてキリエに仕えていたエヴァンジェリン・リードとその夫、グラスヒル子爵だ。二人の間には少女と少年の姿が。エヴァは美しいキリエの花嫁姿に両手を握りしめて見守っている。その頬には幾筋もの涙が。隣で寄り添う子爵の姿にもキリエは胸が締め付けられた。彼はエヴァよりも三五歳年上。もう六十代半ばのはず。その老体を押して、辺境のグラスヒルから自分の結婚式に駆けつけてくれた。
「……皆、ありがとう」
胸で小さく囁く。そして、最前列の席には、盛装姿のギヨが。瞬間、歩みを止めて息子を見つめる。彼はにっこり笑うと頷いた。大事な友人が、家族が、自分のために集まってくれた。それだけでも、キリエは天に感謝した。
礼拝堂の奥、内陣の祭壇前には純白の祭礼服を纏った大司教。妹の結婚式を挙げるために馳せ参じたヒースだ。そして、その隣に立ち尽くしているのが、赤い礼装に身を包んだジュビリーだった。バラに揶揄されていた頬の髭を剃り落し、かつての顔貌を取り戻した彼は今や緊張に顔を引き攣らせていた。目が見えないヒースのために、傍らの修道女が耳許で花嫁の到着を伝える。修道女がこちらを振り返り、キリエは思わず微笑を浮かべた。ジゼル。ガリアの宮廷で共に過ごした女官の美しさは、今も変わることがない。キリエは思わず首を巡らし、ジゼルのかつての愛人バラに眼差しを向ける。が、女王の意図をすぐに理解したのだろう。いつにも増して華やかに着飾ったガリアの宰相は、寂しげな微笑を浮かべて頭を垂れた。
やがて、妹の到着にヒースが笑顔で両手を広げる。ジュビリーは固い動きで花嫁に歩み寄った。白一色の長衣に身を包んだキリエに様々な思いがこみ上げ、思わず黙って見つめる。ケイナの腕に抱かれていた乳飲み子のキリエ。あれから、三十年の時が流れた。長いようで、あっという間に過ぎ去った三十年。やがて、隣に佇むレスターに頷く。
「……ご苦労だった、レスター」
耳許で囁かれたレスターが感極まり、声を上げて泣き出す。突然のことに列席者たちが驚いて身を乗り出す。
「レスター……!」
ジュビリーが慌てるが、レスターは人目を憚らず号泣した。キリエも老臣の背を撫でるが、彼はキリエの腕をしっかりと掴んで離さない。思わずジュビリーが困り果てた様子で天を仰いだ時。
「こら、じい」
見かねたギヨが飛び出すとレスターの手を取る。
「養母上を渡したくないのか? わかるぞ」
その言葉に皆が吹き出し、笑い声が上がる。
「ギヨったら……!」
養母の声にいたずらっぽく笑いかけると、ギヨはじいの手を引いて下がらせる。が、その際にジュビリーに睨みを利かせることを忘れなかった。
「よろしいでしょうか。女王陛下、クレド公」
兄の言葉に慌てて居住まいを直す。
「……お願いします、兄上」
その言葉を合図に、礼拝堂は速やかに静寂に包まれる。ヒースが厳かに手を上げると、侍祭の少年たちが鈴を打ち鳴らし、聖歌を歌い始める。
「それでは、クレド公爵ジュビリー・バートランドと、キリエ・アッサー・オブ・アングルの結婚の儀を執り行います」
ジュビリーとキリエは胸で両手を合わせ、片膝を突いて頭を垂れた。
「あまねく天に広がるヴァイス・クロイツの祝福を。光と陰、安寧と孤独、幸福と不幸、様々な試練を共に手を取り歩んでいく二人に、天よ、導きたまえ、守りたまえ、支えたまえ」
ヒースがそこで言葉を切り、ジュビリーがいるであろう方向へ首を巡らす。
「汝、ジュビリー・バートランド。この女性、キリエ・アッサーを娶り、天の祝福を受けし婚姻を結ぶことを願うか」
大司教の呼びかけに、ジュビリーの脳裏にかつての光景が蘇る。五年の婚約を経て結ばれた前妻、エレオノール。彼女ともこうして天に誓いを立て、皆に祝福された。共に幸せになるはずだったのに。その途上でエレオノールとは永遠に引き裂かれた。だが、ジュビリーの胸にはずっと刻み込まれてきた言葉があった。
「私は、天に召されてもずっとあなたを支え続けるわ。あなたは、あなたを必要とする人を支えてあげて」
忘れない。かつて自分を支えてくれた存在を。静寂の中、ジュビリーは唇を湿してから口を開いた。
「……我、これを願う」
ジュビリーの声に頷き、ヒースは妹に呼びかけた。
「汝、キリエ・アッサーよ。この男性、ジュビリー・バートランドに嫁ぎ、天の祝福を受けし婚姻を結ぶことを願うか」
ベール越しに兄を見上げるキリエ。なかなか言葉を発しない妹に、迷いを感じとったヒースは優しい微笑を浮かべて頷いてみせた。キリエは、ようやく息をつくと口を開いた。
「我……、これを、願う」
その細い声を耳にすると、ギヨはたまらず顔を伏せた。もう割り切ったはずなのに、それでも寂しくてたまらない。心の内を察したのか、レスターが優しく肩を撫でてくる。
「指輪の交換を」
ヒースの言葉に、ジゼルが指輪を載せた盆を捧げ持つ。ジュビリーとキリエの前まで歩み寄ると、二人に微笑みかける。
「……ジゼル」
キリエが小さく呼びかけると、彼女は黙って頷いた。そして、ジュビリーを見上げると盆を差し出す。彼はゆっくりと手を挙げると指輪を手にした。簡素で細い金の指輪。中央には小さなダイヤモンドがきらりと輝きを放つ。
ジュビリーはキリエに向き直ると、そっと左手を取った。相変わらず、頼りなげな細い手。その薬指にゆっくりと指輪を嵌める。キリエは思わず手首を返すと指輪を見つめた。この小さな指輪に様々な思いが込められていると思うと、愛おしくてたまらなかった。軽く手を握りしめてから、キリエは盆の指輪を取る。自分のものと比べるとずいぶんと大きい。そうだ。彼の手は大きい。この手が、ずっと大好きだった。少し危なっかしい手つきでジュビリーの手を取り、緊張しながら指輪を彼の指に嵌めた、その瞬間。彼女は息が止まるほどの衝撃を受けて立ち尽くした。ジュビリーが自分の指先を握りしめたのだ。キリエの脳裏に鮮やかに浮かぶ情景。そうだ、あの時。あの時も、ギョームがこうして指先を握りしめた。ギョームの笑顔と温もりが胸を離れない。幸せだった日々の思い出も。ジュビリーもそうなのだろうか。亡き妻の面影が脳裏から消えることなく残っているのだろうか。自分たちは、このまま結ばれて良いのか――。
「それでは」
ヒースの声に小さく体を震わせる。
「天なるヴァイス・クロイツのお恵みの下、誓いのキスを」
ジュビリーがキリエの顔を覆い隠すベールを静かに持ち上げる。が、現れた花嫁の表情に思わず眉をひそめる。困惑と怯えに満ちた瞳が大きく見開かれ、唇が震えている。
「……キリエ様」
キリエの顔付きが歓喜に満ちたものではないことに気付いたレスターが心配そうに囁き、ギヨも顔をしかめる。列席者たちは、息をひそめて二人を見守った。
「……キリエ」
体を屈めて耳許で囁くが、キリエは涙を溜めた目を伏せ、項垂れた。小刻みに震える細い肩に、ジュビリーは眉を寄せる。胸に去来するものを察したのか、彼は肩に手をかけるともう一度耳朶に唇を寄せた。
ジュビリーの囁きにキリエの瞳が瞬く。ギヨは身を乗り出して二人を凝視した。何の話をしているのだろう。養母は今にも泣き出しそうな目でジュビリーを見つめると、やがて堪えきれずに胸にすがりついた。その肩を優しく撫でてから、ジュビリーは頬を包み込むと顔を上げさせる。と、二人はごく自然に唇を合わせた。
ああ、と皆が声を上げる。そして、キリエは声を上げて泣き崩れた。
(キリエ)
ギョームの声が胸に響く。
(私を忘れないでくれ。これからは、自由に生きろ)
あの日、花舟で囁かれた言葉。最期の言葉。あの言葉と共に、これからも生きてゆくのだ。
主君の孫娘が晴れて思い人と結ばれた姿を、レスターは万感の思いを胸に見守った。涙でぼやけた彼の視界が、あの日の情景と重なる。あの日も、キリエは今のようにむせび泣きながらジュビリーと口付けを交わしていた。そう、まさしくここで。ギョームと結婚する直前。あの日から十七年の月日が経った。
一方、レスターの隣では、ギヨがきりきりと胸の痛みを感じながら二人を見守っていた。二人はどんな思いで、どんな困難を乗り越えて、この瞬間を迎えたのだろう。まだ幼い自分には想像もできない。いつか……、自分もこんな風に誰かと結ばれるのだろうか。いつの日か。
翌月、ギヨはガリアの廷臣団を連れて帰国の途に就いた。ホワイトピークの港には、大勢の見送りの人々が集まった。
「戴冠なされてから、ずいぶんとご立派になられました」
レスターがしみじみと呟き、ギヨは苦笑を漏らす。
「じい、戴冠したばかりだ。まだ何もしていない」
「いいえ。その立ち居振る舞い、佇まい、全てが威厳に満ちていらっしゃいます」
じいの言葉にギヨが養母と顔を見合わせ、思わず吹き出す。
「褒め過ぎだ、困ったな」
「もう何も思い残すことはございませぬ」
「じい」
慇懃に頭を下げるレスターに慌てて身を乗り出す。
「そんな言い方はよせ。養母上を頼むぞ」
「いいえ」
レスターは感慨深げに微笑を浮かべ、キリエに眼差しを投げかける。
「ベネディクト様とケイナ様から託されたお役目は終わりました。後は、公爵に全てお任せいたします」
その言葉にキリエとジュビリーが目を合わせ、嬉しそうに微笑む。そんな二人にギヨは面白くなさそうに口を尖らせ、ジュビリーの服装に目を走らせる。
「しかし、黒衣は着るなとは言ったものの、見慣れないせいか似合わないな」
思わずジュビリーが口許をゆるませ、皆も笑い声を上げる。「喪服」を着ることをやめたジュビリーは濃紺の胴衣を身に纏っていた。
「陛下、クレド公は地味なのでございますよ」
洒落者のバラがここぞとばかりに口を挟む。
「クレド公、私のお古を何着か進呈しようではないか。垢抜けること請け合いだ」
「まぁ」
ガリアの宰相の軽口にキリエが頬を膨らませる。が、ジュビリーの方は澄まし顔だ。
「大変ありがたいお申し出ではございますが、アンジェ公。貴殿のお召し物では、丈が……」
そう言って大袈裟に相手を見下ろし、バラもわざと目を剥いてジュビリーを見上げ、その場がわっと沸く。そんな中、キリエはギヨの後ろに控えるギルフォードに微笑みかけた。
「ギルフォード、ギヨをお願いね」
「はい」
旅装に身を包んだギルフォードが胸を張って答える。彼は遊学も兼ね、ギヨの側近くで仕えることになっていた。母親のマリーエレンが心配そうに囁きかける。
「怪我や病気に気をつけるのよ。しっかりギヨ様を、いいえ、皇帝陛下をお守りして……」
涙ぐむ妻をジョンがそっと抱き寄せる。母を安心させようと、ギルフォードは努めて明るく言葉を返す。
「大丈夫ですよ、母上。しっかり学んで帰って参ります」
と、その時。ギルフォードの腰にフランセスがどんと抱き着く。ぎゅっと顔を押し付けているせいで表情はわからないが、大好きな兄が遠く離れてしまうことが寂しくてたまらないのだろう。
「フランセス」
ギルフォードが苦笑いをこぼしながら頭を掻き撫でる。
「父上と母上の言うことをちゃんと聞くのだぞ。でも、ヘンリーの言うことは聞いちゃ駄目だ」
「どういう意味ですか、兄上」
ヘンリーが不服そうに声を上げ、皆が笑う。
「伯父上、ヘンリーをお願いします」
甥の言葉にジュビリーが黙って頷くが、ヘンリーは得意げに兄に言い返す。
「兄上、養父上のことは私に任せて下さい」
途端にジュビリーがヘンリーの頭を小突き、「痛い!」と悲鳴が上げる。皆が和やかに笑い合う中、穏やかな表情で黙ったまま見守る少女にギヨの笑顔が陰る。
「……ローズ・アン」
少女は目を上げると居住まいを正した。
「養母上を頼む」
「承知いたしました」
固い表情で深々と頭を下げるローズに、低く囁きかける。
「私やギルフォードがいなくなると寂しくなるだろう」
「……はい、でも」
秘書官の娘はほんの少し頬を染めた。が、
「私がいるから大丈夫!」
兄に抱き着いていたフランセスが今度はローズの腰にしがみつく。その目は真っ赤に泣き腫らしている。
「そうですね、フランセス様」
ローズは嬉しそうに笑うとフランセスの頭を撫でる。そして、控えめな声色で言い添える。
「……でも、一番寂しがっているのはきっとヘンリー様ですわ」
思わぬ不意打ちにヘンリーがぎくりとして振り返る。
「べ、別に、そんなことはない」
珍しく慌てふためいて否定するヘンリーだが、ローズは優しい眼差しを投げかける。
「本当は、お兄様も陛下も大好きでいらっしゃるから」
いつも可愛いげのない憎まれ口を叩いているヘンリーに視線が集まり、本人は顔を赤くしてそっぽを向く。
「ヘンリー、ローズをいじめては駄目だぞ」
兄から釘を刺され、ヘンリーはもごもごと「わかってます」と呟く。
その様子を見守っていたギヨが、思い出したように「養母上」と声をかけると袖を引く。
「なぁに?」
ギヨは養母を皆から少し離れた場所まで引っ張ると、声をひそめて囁く。
「教えて下さい、養母上。あの時、何のお話をなさっていたのです」
「あの時って?」
「……誓いのキスの前です」
途端に、キリエは少女のように頬を赤らめると狼狽えて視線を泳がせた。
「な、内緒よ。内緒」
「教えてくださらないのですか?」
不満げに眉をひそめる息子に、キリエは困ったように苦笑を漏らす。そして、両手でギヨの頬を優しく包む。
「……そうね。あなたもいつか、大事な人に同じことを言うかもしれないわ」
その表情に、どこか寂しさも感じたギヨは不安そうに身を乗り出した。
「養母上」
「……大丈夫よ。これからは大事な人といつでも一緒にいられる。あなたには感謝しているわ。だから、アングルは私に任せて」
低い声ながらはっきりと言い切った養母に、ギヨの顔にようやく笑みがこぼれる。
「……わかりました」
「気をつけて」
「はい」
キリエはにっこりと微笑むと、ギヨの額に唇を押し付けた。
やがて艀の準備が整い、ギヨたちが乗り込む様子をキリエは不安と寂しさが入り混じった面立ちで見守る。
「兄上ー!」
フランセスが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「お願い……、早く帰ってきて……! 早く……!」
涙で言葉が途切れる妹の肩をヘンリーが撫でる。見送りに集まった大勢の人々の中から、ギヨはレスターが泣きながら手を振っているのを見つけた。かつては堂々たる体躯で大らかに包み込んでくれた彼も、ここ数年めっきり老け込み、痩せ衰えた。艀が少しずつ対岸から離れていくうち、やけに小さく見えるじいに胸が締め付けられる。
「じい!」
腰を上げかけ、ギヨは叫んだ。
「体を労って養生せよ! 良いな!」
その声が届いたキリエがレスターの耳許で伝える。と、彼は満面の笑顔で何度も頷いた。ギヨは大きく手を振った。だが、彼がレスターの笑顔を目にするのは、これが最後となった。