海の底のような群青。瞬きを忘れた星たちを散りばめたベルベットに覆われた夜空。空の下はようやく寝静まった街並み。最後までついていた街灯もひっそりと消え、その景色に重なるように、窓ガラスに下着姿の女が映る。
「お酒が飲みたいなら酒場へ行けばいいのに」
少し笑いを含んだ声。振り返ると、女は空になったグラスにワインを注いでいた。黒いローブに身を包んだ青年は黙ってグラスを手にする。
「聖職者に禁酒令でも出たの?」
「いや」
唇をつけると一気に煽る。女は子どもを見守る母親のような表情で微笑む。体が透けるほどに薄いモスリンの下着。肩紐が二の腕に垂れ落ちている。温かなランプの明かりが大きく開いた胸許を照らすが、ローブをまとった司教には興味がないらしい。
「……そうだな。酒が飲みたければ酒場へ行くな」
「こんなに高い酒代もないわ。でも、おかげであたしは体を休めるけれど」
そう言って女は手を組むと体を伸ばした。
「……デジレ、無理はしていないだろうな」
彼女はうふふと笑いを漏らした。
「大丈夫よ。疲れるけれど。最近はお客も選べるし、のんびりさせてもらってるわ」
青年は、「そうか」と呟くと目を伏せる。その様子に、デジレは微笑んだまま溜息をつく。
「あなたは本当に司教様になってしまったのね、アリスティード」
上目遣いに見つめられ、苦笑しながら手を振る。
「誤解しないで。嬉しいのよ、あなたに生きがいができて。あの子が来て本当に良かったわ」
生きがい。その言葉に思わず目を細める。
「生きがいか。君の生きがいは何だ」
そう尋ねられ、デジレは首を傾げた。
「あたしは……、そうね。時々あなたに会えればそれでいいわ」
ふたりは眼差しを交わしたまま口をつぐんだ。かすかに揺れるランプの明かりがデジレの微笑を照らす。アリスティードは小さく息をつくと椅子から立ち上がった。
「帰るの?」
「ああ。また来る」
「あ、待って」
顔を上げると、デジレは部屋の奥へ引っ込み、しばらくして戻ってくる。
「フィガロで買った飴よ。マノンとポールにあげてちょうだい」
リボンで口を縛った小さな紙袋を手渡され、アリスティードはほんの少し口許をゆるめた。
「ありがとう。ふたりとも喜ぶ」
デジレはにっこり微笑んでから、つぶらな瞳を真っ直ぐに向けた。
「あなたも無理しないでね。あなたの代わりはいないのだから」
その言葉に、アリスティードは一瞬眉を寄せたかと思うとデジレの腰をぐいと抱き寄せる。彼女は身を委ねると両腕を首に巻き付けた。ふたりの唇が引き寄せられるように重なり合う。一度離れ、再び合わさる唇。柔らかい唇と、温かな肌にアリスティードは胸が満ち足りてゆくのを感じた。愛おしげに髪を撫で、腰を抱く手に力を込める。やがて名残り惜しそうに唇が離れ、何か言いたげな表情で見つめてきたデジレは長い睫毛を伏せ、顔を胸に押し付けた。その小さな肩を抱くと優しく背を撫でる。
罪悪感など微塵もない。自分が司教になる前から、彼女が娼婦になる前から、ふたりの間にある思いを交わしただけだ。アリスティードはデジレの耳に唇を寄せた。
「困ったことがあればいつでも来い」
デジレは嬉しそうに顔をほころばせた。
「……ありがとう」
娼館の裏口を出ると、薄寒い風が頬を撫でる。東の空はかすかに明るい青色に染まっていた。夜明けが近い。アリスティードはフードを被ると帰途についた。
聖堂の裏門にたどりつくと、鍵を差し込む。ひと気のない寂しい中庭は青い薄闇に満たされていた。ひとりきりでとぼとぼと中庭を通り抜け、僧坊の入り口までやってくる。そうっと木戸を開け、音を立てないよう慎重に閉め――、
「しきょうさま……」
アリスティードは飛び上がると尻餅をついた。破裂しそうな胸を押さえつつ驚愕の表情で振り返ると、寝巻き姿でぬいぐるみを抱えた幼子が立ち尽くしている。
「――マノン?」
少々裏返った声を上げると、マノンはぬいぐるみをぎゅうと抱きしめて顔を伏せた。
「こ、こわい夢、みた」
「え?」
眉をひそめて体を起こす。マノンは肩を震わせるとしゃくり上げながら囁いた。
「お、親方が、連れ戻しに、くるの。いやだよ……! 戻りたくないよ……!」
声を上げて泣き出したマノンに、アリスティードは目を見開くと思わず両肩をつかむ。
「大丈夫だ。連れ戻しにきたって、私が追い返す。おまえは渡さない、絶対にだ」
マノンは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。太い眉は寄り、真っ赤に泣き腫らした瞳。震える唇が、「ほんとう?」と囁く。
「ああ、夢だ。悪い夢だ。忘れろ」
そう言って小さな体を抱きしめる。マノンは司教の胸で声にならない嗚咽を漏らした。アリスティードはせつなげに溜息をつきながら背中を撫でる。
マノンは日を追うごとに幼くなってゆく。これまで大人に命じられるまま、大人と同じ労働を強いられてきた。今では「オレオル聖堂の奇跡の聖女」。自分も、サーカスの親方と何ら変わりはないのではないか。だからせめて、マノンが子どもでいたい間は甘やかしたい。自分は、偽善者だろうか。
「あなたの代わりはいないのよ」
デジレの言葉が不意に胸に蘇る。そうだ。引き取った以上、この娘を育てていく。最後まで。
「……マノン、夜明けまでまだ時間がある。もう少し寝ろ」
軽く背中を叩きながら囁く。まだ震えながら顔を上げるマノンに、手で涙を丁寧に拭ってやる。
「今日はアルフォンス坊ちゃんと遊びに行くのだろう?」
こくりと頷く。だが、マノンは怯えた表情でローブの裾を握りしめてくる。
「ひ、ひとりで寝るの、いやだ。こわい」
アリスティードはやや困惑の表情でマノンを見つめ、次いで廊下の奥を見やる。この先に修道女たちの大部屋がある。そこは祭壇の次に神聖な場所で、無断で扉を開けようものなら、ポレットはともかく、シルヴィとマリエルから袋叩きに遭う。そもそも、マノンはいつもポレットと一緒に寝ていたはず。抜け出してきたのだろうか。どちらにせよ、扉を開ける度胸はない。司教は息をついた。
「仕方ない。今日は私の部屋で寝ろ」
そして、マノンが裸足でいることに気付くと両手で抱き上げる。音を立てないように廊下をゆき、階段を上がる。そうして揺られているうちに落ち着いたのか、マノンはうつらうつらし始めた。
司教の寝室に辿り着くとベッドにそっと下ろし、毛布をかける。自分は床で寝るつもりでベッドから離れようとすると、
「やだ! ひとりはやだ……!」
温もりが離れたことに気付いてマノンが泣きながら袖を引っ張る。アリスティードは困り切った表情でマノンの手を撫でる。
「わかった。わかったから……、手を離せ。ローブを脱がせてくれ」
マノンの手がゆるみ、大急ぎでローブを脱ぎ捨てるとシャツ一枚でベッドに潜り込む。
「さぁ、いい子だから寝てくれ」
そう言って亜麻色の髪を掻き撫でると、マノンは嬉しそうな表情ですり寄ってくる。ぬいぐるみを抱えたまま司教にすがりつくと、少しもしないうちに寝息を立て始める。ぬいぐるみはポレットお手製「うさぎのラパンちゃん」だ。
「死んだ息子には熊のぬいぐるみを作ってやりましてね」
出来上がったラパンちゃんを撫でながら、ポレットはしみじみと呟いたものだ。
「女の子ができたら、うさぎのぬいぐるみを作ろうと思っていたんです」
彼女は十数年前、流行り病で夫と息子を失くしていた。修道女になったのはそれがきっかけだ。だから、ポレットはマノンが可愛くて仕方がない。
乳児院で育ったシルヴィとマリエルも、同じ境遇のマノンの世話を焼きたがるし、アントナンも実家の妹を思い出すと言って懐かしんでいる。あのガスパールですら、
「あの時あいつと結婚していたら、マノンぐらいの子どもがいたかもしれねぇ」
などと、本当かどうかも怪しいことを言いながら可愛がっている。マノンは、皆の子どもなのだ。
少し口を開けて寝息を立てるマノンを見つめながら頭を撫でる。長い睫毛が呼吸に合わせて小さく上下するのを眺めるうち、アリスティードの脳裏にひとりの少女の笑顔が浮かんだ。
「大丈夫よ、アリスティード。もう怖い夢はみないわ。私が側にいるから」
彼はかすかに目を眇めた。優しかった姉。姉を死に追いやった男を殺し、仇討ちという大義名分があったにせよ、人を殺めた事実に苦しんだ挙句、聖職者になった。だからこそ、マノンと出会えたのだ。
だが、同時にこうも思う。聖職者にならなければ、生家が没落したために娼館に売られたデジレを救い出し、いつかは結婚できたかもしれない、と。マノンやアルフォンスよりももっと幼い頃に約束していたのだ。「お嫁さんにしてあげる」と。それでも、修道士になると告げた自分を、彼女は止めなかった。そんなデジレを、結婚はできなくとも、幸せにすることはできるかもしれない。
結婚という言葉に、アリスティードは眉を寄せた。もしもマノンが、「大きくなったらアルフォンスのお嫁さんになる!」などと言い出したらどうしよう。
「絶対、許さない」
勝手に想像し、勝手に結論づけると、アリスティードはマノンの頭を愛おしげに撫でた。
「……おまえは誰にもやらないぞ」
そっと呼びかけると前髪を掻き上げ、額に唇を押し当てた。誰にも見せたことがないような微笑を浮かべて。
それから数時間後。アリスティードは忙しなく扉を打ち付ける音で眠りを破られた。
「司教様……! 司教様……!」
扉の向こうからは、ポレットの切羽詰まった声が聞こえてくる。まだ頭がぼんやりした状態で体を起こし、あくびを咬み殺す。
「マノンが、いないんです……! どこにもいないんです! 司教様……!」
泣き出しそうなポレットの呼びかけに、アリスティードは顔をしかめて目を瞬かせる。脇に目をやると、相変わらずラパンちゃんを抱いたマノンが安らかな寝息を立てている。
「……マノンならここにいるぞ」
そうぼやくともう一度あくびを漏らす。が、扉の向こうは水を打ったように静まり返った。かと思うと、唐突に扉が蹴破られる。
「――マノン!」
雪崩れるように寝室へ突入したポレットたちは、司教と少女が同じベッドにいる光景を目の当たりにして絶叫する。
「ど、どうして! どうして、司教様と、マノンが!」
修道女たちの悲鳴に、アリスティードはようやく頭が鮮明になる。
「あ……、ち、違う、違うんだ。これには理由が……!」
司教の言い訳をかき消す修道女たちの騒ぎ声に、マノンが顔をしかめてむくりと起き上がる。
「……眠たぁい」
「マノン……!」
血相を変えたポレットたちを見て首を傾げ、そして隣の司教を見上げる。
「……どうして司教様がいるの?」
「おまえ……!」
アリスティードは絶望したように叫ぶ。
「ゆ、昨夜のことを覚えていないのか! おまえが……!」
「司教様!」
耳に飛び込むポレットの厳しい声。
「一体どういうことなのか、説明していただけますか!」
マノンがいなくなったことに生きた心地もしなかったポレットの怒りはおさまる気配もない。アリスティードがごくりと唾を飲み込んだ、その時。寝室にお腹が鳴る音が響く。
「……マノン?」
彼女は両手でお腹を押さえると元気な声を上げた。
「お腹すいた!」
オレオル聖堂の平和な一日が、始まる。