目に映る一杯の青。深い深い艶めいた青に、指が四本重ねられる。両の親指と人差し指で切り取られた青い空。いつか見に行った海と同じぐらい深い青。まるで空全体が光をはらんでいるような輝きに、目を細める。
「父さん、見て。綺麗だね、空」
 言いながら目を向けると、満開の花々が真っ青な空に広がる。瑞々しい黄緑の葉に重なるオレンジがかった赤い花。黄色いめしべを包み込んだ八重咲きの大輪。豊かに咲き誇る花は物思いに耽るようにそよ風に揺れている。鮮やかな彩りの対比に少女は目を瞠った。
「空が綺麗なのは当たり前だ」
 脚立に跨り、枝葉の剪定をしていた父親が汗を拭いながら体を起こす。遮るものがない空から照りつける強烈な陽射しは容赦ないが、乾いた風が体に優しい。
「空は青鋼玉でできているんだから」
「サファイア?」
「そう」
 浅黒い顔を覆う髭を撫でながら、父は目を細めて空を振り仰ぐ。
「空は大きな玉座なんだよ。神はその玉座から我々を見下ろしている。その空から地上に零れ落ちたのがサファイアだ」
 空は玉座。もう一度青空を見上げてみる。雲ひとつない深い青。自分たちを覆い尽くす丸い天球。これが、神様の玉座。
「すごいね、綺麗だね」
「天にはサファイア、地上には柘榴石ガーネットだ」
 父は誇らしげに赤い花を撫でた。
「サファイアに反射した日の光を一杯に受けて育ったんだ。美味しくないわけがない」
 赤い花は柘榴。振り返れば鮮やかな花が満開になった柘榴畑が青い空の下を延々と続く。秋になれば、この花たちは皆丸い宝石へと姿を変える。中には硝子のように煌く果実がぎっしりと詰められて。
「父さんが大事に育てた柘榴は世界一だよ。だって、本当に美味しいもの!」
 娘の言葉に父は誇らしげに微笑む。が、やがてその表情が翳る。父は脚立の上から娘をじっと見つめた。細やかな幾何学模様が織り込まれた柘榴色のスカーフで髪を覆い隠し、アーモンド形の大きな黒い瞳が爛々と輝く。母親譲りの白い肌に艶やかなスカーフが映える。
「チチェク」
 父の呼びかけに首を傾げて見上げる。
「俺はな、おまえを柘榴と同じぐらい大事に育てたぞ」
 その言葉に目を丸くするものの、チチェクはぷっと吹き出した。
「なぁに、父さんったら。急に」
 そういって笑い声を上げる娘を、父は黙って見守った。

 その日の晩。夕飯を終え、食器を洗おうと流しに立った時だった。
「チチェク、来なさい。話がある」
 父、ヤームルがテーブルから呼ぶ。隣では母のヤズがどこか強張った顔付きで座っている。チチェクは不思議そうに首を傾げ、兄に目をやる。彼も眉をひそめ、父親を凝視する。
「なぁに」
 恐々と囁きながら席につく。艶やかな黒髪の巻き毛をきゅっとひとつにまとめ、耳元には小さな金の耳飾りがきらりと光る。ヤームルは背を丸め、娘をじっと見つめた。いつもは快活な父親がどこかおとなしいことに、チチェクは不安げに見上げてくる。
「急な話だがな」
 ヤームルは溜息混じりに口を開く。
「おまえの結婚相手が決まった」
 一瞬、そう言われても何のことやらわからなかった。だが、兄のリュズギャルは思わず目を剥いて身を乗り出す。
「相手はギュネイ県で葡萄農園をやっているモルの長男、シムディだ」
 低い声でゆっくり語られる中、母は寂しげに黙ったまま頷いている。美しい切れ長の瞳は伏せられ、長い睫がどこか寂しげに見える。固い表情で微動だにしない娘に、ヤームルは安心させるように穏やかな口調で言葉を続ける。
「覚えていないか。小さい頃、バザールでよく遊んでもらっていたんだぞ。モルにも、シムディにも。シムディはおまえよりも十歳上で、今は兵役に就いている。でも、もうそろそろ除隊に――」
「勝手に決めたのか!」
 息子の鋭い言葉にヤームルは険しい顔付きで目を向ける。
「今時、親同士で結婚を決めるなんて時代遅れだ!」
「リュズギャル、これにはちゃんと意味があるんだ」
 半ば予想していたのか、ヤームルは諭すように言い聞かす。
「この習慣があるからこそ、この地方の産業と家族は守られているんだ」
 だが、リュズギャルは端正な顔を歪めて立ち上がった。
「チチェクの気持ちも考えずに、よくもそんなことができるな、父さん!」
「やめてちょうだい、リュズギャル!」
 母が怯えた瞳で訴える。
「モルさんはとても良い人なのよ。シムディだって立派な――」
「そんなの関係ないよ! 大体、チチェクはまだ――」
「私、学校を辞めたくない!」
 兄の言葉を遮る叫び。両親は眉をひそめて娘を振り仰いだ。チチェクは大きな目をいっぱいに見開き、唇を震わせて真っ直ぐに見つめてくる。黒い瞳は不安げに揺れている。
「私……、ギュルみたいに学校を辞めたくない。学校に行きたい……!」
「チチェク」
 ギュルはチチェクのクラスメイトで親友だったが、去年結婚のために中学校を辞めていた。母が腰を浮かすとチチェクの頭を撫でる。
「それは聞いてみるわ。できるだけ、学校を続けさせてもらえるように……」
「そういう問題じゃない!」
 兄の怒鳴り声にチチェクは体を震わせて俯く。
「チチェクを物みたいに考えているのが許せないんだよ!」
「リュズギャル!」
 ついに父が顔を真っ赤にして立ち上がる。
「俺はチチェクの将来を考えて結婚相手を選んだつもりだ。それを、物扱いだと?」
「そうじゃないか! チチェクの将来のためだとか言って、結局は自分たちの家業のためじゃないか!」
「もうやめて、お兄ちゃん」
 涙が混じる訴えにリュズギャルは口をつぐんだ。母が肩を震わせている妹を両手で抱きしめる姿に口許を歪める。
「俺は許さないぞ」
 リュズギャルは低い声で言い放った。
「チチェクが嫌がることは絶対に許さないからな!」
 父親に向かってそう叫ぶと、リュズギャルは居間を飛び出した。静まり返った居間で、ヤームルは顔を振りながら椅子に腰を下ろす。
 チチェクが暮らす国は父権が非常に強い。それは宗教に由来するもので、女は絶対的に男に従うものとされていた。幼いうちは父に従い、結婚すれば夫に従う。そして、ヤームルが言ったように、家業を廃らせぬよう父親は子どもたちが幼い頃から結婚相手を決める。今では時代も変わり、都会では自由結婚が当たり前になったが、農業が盛んな地方都市ではいわゆる政略結婚が根強く残っている。そういった地方ほど未だに男を尊び、女を卑しむ傾向が強く、女に教育は必要ないとして学校を辞めさせてしまうことも多々あった。チチェクの親友などがそれだ。自分の身にも同じことが起こるのではないかと、チチェクは不安で仕方がなかった。
「……リュズギャルはおまえを可愛がっているからねぇ」
 母がそう呟きながら優しく髪を撫でてくれる。四つ年上のリュズギャルは真面目で優しい兄だが、古い考えを嫌う一面があり、伝統と格式を重んじる父とは衝突することが多い。
「そうだ。写真があるんだよ」
 そう言ってヤズは体を捩ると棚に手を伸ばす。
「ほら、なかなかの男前だよ」
 手渡された写真を灯りの下で見る。写っているのは二人の男。瑞々しい葡萄がたわわに実る畑を背に、人の良さそうな白髪混じりの男性が満面の笑みで葡萄の房を持ち上げている。その隣には、口許に微笑を浮かべた青年。薄い口髭。少し無骨な感じはするが彫りの深い顔立ち。奥まった大きな目が印象的だ。
「いい写真でしょう」
 ヤズは穏やかに語りかけた。
「思い出した?」
 チチェクは黙ったまま顔を横に振った。
「ここで採れる葡萄は良いワインになるそうだよ。広い農園らしいけど、一昨年にお母さんが亡くなったそうでね」
 亡くなった? チチェクは驚いて顔を上げる。
「シムディはまだ兵役中だし、人手が足りなくて大変だそうだよ」
 再び写真に目を落とす。そうか。写真にこの二人しかいないのは、そういう意味があったのか。写真に見入る娘をヤームルはじっと見つめた。娘の結婚話は自分で決めたことだ。それでも、リュズギャル以上に寂しい思いをしているのだ。ヤームルは息をつきながらチューリップ型のグラスに手を伸ばし、紅茶チャイを飲み干した。

 翌朝、登校したチチェクは思いつめた表情のまま席についた。もう何度目かわからない溜息をつく。自分はこれからどうなってしまうのだろう。シムディという青年はどんな性格なのだろう。優しいのだろうか。それとも、怖い人だろうか。彼の父親は? 葡萄農園の仕事は一体どんなものなのだろう。考えれば考えるほど、不安で堪らない。教室の喧騒などまるで耳に入らなかったが、不意に視界が覆われる。
「チチェクってば」
 目を上げると、クラスメイトのヤルンが首を傾げて見下ろしている。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
 すぐには答えられなかったチチェクだったが、しばし黙り込んだ後、ゆっくりと口を開く。
「……私ね、結婚するんだって」
 自分のことなのにまるで他人事のような言葉。ヤルンは両手で口許を覆った。
「……決まったの?」
「昨日、父さんに言われて」
 不安げに視線を彷徨わせていたヤルンだったが、はっとして机に両手を突く。
「学校は? ギュルみたいに辞めちゃうの?」
 ヤルンもすぐにそのことに思い至ったのだろう。チチェクは眉をひそめて体を縮こませた。
「……学校は続けたいって言ったんだけど……。どうなるかわからない」
「そう……」
 二人の間に気まずい沈黙が流れる。ヤルンがそっと肩に撫でてくれる。チチェクは思わず表情をゆるませた。
「何をしてる人なの?」
「葡萄農園をしている家の息子さんで、今は兵役に就いてるんだって。写真しかまだ見てないんだけど」
「どんな人?」
 問われてチチェクはますます顔を強張らせた。
「……昔何度か会ったことがあるそうなんだけど、全然覚えていないの」
 そこで一度口をつぐむと、そのうち頬に朱が差してゆく。
「……ちょっと厳ついけれど、優しそうな人。……でも、十歳も上なの」
 十歳、とヤルンが声を上げる。
「……でも、もう一度会ってみないとわからないね」
「そうなの」
 ヤルンは天井を仰いで溜息をついた。
「……みんないなくなっちゃう。ギュルも、チチェクも」
 その言葉に慌てて身を乗り出す。
「でも、母さんが学校に行かせてもらえるよう頼んでくれるって。私、学校辞めたくないもの」
 必死な様子の友人に、ヤルンもにっこりと微笑む。
「うん。辞めないでね、チチェク。私たち、ずっと友達だよ。もちろんギュルも」
 どちらからともなく手を取り合うと握り締める。学校で友人と共に学ぶこの時間は何物にも代えられないものだ。だが、それでもチチェクは不安で仕方がなかった。本当に、学校を続けられるのだろうか。

 結婚の話が舞い込んでから数日後、チチェクは絨毯を織り始めた。女は嫁ぐ際に様々な種類の絨毯を花嫁道具として持参する。もちろん、それは自分で織らなくてはならない。
 夕飯を済ませてから母の作業部屋にある機織りに向かうのが、今のチチェクの日課だ。ヤズに見守られながら機織りの前に座り、経糸を張ってゆく。微かに揺れる経糸。緻密に並んで張られた経糸はそれだけで一枚の布のようだった。糸が張られると、緯糸を巻いた小管を収めたを経糸と経糸の間に滑らす。何度も何度も杼が左右を行き交い、やがてほんの少しずつ糸が重ねられてゆく。
「結婚は絨毯だよ」
 娘のたどたどしい手付きを見守りながらヤズは静かに呟いた。
「一織り一織り、積み重ねていかなくちゃならない。時間をかけないとどんな模様になるかわからない。織り上げるまでは時間がかかるし、辛い思いもするけれど、出来上がった時の気分は格別だよ」
 チチェクは杼を持つ手を休ませ、顔を上げた。
「結婚生活の完成っていつ?」
「そうねぇ。それは人それぞれだね。子どもが巣立った時なのか、家業で成功した時なのか」
 そう言って朗らかに笑いながら頭を撫でてくれる母。自分は、母のようになれるのだろうか。「ねぇ」と呼びかけた時、
「チチェク」
 父の野太い声に二人が振り向く。作業部屋に上機嫌のヤームルがやってくる。
「モルが持ってきてくれた。シムディから手紙だ」
「まぁ!」
 ヤズがぱっと顔を明るくさせると娘に微笑みかける。が、当の本人は戸惑い気味だ。
「ほら、読んでみなさい」
 手渡された手紙は飾り気のない白い便箋。思わずじっと見つめてから折り畳まれた便箋を広げる。そこに並んでいたのは流れるような美しい字。自分よりもずっと綺麗な筆遣いに恥ずかしくなる。だが、読み始めたチチェクの瞳がやがて見開かれる。
 まず、書き出しから「今回の話は突然で、驚いたことだと思う。私も驚いているし、でも同時に、君に会えるのをとても楽しみにしている」とあった。続けて、「学校のことは心配しないでほしい。どうかきちんと卒業してもらいたい。でも、まずはいろいろと話さないとね」
 思わず食い入るように読み進めてゆく娘を見つめていたヤームルが妻に声をかける。
「モルが、学校には行ってもいいと言っていた。シムディもな」
「ああ、良かった」
 思わず両手で胸を押さえてヤズが囁く。ヤームルは娘の顔を覗き込んだ。
「どうだ、少しは安心できたか?」
 手紙から顔を上げ、小さく頷く。ヤームルはほっと顔をゆるませた。
「いつ頃除隊になるか聞いておかないとな。忙しくなるぞ!」
 そう言って豪快に笑いながら部屋を出て行く。
「良かったわね、チチェク。学校はひとまず大丈夫そうね」
「うん」
 言葉少なく手紙を畳み直す。そんな娘の頭を撫でる。
「まだまだ不安でしょうけれど、大丈夫よ。お父さんが選んだ人なんだから」
 だが、兄リュズギャルはだからこそ許せないでいるのだ。そう思うと心が晴れない。
「……ねぇ。お母さんもおじいちゃんに結婚を決められたの?」
「そうよ」
 ヤズは糸の束を整理しながら答える。
「あなたと同じ。ある日突然写真を見せられてね。でも、とっても男前の優男が写っていたから心が弾んだものよ」
「え?」
 思わず聞き返してくるチチェクに母はいたずらっぽく微笑む。
「後で聞いたら、間違えてブルットの写真を送ったって」
 それを聞いたチチェクは手を叩いて大笑いした。母もおかしそうに笑い声を上げる。ブルットはヤームルの弟で、兄と違って色白の美男子だ。
「でも、結婚相手がヤームルでよかったわ。ブルットだったら今頃大変よ」
「そうだね」
 ブルットは男前ではあるが女にだらしなく、今でも独り身のままふらふらしている。チチェクは陽気で面倒見のいい叔父が大好きだったが、父親だったらと思うとぞっとする。ヤームルは浅黒い肌で一見すると近寄りがたい強面だが、物静かで真面目な性格だ。まさしく一家の大黒柱に相応しい。
「男は顔じゃあないよ、本当にね。仕事熱心な男が一番さ」
「うん」
 チチェクは微笑を浮かべたまま再び杼を手に機織りに向かった。

 機織りを終え、寝室に向かう途中でチチェクは兄の部屋をのぞいた。
「お兄ちゃん、シムディさんからお手紙が来たよ」
 シムディと聞いて兄はむっとふてくされた表情になる。
「学校に行ってもいいって。ほっとしたわ」
「信用できるもんか」
 リュズギャルはそう言って机に積み上げられた本を片付ける。
「結婚した後で、やっぱり行くなって言い出すかもしれないぞ」
「そんなことまで疑っていたらきりがないわ」
「おまえ、結婚したいのか?」
 噛み付くように問い質してくる兄にチチェクは戸惑い気味に顔を振る。
「……そんなの、わかんないよ。まだ会ってもないし」
 眉をひそめ、不安そうな顔で見上げてくる妹にさすがに言い過ぎたと思ったのか、リュズギャルは神妙そうに黙り込んだ。そんな兄に追い討ちをかけるようにチチェクは身を乗り出す。
「お兄ちゃん、私は結婚しちゃ駄目なの?」
「そうじゃない」
 強気に見せながらも明らかに狼狽した様子で否定する。
「……父さんたちが勝手に話を進めていくことが嫌なんだ」
 ぼそりと呟く言葉に、チチェクはじっと兄を見つめる。
「おまえがいいって言うならいいよ。でも、今のおまえは嫌なことを嫌ってちゃんと言えるか?」
 胸に刺さる言葉。チチェクは胸がひやりと冷えるのを感じた。
「実際に会って、結婚したくないと感じたとして、おまえはちゃんと断れるか? 今のままなら、話に流されていくばかりだ」
 リュズギャルは真っ直ぐに見つめてきた。せっかく薄らいできた不安が再び頭をもたげてくる。なんと答えて良いかわからないまま立ち尽くしていると、リュズギャルは静かに立ち上がった。
「いいか。会ってみて、結婚したくないと思ったら俺に言え。いいな」
 そこで一度口をつぐむと、「いいと思えばそれでいいし」と言葉を継ぐ。いつでも自分のことを心配してくれる大好きな兄の言葉に、チチェクは黙って頷いた。いざという時には、きっと兄は守ってくれる。そう思うと心強くもあった。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
 ほんの少し顔をほころばせて呟く妹にリュズギャルもどこかほっとした表情になる。再び椅子に座り込むとカバンに本を詰め始める。
「俺はもっと勉強して大学に行って、議員になる。そして、こんな悪習は法律でやめさせるんだ」
「悪習?」
「そりゃ、うちの父さんと母さんは仲がいいけど、そうじゃない家もたくさんある。原因は何だと思う。親が勝手に決めるからさ。結婚は自由にやるべきだよ」
 実際、頭のいい兄は学校の成績も良い。きっと立派な人になるだろう。兄が議員になれば、この国も変わっていくのだろうか。そんな兄は、どんな女性を妻に迎えるのだろう。
「ありがとう、お兄ちゃん。おやすみなさい」
「……おやすみ」
 ちょっと気恥ずかしげに囁く兄に微笑むと、チチェクは扉を閉めた。
 暗い廊下を伝って家の中で一番小さな狭苦しい部屋に向かう。そこがチチェクの部屋だ。兄妹が少ないからこうして自分の部屋を持てるが、クラスメイトたちのほとんどは自分の部屋がない。自分は恵まれている、チチェクはそう思いながらベッドに潜り込んだ。しばらくシーツの中でごそごそしていたが、やがて思い出したように体を起こすと机の引き出しに手を伸ばす。引き出しに大事に仕舞われていたのは、結婚相手の写真。部屋の小さな明かりを頼りにじっと写真を見つめる。控えめに微笑を浮かべた瞳がこちらに向けられている。と、そう思うと急に恥ずかしくなって写真を引き出しに仕舞う。そして再びベッドに潜ると頭までシーツを被る。脳裏には手紙に書かれていたことが繰り返し浮かんだ。何て返事を書こう。今夜は、眠れそうになかった。

 手紙が届いてから数日後。学校が終わったチチェクは頼まれた買い物をするために市場に寄り道をした。手紙の返事は母と相談しながら時間をかけて書き上げ、昨日投函した。
結婚の話は突然で、まだ少し戸惑っていること。学校には友達もたくさんいるのでどうしても続けたい。だから学校に行ってもよいとのお返事はとても嬉しい。とりあえずこういったことを書き連ねた。
 八百屋や魚屋、香辛料屋などが立ち並ぶ通りには、陽射しを遮る大きな日傘がずっと並んでいる。軒先から大音量でラジオが流していたり、売り込みの叫び声が飛び交ったりで、通りは喧騒が渦巻いていたが、今のチチェクにはあまり耳には入ってこない。買い物を済ませると何度も手紙の内容を思い返した。失礼はなかっただろうか。どう思われるだろうか。一生懸命時間をかけて丁寧に書いたけれど、相手の字に比べると自分の字はどうしても自信を持てない。心配でならないが、もう投函してしまったのだ。もうどうしようもない。いつ届くのだろう。どこの基地にいるのだろう。そんなことばかり脳裏に巡っていた、その時。
「……チチェク!」
 どこか遠くから自分を呼ぶ声。彼女はぼんやりと顔を上げた。乾いた通りは時折風に煽られて砂埃を上げる。買い物に勤しむ客と、売り込みに余念のない店主たち。チチェクは辺りを見渡した。
「チチェク!」
 はっと顔を向ける。と、全身を黒い服に覆われた女性が手を振りながら駆け寄ってくる。
「チチェク! 私よ、チチェク!」
 チチェクの顔にぱっと笑顔が咲く。
「ギュル!」
 思わず両手を取り合い、歓喜の声を上げながら抱き合う。結婚のために中学校を辞めていった親友、ギュルだ。いつぶりだろう。
「久しぶり! 元気だった?」
「うん、元気よ。ごめんなさい、わからなかった」
 チチェクの言葉にギュルは少し寂しげに微笑む。
「老けたでしょう? こんな格好だし」
 ギュルは既婚女性が身につける、全身をすっぽりと覆い隠す黒服を纏っていた。きめ細かい色白の肌、深い瞳。チチェクは顔を振った。
「ううん、綺麗になったわ。本当よ」
「そうかな」
 結婚前からギュルの美しさはチチェクの憧れであった。だが、今は落ち着きも加わり、ずいぶんと大人びた雰囲気を醸し出している。
「チチェクは変わりない? 学校は楽しい?」
 その問いに、チチェクの表情が強張る。ギュルは眉をひそめた。
「どうしたの?」
「……私もね、結婚するの」
 ギュルははっと息を呑むと口を手で覆う。
「……チチェクも?」
 黙って頷く親友に、ギュルは思わずその手を取ると握り締めた。
「……どこの、どういう人?」
「ギュネイ県の葡萄農園の息子さん。今は兵役中で、まだ会っていないの」
「……そう」
 それきり二人は口を閉ざした。互いに何か言いたくとも言葉が出ない。長い沈黙の後に、最初に口を開いたのはチチェクだった。
「ギュルは……、結婚生活はどう?」
 彼女は安心させるように穏やかな表情で頷いた。
「仕事は大変だけど、家族が皆いい人で何とかなっているわ」
「絨毯屋さんだっけ」
「ええ。私はまだ子どもだから簡単な仕事の手伝いしかできないけれど、それでも覚えることがたくさんで……。義母さんは厳しい人だし」
 チチェクは不安そうに身を竦め、小声で尋ねる。
「お姑さん、怖いの?」
「悪い人じゃないけど、真面目な人でね。でも、主人が色々庇ってくれるし」
 ギュルが夫を「主人」と呼ぶことに思わずどきりとする。
「旦那様とは仲がいいの?」
「ええ。私を大事にしてくれるし、絨毯のこと色々教えてくれるし、優しくて働き者だし、本当にいい人」
 だが、そこで言葉を切ると、寂しげに「ただ」と付け加える。
「どうしたの?」
「……本をね、買ってくれないの」
 チチェクは目を見開いた。ギュルは本を読むのが大好きな少女だった。勉強もよくできたし、高校や大学に行きたいという夢もあった。なのに……。ギュルは溜息をつくと静かに言葉を続ける。
「とても優しい人なのだけど、女は偉くならなくていいという考えの人で……。本なんか読まなくていいって言うの。働き者で、陽気で、優しくて、本当に私にはもったいない旦那様だけど……」
 慣れない家業。厳しい姑。そんなギュルを大事にしてくれる優しい夫だ。非の打ち所がない。それはギュル自身よくわかっているのだろう。だが、あんなに本好きだったギュルが、本を読めないなんて。
「私、賢くなりたいわけじゃない。自分の心の中の世界を広げたいだけ。……偉くなりたいわけじゃない」
「……そうなんだ」
 思わずチチェクも沈んだ表情で呟く。だが、息をつくとギュルは顔を上げた。
「だからね、私、早く子どもが欲しいの」
「え?」
 子ども? ギュルは力強く頷く。
「子どもが生まれれば、その子のために本を買えるでしょう? その本を読めるわ。だから、早く子どもが欲しいの」
 熱っぽく語る親友にチチェクは少し圧倒された。チチェクは光を湛えた瞳で見つめてきた。
「きっといいことが待ってる。そう信じて毎日の仕事をがんばるの。私はそう決めたの」
「ギュル……」
 ギュルはチチェクの手を取るとしっかりと握り締めた。
「チチェク、あなたの旦那様もきっと良い人よ。大変かもしれないけど、きっと良いこともあるわ。安心して」
 久しぶりに目にするギュルの笑顔。今までと変わらない、落ち着いた賢そうな瞳。その瞳に見つめられ、チチェクは自然と笑みが零れた。
「……ありがとう、ギュル」

 ギュルと別れてから、チチェクは一人でとぼとぼと家の近くまで帰ってきた。家まで続く広大な柘榴畑。満開の花々を目にしてもどこか心が晴れない。傾きかけた陽がチチェクの頬をオレンジ色に染める。先ほど交わしたギュルとの会話が頭を離れない。
「私、早く子どもが欲しいの」
 しばらく会わない内に、ずっと大人になっていた親友の言葉に少なからず驚きと戸惑いを感じた。自分もそうなるのだろうか。ぼんやりとそう考えながら歩くチチェクの耳に、礼拝を呼びかける寺院の詠唱が流れる。まるで歌うように伸びやかに朗々と響く詠唱。その詠唱に混じって、背後からガタガタと車の音が聞こえてくる。振り返ると、畑沿いの道路の脇に古いバスが停車したところだった。大きな荷物を抱えた人々が何人か乗降しているのを見やってから、チチェクは再び歩き始めた。歩きながらカバンからプラスチックの瓶を取り出す。ラベルには柘榴の写真。絞り立てには敵わないが、柘榴が大好きなチチェクはいつも柘榴ジュースを持ち歩いている。立ち止まって栓を開け、口に含むと濃厚な甘酸っぱい柘榴の果汁が広がる。美味しい。でもやはり絞り立ての方がもっと美味しい。そんなことをわざわざ再確認しながら栓を締めていると。
「俺にもくれないか」
 不意にかけられた声に驚いて振り返る。そこには、大きなリュックサックとカバンを抱えた背の高い青年が立ちはだかっていた。夕日を背負い、逆光を浴びた黒い顔。思わず手で陽射しを遮り、顔をしかめながら身を乗り出すと、やがてその姿がようやくはっきりとしてくる。白いシャツに、少し汚れたズボン。浅黒い肌に浮かぶ微笑。奥まったその瞳を目にして、チチェクはようやく「あっ」と声を上げた。
「シムディ、さん……?」
 思わず上擦った声で問いかけると、相手ははにかんで頷いた。
「チチェクだね?」
 そう言いながらカバンを地面に置くと右手を伸ばしてくる。
「今、バスで着いたばかりなんだ。喉がからからだ。ちょっと分けてくれないか」
 言われてチチェクは自分が手にしている瓶に目を向ける。これを? シムディは黙ったまま頷きながら更に手を伸ばしてくる。チチェクは顔が熱くなっていくのをはっきりと感じた。夕焼けに照らされたからではない。彼女は緊張で顔を強張らせながらも恐る恐る瓶を差し出した。シムディは瓶を受け取ると仰向いて喉を潤した。長い首の喉仏が脈打つのを目にしたチチェクは思わず顔を伏せた。胸が破裂しそうになるのを両手で押さえる。
「美味しかった。ありがとう」
 そう言いながら瓶を返してくるが、チチェクはまともに相手の顔が見られなかった。
「休暇が取れたから君に会いに来たんだ。親父とは君の家で落ち合うことになってる。案内してくれるかな」
 黙ったままこくりと頷く。不安と緊張で一杯の表情をした少女に、シムディはどこか困ったように笑いかけた。
「驚かせてごめん」
「い、いえ、あの……」
 ぼそぼそと口ごもっていると、ぱっとその手を取られる。
「案内して」
 飛び上がらんばかりに驚くチチェクにかまわず、手を握ったまま歩き出す。チチェクは泣き出しそうな表情で見上げた。
「だ、誰かに見られたら――」
 女性には徹底的な貞淑が求められ、結婚前の娘が男と二人で並んで歩くなど、この辺りの地方ではまだ受け入れられていない。だが、シムディは涼しい顔で言い返す。
「もう俺の女房だ。……君がいいと言ってくれればだけどね」
 言葉を失って黙り込む。二人は黙ったまま柘榴畑を通り抜けた。シムディの手は大きかった。乾ききって、少しがさついた手のひら。よく見ると細かいかすり傷でいっぱいだ。だが、温かな手だ。軍隊ではどんな生活をしているのだろう。
 鮮やかな紅色の花々が珍しいのか、シムディは辺りを見渡しながら歩いてゆく。
「……なるほど、チチェクか」
 その呟きに顔を上げる。シムディは独り言のように続ける。
「お父さんは柘榴を育てる仕事に誇りを持っているんだね。俺の親父と一緒だ」
 そこで振り返ると穏やかな笑顔のまま呼びかける。
「覚えていないかな。小さい頃、バザールでよく遊んでいたこと。野良猫を一緒に追いかけたりしてさ」
 チチェクは眉をひそめて顔を横に振る。
「……ごめんなさい」
「いいよ。君はまだ小さかったからね。俺も、君の事は小さい頃の姿しか覚えていなかったから、結婚の話がきた時は驚いたよ。あんな小さな子と、ってね」
 そこで言葉を切ると、前に向き直る。
「でも、最近撮られた家族写真を見てもっと驚いたよ。少し見ないうちにとっても素敵なお嬢さんになっていた」
 チチェクはますます恥ずかしくなって俯いた。
「学校のことは心配しなくていいよ」
 背の高い彼の言葉はまるで頭上から降り注ぐようだった。チチェクは恐々と眼差しを向ける。
「中学校はちゃんと卒業してほしい。俺の町には高校もある。君が行きたいなら通ってもいい」
「いいんですか?」
 不安そうな声にシムディは安心させるように頷いた。
「俺は、本当は教師になりたかったんだ。そのために大学まで行ったけど、お袋が死んでそれどころじゃなくなった。葡萄農園を守っていかないとね。女性にも教育は必要だと思っているよ。だから、君が勉強したいなら学校に行ってほしい」
 チチェクの顔にようやく微笑が広がってゆく。女にも教育は必要。この言葉をリュズギャルが聞いたら、安心するはずだ。きっと、シムディは兄とうまくいく。幼い許婚の表情が明るくなったことに気づいたシムディは、ほっと安心したように息をついた。そして、小さな手をぎゅっと握り締める。思わず顔を上げると、安堵の表情で見つめるシムディと目が合う。二人は笑顔のまま、黙って柘榴畑を通り抜けた。
 二人を祝福するように、満開の柘榴の花たちは夕焼けの光に輝きを増していった。

[2013年 5月 20日]

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