神の銃口

-第1話-

 薄暗い室内に、男たちの顔がぼんやりと浮かぶ。蝋燭の弱々しい明かりに照らされた男たちは両手を胸で組み合わせ、瞑想に耽っている。その顔は皆せつなげだ。
「……始めましょう」
 男たちを前にした一人が声を上げる。
「父と子と聖霊の御名によりて」
「アーメン」
 皆が静かに十字を切る。
 部屋は薄暗く、あまり広くはない。だが、それにも関わらず、十数人の男たちがひしめいている。そして、皆一様に声をひそめ、物音を立てないよう細心の注意を払っている。窓には厚いカーテンが引かれており、外の様子は窺い知れない。
「主、イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共に」
「司祭と共に……」
 人々の低い囁きと共に祈りが続く。
「兄弟の皆さん、神聖な祭を祝う前に私たちの犯した罪を認めましょう」
 「司祭」の言葉に皆が手を合わせ、沈黙に沈む。重い沈黙の後、司祭が顔を上げる。
「全能の神と……」
 と、いきなり戸を打ち付ける音が響く。人々はびくりと体を震わせて扉を振り返った。音は「階下」から響いてくる。
「見つかった……!」
「奴らだ!」
「皆さん、落ち着いて! こちらから……!」
 司祭が動揺する人々に向かって声を張り上げ、暗がりの中、手探りで小さな扉を押し開ける。が、階下では扉が蹴破られ、階段を駆け上がる音が迫る。人々は恐怖に顔を歪めながら小さな扉に殺到する。と、一際大きな音が響く。
「……!」
 続いてもう一度。それと同時についに扉が打ち破られる。暗い部屋に数人の人影が押し入ったかと思うと、ぱん!と乾いた破裂音が響く。
「!」
 人々はぎょっとして凍り付いたように動きを止める。そして、呻き声と共に人が倒れる。
「あ……、ああ……! 司祭様!」
「司祭様!」
 人々が譫言のように口々に囁きながら倒れた司祭を取り囲む。その彼らを不意にランプの明かりが照らし出した。人々の中心に、ローブをまとった男が顔を引き攣らせたまま倒れている。胸元の鮮やかな赤い染みが見る見るうちに広がってゆく。
「司祭に命中したようです」
「よくやった」
 冷酷な言葉に人々は涙を流しながらきっと振り返る。そこにいたのは、揃いの制服を身につけた衛士たちだった。
「なんてことを……! 神聖なミサの最中に司祭様を……!」
「ミサだと」
 衛士の一人が唇の端を持ち上げる。
「ミサと偽って陰謀を企てていたのだろう」
「違う! 我々はそんなことはしていない! お、おまえたちが我らカトリックを迫害するからこうして人目を忍んで……!」
「人目を忍んで王政の転覆を計画したわけだ」
「違う!」
「申し開きは後だ」
 その言葉を合図に、衛士たちは男たちを引き立てる。暗く狭い階段を降りると、一階の広間には数人の衛士が待機していた。そして、その中央にひっそりと立つ痩身の男。
「ストーン卿。司祭が一人、死亡しました」
「ご苦労」
 しわがれた年寄りの声。捕らえられた男の一人が老人に食ってかかろうとするが衛士に阻まれる。
「おまえたち……! おまえたちは、わかっているのか! 自分たちが何をしたのか!」
「ふん」
 羽飾りがついた帽子を目深にかぶった老人は、事もなげに鼻を鳴らした。
「神と王に背く者を成敗したまでよ」
「貴様……!」
 男は顔を歪めて歯噛みした。そして、搾り出すようにして呪詛を吐き捨てる。
「見ているがいい……! 今に神罰が下る!」
「神罰だと」
 老人の声色が変わる。彼は一歩前へ進み出ると男の顔を覗き込んだ。
「その『神罰』が今、おまえたちに降り懸かっているのだ。わからんのか」
「何……」
 老人の顔は、深い皺が幾筋も刻まれながらも鋭い眼光を放っていた。
「私の一族はメアリー女王の御代に迫害され、国中を逃げ惑った。挙げ句の果てに父はロンドン塔に投獄され、そのまま獄死した」
 男はごくりと唾を飲み込んだ。
「何故だかわかるか。プロテスタントだったからだ!」
 まるで毒を吐き出すかのような表情で言い放つと、老人は体を起こした。
「あの時代の罪が今、贖われているのだ。おまえたちが償うのだ。これが神罰なのだ!」
 老人はローブを翻し、低く呟いた。
「連行しろ」

 十月が終わろうとしているロンドンは、本格的な寒さが始まろうとしていた。街の中央に広がる壮麗なホワイトホール宮殿の上空は、湿り気を帯びた重く青黒い雲の海がどんよりと広がり、宮殿を飲み込むかのように垂れ込んでいる。その雲の下も、同じく陰欝な空気に満ち満ちていた。
 大廊下では、執務室に向かう王の一団の姿が見られた。相変わらず何を考えているのかわからないとぼけた表情で、国王ジェームズが隣の愛人に話しかけている。
 「愛人」サー・ジョージ・ヴィリアーズ。鼻筋の通った色白の美青年。猫のように目を細め、王の耳元で優しく囁き続ける彼を、王の息子がじっと見つめている。その瞳の色は嫌悪なのかはたまた嫉妬なのか。それはもはや本人にもわからないのかもしれない。
 チャールズ王子。ジェームズの実質的な後継者。行く行くは王太子に叙位され、やがては王となる少年。父の愛人であるヴィリアーズは彼の教育係である。チャールズはヴィリアーズの心の内を幾度か垣間見ている。ひたすら立身出世のために王に抱かれ続ける男を、チャールズはひそかに哀れみ、またひそかに疑念を感じていた。少年は、真っ直ぐすぎる目を伏せ、人知れず小さく息を吐いた。
「陛下」
 大廊下に不意に響く声。皆が振り返ると、ローブをまとった老人が衛士を引き連れてやってくる。その場にいた貴族や貴婦人たちはその異質な空気に眉をひそめ、遠巻きに見守る。老人は仮面のように無表情ながらも恭しく頭を垂れ、おもむろに口を開いた。
「陛下。本日未明、サザークにてカトリックの一団を捕らえましてございます」
 老人、ストーン卿の言葉にジェームズは眉をひそめ、チャールズは顔を引き締めて振り返った。
 ジョン・ストーン卿は治安判事。老獪ながら、カトリックの根絶に血道を上げていると恐れられている男だ。だが、彼のような存在は現在のイングランドでは珍しくもない。それが何故なのかは、今日のイングランドの宗教事情を説明する必要がある。

  イングランドは一五三四年にヘンリー八世によって国教会アングリカン が制定され、ローマ・カトリック教会と断絶している。 それ以降、国内においてカトリックは弾圧され続けていた。だが、ヘンリーの娘メアリー女王は熱烈なカトリック教徒であった。 そのため、一転、反カトリックである国教徒が迫害されるようになる。信仰に関しては苛烈なメアリーの迫害は凄まじく、「血塗れのメアリーブラッディ・メアリー 」と称されるほどであった。
 そして、メアリーの後継者である異母妹エリザベスは国教徒であったが、政策は「中道」を宣言し、両派は融和が図られた。しかし、実際にはメアリー時代に迫害されていた国教徒たちがカトリックに復讐を行い、多くの血生臭い事件が闇に埋もれていった。
 そして、姉同様、子がなかったエリザベスはいとこであるスコットランド女王メアリーの息子を後継者に指名した。それが、ジェームズである。

「捕縛した内、数名はギルドの有力者でございました。関係者の洗い出しに全力を尽くします」
「仕事熱心だな、ストーン卿」
 だが、言葉とは裏腹にジェームズの表情は冴えない。
「無理はせんでいい」
「お言葉でございますが、陛下」
 ストーン卿は落ち着き払った表情を変えることなく、だが断固とした口調で言い及んだ。
「カトリックの危険な動きは依然として続いております。常日頃からの警戒が惨劇を未然に防ぐのです。火薬陰謀事件をお忘れでございますか」
 火薬陰謀事件。穏やかならざる言葉に側近たちは顔を引き攣らせた。チャールズも眉間の皺を深め、ヴィリアーズは不安そうに王を振り仰ぐ。火薬陰謀事件は、一六〇五年に起きた、ジェームズ暗殺未遂事件のことである。

 実は、ジェームズは母メアリー同様カトリック教徒だった。そのため、イングランド王に指名され、ロンドンにやってきた当時はカトリックの希望の光明となるはずであった。ところが、彼はイングランド国教会を優遇すると宣言したのである。国教会の首長はイングランド王。つまりジェームズは、信仰よりも自身の権力を選んだのだ。結果、エリザベス時代の中道政策から大幅に方向が転換され、カトリックは再び受難の時を迎えたのである。
 裏切られたカトリック教徒たちはジェームズを憎んだ。そうした人々が引き起こしたのが、火薬陰謀事件である。
 ガイ・フォークスを始めとした一部のカトリック教徒たちがジェームズの暗殺を計画。上院議会の開院に合わせ、議場のあるウェストミンスター宮殿の爆破を目論んだのだが、計画は辛くも未然に防がれた。この事件で多くのカトリック教徒が処刑された。その時チャールズは五歳。スコットランドからロンドンにやってきたばかりの幼い彼にとっては、衝撃的な事件であった。
「あのような事件を二度と引き起こすわけには参りません。大きな災禍に育つ前に、小さな芽を摘み取らねば」
「……そうだな」
 王の表情が曇り、声にも力がないことに人々は眉をひそめた。肩を落とし、虚ろな瞳で項垂れるジェームズに追い打ちをかけるようにストーン卿は言葉を継いだ。
「司祭を一人射殺しました。徹底的に身元を洗います」
「ストーン卿」
 ついにジェームズは声を上げた。
「あまり血を流すな。……そろそろ十一月だ」
 十一月? ストーン卿は片方の眉を吊り上げた。
「十一月になると心が沈む。静かに過ごしたいのだ」
 ジェームズのその言葉に、場の空気が一変する。ヴィリアーズは息を呑み、秘書官は落ち着きなく視線を彷徨わせると恐る恐る王子に目を向ける。
 チャールズは蒼白で立ち尽くしていた。無表情だが、引き結んだ唇がかすかに震えている。ヴィリアーズは、主がゆっくりと拳を握り締めるのを目撃した。だが、ジェームズは異変に気付かない。
「……十一月六日。ヘンリーが死んだ日だ。あれから予の時間は止まったのだ……」
「陛下……!」
 慌てて秘書官が耳打ちするが本人は全く意に介さない。ジェームズは深い溜息をつくと天井を仰いだ。
「あれから三年経つが、まだこの悲しみは癒されぬ」
「陛下!」
 見兼ねたヴィリアーズが声高に呼び掛けた。
「十一月は……、慶事もございます。チャールズ王子のご生誕日が……」
 皆の視線がチャールズに注がれる。彼は突き刺さる視線から避けるように目を伏せた。ジェームズは両目を見開くと身を乗り出した。
「おお……! そうであったな! 何日だったか?」
 とどめの言い様に人々は縮み上がり、チャールズはきっと父親を睨みつけた。その怒りに満ちた瞳にさすがのジェームズも言葉を失った。チャールズは無言のまま踵を返した。
「ま、待て、チャールズ!」
 ジェームズは慌てて追い縋るがチャールズは側近の手を振り払って走り去った。
「殿下!」
 そんな中、一人ヴィリアーズが王子の後ろ姿を追う。
「殿下、お待ち下さい!」
 何度も呼び掛けるがチャールズは振り返ることなく駆け続ける。大廊下の突き当たり、アプローチの前でようやくヴィリアーズは主の手首を掴んだ。
「殿下!」
「離せ!」
 チャールズは語気荒く叫びながら手を振り払うが、ヴィリアーズは無理矢理二の腕を掴んで引き寄せた。が、彼ははっと息を呑んで動きを止めた。チャールズの怒りに歪んだ顔。目の端には涙が滲んでいる。思わず呆然とするヴィリアーズの手を振り払うと、王子はかすれた声で吐き捨てた。
「わ、私が、死ねばよかったのだ」
「……!」
「兄上ではなく、私が死ねばよかったのだ!」
「殿下!」
 我知らず、かっとなったヴィリアーズが叫ぶが、チャールズは背を向けてその場を走り去っていった。

 チャールズは無我夢中で大廊下を走り抜けた。人々が驚いた様子で次々と振り返るが、構わずに宮殿を飛び出す。自分でもどこをどう走ったかわからないまま、気付けば後宮へ続く中庭にいた。息を切らしながらもつれる足のまま渡り廊下の柱にしがみつく。乱れた息遣いで肩を揺らし、ごくりと唾を飲み込んでから悔しげに柱を拳で殴りつける。と、背後から耳障りな声が突き刺さる。
「殿下?」
「チャールズ王子! いかがなさったのですか?」
 ぎょっとして振り返ると、数人の女が駆け寄ってくる。チャールズは顔を引き攣らせて後ずさった。
「殿下。殿下、落ち着いて」
「一体どうなさったのです」
「お体のお加減でも」
「お医者様を!」
 女官たちが口々に声を上げながらチャールズを取り囲む。魔女のように目を爛々と輝かせ、甲高い声できぃきぃと囃し立てながら。
「さぁ、こちらへ」
「早く! お寒いですから、早く中へ!」
 両手を掴まれ、引っ張られた瞬間だった。

(殿下! 前へ! 歩くのです! 殿下!)

 血走った目。真っ赤な唇。耳を潰すほどの喚き声。
「やめろっ!」
 チャールズは悲鳴を上げた。夢中で手を振りほどくと頭を抱えてへたり込む。
「あ、あ、歩ける! も、もう、もう一人で、歩ける! あ、歩ける!」
 女官たちは皆口をつぐんでその場に立ち尽くす。おろおろと顔を見合わせていると、一人の女官が背後から声を上げた。
「王妃……、王妃をお呼びして!」
 女官たちを掻き分けてチャールズの下へ駆け寄ると必死で背中を撫でる。
「でも、エレン、お医者の方が……」
「いいえ、王妃をお呼びして!」
 女官たちは躊躇いながらも頷き、その場を立ち去る。
「殿下、大丈夫ですよ、大丈夫ですよ」
 エレンは耳元で囁くとチャールズのがくがくと震える肩を撫で続ける。それでも無言で奥歯を噛み締めていたチャールズの耳に、廊下を駆けてくる足音が聞こえてくる。
「チャールズ!」
 はっとして顔を上げると、母が真っ青な顔で駆け寄ってくる。
「チャールズ……!」
 女官と入れ替わりにアンがチャールズを抱きしめる。
「……チャールズ、大丈夫よ、どうしたの、何があったの」
 チャールズは無言で母親にしがみついた。アンは痛ましげに目を閉じると息子の背を撫でた。きっと、また何かあったのだ。ガラスのように繊細で傷つきやすい息子の心を誰かが踏みにじったのだ。そして、それが誰なのかは予想がつく。
 しばらくすると、アンは「王妃」と呼びかけられた。目を上げると、女官がガウンを差し出している。彼女はほんの少しだけ表情をゆるめると、ガウンを息子の背にかけた。
「ありがとう、エレン」
 母の声にチャールズは顔を上げるとぎょっと息を呑んだ。そこに佇んでいたのは、目の覚めるような鮮やかな赤毛の美女。仄暗い廊下にあって、その艶やかな赤毛は妖しい光を放っている。が、その穏やかで柔らかな微笑はチャールズの目に優しく溶け込んだ。エレンは優雅に一礼すると立ち去っていった。
 中庭は人気がなくなり、寒風だけが枯葉を揺らしている。母の優しい温もりに包まれていると、ようやくチャールズは落ち着きを取り戻し始めた。と同時に、先ほどの父の言葉が蘇る。間が抜けた、締りのない顔で平然と言ってのけたのだ。「そうか、いつが誕生日だったか」と。
 許せなかった。死んだ兄をいつまでも追い求める父に心底うんざりしていた。自分がここにいるのに! 今生きている自分はどうすれば良いのだ! このままでは、大好きだった兄まで恨んでしまう。そうはなりたくない。
(チャールズ。そなたが誰よりも努力していることを私は知っている。自信を持て)
 チャールズは歪んだ唇から息を吐き出した。兄は一番の理解者だったのだ。なのに、自分の側からいなくなってしまった。
(……いつまで我慢すれば良いのだ)
 大人になれというのか。だが、自分の誕生日を蔑ろにされては黙ってはいられない。兄の命日が誕生日と同じ月なのは自分にとっても悲しい。だが、だからと言って忘れていいわけがない。それとも、自分が我が儘なのだろうか。浅ましいのだろうか。父に見てほしいと望むのは子どもじみているのだろうか。
 震えながら顔を上げると、枯れ色が広がる中庭が目に入る。寂しげな噴水の音が聞こえるきりで辺りは静けさに満ちている。重たい息を吐き出しながら天を仰ぐと、インクを溶かし込んだ曇天が自分を飲み込むかのように迫ってくる。
「……少しは落ち着いた?」
 耳元で母の声が囁かれる。チャールズはこくりと頷いた。
「何があったの?」
 その問いに答えようと口を開くものの、言葉が出てこない。言葉を発する前に、嗚咽が漏れそうになる。アンはもう一度息子を抱き締めた。
「チャールズ」
「……ち、ち、ちちうえ、が」
「ゆっくりでいいわ」
 その言葉に励まされるように、大きく息を吐き出す。
「わ、私の、誕生日を、お、お忘れでした」
「ヘンリーの命日は覚えているのに?」
 チャールズはぎくりとして顔を上げた。母は眉をひそめ、じっとまっすぐに見つめてくる。美女と誉れ高い母だが、いつもどこか子どものような顔つきで、悩みなどないような振る舞いで皆を無邪気に振り回している。しかし、今のアンはそうではない。哀しみと、威厳さえ感じさせる面立ち。チャールズは目を逸らせず、母を見つめ返した。
「あの人にも困ったものだわ」
 アンは冷静に言い放った。
「確かに最近塞ぎがちだったから、きっとヘンリーの命日が近いからだとは思っていたの。でも、十九日はあなたの誕生日なのに」
 チャールズは項垂れると呟いた。
「……もう、いいのですよ」
 そして、怒りを漲らせて苦々しげに吐き捨てる。
「き、きっと父上は、言いたくても、言えないのですよ。お、おまえではなく、ヘンリーが、生き残ってくれれば、良かったのにと……!」
 アンの顔が強張る。
「わ、私ではなく、あ、兄上が生きていれば……。私ではなく!」
「チャールズ!」
 母の叫びに思わず顔を背けようとするが、両の手で頬を包まれ、真正面から見つめられる。
「いなくなったのはヘンリーだけではないわ」
 アンは凛とした表情できっぱりと言いきった。
「マーガレットも、ロバートも、メアリーも、ソフィアも。……皆、いなくなってしまった」
 チャールズは顔を歪めると唇を噛み締めた。夭逝した幼い姉と弟妹たち。幼かったチャールズには、雪のように淡く儚い記憶しか残っていない。彼らの命はそれほど短いものだった。アンは辛そうに目を伏せた。
「エリザベスだって、ずいぶんと遠くに嫁いでしまった。もう、二度と会うことはないわね」
 姉エリザベスは、遠くボヘミアのプファルツ選帝侯に嫁いだ。兄ヘンリーに似て、陽気で美しかったエリザベスがイングランドを離れる際、国民は皆悲嘆に暮れ、別れを惜しんだ。
 明るく気さくで、賢王になると未来を嘱望された兄ヘンリー。美貌と慈愛を兼ね備え、皆から愛された姉エリザベス。兄は若くして病で命を散らし、姉は遠い異国へ嫁いだ。残されたのは、宮殿の暗い片隅に追いやられた自分。病弱でどもりがちな王子など、誰も必要としない。何故、自分が残されたのだ。思わず項垂れると、嗚咽がこぼれ出そうになる。そんな息子の頬を愛おしげに撫でながら、アンは優しく語りかけた。
「私はあの子たちのことを忘れたことなどないわ。でもね、いつも思っているのはあなたのことよ」
 真綿のように柔らかい手の平が強張った顔だけでなく、固く凍りついた心までほぐしてゆく。
「だって、今私の側にいてくれているのはあなただもの」
 黙ったままの息子の頭をそっと抱き寄せる。
「優しい子、チャールズ。あなたは父上に相手にされない私をいつも気遣ってくれる。ありがとう」
「……母上」
 アンはチャールズの顔を上げると額にキスを落とす。
「優しいあなたがそばにいてくれて私は幸せだわ。あの人も今にわかるわ。どんなに頼もしい息子が隣にいるのかを」
 母の言葉に、チャールズは干からびた胸が温かく満たされていくのを感じた。母はわかってくれている。本当は、その言葉を父の口から聞きたいのだ。だが、いいのだ。わかってくれる人が一人でもいると知ったのだから。
「……ありがとう、母上」
 アンはにっこりと微笑むと、もう一度息子の頬に唇を押し付けた。

 薄暗い大廊下。足元には血のように真っ赤な絨毯。辺りには耳障りな革が軋む音が響き渡る。それと同時に、「女」の甲高い叫び声。
「殿下! 前へ! ほら、前へ! 殿下!」
 幼いチャールズは泣きじゃくりながら顔を上げた。色白の、ふっくらとした顔つきの女が眉を吊り上げ、口を歪めて怒鳴りつける。
「しっかり! ほら、進んでいるでしょう。前へ! 歩けるわ!」
 肉の厚い顔。丸い鼻。眉間に深い皴を刻み、歪めた真っ赤な唇から叫びが迸る。まるで食われそうな形相にチャールズの歩みは止まった。
「殿下!」
 この悪鬼を黙らせるには、ただひたすら言われるままに歩き続けるしかない。松葉杖を握る手は汗ばみ、石突はぐらぐらと揺らぐ。革の装具がチャールズの柔らかい足を締め上げると容赦なく食い込み、彼は痛みに嗚咽を漏らした。
「……い、い、いた……、い……!」
 痛みを訴えようにも、どもって言葉にならない。
「歩いて!」
チャールズは声にならない悲鳴を上げながらも乳母の声に従い、ゆっくり、ゆっくり、足を運んだ。
 しゃくり上げ、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃに汚れたまま目を凝らすと、大廊下の先に幼い少年と少女の姿がぼんやりと浮かび上がる。人形のように愛らしい顔立ちの彼らは顔を引き攣らせ、憐れみのこもった瞳で見守ってくる。
 兄ヘンリーと、姉エリザベス。自分は助けなしでは立つことも歩くこともできない貧弱な足腰で、思うように話すこともできない。何故兄や姉は、美しい容姿と滑らかな舌、自由に歩き、走り回れる丈夫な体を持って生まれたのだ? 何故、自分はそのうちのひとつでも持ち合わせずに生まれてきたのだ!
「殿下! 立ち止まらないで! 歩くのです!」
 再び頭上から浴びせられる罵声にチャールズは縮み上がった。
「我慢して! 今我慢して歩けるようになれば、誰にも後ろ指を差されることはありませんわ! だから、殿下! 前へ!」
 いやだ、いやだ。いたいのは、もう、

「嫌だ!」
 吼えるように叫びながら、チャールズは飛び起きた。仄暗い闇の空間が無言で自分を見つめてくる。応える者などいない、一人きりの寝室。チャールズは息を切らしながら頭を振った。
 この夢をみるのは久方ぶりだ。荒く息を吐き出しながら喉元の汗を拭う。昼間、後宮で女官らに取り囲まれた時の恐怖があの頃の記憶を呼び覚ましたのか。一生忘れることはないであろう、苦痛の記憶。だが、その過去のおかげで今があるのも紛れもない事実だ。チャールズを苦しませる幼い頃の記憶。それは、乳母と共に過ごした時のものである。

 ジェームズの重臣の妻、エリザベス・ケアリー。彼女がチャールズの乳母だった。ジェームズがどもりのひどいチャールズに手術を受けさせようとした時、ケアリー夫人はただ一人反対した。危険な手術よりも地道な矯正を選んだのだ。だが、チャールズにとっては一思いに手術をした方がよかったと思えるような壮絶な日々だった。
 たどたどしい言葉で何度も何度も発声練習を繰り返す毎日。それに加え、足腰が異常に弱いチャールズのために、固い革と木で作られた装具が用意された。装具を身につけ、ホワイトホール宮殿の長い長い廊下をひたすら歩く。そのおかげでどもりは克服でき、体も随分丈夫になった。今こうしてゆっくりながらも普通に話し、馬を乗りこなすことも、剣を振るうことができるのも、すべてケアリー夫人のおかげだ。だが。
 チャールズは寝衣の長い裾をそっと引いた。細く青白い足が露になる。寝室の小さなランプの明かりに照らされた脹脛には、赤紫の痣がいくつも張り付いていた。
(……悪魔の爪痕のようだ)
チャールズは痣を見るたびにそう思った。成長するにつれ、痣は小さくなっていく。このまま消えていくのだろうか。心の傷も一緒に? 思わず彼が厭世的な笑みを浮かべた時。
「殿下」
 不意に響いた声にぎくりと顔を上げる。寝室の扉が半開きになり、男が顔を覗かせている。廊下の明かりを背負った黒い顔。だが、その声色は聞き間違えるわけもなかった。
「……ヴィリアーズ」
「悪い夢でも?」
「……大丈夫だ」
 黒い顔がにっと笑みを浮かべたのがわかる。
「よろしければ、添い寝いたしますよ」
「いらん!」
 吐き棄てるように怒鳴る王子にヴィリアーズが小さく笑いながら扉を閉めようとした時。
「今帰ったのか」
 チャールズの言葉に相手の動きが止まる。ヴィリアーズの体の線は明らかに寝衣ではない。胴着だ。
「……ええ」
「早く寝ろ」
 ヴィリアーズは無言だった。やがて丁寧に一礼すると、彼は静かに扉を閉めた。



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