ギョームからの思いがけない贈り物にキリエは少し取り乱したものの、その後は休憩を挟んで落ち着きを取り戻し、夜の晩餐会では皆に元気な姿を見せた。
晩餐会ではユヴェーレン軍の追撃を阻んだジョンに勲章が授与されたり、近々誕生日を迎えるジュビリーを皆で祝うなど、終始和やかな雰囲気だった。明るく振舞うものの、昼間の一件で多少感情的になっているキリエを心配したルイーズは、王妃にワインをあまり飲ませないよう配慮し、おかげで彼女は遅くまで祝宴を楽しめた。
晩餐会が終わると、キリエはどこか思い詰めた表情で寝台の上に蹲って夫の帰りを待っていた。やがて夫が帰ってくると嬉しそうな微笑で出迎える。
「……ギョーム。今日はありがとう」
その言葉にほっとした表情でギョームは寝台に上がった。キリエは俯きかけながら囁いた。
「……本当に嬉しかった。素敵な贈り物もそうだけど、こうしてあなたと誕生日をお祝いできたことが……」
ギョームは黙って妻を抱き寄せた。二人はしばらく黙って互いの体温を確かめ合っていたが、やがてギョームが小さく囁く。
「……温かい」
「え?」
「……戦場は寒かった」
キリエは思わず目をぎゅっと閉じると夫を抱きしめた。極寒の地で二ヶ月近く戦い続けたのだ。どんなにか辛かっただろう。
「私も、寂しかった。……恐かった。あなたがいないことが……」
ギョームはそっと体を離すとゆっくり唇を合わせた。長い長い口付けを交わすと、キリエは目を伏せた。そして、遠慮がちに口を開く。
「……ねぇ、ギョーム。今日は、私の話を聞いてくれる?」
妻の言葉にギョームは穏やかに微笑んだ。そして、夜具の中に潜り込むと妻を引っ張り入れる。二人並んで天蓋を見つめ、少しの沈黙の後、キリエは静かに語り出した。
「私、二歳までイングレスにいたらしいけれど、あの頃のことはほとんど思い出せないの。物心がついた頃、私はもうグローリアのロンディニウム教会にいたわ。小さな教会だった……。私を入れて十人足らずしかいなかった。何もない……、静かな教会だったわ。だけど、楽しみはあったの。夕方のお祈りを知らせる鐘を鳴らすのが私の役目で、鐘楼から教会の外を眺めるのが大好きだった。今思えば、ただ畑と森と空が見えるだけだったけれど……。私にとっては、どこまでも広い広い世界だったの。他の人には代わり映えのしない退屈な風景だったかもしれないけど、私にとってはそんなことなかった。雲は毎日形が違うし、飛んでいる鳥も、畑の野菜も、季節によって全然違うのよ。私は……、鐘楼から見える世界が大好きだった」
キリエが自分のことについてここまで語ることは今までになかった。クレド城で初めて会った時も、教会という狭い世界しか知らないことを恥じていた。ギョームは妻の横顔をじっと見つめながら囁いた。
「その頃から薬草を育てていたと、初めて会った時に話してくれたな」
夫の言葉にキリエは穏やかに微笑みながら頷く。
「そう。一度、垣根から落ちて大怪我をしたことがあって……。でも、ロレイン様の薬草のおかげで全部綺麗に治ったの。それからよ。薬草を育て始めたのは」
「垣根から落ちた? 何故……」
キリエは寂しげに眉をひそめた。
「……村の子どもたちが遊んでいるのが見えて、そこへ行きたかったの」
「……本当に、教会に閉じ込められた生活だったのだな」
それなりに衝撃を受けたのだろう。ギョームのどこか思い詰めた声色に、キリエは小さく顔を振った。
「ううん。年に一度だけ、秋の収穫祭の時は村に行くことを許されていたの」
キリエは嬉しそうな顔つきで夫に寄り添い、ギョームも子どもをあやすように肩に手を回して抱き寄せた。
「収穫祭は本当に楽しみだった……。前の晩からわくわくしてとても眠れないほどだったの。朝起きると聖アルビオン大聖堂から大きなプディングが届けられていて……」
そこで不意に口をつぐむ。ギョームが怪訝そうに顔を覗き込むと、キリエは眉をひそめている。
「……聖アルビオン大聖堂からだと信じていたの」
「違うのか?」
「……父上から……」
その言葉にギョームは黙って肩を撫でる。
「……父上に命じられて、サー・ロバートが届けてくれていたの」
「……そうか」
それきり黙りこんでしまったキリエを見てとると、ギョームはわざとおどけたように笑いかけた。
「サー・ロバートめ、私の知らないそなたを眼にしていたとはな」
「えっ」
「明日、問い質しておかねば。キリエがどんなに可憐な幼子だったのか」
「ギョームったら……!」
思わず顔を真っ赤にしながら慌てる妻の背を笑いながら撫で、キリエの表情も和らぐ。
「でも、本当に楽しみだったのよ。プディングなんて普段食べることなんかできなかったから。朝はそのプディングを食べて、昼からはお祭を見るために教会を出て村まで行ったの」
そこで言葉を切り、昔を懐かしむように目を細める。
「とっても楽しみだったけれど、……とっても恐かった。だから、いつもロレイン様と一緒に村を見て回ったの」
天蓋を見つめるキリエの瞳が光を帯びる。
「ロレイン様は本当にとっても綺麗だったのよ。少し切れ長の目で、睫毛が長くて、すらっとしていて。いつも凛とした表情で……。美人なロレイン様と一緒に村を歩くのは、私の自慢だったの」
キリエの脳裏に在りし日の光景が蘇る。村の通りを、ロレインの手を握り締めて共に歩いた。いつも憧れていた外の世界を、大好きなロレインと歩けることが嬉しくてたまらなかった。
村の子どもたちが、小さなかぼちゃを先に刺した杖を持って行進してゆく。収穫祭の大事な小道具だ。子どもたちは皆、杖を振り振り、音程がめちゃくちゃな歌を歌っていた。
「麦の穂を刈れよ、麻袋に詰めよ。荷馬車に積んだら市場へ行くよ。市場で探したさ、丸々の子牛。だけど見つけたのは、丸々の女房……」
子どもたちの歌にキリエは吹き出すと声を上げて笑った。すると、男の子のひとりがキリエに気づくと駆け寄ってきた。
「キリエ」
男の子はかぼちゃの杖を差し出した。キリエは驚きと戸惑いの表情で立ち尽くした。
「ほら」
男の子は杖をキリエに押し付けた。キリエの顔に喜びの表情が広がる。
「ありがとう……!」
キリエは小さな手を合わせると深々と頭を下げた。男の子は皆の所へ戻ると、口々に冷やかされていた。
「ロレイン様」
嬉しそうに見上げてくるキリエに、ロレインは優しい微笑を浮かべた。
「良かったですね、キリエ」
「はい!」
温かな手が
ロレインの慈愛に満ちた笑顔が忘れられなかった。キリエは込み上げてくるものを必死で堪えた。
「……私、ロレイン様が、大好きだった」
ギョームがそっと手を握ってくる。
「厳しくて、恐かったけど……、それ以上に優しくて……。大好きだった」
「キリエ」
涙声になる妻をギョームは抱きしめた。キリエは彼の寝衣を握りしめると胸にすがりついた。
「でも……、私のせいで……! 私のせいで……!」
「そなたのせいではない」
ギョームは低い声で言い聞かせた。が、キリエは涙が止まらなかった。
「私……、心のどこかで、信じてた……。ロレイン様は、きっと、私のお母様なんだって……!」
嗚咽を止められず、肩を震わせるキリエを、ギョームは黙って抱きしめた。
数日後、ジュビリーは随行した廷臣らを伴い、帰国の挨拶にやってきた。
「クレド侯、アングルからの追加支援は本当に助かった。いつまたエスタドが侵攻を企てるか、見当もつかない。しばらくはアングルに頼ることになろう」
「お任せ下さいませ」
前日に両国の廷臣らは会議を開き、今後の大陸の動きについて話し合っていた。ギョームは穏やかに微笑んだ。
「この度はグローリア伯の活躍もあり、勝利を収めることができた。クレド侯、頼もしい弟ができたな」
側に控えたジョンが思わず居住まいを正す。そんな義弟をちらりと見やると、ジュビリーは眉間に皺を寄せた。
「私から見ればまだまだでございます」
義兄の言葉にジョンは青くなり、マリーはくすりと笑いを漏らした。
「ジョンはずいぶんしっかりしたわよ?」
キリエが横から口を挟み、ジュビリーはわずかに口許をゆるめると頭を下げる。
「キリエ、そなたもそろそろアングルに帰りたいだろうが、状況が落ち着くまで待ってくれ」
「私は大丈夫よ。私よりも……、サー・ロバートが」
王妃の言葉にモーティマーが顔を上げる。
「新婚なのに、申し訳ないわ」
「あ、いえ……、ご心配なく……!」
いつもは落ち着き払った秘書官も、新妻のこととなるとしどろもどろになる。ギョームは体を乗り出すとからかうように声をかけた。
「帰るか、アングルに」
「何を仰います! 何よりも執務が優先でございます! 妻もそれを望んでおります!」
「またのろけおったぞ」
ギョームの言葉にキリエも声を上げて笑った。そこでレスターがわざとらしく咳払いをし、その場に笑いがわき起こる。ひとしきり笑い合うと、ギョームは改めてジュビリーに呼びかけた。
「アングルを頼むぞ、クレド侯」
「はっ。陛下より賜った剣に誓って、女王陛下のお留守をお守りいたします」
「できれば春にはキリエと共にアングルへ帰りたいが、状況が……」
と、そこでギョームは口をつぐんだ。キリエがそっと手を握ってきたのだ。振り仰ぐと、妻は黙って黒衣の宰相を見つめている。落ち着いた、大人の穏やかな瞳。もう、ジュビリーという心の支えがなくともガリアで生きてゆける。彼女の瞳からは、そんな決意が感じ取れた。ギョームは思わず彼女の手を握りしめた。二人の様子を見たジュビリーは、ゆっくりと頭を下げた。
「……お二人のお越しを、心よりお待ち申し上げます」
カンパニュラ王国の都、ロマーニャ。大陸きっての芸術都市でもあるロマーニャには、目を瞠るような荘厳な建築物に溢れていた。街をゆく人々も洗練された装いに身を包み、街全体が鮮やかな色彩に彩られている。
女王フランチェスカが居を構えるテゾーロ宮殿に続く大通りに面したとある屋敷。無駄のないすっきりとした外観だが、中へ入ると手入れが行き届いており、洒落た調度品が並んでいる。だが、小ざっぱりとした室内であるにも関わらず、強い薬品臭が鼻をつく。そんな屋敷の奥の一室では、作業着で絵筆を取る画家の姿があった。
ガリアの王都オイールから帰ってきたばかりのヴァレンティノ・リッピは、溜まった仕事に取り掛かっていた。広々としたアトリエでは数人の弟子が忙しく立ち働いている。依頼は次から次へと舞い込んで来るのだ。休む暇などない。調色板を持ったまま大きく伸びをすると息を吐いた、その時だった。
「
切羽詰った叫び声と共に扉が叩かれる。弟子たちもびくりとして振り返る。リッピは顔を歪めた。
「うるさいぞ!」
「パドローネ、大変です!」
年若い弟子が取り乱した様子で飛び込んでくる。
「何があったのだ」
顔をしかめながら問い質すと、弟子は怯えた様子で唾を飲み込み、声をひそめて囁いた。
「え、エスタドから使者が……!」
エスタド。その言葉に他の弟子たちも顔色を変える。だが、リッピは特に表情を変えないまま弟子を凝視している。アトリエは静寂に包まれた。リッピは溜息をつくと弟子たちを安心させるように笑顔を作ってみせた。
「ガルシア王も気前の良いお方だ。また絵の注文かな」
「ガルシア王は、パドローネがギョーム王のご依頼を受けたことを聞きつけたに違いありません。お怒りになられているやも……!」
「馬鹿な」
リッピは眉を寄せた。
「あのお方は、そのようなことに機嫌を損ねるような器の小さいお方ではない」
「しかし……」
弟子たちは蒼白な表情で自分を取り囲んでいる。リッピは不本意そうに肩をすくめてみせた。
「とにかく、お目にかかろう」
アトリエを出てアプローチに向かうと、その場の空気が変わったことに気づいて立ち止まる。黒尽くめの旅装に身を包んだ男たちが十数人。たった今到着したばかりなのだろう。どの男たちも一様に埃だらけだ。中でも最も誂えの良い衣装を身に纏った男がひとり進み出る。その男の顔に、リッピは見覚えがあった。
「これはこれは、トーレス男爵」
エスタドの宰相、オリーヴ侯ビセンテの腹心だ。弟子たちは顔を強張らせて彼らを見守る。トーレスはにやりと笑みを浮かべた。
「すまんな、仕事中だったかな」
リッピは絵の具だらけの作業着で大袈裟に両腕を広げてみせた。
「申し訳ございません、このようななりで」
「構わぬ。しかし仕事熱心だな。旅から帰ってきたばかりであろうに」
トーレスの言葉に弟子のひとりが息を呑む。エスタド側は、師匠がガリアに招かれていたことをやはり知っている。それでも動じない画家に、トーレスは満足げに笑みを浮かべたまま声を高めた。
「ガルシア王陛下より、書状をお預かりしている」
片手を袂に入れ、丸めた手紙を取り出す。リッピは深々と頭を下げて押し頂いた。手紙には赤い封蝋が留められている。封蝋は〈大鷲〉と〈青兜〉の紋章。ガルシアのものだ。リッピは手紙を手にしたままトーレスに呼びかけた。
「お疲れでございましょう。少しお休みになられては」
「いや、そなたの返答を急ぎ持ち帰ることになっている」
「……左様でございますか」
リッピはそう呟くと、手紙に目を落とした。封蝋を外し、静かに手紙を広げる。が、彼は目を眇め、眉間の皺を深めた。
そこには、たった一行の文章しか記されていなかった。だが、その短い文章にリッピは我知らず体を震わせた。
「予が勝てば予を。若獅子が勝てば若獅子を描け」
わずかに青ざめた表情で顔を上げた画家に、トーレスは不敵な笑みを浮かべたまま見つめてくる。
「……どうだ、返答は?」
追い討ちをかけてくるトーレスを凝視し、もう一度手紙に目をやる。ガルシアの激情を内に秘めた眼差しが脳裏をよぎる。そして、まだ年若い、一途な眼差しを持ったギョームの姿も。だが、あの若者は会うたびに成長を遂げている。それに、とリッピは強張った表情で顔を上げた。ギョームの傍らには強い絆で結ばれた王妃がいる。か弱い容姿とは裏腹に、強い意志と勇気を持ったアングルの女王。大陸は、この三人による戦火で覆われるというのか。リッピは深い溜息をついた。自分は、絵筆を握ることしかできない。仲裁ができるほど外交術も交渉術も持ち合わせていない。ただ歴史を目撃し続けることしか、できない。弟子たちが固唾を呑んで見守る中、彼は意を決して顔を上げた。
「承知いたしました」
ジュビリーが帰国して数日後。ギョームはキリエにせがまれて、完成間近の聖ロレイン教会を訪れた。最初、教会を見に行きたいと切り出されたギョームはすぐには顔を縦に振らなかった。キリエがバレクラン城に寄ってエレソナに会おうと言い出すのではないかと、不安だったのだ。だが、彼女もそれに気づいたのか、「教会を見に行くだけ」と言い添えた。キリエが何かをせがむことは滅多になかったし、ギョーム自身、妻のために建てた教会を見せたかったため、二人は久しぶりに遠出した。
まだ厳しい寒さが続くバレクランでは、工事の最後の仕上げが行われていた。
「やっぱり、大きいわ……!」
キリエは教会を見上げて嬉しそうに囁いた。久々に見る妻の晴れやかな笑顔に、ギョームはやはり来てよかったと改めて思った。
「ほとんど出来上がっているわね……」
「ああ。内装も九割方終わっているそうだ」
キリエはそこで首を傾げて夫を見上げる。
「こんなに大きな教会が完成間近だなんて……、いつから作り始めたの?」
その質問については、ギョームはちょっと肩をすくめて見せた。
「実は、結婚が決まるとすぐに作らせた」
キリエは驚いた表情になる。
「そうだったの……」
「だから……、一年半か」
「一年半で、こんなに大きな教会が作れるものなの?」
「私を誰だと思っている?」
自信満々で囁く夫に、キリエは嬉しそうに腕を取る。
「……ありがとう」
そして、少し寂しそうな表情で教会の尖塔を見上げる。
「きっと……、ロレイン様も喜んで下さるわ」
妻の囁きにギョームは微笑みかけた。
「今度アングルへ行ったら、グローリアへも行きたい。そなたが育ったロンディニウム教会を見てみたい」
キリエは嬉しそうに頷いた。
「皆、驚くわ。あの修道女がガリアの若獅子王を連れて帰るなんて」
だが、そこでキリエは顔を強張らせて目を伏せた。
「……皆、許してくれるかしら……。内戦を起こした私を……」
あの日、キリエがロンディニウムに逃げ帰ったことでロレインが殺された。そして、一年余りに渡る王位継承戦争が始まったのだ。それだけではない。王都イングレスが異国の王に陥落させられるという屈辱も味わった。ギョームは妻の肩を撫でた。
「私も内戦を起こした。だが、国民は私を支持してくれたと信じている。……アングルもそうだ。国民はそなたを選んだのだ」
「……ありがとう」
キリエは小さく囁いた。そして、恥ずかしそうに上目遣いに見上げる。
「……この間の話、驚いたでしょう? 私、あなたとは育ちが違いすぎる」
「違うから、どうだと言うのだ?」
ギョームは心外だと言わんばかりに口を尖らせた。
「グローリアでの清い暮らしがそなたを育てたのだ。私はそのそなたに恋をした。それだけのことだ」
聞いている方が恥ずかしくなるような言葉を、ギョームは堂々と言ってのけた。
「ギョーム……」
「過去があるから今がある。……違うか?」
キリエはギョームを見上げた。彼は、いつもと変わらない柔らかな笑顔で囁いた。
「私は、今のそなたも過去のそなたも、全部好きだぞ」
思わず涙ぐむと夫に抱きつく。彼の真っ直ぐな眼差し、真っ直ぐな言葉。出会った時から変わらない。きっとこれからもずっと、変わらずにこうして自分の隣にいてくれる。
「ありがとう。……私も、あなたが大好き」
ギョームが満ち足りた表情で抱きしめた時だった。背後から馬が駆けてくる音が聞こえてくる。同時に、侍従らがざわめく気配。
「……何?」
キリエが不安げに顔を上げる。すると、青ざめたモーティマーが駆け寄ってくる。
「陛下! 王妃! エスタドのバサーニャ港から、大艦隊が出港したとの報せが……!」
二人は目を見開いた。
「艦船は百隻は下らないと……。それらはガリアの沿岸には目もくれずに航行中とのことです。恐らく……、アングルへ向かっているものと……!」
キリエは両手で口を覆った。そして、見る見るうちに顔から血の気が引いてゆく。
「……そんな……!」
エスタド艦隊がアングルへ向けて航行中。その報せを受けたキリエたちはすぐさまオイールへ引き返した。
エスタドの大鷲はついに〈ガリアの若造〉だけでなく、〈島国の田舎娘〉に刃を向けた。ギョームに敗れたガルシアの屈辱は激しかったに違いない。彼は、ガリアとアングル、両国を滅ぼそうとしている。ガリアの廷臣らは恐れ戦いた。
ビジュー宮殿に到着した頃にはすでに日が暮れていたが、夜遅くまで宮殿内はざわついた空気に包まれた。深夜、廷臣会議には真っ青な顔色のキリエが参加し、ジョンとモーティマーも顔を強張らせて側に控えていた。
「斥候によると、エスタド海軍の艦船が約百隻、現在はクーレイ沖付近を航行中とのことです」
「我が国の沿岸からは砲撃が届かない航路故、航行を阻む術がございません」
廷臣らの報告に、ギョームは険しい表情で聞き入る。
「ルファーンには」
「すでに早馬を遣わしております。艦隊を編成し、アングル海軍と合流させます」
バラが、眉間に皺を寄せて海図を見つめたまま口を開く。
「まさかガルシア王がアングルに牙を向けるとは……」
「やはり、モンフルール戦役でユヴェーレン軍を撃退したことがガルシア王の神経を逆撫でしたことに……」
「口を慎めッ!」
王の一喝に廷臣らは息を呑んだ。
「キリエの采配がなければ、ガリアは危機に陥っていた! キリエの行動を責めるつもりかッ!」
「お、お許しを、陛下……!」
廷臣が必死に詫び、会議の間は重苦しい空気に満ちてゆく。キリエは泣き出しそうな表情で頭を抱えている。大鷲が妃の国を襲おうとしている。若い王は冷静さをなくしていた。バラが落ち着いた低い声で呼びかける。
「陛下、アングルからは多大な支援を受けております。出来うる限りの援助を」
「当然だ……!」
ギョームは大きく息を吐き出すと落ち着きを取り戻そうとした。その時、
「わ……、私、帰ります」
譫言のような細い声に、皆が驚いて振り返る。幼いアングルの女王は唇を震わせ、呆然とした表情で続けた。
「あ、アングルに、帰ります」
「ならん!」
途端にギョームが怒鳴りつけ、キリエはびくりと体を震わせた。
「落ち着け、キリエ……! そなたが今アングルへ向かっても、エスタドの艦隊と鉢合わせするだけだ!」
「で、でも……! 私の国なのよ……!」
涙ぐみながら必死に囁くキリエに、ギョームはそっと手を握りしめる。取り乱した王妃を廷臣らが気の毒そうに見守る。暮れの戦いでは夫の支援において軍師顔負けの采配ぶりだったが、自国の危機を前にして取り乱す様は、まだ十七歳の子どもに過ぎない。
「そなたが戦場へ行くことはない。予が行く」
「ギョーム……!」
「陛下……!」
王の言葉に廷臣らも慌てる。
「ルファーンから出撃する艦隊と合流する」
「なりません! 陛下!」
バラが思わず腰を浮かしかける。
「陛下……! 無礼を承知で申し上げます! 陛下は海戦の経験がございませぬ! 我らとてそれは同様……! 海は海軍にお任せに……!」
「では、いつ海戦を経験しろと言うのだ?」
「陛下がご乗船になれば、艦長も戦いづらくなりましょう。それに、海戦に関してはアングルの方が経験も豊富でございます。下手に動いてはアングル海軍の足手まといに……」
「我々は陸で海軍及びアングルの援護を……!」
ペール伯やエイメ侯らが必死に言い聞かせ、キリエも思わず夫の両手を握り締めて囁く。
「い、行っては駄目よ、ギョーム……! 私の国のために、あなたがそんな危険なことをしては駄目……!」
ギョームは、子どものように怯えた妻の瞳を見つめているうちに、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。
「……では、ルファーンまで行こう」
「陛下……」
ギョームは大きく息を吐き出した。
「確かに、アングルの海軍は強力だ。だとしたら、エスタド海軍が退却する可能性もある。アングル勢がルファーン沖へ追い込んでくれれば、ルファーン城から砲撃できる」
「しかし……」
「アングルを支援したい。オイールで大人しく戦況を見守ることなどできん」
王の断固とした口調に、廷臣らは口をつぐんだ。そして、皆がそっとバラを振り返る。宰相は苦い表情でギョームを見つめている。重苦しい沈黙が流れる中、王は背筋を正した。
「情報が錯綜している。報告は速やかに伝達しろ。明朝、ルファーンへ向かう」
「……はっ」
「私も行く」
「キリエ」
ギョームは溜息をつきながら妻の手を撫でる。
「そなたはオイールで待っておれ」
眉をひそめ、目に涙を浮かべて見つめてくる妻を安心させるように微笑を浮かべる。
「そなたには『前科』がある。戦場で剣を抜いたことがあろう? 予は絶対にそんなことはさせぬ」
「……でも、私のためにあなたが前線へ赴くのに、私ひとりオイールで待っているなんて……、そんなの絶対に嫌……!」
言い出したら聞かない。いつもは従順な妻も、時に恐ろしく頑固になる。ギョームは仕方なさそうに囁いた。
「では……、途中まで見送ってくれ。マリルまで一緒に行こう」
マリルは、輿入れの時に逗留した地方都市だ。キリエはようやく頷いた。
アングルの海上防衛の要、ホワイトピーク。城のアーチに部隊を引き連れた宰相ジュビリーが到着した。大広間に通されると、プレセア宮殿と見まごうばかりに大掛かりな戦略会議が開かれている。
「バートランド」
宰相の到着を告げられたホワイトピーク公ウィリアムが声を上げる。
「ホワイトピーク公、状況は」
「エスタド艦隊は今、クーレイ沖だ」
ウィリアムの言葉に、ジュビリーの眉間の皺が深まる。
「艦船は約百隻。……奴らは本気だ」
思わずごくりと唾を飲み込む。ジュビリーは昂ぶる胸を抑えつつ、海図に目を走らせた。
「沿岸警備艦隊が包囲網を張っている。間もなく戦闘が始まる」
「ソーキンズは」
「北アングル海からこちらへ向かっている」
ジュビリーは舌打ちした。ガルシアはソーキンズの腕前を知っている。かつて、自国の艦船をことごとく沈めたアングルの海賊を忘れてはいるまい。その彼の船が遠く離れている今を選んだというのか。
「……レスター」
宰相の低い呟きに老臣が身を乗り出す。
「ソーキンズに伝えろ。私を乗せろと」
「侯爵……!」
「バートランド!」
ジュビリーの思わぬ言葉に二人が唖然とする。
「そなたが乗ったところで、状況は変わらん!」
「しかし……」
「きっと、あの海賊もつっぱねるだけだ」
ソーキンズの自信に満ちた皮肉な笑みが浮かぶ。確かに、海では役立たずの宰相は乗船拒否されるだろう。その時、侍従が駆け寄ると声を上げる。
「申し上げます! 沿岸警備艦隊から報告です! ガリアのルファーンから援軍の出港を確認したとのことです!」
「若獅子王も動いたか」
ウィリアムが頷くが、ジュビリーは険しい表情で声をひそめる。
「……王妃の母国を守ろうと、無理をされなければ良いのですが……」
「確かに」
二人が思い詰めた表情で海図を見つめた時。
「申し上げます! フィリップ・ソーキンズの艦隊が、ナーリスまで南下しております!」
「ナーリス?」
侍従の言葉にジュビリーは思わず声を上げる。ウィリアムがにやりと笑う。
「さすが、ただの海賊ではないな。恐ろしい機動力だ」
そして、皆に向かって声を張り上げる。
「間もなくエスタド艦隊が接近する! 戦闘配置につけ!」