戴冠したギヨの姿と、キリエの花嫁姿を目にして安堵したのか。ギヨが帰国してから数日後、レスターは俄かに床に臥した。キリエはすぐさまグローリアへ帰り、レスターの妻と共に看病した。
目に見えて衰えたというのに、レスターの表情は穏やかで、むしろ幸福感に満ちていた。そして、病状を伝え聞いたギヨからの励ましの手紙に涙を流して喜んだ。その、数日後のこと。レスターはキリエやジュビリー、家族らに看取られて息を引き取った。七五歳であった。
グローリア城の中庭。日が暮れ始め、薄蒼い空気がたゆたう
レスターの葬儀は数日前に済ませたが、キリエはまだグローリアに留まっていた。レスターの娘、アンの夫であるモーティマーの憔悴ぶりがひどかったのだ。いつもは冷静で取り乱すことのない秘書官が落ち込む姿に、キリエはしばらくグローリアで過ごすことにした。こんな時ぐらい、モーティマーに自分と家族のために心行くまで過ごさせてやりたかったのだ。
布地の上でキリエの指先が細やかに針を運び、一針ごとに絵柄の輪郭が現れてゆく様を、ヘンリーが飽きることなく見つめている。
「……面白い?」
優しく問いかけると、ヘンリーは微笑を浮かべて頷いた。
「あなたのお母様から裁縫を習ったのよ」
「そうなのですか?」
キリエは手を休めると布地を撫でた。
「マリーは私の母から裁縫を習ったんですって。母も裁縫が得意だったから……。私はまだ幼くて、母から習うことができなかったけれど」
そして、寂しそうに眉をひそめる。
「私のために産着やおくるみをたくさん作ってくれて……。それを、レスターが大事に仕舞ってくれていたの。だから、ギヨが小さい時は母が作ってくれたものを使えたのよ」
そこで口をつぐむと哀しげに眉を寄せ、目を伏せる。
優しかったレスター。教会から連れ出されて間もない頃、ジュビリーとはまだ互いに壁を作っており、そんな自分たちの懸け橋になってくれたのが彼だった。祖父や母の思い出もたくさん語ってくれた。ギヨを育てるようになってからは父エドガーへのわだかまりもようやく和らぎ、晩年のレスターから父の話も聞くようになった。「もっと早く聞いておけばよかった」と悔やむキリエに、レスターは「時期が参ったのですよ」と優しく諭した。
ふと、肩がほのかに温かくなる。目を上げると、ヘンリーが少し固い表情でぎこちなく肩を撫でている。
「……ありがとう、ヘンリー」
思わず顔をほころばせると小さな手に自らの手を重ねる。しばらく二人は黙り込んで宵の波間に身を委ねた。やがて、背後から石畳の靴音が響く。
「……養父上」
振り向いた先には、「見慣れた」黒衣の男。ジュビリーはキリエの様子に眉をひそめた。
「どうした」
途端に、ヘンリーは大袈裟な身振りでキリエの肩から手を離し、居住まいを正す。
「浮気じゃないですよ、養父上。ご心配なく」
「何を馬鹿なことを」
苦虫を噛み潰したような顔つきで呟くジュビリーに、キリエは思わず吹き出した。
「ヘンリー、あなたのそういうところはジョンにそっくりだわ」
「光栄です、女王陛下」
大仰に跪いてみせるヘンリーにジュビリーが溜息をつく。
「では、邪魔者は消えます。ごゆるりと」
そう言って頭を下げると、ヘンリーは養父ににやにやと笑いかけながら立ち去っていった。その後ろ姿にジュビリーがもう一度溜息を吐き出す。
「……本当は優しい子なのよ。今も、ずっと側にいてくれたの」
その言葉に、ジュビリーは黙って頷く。そして、やおら手にした手紙を掲げる。
「オイールから使者が到着した。ギヨは大変な落ち込みようだそうだ」
「……そうでしょうね」
「それと……、別の問題も起きたようだ」
問題。キリエの表情が曇る。胸に重い緊張が広がるのを感じながら、彼女は手紙を受け取った。乾いた音を立てながら手紙を広げるキリエの隣に、ジュビリーは静かに腰を下ろした。そして、目の前の庭園を眺め渡す。ここでかつて、ベネディクトから剣の手解きを受けたのだ。ケイナが庭園の手入れをしていた姿も思い出される。あれから、どれだけの時が経った? 全てがゆっくりと、静かに時が流れていたあの頃から。
やがて、眉を寄せたまま黙って手紙を読み進んでいたキリエが「えっ」と声を上げる。
「キリエ?」
呼びかけにも応じず、キリエは大きく目を見開いたまま手紙を凝視している。やがて手紙を持つ手が震え始め、顔から血の気が引いてゆく。
「どうした」
ただごとではない様子にジュビリーが肩を抱き寄せる。が、キリエは黙ったまま必死に手紙の文字を追っている。やがて、つぶらな瞳が揺れたかと思うと、涙が一筋頬を伝う。ジュビリーは眉間の皺を深めた。肩を小刻みに震わせると、キリエはジュビリーの胸にすがりついた。
「……ギヨ……、ギヨに」
「何があった」
キリエは嗚咽の混じった声で途切れ途切れに囁いた。
「ギヨに……、縁談が」
縁談。その言葉が一瞬、理解できなかった。ジュビリーは泣きじゃくるキリエの背を撫で続けた。彼女は震えながら顔を上げると手紙を押し付ける。ジュビリーは少し躊躇ってから手紙を受け取った。
「養母上、お元気でいらっしゃいますか。彼とはうまくいっていますか。大丈夫だとは思いますが、正直やはり心配です。
レスターは残念でした。じいが倒れたと報せを受けた時、すぐにでも帰国したかったのですが、度々帰国していてはじいに叱られるだろうと、思い留まりました。養母上、じいの家族をよろしく頼みます。
それから、養母上にご報告とご相談があります。先日、私に縁談が舞い込みました。お相手は、エスタドはフアナ女王のご息女、ペネロペ王女です。本当に、驚きました。耳を疑いました。ガリアの廷臣らも賛否に分かれています。特にバラは猛烈に反対しています。彼は私にはっきり申しました。『先王陛下は自分の目の前で殺されたのです』と。バラの気持ちはわかります。私も、父上を手にかけた男の孫を娶る気にはなれません。
しかし、フアナ女王の和平にかける思いは想像以上に強いものでした。養母上からお話には伺っておりましたが、フアナ女王は自らの手で大陸の平和を実現させようとお心を砕いておいでです。
使者としてやってきたのは、宰相のオリーヴ公でした。彼は最初、私の姿を目にして言葉が出ない様子でした。よほど、私が父上と似ていたのでしょう。『瓜二つだ』と申しておりました。それを聞いて、不思議なことに私はこの同盟策を受け入れようと思うようになりました。父上の代わりに、私がプレシアス大陸に平和をもたらすことができるのではないかと、そう思ったのです。
……今なら養母上のお気持ちがわかるような気がします。自分の結婚で世界が平和になるならば。私は、ガリア王国の王であり、神聖ヴァイス・クロイツ帝国の皇帝ですから。まだまだ話し合いを重ねなければなりませんが、この縁談を受けようと思っています。
ただ……。聞くところによると、ペネロペ王女は勝ち気で男勝りなお方だとお聞きしています。それが、少々心配ではあります。また後日、バラをそちらに遣ろうと思います。詳しくはその時にまたご報告させていただきます。
養母上、お体にはお気をつけて」
ジュビリーは目を眇めた。父王ガルシアの後を継いで即位したフアナはそれまでの軍事路線を大幅に変え、親クロイツ諸国への対話を積極的に呼びかけるようになった。そのため、長年の膠着状態を打破できるとキリエも期待を持っていた。
キリエの嗚咽がまだ続いている。震える肩を撫でてから、ジュビリーは耳許で名を囁いた。彼女はしゃくり上げながら顔を上げる。その顔は紅潮し、怒りで視線が定まらない。
「ギョームを……、ギョームを殺した男の、孫娘よ……!」
「落ち着け」
ここまで取り乱して泣くキリエは久しぶりだった。溜息をつくと、両手で涙を拭ってやる。
「ど、どうして、ギヨが、こんな目に……!」
「キリエ」
駄々っ子をなだめるように頬に唇を押し付ける。
「ギヨも言っている。あのフアナの娘だ、と。おまえと共にあの戦争を終わらせたフアナの」
キリエの脳裏には、対話のためにアングルの陣に現れた聡明な少女の姿が鮮やかに焼き付いていた。彼女とはあれきり会っていない。だが、平和を願う思いは同じだと、あの時確信したのだ。フアナと共に、争いのない世界を築いてゆきたい。その思いは偽りではない。だが、それでも俄かには受け入れがたい。ギョームを殺した男の孫と、ギヨを娶せるなど。
「それだけじゃ、ないわ」
かすれた声で訴えるキリエに、ジュビリーが耳を寄せる。彼女は悔しげに目を閉じた。
「ギヨは……、あの子は、ローズ・アンが好きなのよ……」
消え入るような囁き。目を細めたジュビリーは、静かに頷いた。大きく息を吐き、キリエは懇願するような表情で目を上げる。
「ずっと前から、もっと小さい時から、ローズが好きだったのよ。でも、ローズやロバートに迷惑がかかってはならないって、あの子は何も言わないで……」
「そうだな」
優しく髪を撫でられ、キリエはジュビリーの胴衣を握りしめてすがりついた。
「あ、あの子が王でなければ……! 王の子でなければ……!」
搾り出すようにして叫ぶ言葉。王の子でなければ。それは、自分自身の叫びであろう。それを痛いほど理解しながらも、ジュビリーは呼びかけた。
「聞け、キリエ。恋がすべてではない」
胸の中で、息を呑む感触が伝わる。キリエは、どこか怯えに近い表情で見上げてきた。
「おまえはギョームと望まぬ結婚をした。だが、おまえはひとりの女として、ひとりの男を愛する喜びと幸せを知った。……彼が遺したものは、それだけではないはずだ」
涙で揺れるキリエの瞳が大きく見開かれる。そうだ。自分にとっては強制された政略結婚だった。しかし、ギョームのひたむきな愛情に包まれ、愛し愛される幸せを知ったのだ。ジュビリーは親指で涙を拭ってやった。
「……ケイナ様もそうだ」
母の名に眉をひそめる。ジュビリーの顔には寂しげな微笑が浮かんでいた。大きな掌で頬を撫でながら子どもに言い聞かせるように言葉を継ぐ。
「ケイナ様も望まぬ寵愛を受けた。だが、エドガーと愛し合い、おまえが生まれた。私は、それを認めたくなかった」
辛い日々を強いた王をケイナが愛したとは認めたくなかった。自分が愛した妻を奪い、死に追いやった男がケイナを愛し、愛されたなど、許せなかった。
「ケイナは王を愛した」
ベネディクトにそう告げられ、その言葉を受け入れられなかったジュビリーは罵声を浴びせ返した。ケイナ様が、あの男を愛するはずがない! あの時は、そうとしか思えなかった。
「……ケイナ様が死ななければ。エレオノールが死ななければ。私が、エドワードを殺さなければ……。世界はもっと違っていただろう。だが、もしもそうだったならば、私はこうしておまえの隣にはいない。おまえも……、ギョームと出会い、愛し合うこともなかったかもしれない。未来には何が待っているか、わからないのだ」
キリエは力無く項垂れると、ジュビリーの手を握りしめた。
「……それに、誰かの恋が叶えば、誰かの恋が破れる」
「え?」
眉をひそめて顔を上げる。ジュビリーは口許に寂しげな微笑を浮かべて囁いた。
「ヘンリーもローズ・アンを好いている。あのヘンリーが、だ」
キリエは思わず口を手で覆った。いつも皮肉ばかり飛ばし、ローズ・アンに悪戯を仕掛けているヘンリーが。先ほどの、養父にいたずらっぽい瞳で笑いかけた姿が目に浮かぶ。
「ローズ・アンに対する悪ふざけが過ぎると、ジョンが叱ったそうだ。その時の態度でわかったらしい」
「そんな……」
「その上、奴はギヨとローズ・アンが互いに思いを寄せ合っていることに気づいているそうだ。……いじらしい奴だ」
キリエは狼狽して視線を彷徨わせた。自分は、何もわかっていなかった。我が子のことしか目に入っていなかった。
「ヘンリー……」
ジュビリーは背に両手を回すと抱きしめた。
「子どもたちはまだ幼い。これから数え切れないほどの出会いと別れを経験する。これは、始まりに過ぎん」
「でも、でも……」
「キリエ」
低い声が遮る。
「子どもたちが大人になろうとしているのに、おまえはいつまで幼子でいるつもりだ」
思わず胸が詰まる。自分は何も成長していない。ジュビリーに守られてばかりで、これから子どもたちの成長を見守れるのか。体を強張らせるキリエの背を優しく撫でると、ジュビリーはわずかに穏やかな口調で囁いた。
「私も、いつまでおまえの側に――」
「やめて!」
悲鳴のように叫ぶと彼の首に腕を巻きつかせ、必死にすがりつく。
「もう……、あんなことは言わないで!」
涙が混じる懇願。
「わ、私より、先に死ぬだなんて……!」
ジュビリーは目を細めた。あの時、誓いのキスで躊躇いを見せたキリエに囁いた言葉が蘇る。
「私はおまえよりも先に死ぬ。だが、残りの人生におまえがいると思えば幸せだ」
数奇な運命に翻弄され、二人が天の下で結ばれるまで、長い月日を費やした。二人で共に過ごせる時間は決して多くは残っていない。だからこそ、これからの時間を慈しまなければ。だが、それでもキリエは子どものように不安げな声色で囁く。
「また……、約束を破るつもりなの? ずっと、私の側にいてくれるでしょう?」
「私がいつ約束を破った」
心外だといわんばかりの声に顔を上げる。その表情は、言葉とは裏腹に穏やかなものだった。気付かなかったのか。これまで、片時も離れることなく見守ってきたことに。海を越えた異国へ嫁いでもなお、寄り添い続けてきたことに。キリエは、目に涙を溜めたまま笑った。満ち足りた表情で再び胸に顔を埋めると、肩を包み込む温もりに胸が締め付けられる。
「……日が暮れる」
耳に心地よい低い囁き。目を上げると、夕暮れに染まる城壁。視線を少しずつ上げてゆくと、やがて空は鮮やかな青、深い海の底のような群青へと広がってゆく。天頂には、小さな星が瞬いている。
「……鐘を、鳴らさないと」
小さな声で呟く。
「鐘楼の鐘を、鳴らさないと」
夜の帳が降りかけた夏の夕空に、この時間が永遠に続くことを願う、鐘の音を。
その後のアングル王国の歴史は、「アングル王国年代史」に詳しい。
ギヨは結局、女王フアナの長女、三歳年下のペネロペと婚約。ギヨの成人を待ってから結婚を果たした。しかし、ギヨの懸念は的中し、気位が高く、意地っ張りな性格のペネロペとは結婚当初から喧嘩が絶えなかった。だが、その間にも大陸では不穏な動きが起こっていた。
エスタドの同盟国であるユヴェーレン王国とクラシャンキ帝国が、エスタドと神聖ヴァイス・クロイツ帝国の同盟に反発。小さな事件が発端となり、大陸を巻き込む大戦争へと発展していった。ギヨは皇帝として連合諸国の軍を率い、各地で転戦。その勇猛さに、「獅子帝」の名が冠された。
そして皮肉なことに、この戦いで生まれた距離がギヨとペネロペの絆を深めさせることになる。意地を張りながらも異国で一人留守を預かるペネロペは、ギヨに守られていたことにようやく気づき、彼もそんな妃に心を開いた。大陸の戦争は断続的に長引き、終結までに十二年かかった。ギヨとペネロペは、その間に二人の子どもを儲けた。
一方。大陸戦争が終結し、終戦処理を見届けたアングルの宰相クレド公爵ジュビリー・バートランドが死去。六七歳だった。その半年後。夫の後を追うように、女王キリエが崩御。四八歳の若さであった。二人は生前の願いどおり、それぞれの前夫前妻の隣に埋葬された。
大陸戦争後、神聖ヴァイス・クロイツ帝国は正式にエスタド王国を併合。これを境に、帝国はこれまでにない黄金期を迎え、〈今〉に至る。
少女はページの上で深い溜息をついた。美しい文字が整然と並び、有機的な植物模様が余白を飾るページ。机に載せられたその書物は、片手では掴めないほどの厚みを誇る。少女は眉をひそめ、せつなげな眼差しを行間に彷徨わせた。
少女を取り巻く森のように広がる書棚。深海のような静寂に包まれたここは、帝都オイールの聖オルリーン大聖堂に併設された大図書館。時折黒いローブに身を包んだ聖職者らの姿が見えるきりで、冷たい空気に満ちている。
艶やかな黒髪を綺麗に結い上げた少女。歳の頃は十四、五歳。際立った美しさを持っているわけではないが、澄んだ深い瞳が印象的な少女だ。細い首許は繊細な襞を作るレースに包まれ、ミルクティー色のブラウスには〈白十字〉と〈白百合〉、〈赤獅子〉をあしらったブローチが留められている。長い睫毛を伏せ、憂い顔で頬杖を突く姿に「おや」と声がかけられる。顔を上げた先には、漆黒のローブにすっぽりと長身を包んだ男。少女は顔をほころばせた。
「まぁ。あなたがこんなところにいるなんて」
「こんなところと仰せですが」
男は大仰に両手を広げて見せる。
「私はこの聖堂の主でございますよ」
「父上の執務室にいる方がよほど似合うわ。ブラク」
ブラク大司教は苦笑を漏らすと、少女の手許に目を落とす。
「ああ」
彼は節くれだった太い指を紙面に這わせた。
「もう諳んじていらっしゃるでしょう。リエール皇女は誠にアングル王国年代史がお好きでございますな」
そう言って相手を見下ろすが、眉をひそめて腕を組む様子に首を傾げる。
「……わからないのよ」
リエールは美しい眉を寄せ、小さく呟く。
「結局、キリエ女帝が本当に愛していたのは誰なのか、何度読み返してもわからないの」
「ギョーム一世とクレド公でございますか」
「ええ」
何とか謎を説き明かそうと、何度も年代史を読み耽った。女帝にまつわる史跡を巡り、遺物にも触れてきた。それでも、わからない。リエールは融通の利かなそうな顔付きで桃色の唇を尖らす。
「どちらの夫とも仲睦まじかった、とは書かれているけれど」
「お子もいらっしゃいませんでしたしね」
「でも」
リエールは重たい年代史を一度閉じ、表紙を開くとページをめくる。
「キリエ女帝の死後二十年間に、三度も隠し子を騙る反乱が起きているわ」
「エドガー・アッサーの乱、ギルフォード・レスターの乱、『黒の喪章事件』の三つでございますな。女帝と公爵の睦まじさが招いた災禍でございましょう」
ブラクは灰色の口髭を指で弄びながら年代史を眺める。だが、リエールは不服そうにページを睨みつける。
「私は、キリエ女帝は絶対にギョーム一世を愛していたと思うわ」
「ほう」
「あなたはどう思う?」
そう投げかけられ、大司教はにっこりと微笑んだ。
「難しい問題ですな。女帝没後より五百年が経過してもなお、帝国の大きな謎でございますから」
そう前置きしてから、ブラクは思案深げに顎に手をやる。
「しかしながら、私はどちらも深く愛しておられたと思いますよ」
「えっ、同時に二人を?」
リエールが不服そうな声を上げる。
「それ故、お悩みになられたでしょうな」
「嘘よ。女帝はきっと、ギョーム一世が戦死しなければずっと愛し続けていたはずよ」
「ああ、それには異論ございません。まったく、戦争は多くの運命を変える」
それでも、リエールはブラクの意見に納得できないのか、頬を膨らせて見上げてくる。
「ギョーム一世が死ななければ、きっと二人にも子どもができていたと思うわ」
「それはどうでしょうなぁ。クレド公と再婚されても子宝には恵まれませんでしたし……」
深い皺が刻み込まれた顔をしかめながらブラクが呟いた時。
「面白そうな話をしているね」
不意にかけられた言葉。二人が振り仰いだ先に、ひとりの青年が書棚に寄り掛かって微笑んでいる。濡れ光る黒髪に白い肌。暗灰色の旅装にワイン色のタイが目を引く。
「アドルファス!」
リエールが目を輝かせて席を立つ。が、はっと思い出したように動きを止めると、顔を強張らせて口を尖らす。
「……早かったのね」
「君に早く会いたくて飛んできたんだ」
浮気性の婚約者が口にする戯れ事にリエールは無言で睨みつけ、ブラクはこっそり肩をすくめる。
「またアングル王国年代史かい? 君はいつでも僕の嫁に来れるよ」
「王太子殿下」
ブラクが低い声で遮る。
「リエール皇太女殿下は未来のアングル王妃ではございますが、未来の神聖ヴァイス・クロイツ帝国女帝であることもお忘れなく」
「もちろんさ」
アドルファスは端整な顔をほころばせ、リエールの頭を気安く撫でる。
「リエールがアングル好きで嬉しいよ。いずれはアングルでも暮らすのだから。待ち遠しいね」
そう言って切れ長の瞳を細め、幼い婚約者を見つめる。甘い言葉をかけられながらも、これまでの浮気騒動が許せないリエールはそっぽを向くが、それでも頬は朱に染まり、胸は勝手に高鳴ってゆく。
「そうだ。アングル王太子であるあなたにも聞いてみようかしら」
胸の内を悟られまいと、リエールが固い声色で尋ねる。
「キリエ女帝はギョーム一世とクレド公、どちらを愛していたと思う?」
アドルファスはきょとんとして目を見開く。そして、優しい微笑を浮かべた。
「君は本当にキリエ女帝が好きなんだね。僕らの結婚式は聖女王大聖堂でやろうか」
結婚式と聞いて、今度こそリエールの顔が赤くなる。が、「聖オルリーン大聖堂の主」であるブラクがわざとらしく咳払いをし、アドルファスは相変わらず微笑を浮かべたまま肩をすくめる。
アングルの王都イングレスには若くして亡くなった養母を悼み、ギョーム二世が大聖堂を建立していた。大聖堂は父ギョームのために建立された聖使徒大聖堂と対になるよう、聖女王大聖堂と名付けられた。一方、ギョーム二世は長年養母を支え続けたクレド公の功績も讃え、「大宰相」の称号を授与。プレセア宮殿前を公園として整備し、「
「そ、それで、女帝はどちらを愛していたと思う?」
動揺を隠そうと慌てて問い直すリエールに、アングルの王太子は首をひねった。
「そうだな。これは歴史家を悩ませる帝国史最大の謎だからね。今でも、クレド公の書簡が発見されれば新聞の一面を飾るほどの注目ぶりだ。それどころか、クレド城の薔薇園では今でも二人の幽霊が出るという噂だよ」
リエールは目を丸くして肩をすくめる。
「アングル人って本当に幽霊好きね」
「ああ。でも……」
身を乗り出して続きを待つ帝国の皇女に、アドルファスは片目を瞑ってみせる。
「僕は、謎は謎のままの方が美しいと思うね」
その言葉にリエールとブラクはぽかんと目を丸くする。そんな二人に構わず、アドルファスは言葉を続ける。
「とは言え、キリエ女帝も本当はどちらを愛しているのかわからなかったんじゃないかな。どちらにも惹かれていて、どちらを愛したら良いのか、わからなかったのだろう。僕にはその気持ちがよくわかるよ」
「まぁ!」
途端にリエールが目くじらを立てて怒る。
「浮気者のあなたとキリエ女帝を一緒にしないで!」
「浮気じゃない。何度も言うように、彼女たちは友人だよ」
それでもリエールは真っ赤にさせた顔をぷいと背ける。背けた先にアドルファスが回り込むが、リエールはくるりと背を向ける。
「リエール」
「もう知らない!」
子どもじみた言葉に思わず肩をすくめ、ブラクに視線を送るが、大司教は無言で睨み返してくる。アドルファスは苦笑を漏らした。
「機嫌を直してくれよ。そうだ、出かけよう。クレマンの新作がサロンで発表されているらしい」
「ひとりで行けば」
にべもなく突っぱねられ、さすがにアドルファスは寂しそうに眉をひそめた。が、にっと微笑を浮かべると、リエールの細い背をぎゅっと抱きしめてそのまま持ち上げる。
「きゃっ! あ、アドル!」
リエールが悲鳴を上げて足を泳がせる。暴れる婚約者の柔らかな頬に唇を押し付けると、彼女は顔を真っ赤にして動きを止める。アドルファスは満足そうに微笑むと、呆れ返っている大司教を仰ぎ見る。
「ブラク、出かけてくる」
彼は慇懃に頭を下げた。
「お、降ろして……! アドルったら!」
「ほら、静かに。図書館だよ」
リエールの懇願にも耳を貸さず、そのまま抱きかかえると書棚の間を抜けてゆく。その後ろ姿を見送るとブラク大司教は小さく息をつき、机に残されたアングル王国年代史を持ち上げる。
書棚の森を抜け、祭壇のように飾り付けられた棚へ向かう。聖杯や豪奢な燭台が並ぶ棚に年代史を恭しく戻すと胸で両手を合わせる。ひとしきり祈りの言葉を呟くと、棚の横に置かれたテーブルに目をやる。そこには、細かな装飾がなされたガラスケースが陳列されている。ケースの中には、金のリボンで結わえつけられた大量の古い手紙。ギョーム一世が妃のキリエ女帝に送ったものだ。
キリエとギョームは、没後百年で聖都クロイツによって聖人とされた。遺物は聖なるものとして扱われ、アングルとガリアの両国で貴重な聖遺物として保存されている。このギョームの手紙などもそのひとつだ。一方、アングルの聖アルビオン大聖堂には、キリエが生涯肌身離さず持っていたとされる「クレド公による家系図」が聖遺物として保存、公開されている。これらの遺物が「キリエはどちらを愛していたのか」という論争を加熱させている要因とも言える。また、キリエとジュビリーは前夫前妻の墓所に埋葬されながらも、互いに取り交わした結婚指輪を身に着けて埋葬されており、謎は深まっている。
「……謎は謎のままが美しい」
ブラクはアドルファスの言葉を繰り返した。やがて、その口許に柔らかな微笑が浮かぶ。
「それもまた、真理なり」
終幕