翌日、ホワイトピーク沖でアングル海軍とエスタド海軍が戦闘を開始した頃、王都オイールから軍勢を引き連れたギョームはマリルに到着した。
「クロイツへは?」
「すでに使者を派遣しております」
マリルの城館の一室で、ギョームは廷臣らと詰めの会議を行っていた。
「暮れの戦いでも、エスタドに対する大主教のお怒りは激しかったそうでございます。この度も、速やかに周辺諸国へ支援を呼びかけていただけるでしょう」
宰相の言葉に、若い王は険しい表情で頷く。大陸の地図をじっと見つめていたが、やがて目を上げる。
「……キリエは?」
王の言葉に、同行していた侍従次長が身を乗り出す。
「市民と謁見中でございます。〈聖女王〉に一目お会いしたいという市民が後を絶たず……」
「まるで、聖人のようでございますな」
バラの言葉にギョームはようやく表情をゆるめて見せた。が、息をつくと再び表情を引き締める。
「もう、海上では戦闘が始まっていることだろう」
「そうですな」
「……ガルシアはガリアだけでなく、アングルをも攻め滅ぼすつもりだ。アングルを守ることは、我が国を守ることでもある。絶対に……、負けられぬ」
エスタドの大鷲は自分に牙を剥いた国に容赦はしない。ガルシアの執念深さにギョームはひそかに背筋を凍らせた。
夫が廷臣らと会議を続ける中、キリエは次々と押し寄せる市民たちと謁見していた。ひとりの若い女性が涙ながらに訴える。
「王妃様……、私の夫は傭兵として家を出てから、まだ帰ってきません。先の戦役では勝利を収めることができましたが、エスタドはまだ諦めておりません。どうか、一刻も早く平和を……。ガリアに平和を……!」
キリエは胸を詰まらせながら女性の手を握り締めた。
「心配でしょう……。わかります。もう少し……、もう少し待っていて下さい。早く戦争を終わらせるよう、努力します」
キリエは必死で涙を堪えた。見渡すと、不安で押し潰されそうな表情の市民が自分を見つめている。そのほとんどが女や子ども、老人たちだ。彼らは口々に「王妃様」「聖女王」「ロンディニウム教会の聖女」と叫んでいる。そうだ。自分は修道女だ。天に祈りを捧げる聖職者だったではないか。何故、どうしてこんなことに……! キリエは悔しげに俯いた。
その日の深夜。寝室にあてがわれた豪奢な客間で、キリエはいつまでも帰ってこない夫を待っていた。城館の周辺は日が暮れるまで落ち着かない空気に包まれていたが、夜も深まった今、皆息を潜めるかのように静寂が広がっていた。
暖炉には小さな火がちらちらと揺れ踊っている。海上の戦いは凍てつく寒さとの戦いでもあろう。キリエの脳裏に浅黒い肌の海賊が浮かぶ。彼も戦っているのだろうか。戴冠式の直前に、彼に告げた言葉が思い出される。
「いつかエスタドと戦う日がやってくるわ。その時、あなたの助けが必要になる」
本当にそんな日がやってくるとは、思ってもみなかった。自分は、何て浅はかだったのだろう。キリエが震える息を吐き出した時。扉が軋む音が響く。
「……キリエ。まだ起きていたのか」
少し疲れた表情のギョームが静かに入ってくる。
「先に休んでおけば良いものを……」
夫の言葉に構わず、キリエは無言で彼の胸にすがりついた。明日は別れを迎えるのだ。先に休むことなどできない。ギョームは子どもをあやすように優しく背を撫でた。
「……キリエ。大丈夫だ。必ず帰ってくる」
「……ギョーム……!」
キリエは涙混じりに囁いた。
「……お、お願い、信じて、ギョーム……」
「どうしたのだ」
ギョームが眉を寄せて妻の顔を覗きこむ。泣きじゃくり、恐怖に満ちたキリエは、口ごもりながら囁いた。
「わ、私……、本当に、戦争なんか望んでいない……。修道女として……、平和を願って祈っているだけなのに……!」
「キリエ」
「どうして……! どうして、こんなことに……!」
ギョームは答える代わりにキリエを抱きしめた。本当に……、どうしてなのだろう。自分は国を守りたい。愛する妻と共に、平和な時を過ごしたいだけなのに。ギョームは悔しげに目を閉じた。
「……キリエ。そなたと一緒なら、国を守れる」
手の温もりと共に優しい囁きが胸に染み入る。
「必ず帰ってくる。待っていてくれ」
「絶対に……、絶対によ……!」
まだ不安げな声を上げる妻に、ギョームはそっと体を離すと頬を包み込む。
「私が約束を破ったことなどあるか?」
「……ないわ……」
「だったら、待っていてくれ。必ず帰ってくる」
ランプの明かりに照らされた夫の顔を見つめていると、初夜を思い出す。あの時も、不安で押し潰されそうな自分を優しく包み込んでくれた。あの頃に比べると、ギョームはずいぶんと逞しく精悍な顔立ちになった。それに比べ、自分は寂しがり屋で泣き虫なままだ。何の成長もしていない。キリエは情けなくなって顔を伏せた。と、背を屈ませたギョームが唇を寄せてくる。ゆっくりと合わさる柔らかい唇に、キリエの胸がせつなく締め付けられる。口付けを交わしたまま顔を上向かせられたかと思うと、夫の手がそっと胸を撫でてきた。
「……!」
キリエの体がびくりと跳ねる。ギョームは寝衣のリボンをそっとほどくと手を差し入れてくる。
「ま、待って……、ギョーム……!」
ギョームは動きを止めなかった。優しく、なだめるようにキリエの胸や腰を撫でると、首筋に唇を押し付けてくる。キリエは不安げに囁いた。
「……ギョーム……、どうして……? どうして、今なの……? どうして……」
ギョームは答えなかった。黙ったままキリエの肌に唇を這わせ、やがてそっと乳房を口に含んだ。途端にキリエは声にならない悲鳴を上げる。が、胸に込み上げてきたのは恐怖でも羞恥でもなかった。
ギョームが……、愛しい……。
キリエは、震える手でギョームを抱きしめた。そして、二人は結ばれた。
未明に、キリエはうっすらと目を開けた。まだ頭の中が薄い霞に覆われていたが、すぐ目の前にあるギョームの寝顔に、彼女は穏やかに微笑む。少し口を開いて寝息を立てている夫の顔は、青年というよりもまだ少年のようだ。キリエはそっと手を伸ばすと彼の頬を撫でた。優しく撫でていると、やがてギョームは眉をひそめ、目を開いた。そして、妻の手の温もりに微笑が広がる。
「……おはよう」
「おはよう」
ギョームは妻の手に自分の手を重ねた。キリエは少し目を潤ませながら囁いた。
「私……、こんな風にあなたの寝顔を見るのは初めてかもしれない……」
キリエの言葉に、ギョームは少し寂しげな微笑を浮かべた。いつも目が覚めると、ギョームは朝駆けに出かけた後だった。今のように、こんなに満ち足りた幸せな寝顔は初めて見る。
「私、がんばって早起きするわ。そして、毎朝一緒に朝駆けに行くの」
ギョームは妻を抱き寄せた。
「無理はしなくていい」
「ううん……」
ギョームの体の温もりが愛おしかった。このまま抱きしめていたい。だが、彼は今日、戦場へ向かう。
「……ギョーム」
「うん?」
「私、待ってる」
彼は、安心したような笑顔でキリエの前髪をかき揚げると、優しく唇を押し当てた。
まだ暗いうちから城館は落ち着かないざわめきに包まれた。これから、オイールの軍勢を引き連れてギョームはルファーンへ向かう。深夜にもたらされた情報では、すでにホワイトピーク沖で両軍が激突していた。エスタド海軍百隻に対し、アングル海軍は七十隻。しかもその三割が私掠船、つまり海賊船であるにも関わらず、両軍の戦いは拮抗しているという。
「海賊か」
ギョームは思わず顔をほころばせた。
「そなたの海賊も戦っているかな」
夫の言葉にキリエは頷いた。
「きっと、戦ってくれているわ」
「海賊には負けられないな」
おどけた表情で甲冑用の胴着を身に纏う夫を眺めているうちに、キリエは再び不安が胸に広がり始めた。
夜が明け始めた頃、ギョームは街を出発した。キリエは夫の馬に同乗して町外れまで見送った。街道に差し掛かった時、バラがちらりと王を振り返った。
「……陛下」
ギョームは顔を引き締めると妻の耳元で囁く。
「……キリエ、ここでいい」
だが、妻は思い詰めた表情で顔を振る。
「もういい。ここまでよく来てくれた」
それでも頑なに返事をしない王妃に、同行していたマリーエレンがそっと呼びかける。
「……王妃」
キリエはようやく馬を降りた。ギョームも馬を降り、しばし二人は見つめ合った。灰色の冬空が二人を押し潰すように広がっている。不安で強張った表情の妻に、ギョームは困ったように微笑んだ。
「オイールを頼むぞ」
彼女は無言で頷いた。
「寒さがまだ厳しい。体には気をつけろ」
それでもキリエは無言だった。ギョームはそっと額に口付けを落とすと、ぎゅっと手を握りしめた。しばらく無言で見つめ合ってからギョームは背を向けると轡を取り、馬に跨った。
「行ってくる」
ギョームの呼びかけに、キリエがこくりと頷く。夫は微笑みかけると馬の腹を蹴った。馬が駆け出し、バラと部隊が後に続く。だく足が響き、土煙が上がる。ギョームの背が段々小さくなってゆく。土煙が彼の姿を覆い隠した、その時。
「――ギョームッ!」
突然叫び声を上げ、キリエは走り出した。マリーたちが慌てて呼び止めるがキリエは走り続けた。
「ギョーム……! ギョーム!」
長衣の裾をたくし上げ、子どものように必死で駆ける。周りの騎士たちが戸惑いながらも王に呼びかける。
「陛下……! 陛下! お待ち下さい!」
背後から異様なざわめきを耳にしたバラは、後ろを振り返って息を呑んだ。
「陛下!」
宰相の呼びかけに振り返った王は、目を見開いた。遥か遠くに、妻が転びかけながら必死に追いかけてくる姿が目に飛び込む。ギョームは慌てて手綱を引くと馬から降り、駆け寄る。
「ギョーム……!」
追いついたキリエがギョームに飛びつく。
「い、行かないでっ……、行かないで……!」
「キリエ」
息を切らし、嗚咽を漏らす妻をギョームはしっかりと抱きしめた。
「待つと言ってくれたではないか」
「でも……!」
体を離すと、涙でくしゃくしゃになった頬を包む。ギョームは困ったように溜息混じりに微笑んだ。
「そなたは本当に泣き虫だな」
「い、言ったでしょ。私は、強くなんかないって……!」
「泣き虫のそなたを長く待たせるわけにはいかないな。すぐに帰ってくる」
「ギョーム……!」
再びすがりつく妻の耳元で、ギョームは駄々っ子をなだめるように言い聞かせる。
「アングルのため、ガリアのための戦いだ。だが、私はそなたのために戦いたい。行かせてくれ」
抱き締めているうちに、妻は少しずつ落ち着きを取り戻していった。肩の震えがおさまったキリエの顔を覗き込む。
「無理をしてはならん。体を大事にしろ。ひょっとしたら……、子ができたかもしれない」
キリエは真っ赤になって息を呑んだ。そんな妻が愛おしく、ギョームは嬉しそうに笑うと思わずぎゅっと抱きしめる。
「良いな」
恥ずかしそうに頷く妻に、ギョームは腰を屈めて唇を合わせてきた。バラや側近たちが見守る中、二人は長い口付けを交わした。冷たい風がキリエの長衣の裾を揺らす。
「……行ってくる」
ギョームはにっこりと微笑んだ。初めて出会った時も、オイールの惨劇の時も、彼はいつも柔らかな笑顔を見せてくれた。キリエはもう一度夫を抱き締めた。
「……御武運を」
「聖女王の祈りほど心強いものはないな」
そう呟くと体を離し、ちょっと首を傾げる。
「笑ってくれ」
キリエは涙で汚れた顔で、精一杯笑ってみせた。ギョームは短く額に口付けを落とすと背を向け、再び馬に乗った。
「後は頼んだぞ」
「……はい!」
キリエの力強い返事にギョームは安心したように頷くと馬首を巡らし、馬の腹を蹴った。バラがキリエに頭を下げると後に続く。夫が軍勢を引き連れてゆくのを、キリエはじっと見つめた。
「……キリエ様」
追いかけてきたマリーがそっと声をかける。キリエはかすかに震える手でマリーの手を握りしめた。
「……守らないと。ギョームの国を」
「はい」
マリーは力強くキリエの手を握り返した。が、その時。強い風が二人の髪と長衣を舞い上がらせた。
「あっ!」
キリエたちは慌てて髪を押さえ、空を見上げる。すると、黒雲が見る見るうちに広がっていく。灰色だった大空が絵筆を振るったように黒く塗り潰される。湿気を含んだ風。マリーは眉をひそめると呟いた。
「嵐が……」
曇天に覆い尽くされたホワイトピーク沖。ホワイトピーク城にまで轟音を響き渡らせながら、アングル、エスタド両軍は激しい戦いを繰り広げている。横からの激しい突風に艦船を煽られながらの戦闘は、両軍を苦しめた。
「くそッ!」
エスタド海軍総司令官エルナン公は波飛沫が降りかかる船縁を掴みながら毒づいた。
「ここまで来ながらッ……!」
目の前はホワイトピーク。ここを落とせばアングルを征服したも同然となる。だが、アングル海軍は予想以上に抵抗を見せた。その上、ぐずぐずしている内に背後からガリア海軍までもが攻撃を加えてきた。若獅子王が援軍を送ることは当然ながら予想していたが、それは思った以上の打撃だった。だが、エルナン公が懸念していたのはそれだけではなかった。アングルとガリアに固執するガルシアだ。常勝を誇っていた主君の怒りは凄まじく、後先を考えず両国に猛攻を続けている。だが、実際のところは軍も民も疲労が見え始めている。このまま戦争が続けば、不利になるのは我々だ。何しろ、アングルとガリアにはクロイツという後ろ盾があるのだから……。
「攻撃の手をゆるめるな……!」
暴風の中、エルナン公が叫ぶ。
「もうしばらくすれば、陛下自らがご出陣なさる……。それまでに、絶対にホワイトピークを陥落させろ!」
だがその時。背後から立て続けに砲撃の轟音が響き、皆が思わず身を竦める。船は大きく傾いた。
「公爵!」
士官の怒鳴り声に鋭く振り返る。見ると、士官の肩越しに一隻のカラック船が横倒しになりながらも猛烈な勢いで横切っていく姿が飛び込む。
「……!」
カラック船が通り過ぎると同時に、一隻のエスタド艦が波に呑まれて沈没していくのが見える。
「船首に、〈
エルナン公は奥歯を噛み締め、毒でも吐き出すかのように呟く。
「フィリップ・ソーキンズ……!」
ゴールデン・ラム号の甲板では、怒号と歓声が湧き上がっていた。
「馬鹿野郎! 気ぃ抜いてんじゃねぇぞッ!」
操舵手のホッジが怒鳴りつけ、海賊たちは心得たように次の攻撃の準備に取り掛かる。船首楼甲板には、大きく横揺れしながらも痩せた体で踏ん張っている長身の男がいた。
「ホッジ! 海軍野郎に伝えろ! 戦列を崩すんじゃねぇってな!」
「アイアイ!」
ソーキンズは海軍の艦隊に戦列を組ませ、鉄壁の守りを固めさせていた。自分や、その他彼が見込んだ海賊船はその機動力でエスタド海軍を翻弄し、次々と撃破してゆく。それまで拮抗していた戦いも、今やアングルが優勢となっている。
ホワイトピークにエスタド海軍が向かっているという報せを聞いた時、〈女王陛下の海賊〉はにやりと笑った。そして、すぐさま艦隊をホワイトピークへ向かわせたが、その胸の内は愉快でたまらなかった。ようやく、存分に暴れ回れる。〈くそったれエスタド海軍〉相手に、自らの分身とも言えるゴールデン・ラム号をやっと解き放ってやれる。
「何笑ってやがる」
隣までやってきたホッジがうんざりしたような顔つきでぼやく。
「わかるか?」
「長ぇ付き合いだからな。やばい仕事ほど喜ぶおめぇさんの胸の内なんざお見通しよ」
「愉快だなぁ、おい。見ろや」
ロープにしがみつきながら、ソーキンズは目の前で死闘を繰り広げる艦船を顎でしゃくってみせる。
「あのエスタドの艦が木っ端の如く沈んでいってらぁ」
「金にならねぇ仕事はもうやらねぇんじゃなかったのか?」
相棒の言葉にソーキンズは目を眇める。
「……金か。金じゃあ、拝めねぇよな」
「何が」
ソーキンズはにやりと歯を剥き出して嗤った。
「想像してみろ。あの垢抜けねぇお姫さんが〈エスタドの大鷲〉の頭を踏んづけてるざまをよ」
ホッジは肩をすくめてみせた。
「――まぁだ根に持ってんのか。あんだけ散々蹴散らしてやったってのによ」
「……焼け
船長の呟きにホッジは溜息をつくと、肩を小突く。
「妙な感傷に浸ってるんじゃねえぞ! フィル!」
「わかってる」
ソーキンズは首を巡らすと、目の前で繰り広げられている激しい戦いを見つめた。と、その時。突然、今までにない激しい突風が吹きつける。咄嗟にロープを掴み、投げ飛ばされないように必死で船縁にかじり付く。鋭く上空を見上げると、真っ黒い雲が渦を巻いている。
「……来る……!」
夕刻と共に、海上には凄まじい嵐が吹き荒れた。叩きつける雨風。轟く雷鳴。アングル海軍、エスタド海軍、そしてガリア海軍は敵味方も判別できないほどの暴風に翻弄された。
暗闇に走る稲光に、風雨で引き裂かれた艦船が不気味に照らし出される。ホワイトピーク城の見張り塔からその光景を黙って見つめているのは、ホワイトピーク公ウィリアム。険しい顔には深い皺が刻まれ、鋭い眼差しが海上へと注がれている。やがて彼の元へ、暴風に足元をすくわれそうになりながらジュビリーが駆け寄る。
「公爵……!」
「このままでは共倒れだ」
嵐の中でもウィリアムは冷静な口調を崩さなかった。吹き荒れる風に胴衣を押さえつけながら、ジュビリーは目の前の激戦を見つめた。
「この嵐を掻い潜ってまでアングルに上陸する気にはならんだろう。ガリア海軍まで加勢しているのだからな」
ウィリアムの言葉にジュビリーは眉を寄せる。
「もちろん、おとなしく本国に帰っていくとは到底思えん。追撃の手をゆるめてはならん」
「しかし、これ以上の追撃は……」
いつになく弱気なジュビリーにウィリアムがきっと振り返る。
「わかっている。兵はもはや限界だ。だが、上陸の可能性を少しでも残してはならん! 上陸されれば……、終わりだ!」
思わずジュビリーが息を呑んでウィリアムを凝視していると、斥候が駆け込んでくる。
「ホワイトピーク公! クレド侯!」
「どうした」
「エスタドの艦隊が漂流を始めました!」
その言葉に二人が目を見開く。
「漂流だと」
ジュビリーの言葉にウィリアムが振り返る。
「この嵐だ。錨を失った艦船が流されているのだろう。この機を逃すなッ! 追撃を命じろ!」
「はッ!」
ウィリアムは斥候に命じると城の中へと戻ってゆく。
「本国への上陸の危険は去ったが、漂流するエスタド海軍がどこへ流れ着くか見当もつかん。しばらくは予断を許さないだろう……」
「公爵!」
不意にジュビリーが声を上げ、ウィリアムは顔をしかめて振り返った。
「もしも……、エスタドの艦隊がルファーン沖に流されれば……?」
その言葉にウィリアムは凍りついた。
「手負いとは言え、そのままガリアに上陸する可能性も……!」
二人の男は、交わした視線で互いの考えを瞬時に理解した。ジュビリーが声を張り上げる。
「ルファーンに警戒を呼びかけろ! それから、嵐が静まり次第、援軍をガリアへ向かわせるッ!」
宰相の怒鳴り声に、斥候たちは慌しくその場を駆け出す。
だがこの時、ジュビリーは知る由もなかったのだ。ギョームがすでにルファーンに到着していることを。