ガルシアは眉間に皴を寄せた。この娘……、顔が変わった。
二人は歩み寄ると立ち止まった。間では、フアナが固唾を呑んで見守っている。キリエの背後ではジュビリーらが息をひそめて控えている。
黒光りする甲冑に身を固め、黄金の外衣をまとって鋭い視線を投げかけるガルシアに対し、白銀の甲冑に真紅の外衣のキリエは今や臆することなくその視線を受け止めている。最初に口を開いたのはガルシアだった。
「……我が名はガルシア・フアン・デ・エスタド。エスタドの王である」
キリエは表情を変えることなく言い放つ。
「我が名はキリエ・アッサー・オブ・アングル。アングルの女王である」
ガルシアは口許を歪めた。笑ったらしい。
「ギョームはどこにいる」
その問いに、キリエよりもジュビリーが思わず唇を噛み締めた。だが、キリエは落ち着き払って腰の剣に手をかける。
「ギョームはここにいるわ」
柄に埋め込まれたサファイアが青い光を鋭く放ち、ガルシアは低く笑い声を上げた。
「やはり、死んだのか」
「そうよ。あなたに殺された!」
「貴様らが信奉する天とやらの罰ではないのか? 父を死に追いやり、修道女を娶り、妻の姉を侍らせた罪は到底……」
「ガルシア!」
修道女の叫びに大鷲は口を閉ざした。小さな体を震わせ、鋭い瞳を向けてくるキリエに、ガルシアはふんと鼻を鳴らした。キリエは荒々しく息を吐き出した。
「あなたにはもう、勝機はない。軍を引き上げなさい」
「勝機はないだと?」
ガルシアの顔から嘲笑が消える。
「貴様らのような寄せ集めに予が屈するとでも思ったか! 思い上がるなッ!」
「思い上がったのはあなたよ!」
一歩も引かない小娘にガルシアはかっと頭に血が上る。だが、キリエは更に身を乗り出した。
「世界の全てがあなたのものになると思ったら大間違いよ! 力で捩じ伏せれば、力で跳ね返される!」
「予が『力』だ! 予が『世界』だ!」
「黙れッ!」
キリエの叫びにアングル勢が咄嗟に武器を構えるが、ジュビリーが手を挙げて制する。キリエは口を歪め、目を眇めてゆっくり歩み寄った。
「まだわからないのか」
大鷲に近付いてゆく小さな修道女。ガルシアは沈黙していたが、彼の背後はざわめいた。島国の田舎娘が、王に迫っている……!
「何故レイノとレオンとナッサウが寝返ったのか。おまえにはもう力がない! 自分たちを従える力がない! それを悟ったからだ!」
「黙れ……!」
「世界はおまえを拒んだ! だから、おまえは今こうしてここにいる!」
反論の余地を与えず、キリエは叫び続けた。
「私を、島国の修道女だとまだ思っているのかッ!」
ガルシアは奥歯を噛み締めた。キリエは息を吸い込むと一気に叫んだ。
「私はキリエ・アッサー・オブ・アングル! アングルの女王!」
同時にジュビリーが手を挙げ、アングル勢は一斉に歓声を上げると軍旗を突き立てた。
アングルとガリアだけではない。カンパニュラ、ポルトゥス、ナッサウ、バーガンディ、レオン、レイノ。そして、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団が掲げる〈白十字〉。
「天はお守り下さる! 聖女王に幸あれ! 天はお守り下さる! 聖女王に幸あれ!」
エスタドとユヴェーレンの兵士らは震え上がって後退した。世界を支配しようとしていたはずの自分たちは、今や世界から孤立しているではないか。
折しも東の空に昇った太陽の光がキリエを包みこむ。朝陽は〈
「太陽が……!」
「天が、お怒りだ……! 天がお怒りになっている!」
兵士らが狂気に駆られて喚く中、ビセンテらが混乱を鎮めようと声を張り上げるが、その叫びは掻き消される。ガルシアは目を眇め、口惜しげに奥歯を噛み締めた。目の前の小娘は大音声を背に立ちはだかっている。たった一人。たった一人の小娘に、誇り高い強大なエスタド王国が屈するというのか! ガルシアは顔を歪めると一歩を踏み出した。
「父上――!」
フアナが声を上げた瞬間。ガルシアは剣が鞘を走る。
「あっ……!」
皆が硬直する中、キリエは咄嗟に〈ギョームの剣〉を抜き放つと、振り下ろされた剣を弾き返す。
「ッ!」
小娘の動きではない。だが、ガルシアは剣を返すと更に突きを繰り出し、それでもキリエは剣を受け流し、再び振り下ろされた剣を受け止めた。
刃越しにぶつかる視線。その時ガルシアは、キリエのブラウンの瞳が鮮やかな〈ガリア・ブルー〉に染まってゆくのを目の当たりにした。
「……そなたの負けだ。ガルシア」
震える腕で剣を押し返しながら、キリエは低く囁いた。その声色にガルシアは呻くように呟いた。
「おまえが……、ギョームか!」
〈彼〉はにっと笑ってみせた。自分に怯むことなく、ずっと敵対してきた若獅子王。生きて
耳を劈く金属音と共に剣が弾かれ、両者は荒々しく息を吐きながら睨み合った。
「父上……!」
まだアングル勢の鬨の声は辺りに響き渡っている。
「陛下!」
背後に駆け寄ったビセンテに、ガルシアは顔を歪めて吐き捨てた。
「……退却だ」
「は……」
「退却だッ!」
父の叫びにフアナは溜め込んだ息を吐き出した。そして、恐る恐るキリエを振り仰ぐ。と、彼女は息を呑んだ。肩で呼吸を繰り返すキリエに重なるように、美しい金髪の青年の姿が見える。
「……若獅子王……」
呆然と呟くフアナに、キリエが目を向ける。わずかに口許をゆるめるが、それがキリエなのかギョームなのか、もはや彼女にはわからなかった。やがて悔しげな表情のビセンテが退却を命じ、全軍が引き上げを始める。
「フアナ!」
父の声に彼女は弾けるようにして振り返る。ガルシアは険しい表情で手を差し延べてくる。フアナは息を呑むとゆっくり歩み寄った。目の前まできた娘に、ガルシアはいきなり頬を張り飛ばした。ビセンテが驚いて振り返る。が、フアナは取り乱すことなく、涙を堪えて立ち尽くしていた。父の言いたいことはわかっていた。自分の行動は国を思ってのことだった。だが、それはまかり間違えば国を滅ぼしていたかもしれない。ガルシアは、黙って頬を押さえるフアナの手をぐいと引っ張ると肩を抱いた。もう離さないと言わんばかりに肩を掴まれ、フアナは初めて涙をこぼした。
退却を始める軍勢に歓声が沸き上がる中、ジュビリーはキリエに駆け寄った。
「キリエ」
ジュビリーの声に背を正すと、彼女は静かに剣を鞘に納めた。その瞬間、キリエの体はびくりと跳ねると膝を突きそうになり、ジュビリーが腰を抱えて抱き寄せる。と、今まで息を止めていたかのようにキリエは忙しげに呼吸を繰り返した。キリエは今、戻ってきた。顔を覗き込むと、ブラウンの瞳が涙で揺れている。彼女はごくりと唾を飲み込んでから口を開いた。
「……大鷲が……、巣へ帰っていくわ……」
キリエの呟きにジュビリーは黙って頷いた。
「……終わった。……終わったわ」
だが、ジュビリーはその言葉を否定するようにキリエの手を握り締めた。……今からだ。まだ、何も終わってはいない。
エスタド・ユヴェーレンの軍勢が、潮が引くように退却していく様をキリエはぼんやりと見つめた。勝利の歓喜に沸く将兵らは皆口々にキリエを讃え、天に感謝の祈りを捧げている。が、不意に背後から「陛下!」と叫び声が上がった。ジュビリーに支えられたままキリエが振り返ると、兵士らを掻き分けてモーティマーが駆け込んでくる。
「陛下ッ! バレクランから早馬が!」
バレクラン。キリエとジュビリーは目を見開いた。その場に跪いたモーティマーは、ごくりと唾を飲み込んでから叫んだ。
「レディ・エレソナが、男子をご出産されました!」
瞬間、キリエの顔に笑顔が戻る。
「本当? それで、エレソナは? 無事なの?」
「それが……!」
モーティマーの顔が歪む。彼は絞り出すように呻いた。
「非常に、危険な状態だそうです……!」
キリエは息を呑んだ。
「キリエ……!」
倒れ込みそうになるキリエをジュビリーが抱き止める。キリエは放心状態で空を見上げた。晴れ渡った空。勝利を喜ぶ将兵らの歓声。
……また、奪われる。何もかも、奪われる。民のため、国のために祈り、戦ってきたというのに、天は、これ以上何を奪うというのか。
(おまえの望みは何だ。何だったのだ)
エレソナの言葉が脳裏に響き渡った。
バレクラン城の一室。大きな寝台に蒼白のエレソナが横たわっている。すぐ脇には生まれたばかりの男児がすやすやと眠る。白に近い柔らかな金髪。長い睫毛。ギョームとエレソナの血を引いた赤ん坊だ。不規則に呼吸を繰り返すエレソナの細い手を、ローザがぎゅっと握り締めている。寝室の隅では、医師と侍女が悲痛な面持ちで項垂れていた。
「……ローザ……」
エレソナが物憂げに囁く。
「……眠い」
「眠ってはなりません……!」
いつもは黙って主に従っていたローザが声を荒らげる。無表情だった顔は今や哀しみと絶望に歪んでいた。
「しっかり……、しっかりなさって下さい!」
「……疲れた」
「エレソナ様……!」
ローザはエレソナの手を握ると頬に押し付ける。
エレソナの出産は難産を極めた。何時間もの時間をかけた末に、何とか無事に出産はできたものの、エレソナの意識は混濁状態が続いた。そして、目に見えて体力が失われていった。ギョームが崩御した今、生まれた赤子はガリア王だ。医師たちは必死で〈王母〉のために手を尽くしたが、それももう限界だった。
エレソナは目を動かすと窓を見上げた。冴え渡る冬の青空。この空は故郷アングルとつながっているのだ。帰りたい。アングルに。だが、あの狭い塔に帰るよりは……。
「……シェルトンは、どうしているだろう……」
その名前にローザは顔を上げた。恋人アリスの最期を看取り、エレソナをずっと支えてきたシェルトン。レノックスが戦死したあの戦い以降姿を消したが、きっとエレソナの行方を探しているに違いない。
エレソナの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。母と二人で父の帰りをひたすら待ち続ける日々。そんな孤独な日常に、シェルトンが現れた。彼は母を労わってくれた。自分を可愛がり、慈しんでくれた。今思えば、あの頃が一番幸せだった。シェルトンを父親代わりに思っていればよかったのだ。だが、それでも自分にとって父はエドガーただ一人だった。父を慕い、父を求めた結果、母は王宮を追われ、自分は幽閉された。
「……伝えてくれ。ありがとう、と……」
「エレソナ様……! は、伯爵が、きっとあなたをお探しです……! だ、だから……!」
必死で叫ぶローザの手を愛おしげに撫でる。
「おまえも……、良い人を見つけて、幸せにおなり」
それを耳にした途端、ローザは初めて声を上げて号泣した。エレソナと共に過ごした塔での十二年間で、二人は主従を越えた絆を結んだ。それは、血の繋がりよりも強い絆だ。エレソナはぼんやりと窓を見上げた。
死ぬのか、自分は。生涯の大半を狭い塔の一室で過ごしただけの人生を、こうして異国の片隅で孤独に終えるのか。だが、エレソナはふっと微笑んだ。……兄上に、会えるじゃないか。
その時、寝室の外が騒がしくなる。医師が顔をしかめて扉を開けた瞬間。
「エレソナッ!」
寝室にキリエが飛び込んでくる。ローザが真っ赤に泣き腫らした目で振り返る。甲冑用の胴着姿の女王は、エレソナの姿を目の当たりにして言葉を失った。そして、ふらふらと駆け寄る。
「エレソナ……! エレソナ!」
寝台の側に跪くと、キリエはエレソナの手を取った。エレソナは黙って手を上げるとキリエの切り揃えられた髪を触る。
「しっかりして……!」
「……勝ったのか」
姉の言葉にキリエは頷いた。
「勝ったわ。ガルシアは退却したわ。これから……、これから世界は平和になるのよ……! だ、だから、早く元気になって……!」
キリエの叫びに、傍らで眠っていた赤子が声を上げる。キリエはびくりと体を震わせると生まれたばかりの赤子を見つめる。赤子の頬をそっと撫でながら、エレソナは小さく呟いた。
「……ギョームが、夢枕に立った」
その言葉にキリエが目を見開く。
「辛気臭い顔で、『すまない』と詫びるものだから、言ってやった……。キリエに謝れ、と……」
キリエは顔を歪めるとエレソナの手を握りしめた。ギョーム……、あなたは、どこまで生真面目な人なの……!
しばらく震えながらエレソナにすがりついていたキリエは、そっと囁いた。
「……この子の、名前は……?」
「……ギヨ」
「ギヨ?」
「ギョームの、愛称だそうだ」
キリエはごくりと唾を飲み込むと、恐る恐るギヨの頬に触れた。姉が生んだ、夫の子……。だが、ギヨは頬に触れる温もりに安心したかのように再び寝息を立て始めた。
「……キリ、エ」
エレソナの声色が苦しげに変わった。キリエは身を乗り出した。
「エレソナ!」
「絶対に、この子を、手放すな……」
「な、何言ってるの?」
キリエは必死に囁いた。
「い、一緒に育てるのよ……! 二人でこの子を育てるの!」
「時間が、ない……」
エレソナは大きく息を吐き出した。そして左手を弱々しく上げる。細い指に二つの指輪が光る。〈斧〉と、〈心臓〉のルビーの指輪。
「……ヒース兄様に、渡してくれ」
その手を思わずぐっと握りしめる。エレソナは疲れ果てたように目を閉じた。
「……死んだら……、兄上と、母上の側に……」
「嫌だ……! 嫌だ、エレソナ……! 嫌だよ……!」
キリエが泣き叫ぶ隣で、ローザがエレソナにすがりつく。
「エレソナ様……! エレソナ様!」
エレソナは苦しげな表情の中でもふっと笑みを浮かべた。
「……二人で……、天とやらに、祈ってくれ……」
「エレソナ……!」
キリエは我を忘れて叫んだ。
「私、天が憎い……! 天を恨むわ……! どうして……、どうして、こんなことに……!」
初めて、キリエが天を拒絶した。自分の身の上も知らず、ただ一心に天に向かって祈りを捧げてきたキリエ。なのに、異母兄を奪われ、夫を奪われ、まだこれ以上奪われるというのか。今まで捧げてきた祈りは、何だったのだ……!
エレソナは満足げに笑うと妹の手を弱々しく握る。その瞳は、もうやぶ睨みなどではなかった。
「……キリエ……」
「いかないで……! いかないで、あ……、姉上……!」
姉上。最初で最後の呼びかけに、エレソナは満ち足りた表情で目を閉じた。
キリエの泣き叫ぶ声。ローザの嗚咽。その声が段々と遠のいてゆく。エレソナの頬を冷たい風が撫でる。うっすらと目を開けると、レースのカーテンが風に舞い上がっている。優しげにレースがふわりふわりと揺れ、やがて静かに下りてゆく。そのレースの向こう側に、人影が見える。血に染まった甲冑。長い髪。エレソナは目を見開いて体を起こした。
「……あ、あに、うえ……」
レノックスはにやりと笑ってみせた。失われたはずの右目は生き生きとした光に満ちている。やがて、彼はゆっくりと手を差し伸べた。
「エレソナ」
「兄上……!」
エレソナは跳ね起きると兄に飛びついた。
「兄上! 兄上……!」
レノックスは愛おしげに妹を抱きしめ、大きな手で艶やかな白金の髪をまさぐる。
「喧嘩の続きをしよう」
「兄上……! もう、離れるな……! 絶対に離れるな……!」
エレソナの囁きに、レノックスは黙って頷いた。