キリエたちはまず玉座の間へ通された。寒々しいほど広い空間。天井を支える、細かい細工が施された列柱。夢のような色彩に溢れた世界が描かれた天井画。煌く豪華絢爛な空間に、キリエは息をひそめて圧倒されていたが、大理石の床に敷かれた金色の絨毯の先に鎮座する玉座を目にし、彼女はますます緊張した。
「グローリア女伯、どうぞ楽になさって下さい」
白髪の廷臣がわずかに気の毒そうな表情で声をかける。
「私は宮廷侍従長セヴィル伯爵。先王陛下の御世から宮廷の管理を任されております」
キリエは強張った顔つきを崩さないまま、小さく頷く。セヴィル伯は目を細めて幼い女伯爵を見つめる。
「……お懐かしゅうございます。あんなに幼かったレディ・キリエが、このように慎ましやかで立派な女性にお成りとは……。時が経つのは早うございますな」
自分に記憶はないが、相手は自分を知っている。そんな人々が次々と現れ、戸惑いを隠しきれないキリエは怯えた表情でジュビリーに視線を向けるが、彼は黙って頷くだけだった。
「先王陛下がご存命でしたら、女伯のご成長にお喜びになられたことでしょう」
感慨にふけるセヴィル伯の周りに、廷臣たちが粛々と手に何かを捧げてやってくる。巨大なテーブルに一冊の本が恭しく置かれる。モーティマーが前へ出ると厳かに申し立てた。
「それでは、始めましょう」
キリエは無言で頷いた。
「一四七九年、レディ・ケイナ・アッサーがエドガー王との御子を懐妊……。出産後、二年間はプレセア宮殿で生活したと記録がございます」
そう言われても、記憶のないキリエは戸惑うばかりだ。
「そして、一四八一年にレディ・ケイナが死去。祖父であるグローリア伯爵が、エドガー王の反対を押し切ってロンディニウム教会へ預けたとされています」
「反対を……、押し切って?」
意外な事実にキリエが思わず聞き返す。
「陛下はレディ・キリエを大変可愛がっておいででしたから」
モーティマーが控えめに口を挟む。そして、セヴィル伯が声高に呼びかける。
「レディ・キリエ・アッサー。あなたには王家の血縁を示す証拠がおありですか?」
皆の視線を一斉に受け、キリエは困惑の表情でジュビリーを振り返る。彼に目で指示を下され、キリエはおずおずと左手を差し上げると、中指にはめた指輪をそっと外した。
「失礼」
モーティマーが指輪を受け取ると、目を眇めて指輪を見つめる。
「……一四七九年。K.Aへ。E.O.Aより」
廷臣たちの口から控えめながらざわめきが零れる。
「あなたがエドガー王の御子であることが確認されました」
廷臣たちが改めて深々と敬礼する。が、キリエは内心呆気にとられていた。こんな簡単な確認で済まされるものなのか? だが、彼女の思いとは裏腹に、運命の歯車はゆっくりと確実に回ろうとしていた。モーティマーがキリエを玉座に座るよう促す。怯えた目で再びジュビリーを振り返るキリエ。
「…………」
ジュビリーに目で促され、恐る恐る玉座に歩み寄る。重厚な樫の木で作られた玉座には深いワイン色のビロードが張られ、主を無言で待っていた。キリエがしばらく玉座を凝視していると、傍らにジュビリーが音もなくやってくる。そして、手を添えて座るよう促す。キリエは泣き出しそうな顔つきで椅子に歩み寄ると、ぎこちない動作で腰掛けた。その様子を、キリエ同様、緊張した面持ちのジョンが見守る。
「……レディ・キリエ・アッサー」
セヴィル伯らが跪き、居心地悪げに座り込んだキリエを見上げる。
「……王位の宣言をいたしますか」
キリエはわずかに視線を上げた。玉座の間の天井には、見事なフレスコ画が描かれている。青空に雲が湧き上がり、神が戴冠式を挙げる王を祝福する様子が描かれている。描かれているのは、現在のアングル王家の始祖ウィリアムだ。五百年続くアングル王家の歴史に、自分のような庶子が記録されて良いものか。キリエは最後まで迷った。だが、昨夜のジュビリーの言葉が蘇る。ベネディクトの顔も脳裏をよぎった。キリエはしばらく目を閉じ、胸の中で神への祈りを唱えると、ゆっくりと目を開けた。
「……王位を、宣言します」
か細い声でキリエが囁き、その場にいた者たちは皆、深々と頭を下げた。
「早速、クロイツのムンディ大主教へ使いを送りましょう」
「その前に」
キリエが遮る。
「国王陛下……、父の、墓前に……」
モーティマーは頷いた。
「畏まりました。ご遺体は聖アルビオン大聖堂の礼拝堂に安置してございます。参りましょう」
立ち上がろうとするキリエに、ジュビリーがそっと手を差し伸べる。その手を取って立ち上がる際、彼はキリエにそっと耳打ちした。
「上出来だ」
そんなジュビリーを、キリエは黙って上目遣いで見つめる。
いつかは訪れるのが夢だった聖アルビオン大聖堂。アングル王国におけるヴァイス・クロイツ教の総本山であり、国の宗教的中心地だ。主要な王室行事はほとんどここで行われる。例えば君主の戴冠式や結婚式。様々な歴史の舞台になってきた場所だ。自分がそこへ、こんな形で訪れることになろうとは。
これから先に一体何が待っているのか、不安ばかり膨れ上がる中、モーティマーの先導で玉座を離れた時。突然外からざわめきが上がる。キリエが思わず不安げにジュビリーに寄り添うと、大広間に衛兵がひとり飛び込んでくる。
「申し上げます! ルール公の使者が謁見を求めて参りました!」
ルール公。その名を耳にした瞬間、その場に緊張が走る。
「ルール公が……、もう帰られたのか?」
「こんな時に……!」
セヴィル伯の切迫した様子の呟きに、キリエの顔から血の気が引く。
「……伯爵……!」
ジュビリーは目を眇め、眉間に深い皺が刻まれる。
「義兄上……!」
ジョンが側へ小走りに駆け寄ると口走る。そんな中、モーティマーは顔色ひとつ変えずに、つかつかと衛兵に歩み寄った。
「追い返せ」
思ってもみない言葉にキリエが息を呑む。
「すでにグローリア女伯が王位を宣言された。不服があるならば使者ではなく、ご本人が入城するよう、言って追い返せ」
「しかし……!」
再び外でどよめきが起こったかと思うと、侍従や衛兵の制止を振り切ってひとりの男が押し入る。
「サー・オリヴァー!」
モーティマーが怒気を込めて名を叫ぶ。
(オリヴァー・ヒューイット……)
ジュビリーは胸の中でその名を呟いた。ルール公レノックス・ハートの腹心だ。レノックスの数々の黒い噂の処理を任されていると言われる、陰険な男だ。
「その様子では」
ヒューイットは鷹揚な調子で声高に言い放った。艶のない黒い髪。いかつい体に、あばたの多い浅黒い顔。彼は奥まった目で並み居る廷臣らを眺め渡した。
「すでに王位宣言を済まされたのかな」
「その通りだ、ヒューイット。グローリア女伯はすでに王位を宣言された。出直して、そなたの主君にお伝えしろ。王位の宣言をされたいならば、御本人がプレセア宮殿に参内するようにと」
モーティマーに言われ、ヒューイットは胡散臭げにキリエの顔をじろりと睨みつける。突然のことにキリエは声も上げられず、ただ怯えた表情で見つめ返すことしかできない。
「あなたがレディ・キリエ・アッサーか」
「その通り」
ジュビリーが一歩前へ出る。
「王位継承権者である。礼を尽くせ」
「ふん」
ヒューイットは鼻で笑うとキリエにゆっくりと歩み寄る。
「ルール公にお仕えするオリヴァー・ヒューイットと申します」
跪き、型通りの敬礼はするものの、ヒューイットの狡猾そうな瞳にキリエは思わず顔を強張らせて後ずさる。
「兄君から伝言をお預かりいたしております」
「あ、兄の……?」
ヒューイットは目を細め、口元に笑みを浮かべると言い放った。
「そなたの王位は認めぬ」
その場にいた者たちが一瞬凍りつくが、間髪入れずにモーティマーが怒鳴る。
「口を慎めッ! ヒューイット!」
「私は主君の言葉をお伝えしているだけですよ、サー・ロバート」
ヒューイットは立ち上がるとキリエを見下ろした。
「あなたは一介の修道女に過ぎない。十二年もの間教会に閉じこもり、世界を知らぬ幼女にこの国の未来を任せるわけには参らないのですよ。当然、エドガー王の血を引く成年男子であるルール公が君主に相応しい。あなたにルール公の王位を認めていただけるのであれば、公はあなたに公爵位を叙位すると仰せです」
「勝手なことを申すなッ」
ジュビリーが鋭く言い放つ。
「勝手? そちらこそルール公がお留守の間の勝手極まりない行為。ルール公はお怒りでございますよ」
「先王陛下に嫡子がいらっしゃらない以上、レディ・キリエにも王位継承権がある。君主には性別や年齢、経験よりも必要なものがあるのではないか?」
「それではまるで、ルール公は君主の器ではない、と仰せのような言い草ですな、クレド伯」
ヒューイットはジュビリーに詰め寄り、傍らのキリエにちらりと視線を移す。
「レディ・キリエ。あなたのような修道女が王位継承で争いを起せば、クロイツのムンディ大主教はお怒りになられるでしょうなぁ。修道女の本分を忘れ、欲に駆られて権力を望めば、大主教はあなたを破門にするやもしれませんぞ」
破門という言葉にキリエは思わず両手で口を覆う。
「黙れ、ヒューイット! そなたの主君も今までどれだけ多くの問題を引き起こしてきたか、知らぬわけではあるまい!」
「ルール公が、いつどのような問題を?」
「白々しい……!」
ヒューイットとモーティマーの言い争いをジュビリーは不審げな目で見守っていた。
(オリヴァー・ヒューイット……。これほど饒舌な奴だったか?)
ジュビリーが知っているヒューイットはいつもレノックスの影に隠れ、不始末の始末をさせられる小心者といった姿だった。
「よく考えてみなされ。レディ・キリエはまだ十四歳にも満たない少女。ガリアやエスタド、ユヴェーレンといった列強が我が国を狙っておりますぞ。不安に駆られた国民が反乱を起こしかねないではありませんか……」
ぺらぺらと調子よくしゃべり続けるヒューイットが、ちらちらと視線を動かすのにジュビリーが気づく。
「それに比べ、ルール公は内戦や外国での戦争でも戦績を上げ、国を背負うに充分な素質をお持ちでございます。レディ・キリエがルール公の王位をお認めになり、協力していただけるのであれば、兄妹仲睦まじく暮らせることができるというもの……。レディ・キリエも、もう鳥篭同然の暮らしに戻りたくはないでしょう?」
そこで、ヒューイットは再び視線を動かした。その目が広間の大時計を捉えていることに気づいたジュビリーは、はっとした。
(まさか……!)
そして、モーティマーに向かって叫ぶ。
「城門を閉めさせろッ! モーティマー!」
「……!」
だが、ヒューイットが手を上げて制すると怒鳴り返す。
「気づくのが遅いですぞ、クレド伯! ルール公はすでに市街へ入っておりますよ!」
叫ぶや否やヒューイットが腰の長剣を抜き放ち、キリエが短い悲鳴を上げる。が、ヒューイットの背後から素早く抜剣したジョンが斬りかかり、ヒューイットは体を仰け反らす。
「義兄上!」
「伯爵ッ!」
金切り声を上げるキリエの手を引っ張ると、ジュビリーが駆け出す。が、外からも人々の怒号や斬り合う音が聞こえてくる。ジュビリーは舌打ちすると剣の柄に手をかけながら壁に寄り添い、外の様子を窺った。ヒューイットと共に入城した使節団だろうか。武装した騎士たちが宮殿の衛兵と斬り合いを繰り広げている。大廊下の奥からは女官たちの悲鳴が聞こえてくる。
「ジョン!」
ジュビリーから名を呼ばれると、ジョンはヒューイットと二度三度と刃を打ち合わせ、渾身の力で剣を振り下ろした。
「……!」
鈍い音と共にヒューイットの長剣が叩き折られ、ガランと床に転がる。思わず剣の柄を凝視するヒューイットを蹴倒すと、ジョンは身を翻して義兄の元へ馳せ参じた。
「義兄上!」
「クレドへ帰るぞ! 出直しだ……!」
さすがに悔しげな表情で口走ると、ジュビリーはキリエを脇に抱えるようにして抱き寄せて走り出した。
「は……、伯爵……!」
腕の中でキリエが消え入りそうな声を出す。
「歯を食いしばれ。舌を噛むなっ」
ジュビリーたちはキリエを中心に一気に大通路を突っ走った。ヒューイットの使節団も元々人数が多いわけではないらしい。入り乱れる侍従や衛兵たちをやり過ごし、宮殿を飛び出すと、ジョンがあっと声を上げる。城門から火の手が見える。よく見ると城門で宮殿の軍が交戦している。
「北門から出るぞ」
「はッ!」
ジョンたちは待機させていたクレドとグローリアの軍を呼び集め、北門へ誘導する。ジュビリーが馬に跨るとキリエの体を引っ張り上げた。
「今からクレドまで走る。ルール軍を引き離すまで馬から降りんぞ。良いなッ」
「ま、待って! 待って! 伯爵! わ、私……!」
キリエが半狂乱で叫ぶが、ジュビリーは指先でキリエの口を塞いだ。そして顔を近づけて囁く。
「今はこの場を脱することが先決だ!」
そして馬の腹を蹴ると走らせる。
「義兄上!」
後方で軍をまとめるジョンが叫ぶ。振り返るとジョンが顔を歪め、後ろを指差している。目を凝らしてみると、炎と煙で軍勢が見え隠れする中、黄色の紋章旗が翻っているのが見える。黄色の旗に、
「……レノックス・ハート……」
ジュビリーの呟きに、キリエがびくっと体を震わせる。甲冑姿の青年は大声で命令を下していたが、やがてこちらに気づくと素早く兜を脱いだ。
(気づかれた)
ジュビリーが舌打ちする。
キリエに似た栗毛に、冷たい水灰色の瞳。青年は獲物を見つけた猟犬のような残忍な笑みを浮かべ、馬の腹を蹴った。
ジョンが怒鳴り声を上げ、騎兵たちを巧みに誘導するとレノックスの部隊を即座に包囲する。その場で騎兵による白兵戦が始まるが、一際目立つ長身のレノックスは幅広の長剣で騎士たちを次々と馬から叩き落してゆく。
「逃がさんぞッ! キリエ・アッサー!」
レノックスの咆哮を耳にしたキリエは全身が粟立った。包囲を突破すると、レノックスは怒涛の勢いでジュビリーに迫る。彼はキリエをぐいと馬の首へと押し倒し、耳元で怒鳴った。
「顔を上げるな!」
返事もできないでいるキリエの耳に、鞘から剣が走る音が飛び込む。
「ひッ……!」
刃物や風を切る音は大嫌いだった。
「おおッ!」
レノックスが叫び声を上げながら長剣を振りかざし、打ちかかる。ジュビリーは馬を巡らしながら剣を打ち流し、返す剣でレノックスの顔面をなぎ払う。頬と鼻から鮮血が飛び散り、キリエの衣装に降りかかる。相手は思わず
「ッ!」
その隙にジュビリーは手綱を引くとその場を脱した。外衣を叩き落とすがその外衣に馬が足を取られ、一瞬馬が棒立ちになる。
「くそッ!」
レノックスが苛立たしげに喚くと、すでにキリエとジュビリーを乗せた馬は黒煙と土煙にかき消されていた。
「あいつ……、ジュビリー・バートランド……!」
レノックスは歯噛みするとその名を呟く。顔から流れる血が唇を濡らした。
「公爵!」
後ろから慌てふためいたヒューイットの声が投げかけられる。
「お、お怪我は……!」
「この、間抜けがッ!」
レノックスは振り向きざまに腕をヒューイットに叩き込む。ヒューイットは呻き声を上げて馬から転げ落ちた。
「貴様がキリエ・アッサーを殺しておけば、こんなに手がかかることはなかったのだッ! 愚か者めがッ!」
「も、申し訳ございません……!」
レノックスは荒々しく呼吸を繰り返すとジュビリーたちが逃走した方角を睨み、頭を振る。
「腕のない貴様をやったのがわが身の不幸よ。時間がなかったとは言え……」
「……公爵……」
「なんだ」
「王太后を捕らえましたが……」
ヒューイットの言葉に、レノックスはうんざりしたように天を仰ぐ。
「あんな女など打っちゃっておけ! 殺せばユヴェーレンとの間に軋轢が生じる。生かしておいても何の役にも立たん。どうしようもない女だ!」
「い、いかが計らいましょう」
「ベイズヒル宮殿にでも幽閉しておけ」
イングレス郊外の小さな宮殿の名を挙げ、レノックスはこの話を切り上げた。
「……それにしても」
ようやく落ち着きを取り戻したレノックスが声の調子を落とす。
「あの娘が、本当にキリエ・アッサーか?」
「まだ十四歳に満たないはずです。未だに修道女としての意識が抜け切らないらしく、おどおどした様子でした」
「昨日の今日だ。当然だ」
レノックスは過去に何度かプレセア宮殿でキリエを見かけていた。その時彼はまだ八歳。キリエは二歳になったばかりだった。父の愛妾、ケイナ・アッサーに抱かれていた姿が目に焼きついている。父エドガーはキリエに夢中になり、レディ・ケイナの住む離宮に入り浸り、王宮を留守にすることが多かった。あの時の幼子が、自分を出し抜いて王位を宣言した。レノックスは目を眇め、奥歯を噛み締めた。
すでに、クレドの軍勢はあらかた逃亡し、傷ついた者や命を落とした者たちが地面に無残に転がっている。
「火を消せ。プレセア宮殿を支配下に置かねばならん。クロイツへ使者を送る準備もさせろ」
「はッ」
レノックスは顔の血を拭うと、手のひらを見つめる。精悍で男らしい顔つきは、性格を除けば美青年の内に入るだろう。だが、血に汚れたその顔からは狂気が見え隠れする。
〈ロンディニウム教会の修道女〉など、すぐに葬り去って王位宣言ができるものと考えていたレノックスにとって、キリエを取り逃がしたことは予想外だった。
「……これは、長引くかもしれんな」
レノックスの予測は、決して間違ってはいなかった。
無言で馬の首にしがみついたままのキリエを乗せ、ジュビリーは駆け続けた。しばらく軍を走らせていると、供の者が声を上げる。
「伯爵! あれを!」
前方に目を凝らすと、丘の頂から騎馬の音が響いてくる。皆に緊張が走るが、やがて軍勢が姿を現す。先頭の騎兵が持つ軍旗は〈青蝶〉だ。
「レスター……」
一斉に安堵の声が上がる。
「伯爵!」
前方で馬を駆っていたレスターが声を張り上げる。
「レスター、よく来てくれたな」
「遅くなりました。ルール公が帰国したとの報せを受け、すぐにグローリアを発ったのですが」
ジュビリーはちらりと後方を見やった。
「ルール軍もすでに追ってきていない。我々を追うよりもプレセア宮殿を手中に入れることを優先したのだろう」
「キリエ様は?」
レスターの言葉に、ジュビリーは震えているキリエの肩に手をかけた。
「大丈夫か、キリエ」
そう言って体を起こそうとするが、キリエは短く「放して!」と叫ぶ。レスターが一瞬顔をしかめるが、ジュビリーは表情を変えない。
「……馬から降ろして……!」
「降りてどうする」
「教会に帰るのよッ。もう……、こんなの耐えられない……!」
両手で肩を抱き、身を震わせて叫ぶキリエを、ジュビリーは疲れきった表情ながらもじっと見つめる。
「あの人が王になりたいならならせてあげればいいわ……。私には、関係ない……。私が女王になんかなれるわけがない……! 今までどおり、修道女でいちゃいけないの? どうして、私がこんな目に遭わなければならないの……!」
言葉の最後は涙声になってかき消された。レスターは気の毒そうな表情でキリエをただ見つめることしかできなかった。ここまで言われれば、何も言い返す言葉はない。心を閉ざし、一切を拒否するキリエにどう声をかけるのか、レスターは黙ってジュビリーに目を移す。
「……キリエ」
彼は低く呟くと体を屈め、耳元でもう一度呟く。
「よく聞け、キリエ」
「いや……!」
「聞け」
ジュビリーは無理やりキリエの頬を両手で包むと顔を上げさせた。
「やめて、放して……!」
「いいから聞け」
涙と血で汚れたキリエの顔が苦痛に歪む。
「いいか、二度は言わんぞ」
そう前置きすると、ジュビリーは鼻が触れ合うほどに顔を近づけた。
「王には嫡子がいたが死んだ。……私が殺したのだ。おまえを女王にするために」
耳鳴りが鳴り響く頭に、その言葉はまるで何の意味も成さない言葉のように漂った。だが、次第にはっきりしてくる頭が徐々にその言葉を理解し始め、キリエの顔から血の気が引いてゆく。
「……今、なんて……」
「二度も言わせるな」
キリエの背に寒気が走る。唇をかすかに震わせ、目の前にいる男を凝視する。すぐ側に控えているレスターが険しい顔で俯く。彼はこの事実を知っているようだ。
「……私の、ために……?」
「そうだ。運命の車輪はすでに回り始めている。とっくの昔にな」
「……どうして……」
ぼんやりと呟くキリエに、ジュビリーはわずかに顔を歪める。
「おまえにとっては、確かに迷惑な話だろう。だが、もう始まったことなのだ。すべてはアングルのためだ」
そう言うと、ジュビリーは両手の力をゆるめた。しばらく二人が見つめ合っていると、殿(しんがり)を務めていたジョンがやってくる。
「……義兄上……?」
二人のただならぬ様子に息を呑むが、それ以上は口を挟まない。
「……ジョン。引き続き追っ手に警戒しろ」
「はッ」