どこまでも続く白灰色の空。空からは音もなく雪が舞い、石の回廊の屋根に降り積もる。その回廊を、黒いローブを着込んだ男が従者を連れて足早に進む。人々は白い息を吐きながら黙って先を急いでいる。
回廊の先は重厚な宮殿。昼なお暗い石の廊下には毛足の長い凝った模様の絨毯が惜しげもなく敷き詰められ、廊下の壁には温かな灯を投げかける眩いランプが大量に吊り下げられている。その廊下の先にある扉を衛士が叩く。
「陛下、アリョーシン侯がおいでです」
重い扉がゆっくりと開かれる。と、温かな空気がアリョーシンの頬を舐める。
広間の奥に鎮座する巨大な暖炉。その前に据えられたソファには、虎の毛皮がかけられている。美しい縞模様は優美な広間にあって場違いなほど目を引いた。
「陛下」
ソファに腰をかけていた男が顔を上げる。豊かな口髭は綺麗に整えられ、上向きに撫でつけられている。厳めしい強面の彼の隣には美しい佇まいの貴婦人。膝には、人形を抱いたあどけない少女がちょこんと座り込んでいる。少女の前には、まだ年若い青年が今しもこちらを振り返ったところだった。そして、怪訝そうな表情でアリョーシンを見つめてくる。
「どうした、アリョーシン」
「たった今使者が帰ってまいりました。エスタド・ユヴェーレン連合軍がアングルとガリアに敗れたとのことです」
その言葉に皆が息を呑む。そして、
「ガルシアは……!」
貴婦人の悲痛な叫びに、男がそっと抱き寄せる。
「ご安心を、皇后陛下。ガルシア王陛下はご無事だそうでございます」
貴婦人はおろおろと視線を彷徨わせ、夫の手を握り締める。少女はわけがわからず、父と母の顔を交互に見やる。
「なぁに、父上、どうしたの?」
「……おいで、イリーナ」
青年が妹を抱き上げる。父上と呼ばれた男は険しい顔つきで身を乗り出す。
「どういうことだ。ガルシアが、あの若造どもに敗れたと申すか」
「はっ……」
ここはプレシアス大陸の極東、クラシャンキ。極寒の帝国だ。男は勇猛と誉れ高い皇帝ピョートル。彼の腕の中で体を震わせているのは皇后のアレハンドラ。エスタド王ガルシアの姉だ。青年は第三皇子ルスラン。少女は第二皇女のイリーナ。
「当初、エスタド・ユヴェーレン連合軍が優勢だったということでございますが、クロイツの呼びかけに応じた各国がアングルとガリア勢に合流。その上、レオン、レイノ、そしてナッサウすら寝返ったとのことでございます」
「ナッサウが? そんな……!」
アレハンドラが真っ青な顔で叫ぶ。ナッサウは彼女の母、クローディアの祖国だ。
「ガルシア王陛下は自ら軍勢を率い、決戦に臨んだそうでございます。ご息女のフアナ王太女もご同行されて……」
「フアナも無事なのか」
「はっ」
妹を抱きかかえたルスランが眉をひそめて振り返る。ピョートルは重々しい溜息を吐きながら顔を振った。
「まさかガルシアが敗れるとは……。プレシアス大陸の西側世界はクロイツと若獅子王に牛耳られるというのか」
宰相、アリョーシン侯が強張った顔つきで言葉を返す。
「それが……、ガリアのギョーム王は戦死されたそうでございます」
その言葉にピョートルも両目を見開く。
「何だと? では、誰が軍を率いたのだ」
「ギョーム王の妃、アングルのキリエ女王が前線で指揮を執った、と……」
思わずピョートルは妻と顔を見合わせた。
「……あの、少女が……?」
呆然とした呟きに二人が振り返る。ルスラン皇子は眉を寄せ、蒼白な顔つきで立ち尽くしていた。腕に抱かれたイリーナが首を傾げる。
「知ってるの? 兄上」
「……ああ」
ルスランは妹の頭を静かに撫でる。
「一度だけお会いしたことがある」
彼の脳裏に、戴冠したばかりの幼い少女の姿がよぎる。まだあどけなさを残した少女は、各国の王子たちを前に困惑の表情を浮かべていた。だが、その少女も彼の姿を目にすると晴れやかな笑顔を見せたのだ。ギョーム・ド・ガリア。若獅子王……。彼が、妃を遺して死んだというのか。
「……すでに双方共に軍を退却させたとのことでございます。クロイツのムンディ大主教はこれまで以上に存在感を増し、権勢を振るうと思われます」
アリョーシンの言上に、皆が押し黙る。不安でいっぱいの表情で身を竦める妻に、ピョートルが優しく肩を撫でる。
「……冬でなければ援軍を遣れたのに……。すまない、アレハンドラ」
アレハンドラは無言で顔を振ると夫の胸に顔を埋めた。
「……いいの。ガルシアとフアナが無事ならば……」
「しかし、フアナまで戦場に赴いたとは……」
父親の言葉にルスランが顔を上げる。
「あの大鷲の後継者に相応しい成長を遂げたな」
皇帝一家は、息をひそめて身を寄せあった。
アングル・エスタド戦争の終結から半年。刈り入れを待つ麦の穗が初夏の夕日に染まっている。畑の畦道を一人の修道女がゆく。
「ジゼル先生!」
修道女が振り向くと子どもが笑顔で手を振る。彼女も笑って手を振り返した。
「お疲れ様!」
子どもの両親も作業の手を休め、両手を合わせて頭を下げる。
パルム伯夫人ジゼル・ヴィリエ。ビジュー宮殿においてガリア王妃の女官を務めていた彼女は今、王妃が育ったロンディニウム教会で修道女として暮らしている。愛人バラの奸計に加担させられ、身を守るためにキリエによってここへ匿われて早二年が経とうとしていた。
華やかな王都オイールでの暮らしが長かったジゼルにとって、異国の片田舎での生活は想像以上に辛く苦しいものだった。多くを語るまでもなく、ジゼルが高貴な身分であることに村人はすぐに気づいた。一体どういう経緯でこのような寂しい農村へ。だが、人々はすぐに思い出した。かつてこの村に幼い修道女が暮らし、女王になるべく去っていったことを。村にやってきた高貴な女性は、女王と何か関わりがあるのだろうか。村人たちはそう考え、遠巻きにジゼルを見守った。ジゼルの方も息をひそめるようにして教会に引き籠ったため、村には気まずい空気が流れていた。
ジゼルは、最初のうちは何度もガリアに帰ろうかと思い悩んだ。だが、その度に脳裏に浮かんだのはかつての愛人バラではなく、キリエの秘書官モーティマーの眼差しだった。
「あなたを幸せにしてくれる人が必ずいるはずだ」
彼の言葉を信じて、ジゼルは孤独と戦った。ある時、そんな彼女の葛藤を見てとった教会の司教が、村の子どもたちに読み書きを教えてみないかと勧めた。それは、急速に村人たちとの距離を縮めるきっかけとなった。
自分は誰かに必要とされている。そう実感したジゼルは、心が満たされた。モーティマーの言葉は正しかった。自分を幸せにしてくれたのは、村の子どもたちだ。そう思えば思うほど、ジゼルは子どもたちが愛おしくてならなかった。
オレンジの夕日に染まる教会が見えてきた時、ジゼルは眉をひそめた。教会の前に粗末な身なりの男が佇んでいる。背は高く、体はやせ細ってはいるものの、その居住まいにはどこか威厳が感じられる。ジゼルはそっと声をかけた。
「もし……。巡礼のお方ですか?」
男は黙ったまま振り返った。深い皺が刻まれ、やつれた表情にも関わらず、射るような鋭い目にジゼルは思わず気圧された。男は静かに口を開いた。
「……巡礼?」
かすれた、低い呟きには深い疲労の響きが込められている。
「ええ。ここは、キリエ女王が幼少時にお過ごしになられたロンディニウム教会。巡礼に訪れる信者のお方も多いので」
男は再び教会を見上げた。
「……ここで」
「ええ」
ジゼルは誇らしげに囁く。
「こんな田舎の小さな教会で、あの偉大な女王陛下がお育ちになられたなんて、信じられませんわ」
男はジゼルを一瞥した。
「お会いになったことが?」
「……はい」
ジゼルが言葉を濁し、口をつぐむ。男はジゼルに向き直るとわずかに身を乗り出した。
「女王の腹違いの姉君の消息を、ご存知か」
「レディ・エレソナですか?」
ジゼルは悲しげに眉をひそめた。
「ギョーム王のお子をお生みになられてから産後の肥立ちが悪く、お亡くなりになったそうです」
男は表情を変えなかった。ジゼルは少し怪訝そうな顔つきながら言い添えた。
「女王陛下のご希望で、ルール城に埋葬されたとお聞きしています」
その言葉に男は目を伏せる。ジゼルは恐る恐る声をかけた。
「あの……」
「……失礼」
彼は低く呟くと頭を下げ、踵を返した。
アングル・エスタド戦争は、アングル・ガリア連合軍の圧倒的な勝利で終結した。にも関わらず、戦後処理は実にすっきりとしたものだった。エスタド及びユヴェーレンは賠償金を支払ったのみで、領土の割譲などは行われなかった。双方共にあまりにも被害が甚大だったため、敗戦国と言えど大きな負担を強いることは憚られたのである。もっとも、ガルシアにとっては戦争に敗れた事実が何よりも耐え難い屈辱であり、懲罰であった。
そして、君主を失ったガリアは戦死したギョームの息子、ギヨが王位を継承し、キリエが摂政となるはずであった。しかし、戦争が終結して半年が過ぎても、キリエは神聖ヴァイス・クロイツ帝国の女帝として戴冠しようとはしなかった。何度か戴冠を促す手紙がクロイツから届けられたが、決まって宰相のクレド侯によって突き返された。
「女王陛下はまだ体調が思わしくない」
そのため、痺れを切らしたムンディはワイザー大司教を使者としてアングルに遣わした。だが、ワイザーはキリエの様子を見ると納得してそのまま帰国していった。それを知ったホワイトピーク公ウィリアムはキリエの身を案じ、王都イングレスに向かった。
プレセア宮殿に赴いたウィリアムはジュビリーの出迎えを受けた。
「バートランド、陛下のご様子は……」
ジュビリーは険しい表情で目を伏せた。
「……ホワイト離宮にて、ご静養なさっていらっしゃいます」
「……そんなに悪いのか」
ウィリアムの言葉にジュビリーは黙って頷く。ホワイト離宮はキリエが母とわずかな時間を過ごした場所だ。
「王宮の喧騒から離れた方がよろしかろうと……。私の妹夫婦がお世話を」
「ギヨ様は?」
ガリアの新しい王の名に、ジュビリーは痛ましげに眉を寄せる。
「マダム・ルイーズ・ヴァン=ダールにお任せしております」
二人は黙り込んだ。ウィリアムの目に映る宰相はこの半年で随分と老け込んだ上、痩せていた。ジュビリーがこれほどやつれているのであれば、キリエはどれほど憔悴しているのか。ウィリアムは息をついた。
「……バートランド、お話ができなくても構わぬ。陛下に会わせてくれ」
ジュビリーは目を上げ、静かに頷いた。
二人はその足でホワイト離宮に向かった。イングレス郊外に位置する離宮は、静かな空気に包まれていた。二人が到着するとジョンが出迎える。
「お久しぶりでございます、ホワイトピーク公」
「陛下のご様子は……」
ウィリアムの問いに、ジョンは哀しげに頭を振った。
「よくありません。ずっと……、妻と一緒に」
ジョンの案内で離宮の奥へ向かう。ホワイト離宮の名の通り、白亜の大理石をふんだんに使った宮殿は、皆息をひそめたかのように静寂に満ちていた。がらんとした宮殿の通路には、女官や侍従の姿もまばらだ。すると、抑えた口調の静かな声がどこからか漏れ聞こえてくる。
「……こちらです」
ジョンが扉に手をかける。中からは静かな声が続いている。キリエの声ではない。
「お話はまだおできになりません。お許し下さい」
ウィリアムが頷くのを確認すると、ジョンは扉をほんの少しだけ開いた。中を覗き込んだウィリアムは思わず目を細め、やがて口を覆い隠した。
「……妖精が育てた薔薇はお姫様たちの間で大評判になりました。その薔薇で作った香水は大変よく効く媚薬になったのです……」
声の主はマリーエレン。夏の明るい陽射しを大きな樹木が遮るバルコニー。中央に据えられたベンチに座り、絵本を静かに読み上げている。その彼女の膝に、まるですがりつくようにキリエが寝そべっている。
「……陛下……」
頬は痩せこけ、目は虚ろに見開かれ、血の気のない白い唇がわずかに開かれている。あの日切り裂いた髪は長く伸びていたが、白い顔に纏わり付く様は人形を思わせた。抜け殻だ。ウィリアムは痛ましげに顔を振った。
「……この半年、ずっとあのまま……」
ジュビリーの低い呟きに振り返る。
「ギョーム王とレディ・エレソナを失った絶望に耐え切れず……」
ギョームとエレソナを一度に失った悲しみと絶望は、キリエを激しく打ちのめした。自分は二人を守れなかった。二人を死に追いやったのは自分だ。キリエは来る日も来る日も自分を責めた。そして、追い打ちをかけるように彼女を襲った事実があった。
ギョームの子を、身篭ることができなかったのだ。彼の子を宿すことができなかったことがわかった瞬間、キリエは狂気に駆られた。
何故? エレソナもエレオノールも一度の交わりで子を宿したのに、自分は何故子を授かることができなかったのだ。ギョームは自分を愛していなかったのだろうか。それとも、自分がギョームを愛していなかったのか。だから身篭れなかったのか。キリエは本気でそう考え、悶え苦しんだ。あまりに自分を責め続けた結果、キリエは廃人のように心を失った。
その決定打となったのが、ギョームとエレソナの忘れ形見、ギヨの存在だった。ある日、乳母が連れてきたギヨを目にしたキリエは、恐怖とも狂気ともつかない表情で泣き叫んだ。
「あ、あの子は、私が生むはずだったのよ! わ、私が……! 私が……! ギョーム……! ギョーム! どうして……!」
その日のうちにキリエはギヨから引き離され、ホワイト離宮へ隔離された。
「まさか……、これほどまでとは……」
ウィリアムが沈痛の表情で呟くと顔を振る。
「ヒース司教が度々足を運んで下さるのですが、一向に……」
「そうか……」
低い声でジュビリーは言葉を続けた。
「天に裏切られた、と仰せでした」
「裏切られた?」
「天に全てを奪われた、と……。最初、陛下のために妹が経典を読み上げようとしたのですが、経典を取り上げて床に投げつけられ……」
ウィリアムは絶句した。あの敬虔な修道女が。
「……悔しいです」
ジュビリーの囁きに振り返る。宰相は眉間に皺を寄せ、口惜しげに呻いた。
「近くにいながら、陛下を支えられなかった」
「……バートランド」
荒んだ表情でジュビリーは拳を握りしめ、口許を歪めると吐き捨てた。
「妻を失った時と何も変わっていない……! 私は……!」
ウィリアムは黙ったまま彼の肩を叩いた。ジュビリーの妻がキリエの父エドガーによって奪われたことは、もちろん知っていた。ウィリアムはしばし目を伏せ、やがて何かを決意したように顔を上げる。
「バートランド。陛下に……、クレドでご静養していただいてはどうだろう」
「……クレドで?」
思わぬ申し出にジュビリーは困惑の表情を浮かべた。
「良い思い出が多いクレドでお過ごしになれば、お心も癒されるだろう」
「しかし、私の領地では……」
キリエが育ったグローリアではなく、宰相の領地で療養すれば、物見高い貴族たちが何と噂するかわからない。ジュビリーの躊躇いに気づいたウィリアムは身を乗り出して詰め寄った。
「大事なのは、陛下に一日でも早くお元気になっていただくことではないのか、バートランド……!」
ウィリアムの必死な訴えにジュビリーはごくりと唾を飲み込むと、やがて静かに頷いた。
翌月、キリエは療養のためにクレドに向かうことが正式に決められた。
「キリエ様、クレドに帰りますよ」
マリーエレンの言葉に、キリエはわずかに反応を示した。生気のなかった瞳に潤いが生まれ、何度か瞬く。マリーはキリエの顔を胸に押し付けると優しく抱きしめた。
「一緒に帰りましょうね」
イングレスからクレドへの馬車の長旅は体力が低下したキリエにはかなりの負担になった。ぐったりとした白い顔の女王を抱き上げて現れた城主に、クレド城の人々は驚きを隠せなかったが、皆は静かにキリエを迎え入れた。だが、懐かしいクレド城のアプローチを見上げたキリエは、明らかに表情がゆるんだ。細めた目で城を見渡すその姿は、幼くして女王に即位し、数々の困難を乗り越えてきた為政者のものではなかった。きっとキリエは「帰って」くる。そう願いながら、ジュビリーは、彼女を城へ導いた。
療養に同行したのは、ジュビリー、マリー、ジョン、レスター。出来うる限り、キリエが過去に過ごした環境が再現された。違うのは、ヒースとモーティマーが同行したことだ。
クレドに帰ってきてから、キリエは目に見えて変化した。体を起こすこともできなかった彼女だったが、やがて椅子に座れるようになり、ひと月もすれば少しずつ歩けるようになった。だが、虚ろな瞳と、固く閉ざされた唇は変わりがない。時間はかかるだろう。皆はそう考え、決してキリエを急かすようなことはしなかった。
そして、ある日の夕方。キリエはヒースと共に薔薇園を訪れた。二人はただ黙って木のベンチに座り込んでいた。妹の手を握っていたヒースは、頬を撫でるそよ風に顔を上げた。柔らかな風が運んできたのは、終わりかけた薔薇の香り。
「……良い香りですね」
ヒースの呟きにもキリエは黙ったままだった。妹の手をそっと撫でながら、ヒースは言葉を続ける。
「クレドの赤薔薇は綺麗でしょうね」
そこで言葉を切り、深く息を吸い込む。胸に広がる甘い香りに微笑を浮かべる。
「薔薇は……、甘くて、優しい、幸せな気持ちにしてくれます」
何気ない言葉だったが、キリエの指がぴくりと跳ねる。ヒースは眉をひそめて首を巡らせた。
「……キリエ?」
「……あ……」
数ヶ月ぶりに耳にする妹の声。ヒースは思わず両手でキリエの手を握った。
「し……、しあ、わせ……」
握りしめた手ががくがくと震え、ヒースは困惑してキリエの背を撫でた。
「落ち着いて、キリエ」
「わ、私……」
しわがれた囁き。盲目であっても、ヒースにはキリエが怯えた表情であることがわかった。
「罰が……、下ったんだ……」
「罰?」
怯えた幼子のように呟くキリエに、ヒースは必死に背を撫で続けた。
「……ギョームを、愛して、天を、忘れて……、幸せに、なった……。だ、だから」
「キリエ……!」
恐る恐る手を伸ばし、妹の肩から顔へと手を這わせると、生暖かい涙に濡れる。
「天罰が、下ったんだ……!」
「違います。違うのですよ、キリエ……!」
全身をがたがたと震わせる妹を抱きしめ、何度も言い聞かせる。これまで抑え込まれていた哀しみと絶望が、再び喉許にまで込み上げてきた。キリエは悔しげに囁いた。
「だから、私、ギョームの赤ちゃんを……、生めなかった……!」
「キリエ……」
「ギョームの赤ちゃんを、生みたかった……!」
兄のローブを握りしめ、吠えるように泣く。最後の希望だったのだ。彼を失っても、自らの体に彼の名残が宿っているかもしれない。なのに、その希望は無残にも打ち砕かれた。悔やんでも、悔やみ切れない。何故もっと早くギョームを愛し、彼を受け入れなかったのか。彼は、あんなにひたむきに愛してくれたのに。自分が子を生んでくれることを、あれほど待ち望んでいたのに。声を上げて泣き続けるキリエを、ヒースは黙って抱きしめた。
どれぐらい、そうしていたのか。
「……キリエ」
不意に男の声に呼びかけられる。キリエは虚ろな目を瞬かせ、ぼんやりと顔をあげた。かすんだ空気の中に、黒衣の男が見える。
「日が暮れる。……帰ろう」
いつしか夕日が遠くの森へ落ち、辺りは薄闇に浸かり始めていた。三人は連れ立って薔薇園を出た。そして、バルコニーに向かった時。激しい口調で言い立てる男の声にジュビリーが気づいた。
「お引き取り下さいませ。まだお会いにはなれません。お察し下さいませ」
「……モーティマー?」
ジュビリーの呟きにヒースが眉をひそめる。キリエも、怯えた表情で兄の腕にしがみついた。
「しかし、私にも猊下から拝命した任務がございます。サー・ロバート。お願いいたします、陛下にお目通りを……」
「……ヘルツォーク」
ジュビリーの呟きにヒースは息を呑んで顔を上げる。彼らに気づいたのか、バルコニーから大柄な男が姿を現す。キリエは、明らかに恐怖の表情を浮かべて後ずさった。
「……女王陛下!」
クロイツの騎士団長の呼びかけに、モーティマーが顔を強張らせて立ちはだかる。
「陛下はまだご静養中でございます! お引き取りを!」
それでも、ヘルツォークは強気な態度でモーティマーに強い口調で言い返した。
「少しで良いのです。世界中のヴァイス・クロイツ教徒が陛下の戴冠を心待ちにしていることをお伝えしさえすれば良いのです」
ヘルツォークの身勝手な言葉に、ジュビリーも思わずかっとなって身を乗り出そうとした時だった。
「何をしに来たのです!」
荒々しい声色で叫んだのは、ヒースだった。
「……司教」
思わぬ剣幕にヘルツォークだけでなく、ジュビリーも振り返る。ヒースはキリエの手を握りしめたまま身を乗り出した。
「キリエを連れ戻しに来たのですか? キリエは渡しません!」
兄の鋭い声に、怯えていたキリエの目も見開かれる。
「司教、あなたのお気持ちは……」
「帰りなさい! キリエは渡さない!」
あまりの形相にヘルツォークは息を呑んで若い司教を見つめることしかできない。ヒースは顔を歪めて言葉を続けた。
「キリエは……、女王として、王妃として、もう充分に務めを果たしました! これ以上何をさせるつもりですか!」
キリエに無断で、クレドにまで押しかけてきた。そのことにヒースは怒りを抑えることができなかった。
「……私は、レノックスとエレソナの埋葬に立ち会いました」
悔しげに囁かれる言葉に、キリエは思わず兄の手を強く握り締めた。
「エレソナの最期の願いを叶えるために、母君とレノックスの隣に埋葬したのです。私は……、私はこんな役目のために司教になったのではありません……!」
兄と姉の名にキリエの瞳が揺れる。ジュビリーも黙りこくって項垂れた。
「これ以上、家族を失いたくありません! 帰りなさい!」
「兄上」
キリエの声にヒースは口をつぐんだ。
「……私、帰ります」
「キリエ……!」
ジュビリーも険しい表情でキリエの顔を覗き込む。彼女は両手で兄の腕を抱いた。
「……皆が、待ってるから」
「もういいのですよ、キリエ……!」
ヒースは妹の腕を掴むと必死で言い含めた。
「あなたはもう、これ以上がんばらなくていい……!」
モーティマーははっとして目を見開いた。キリエがかすかに口許に微笑を浮かべたのだ。
「……ありがとう、兄上」