蛍火

 

 深い深い蒼に散りばめられた幾多の星々。その瞬きを愛でる感嘆の声がそこかしこで上がる中、青年は盃を持つ手を膝に置き、ぼんやりと星空を見上げていた。歳若い面立ちには似合わぬ、どこか尖った眼差し。やがてその耳に、草むらを踏みしめる音が聞こえてくる。青年の傍らに控えた従者が迷惑そうな目つきで振り仰ぐ。
次宮つぎのみや様! こちらにいらっしゃいましたか!」
 狩衣の裾をたくし上げ、息せき切って丘を上がってきた男が声をかける。
「さすが次宮様。星月夜を静かに御酒と共に楽しまれるとは、風流人はかくあるべきですなぁ」
「風流人か」
 次宮
蘇芳すおうは盃に口をつけた。そして、目を眇めると丘の麓を見やる。
「今宵は蛍狩りのはずだのに。あれでは蛍が逃げようぞ」
 麓には酒宴が設けられ、ひとりの男を中心に大勢の男女が酒を酌み交わしている。男は苦笑いを浮かべて頷く。
「右大臣は賑やかなことがお好きでございますからなぁ。蛍の風情がわからぬのでしょう」
「楽しみようは人それぞれだな」
「はっ、誠に」
 三人はしばし黙って麓の宴を眺めた。いくつも置かれた燭台の明かりが招かれた人々の顔をぼんやりと照らし出す。草むらに人々の黒い影が長くゆらゆらと蠢く様は傍目から見ても気持ちの良いものではない。そんな中、男は扇をついと口許に覆うと声を潜めた。
「そういえば……、今宵は右大臣の姫君もいらっしゃっているそうですな」
 従者がぴくりと眉を吊り上げるが、蘇芳は涼しい顔をしたままだ。
「壱の姫も弐の姫も嫁がれて、残るは参の姫ばかり。ですが、相も変わらずお転婆だというお噂でございますが――」
「五条殿! 御酒はいかがかな!」
 唐突に従者が声を上げ、男はぎくりとして言葉を呑み込んだ。そして、慌てて畏まると平伏した。
「い、いや、構わぬ。それでは次宮様。ごゆるりと」
 そそくさと腰を上げると夜露に足を取られながら丘を降りてゆく男を見送り、従者は苦々しげに舌打ちする。
「ご覧ください、宮様。舌の根の乾かぬ内に右大臣の宴へ」
「捨て置け」
 蘇芳はそう吐き捨てると盃の酒を呷った。膝へ戻す盃を満たすと、従者も手酌で飲み干す。そして、大きく息を吐き出すと盃を逆さにして草むらに投げ、それを枕にごろりと横になる。
「しばし休みます」
「源九郎」
「後で起こしてください」
 頭の後ろで両手を組み、眠った振りをする源九郎に蘇芳は溜息をついた。と、目の端にぽつりと明かりが灯る。顔を上げると、緑の明かりがぼうと闇に浮かんでいる。儚げに灯り、消え、灯りを繰り返す蛍火。蘇芳は腰を上げるとその光を追った。
 酔客の艶笑を遠くに聞きながら、蒼い闇をそぞろ歩く。蛍火はひとつふたつと増え、蘇芳の周りをふわりふわりと惑い浮かぶ。やがて、蘇芳は足を止めた。音もなく揺れ交う蛍の道の先。薄闇の中、下弦の月に向かって昇ってゆく蛍を掴もうと袖を跳ね上げながら飛び跳ねている者がいる。身に纏う小袿からして、女。何度も飛び跳ねるたびに蛍は遠のき、再びはらはらと落ちてくるところを狙うが掴めない。肩を小刻みに震わせ、長い黒髪を鬱陶しげに手で払う。黙って見守っていた蘇芳は、足早にその後ろ姿に歩み寄った。童のように息を弾ませ、再び飛び跳ねた時。小袿がずれ落ち、裾を踏んだ拍子にあっと声を上げる。転がりそうになった瞬間。蘇芳は咄嗟に背中から両手を回し抱えた。女の悲鳴が喉で引っかかり、息を呑んで体を強張らせる感触が伝わる。思わず、逃がすまいとその細い肩を包み込み、ふたりは息を呑んで黙り込んだ。押し殺した吐息だけが漏れ聞こえる中、蹲ったふたりを黄緑色の光を帯びた蛍たちが一匹、また一匹と集い、舞い踊る。やがて女は身を捩って蘇芳の手を探り当て、愛おしげに握り締めた。
「蘇芳」
 名を呼ばれ、彼はわっと声を上げて尻餅をついた。女も一緒に仰け反り、痛みを訴える罵りが漏れる。
「何をしている」
 懐かしい声色に蘇芳は思わず口をつぐんだが、やがてゆっくりと体を起こす。
「……よくわかったな」
 ぼやくような呟きに、女――まだ年若い娘は弱々しい月明かりの下で微笑んだ。
「懐かしい匂いがした」
 その言葉に、蘇芳は溜め込んでいた息を吐き出した。
紅絹もみ子」
 彼女は顔にかかる髪を払いのけた。そうだ、この仕草でわかったのだ。
「私のことなど、とうに忘れたかと」
 蘇芳の言葉に紅絹子はおかしそうに笑いを零した。
「まさか。私は毎日御前の名を聞いている。父様が早く御前に嫁げと」
 半ば予想していた言葉ではあったが、蘇芳は表情を固くした。
「……御前は、何と答えているのだ」
「父様が逝ったら往くと」
「親不孝者め」
 呆れてそう返すが、紅絹子はくすくすと笑うばかりだ。
「父様の方が酷い。父様は毎日御前の悪口ばかりだ。次宮は御前を欲しがっているくせに、嫁にくれとは言わなんだ。悪賢い輩だと」
 眉をひそめ、黙り込む蘇芳に紅絹子の笑みも消える。そして、静かに言葉を添える。
「……私も、御前のしがらみにはなりとうない」
 その言葉を最後に、空しい沈黙が霧のように立ち込める。草むらに座り込み、じっと見上げてくる娘。薄闇にあっても、昔と変わらぬ愛くるしい顔立ちが見てとれる。可愛らしい面相には似合わぬ強い眼差しも。引き結んだ唇がゆっくりと開かれる。
「早く妻を貰え」
 蘇芳は両膝を突くと項垂れた。
「……私に、約束を破れと申すか」
「あんな約束」
 思わずかっとなって顔を上げるが、紅絹子の表情に言葉を失う。揺れる瞳が訴えかける。それは、遠い幼い日の思い出を呼び起こした。

 白雪がちらちらと舞い落ちる様を横目に眺めながら、幼い蘇芳は手を袖に引っ込めて中庭に面した廊下を小走りに渡っていた。ぐっと冷え込んだ朝。もうすぐだ。何もかもが雪で白く覆い隠される季節がやってくる。袖からかじかんだ手を出すと白い息を吐きかける。そして、足を止めると大きなくしゃみをひとつ。静寂の廊下に響き渡る。だが、すぐにすべての音が無に帰り、静謐な時がたゆたう。蘇芳は鼻をすすると息をついた。が、眉をひそめると背筋を伸ばす。どこかから、何か聞こえる。せせらぎのようなそれを探し、辺りを見渡す。白い砂を撒いたように雪が降り積む庭を眺め回した時。瞬いた瞳がそれを捉えた。植え込みに隠れるようにしてわだかまった小袿。小刻みに揺れるそれから漏れる嗚咽に蘇芳は慌てて廊下から庭へ飛び降りた。
「どうした」
 上擦った声をあげて駆け寄り、ぎょっとして立ち止まる。
「……紅絹子!」
 白い息を吐き、震えながら咽び泣く童女に飛びつく。
「こんなところで何をしている! 風邪を引くぞ!」
 童女を抱え上げようとするが、相手は頭を振って厭がった。
「このまま……、このままにして……!」
「何を言っている!」
 耳許で怒鳴りつけるが、紅絹子はしゃくり上げながら吠えるように叫んだ。
「石清水様が……、石清水様が……!」
 石清水少将は紅絹子の許嫁。厭な予感に襲われた蘇芳が口をつぐむ。
「お隠れに……!」
 切れ切れに囁き、紅絹子は蘇芳の直衣を握りしめると声を上げて泣き始めた。石清水少将はまだ若く、屈強な体のはず。だが、蘇芳はすぐに思い至った。
「まさか、
咳逆しはぶきか」
 黙って何度も頷く幼馴染。そして、絞り出すように囁く。
「だから、紅絹子も、一緒にいく……!」
 紅絹子の言葉に、蘇芳は顔を歪めた。
「馬鹿! そんなことをして何になる!」
 頭ごなしに怒鳴りつけられ、紅絹子は紅葉のように真っ赤になった手で顔を覆い隠して泣き始めた。
「だって……、だって……、父様が……」
 蘇芳は眉をひそめて紅絹子の口に耳を寄せる。紅絹子の小さな手がぎゅうと袖を掴む。
「父様が……、次の許嫁を、探すって。そんなの厭……!」
 覚えず、体が震える。同時にあの狡猾な右大臣の顔が脳裏にちらつき、唇を噛み締める。そして、蘇芳は紅絹子の手を取ると無理やり背に担いだ。小さな紅絹子とはいえ、蘇芳もまだ幼い。よたよたと覚束ない足取りで廊下へ上がり、宮舎へ向かう。目指す自らの房がやけに遠く感じる。時折立ち止まり、ずり落ちそうになる紅絹子を背負い直す。何度めかに立ち止まった時。廊下の先で寒そうに背を丸めて歩む男を見つける。
「源九郎!」
 裏返った声で叫ぶと、相手が驚いて振り向く。
「宮様?」
 何かを背に担いだ幼い主の姿に源九郎は訝しげな顔付きで走り寄る。そして、
「紅絹子様!」
「庭で震えていた」
 荒い息遣いで囁く。
「早く温めないと」
 蘇芳から右大臣の娘を受け取ると、源九郎は委細承知で廊下を駈け出す。宮舎へ入ると幾人かの女房が驚きの表情で出迎えられ、房のひとつに飛び込む。
「松葉殿! 松葉殿!」
 源九郎が呼ばわると、房の奥から初老の乳母が現れ、口を覆って悲鳴を上げる。
「どうなさった!」
「庭で見つけた。松葉、頼む」
 後ろから追いついた蘇芳の言葉に頷くと、松葉は女房たちに夜具を用意させた。すぐに布団が敷かれ、火桶が運ばれ、紅絹子は寝かされるとしばらくして寝入ったようだった。
「一体何が……」
 怪訝そうに呟く源九郎に蘇芳は苦しげな表情で答える。
「石清水が亡くなったそうだ」
 主の言葉に源九郎が目を剥いて振り返る。
「咳逆だ」
 その言葉に源九郎は痛ましげに顔を振る。先の月から流行っている咳逆が、紅絹子の許婚を奪った。蘇芳もやりきれない思いで溜息をつく。
「右大臣には……」
「私の房で泣いていると伝えておけ」
「承知」
 源九郎は一礼すると房から引き下がった。蘇芳は、小さな唇を少し開いて寝息を立てている紅絹子に目を向けた。脳裏に浮かぶのは、つい先頃まで見かけていた石清水少将の姿。
 石清水少将。近年力をつけてきた武人で、野心的な男だった。宮中の実力者である右大臣の娘と婚約できたと、得意げな顔つきで吹聴している姿を目にしていた蘇芳は、幼馴染の身を案じていたのだ。だが、無邪気に慕ってくる紅絹子の愛らしさにほだされたのか、最近ではお転婆な紅絹子を相手によく遊び、まるで歳の離れた兄妹のように睦まじい様子も見せていた、その矢先のこと。無情な仕打ちに蘇芳は重い吐息をついた。ふと目を上げると、布団から小さな手がのぞいている。黙ったままその手を取ると握り締める。と、きゅっと握り返される。
「……すおう」
 小さな囁きに腰を上げる。
「紅絹子。どうだ、少しは温まったか」
 うっすらと瞳を開いた紅絹子は小さく頷いた。が、その眦にぽつりと涙が浮かぶ。
「……寂しいよ」
「大丈夫だ。私がいる」
 そう囁いて小さな手を強く握り締める。
「自分も一緒にいくなんて、もう言ってはならぬ。……私が、ひとりぼっちになるではないか」
 枕の上で、紅絹子は首を巡らせて振り返った。そして、小さく鼻を啜る。
「……みんないなくなる。母様も、姉様も」
「姉君なら、いつかまた会える」
 紅絹子の母は数年前に鬼籍に入り、姉はふたりとも他家へ嫁いでいた。
「……石清水様は、強い人だと思っていたのに……」
 確かに、まだ二十歳になったばかりの頑健な若人だった石清水の死は到底すぐには受け入れられぬであろう。不安でいっぱいの瞳を揺らす紅絹子を眺めているうち、蘇芳の胸にある決意が芽生えた。
「紅絹子」
 身を乗り出し、小さな耳朶に唇を寄せる。
「わかった。大きくなったら、私が御前を貰う」
 ややあってから、紅絹子は目を見開いて見つめてきた。真っ赤に泣きはらした瞳。乱れた前髪。その髪を撫でて直してやる。が、紅絹子は頬を膨らせたかと思うとぷいと顔を背けた。
「厭!」
「どうして」
 思いもよらぬ反応に狼狽えた声を返す。
「だって、皇子様はたくさん妻をもらうのでしょう。そんなの厭!」
「貰わぬ、他の妻など貰わぬ。約束だ」
 慌てて手を握りしめるとにじり寄る。
「御前だけを妻にする。だから……」
 困り果てた様子で囁く蘇芳に、紅絹子は顔を歪める。
「……どこにも行かないでくれるの」
「行かない。どこにも」
 力強く頷いてみせる。しばらくじっと見つめていた紅絹子は、やがて身じろぎをすると小さな両手で蘇芳の手を握った。
「約束だよ」
 そのかすかな呟きに、蘇芳はにっこりと微笑んだ。
「約束だ」

「何故だ」
 薄闇から放たれた声にはっと目を上げる。
「何故、皇子に生まれた。何故
まつりごとに目覚めた」
 麗しい乙女に育った幼馴染は、変わらぬ強い眼差しで言い放った。蘇芳は肩を落とすと黙って頭を振る。
「……父様は毎日ぼやいておる。帝は言いくるめられても、
長宮たけるのみやと次宮のせいで政をほしいままにできぬ、口惜しいと」
 紅絹子は哀しげに目を伏せて言葉を継ぐ。
「だから、早う次宮に嫁げと」
「よいのだぞ」
 思わず口をついて出た言葉に、紅絹子は眉をひそめて目を見開いた。蘇芳が静かに言い含める。
「御前を貰ってもよい。約束したのだから」
「何もできなくなるぞ」
 どこか自棄を起こした風だった紅絹子が、初めて不安を見せた。
「私を妻にすれば、御前は父様の言いなりだ」
「見くびられたものだな」
 不敵に返され、紅絹子は言葉を呑み込んだ。蘇芳は柔らかな笑みをみせた。
「御前を貰うことで道が険しくなるとも、御前がいればそれでよい」
 だが、哀しげに眉をひそめると、言い添える。
「それでも……、石清水を越えられるかどうか、自信がない」
 思いもよらない言葉だったのか、紅絹子は口許を歪めると顔を背けた。
「……石清水様のことは、ほとんど覚えていない」
 そうであろう。あの時、紅絹子はあまりにも幼すぎた。
「ただ……、いつも遊んでくれていたあの人が、急にいなくなって……、ひどく寂しかったことしか」
「私も寂しかった」
 ぽつりと呟かれた言葉に紅絹子が顔を上げる。目の前に立つ男は、思い出を噛みしめるような表情で静かに告げた。
「元服をしてから、御前とは自由に会えなくなった。……寂しかった」
 何か返そうにも言葉が見つからない。そんな表情でただ黙ったまま見上げる紅絹子。やがて蘇芳は右手をそっと差し出した。そうだ。いつもこうして彼女を迎え入れていた。紅絹子は、躊躇いながらも差し出された手におずおずと右手を重ねた。その指を絡めると引き寄せ胸に抱く。懐かしい。そう、この匂い。共に暮らしていた頃に包まれていた匂い。
「……すぐには無理かもしれぬ」
 噛みしめるように耳許で囁く。
「だが、必ず迎えにいく。……待っていてくれるか」
 蘇芳の問いに、紅絹子の瞳が揺れる。滲む瞳に映るのは、無数に舞い飛ぶ淡い蛍火。自分たちを包む小さくも夥しい光に、紅絹子は瞳を閉じると蘇芳の背に両手を回した。
                   終

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