「私はレノックス・ハートなど認めぬ!」
耳を突く刺々しい叫び声に、廷臣たちは苦労してうんざりした表情を押し隠す。
「しかし、王太后。早晩ルール公はお戻りになられます。早く次期君主を決めねば、なし崩し的にルール公が王位を継承してしまいますぞ」
王太后ベル・フォン・ユヴェーレンは、廷臣が
「そなたは王より女王が良いのか?」
「そうではございませんが……」
今度ばかりは不快な表情を隠そうともせず、廷臣は正直に言上した。
「王位継承権を持つ者は男性とは限りませんからな」
「ルール公だけは許さぬ。あの野蛮な獣……。あれがこのプレセア宮殿の玉座に座ると思っただけで虫唾が走る……! 国民のためにもならないわ」
「それはそうですが……。そうとなれば他の王位継承権を持った人物に……」
「私の甥はどう?」
「は?」
その場にいた廷臣たちがいぶかしむ。
「ユヴェーレンのエルネスト王子よ。冷血公よりは適任ではないかしら?」
「とんでもない……! エドガー王の血を引かぬお方をアングルの君主に迎えるなど……! 国民の理解を得られません!」
「それに、ただいまホワイトピークに早馬を遣わしております。ホワイトピーク公にもお伺いを立てねば」
ホワイトピーク公。その名にベルは黙り込んだ。
「公爵は先々代の王、アルバート・オブ・アングル様の庶子のご長男でいらっしゃいます。傍系と言えど、アングル王家の血脈を受けておいでです」
ベルはその美しい顔を歪めた。アングルの要衝、軍港ホワイトピークを守るホワイトピーク公爵ウィリアム・デーバーは、エドガーの父アルバートの庶子サラ・デーバーの長男だった。エドガーにとってサラは腹違いの姉であり、ウィリアムは甥になる。
その時、まるでその頃合いを見計らっていたかのように廷臣が大広間に駆け込んでくる。
「ホワイトピークから使者が帰還しました!」
皆が振り返ると、廷臣は息を整えてから言上する。
「公爵のお言葉をお伝えいたします。『自分はホワイトピークを盾にアングルを守ることが使命である。王位の継承に名乗りを上げることは許されない』」
その言葉に廷臣たちが溜息をつく。
「やはり……」
ウィリアム・デーバーは堅物で生真面目な男として知られており、だからこそ王位に相応しいのでは、という声も上がっていたのである。
「そして」
なおも廷臣が声を上げる。
「こう仰せられました。『エドガー王には嫡子でなくともお子がいらっしゃる。庶子と言えど、先王直系の子孫が王位を継承することが望ましい』と」
大広間が沈黙に包まれ、廷臣たちは戸惑った様子で顔を見合わせた。ベルはひとり、いらいらした様子で口元を歪めている。
「……しかし、陛下のお子となると……」
「やはり、ルール公ということに……」
人々が諦めの表情で溜息をつく。その重苦しい空気を破るように、慌しく数人の侍従が駆け込んでくる。
「申し上げます!」
皆が今度は何事かと顔を上げる。
「先ほどグローリアから使者が参り、現在グローリア女伯がこちらへ向かっているとのことです!」
ベルの顔が引きつる。
「グローリア、女伯……?」
その場に居合わせた人々が顔をしかめる。
「グローリア伯はまだご存命のはず。体調を崩されていると聞き及んでいたが……」
その時、ひとりの騎士がはっと顔を上げた。
「……レディ・キリエ・アッサー!」
その名に人々は息を呑んだ。ベルの顔色がさっと青ざめる。
「……キリエ……、アッサー……!」
ベルは顔を歪め、苦々しげに吐き棄てる。
「あの……、あの女の娘か!」
「落ち着いて下さいませ、王太后」
宮廷侍従長、セヴィル伯が侍従に問いただす。
「共の者は?」
「クレド伯が先導しているとのことです」
クレド伯という名を耳にして、その場がざわめく。
「クレド伯? 何故……!」
その疑問に先ほどの騎士が身を乗り出す。
「グローリア伯はかつて、クレド伯の後見人でいらっしゃいました故」
「しかし……」
廷臣たちの言い合いに、ベルが玉座を立つ。
「あの妾腹を女王に就ける気か! もしもそうなれば私はどうなる! ユヴェーレンに帰れと申すか!」
「レディ・キリエは修道女になられたはず。ご自分から王位を望むとは考えられませぬ。いずれにしろ、彼女の出方を待つしかないかと」
煮え切らない廷臣たちの態度に苛立ったベルは怒りのぶつけようもなく、大広間を飛び出した。
「さて……、どうなるかな」
セヴィル伯が困り果てた様子で呟くと、廷臣たちが彼の周りに集まってくる。
「キリエ・アッサー……。あの幼かった娘が帰ってくるというのか」
「しかし、エドガー王の血を引くことは確かだ。冷血公がアングル王に就くことを考えれば、修道女の方がまだ良いというもの」
「しかし、傀儡には使えませんな」
ひとりが陰険な表情で囁く。
「クレド伯爵……。確か彼はアッサー家と遠縁に当たるはずだ」
「……宰相の座に納まろうというわけか」
一同は重々しく溜め息をついた。
「久しく見かけていなかったが……」
「細君に死なれてからは領地に引き篭もっていたからな」
「モーティマー、そなたはクレド伯と親しかったであろう」
皆の視線を集めたのは、先ほどの若い騎士だった。国王直属秘書官、サー・ロバート・モーティマーだ。
「親しいといえるほどでは……」
彼は口ごもると、緊張した顔つきで付け足した。
「一度、護送任務に同行させていただいただけです」
モーティマーは、野心的な雰囲気であっても、宮廷では決して出しゃばるような人間ではなかったジュビリー・バートランドの姿を思い起こした。その記憶は決して楽しいものではない。だが、それはジュビリーのせいではなかった。
「レディ・キリエ……。国内にいる王位継承権者の中で最も適した人物である以上……、入城を拒む理由はありませんね」
「しかし、ルール公は?」
ひとりがそう問いかけ、セヴィル伯は苦しげに唸った。
「……黙ってはおるまい」
キリエ一行の元にプレセア宮殿の使者が出迎えにきたのは、イングレス郊外に差し掛かった頃だった。沿道で周辺の住民たちが不安そうに遠巻きにして見守る中、使者は丁寧な挨拶をもって迎えた。
「プレセア宮殿より、レディ・キリエ・アッサーをお迎えに参上いたしました」
「……どなたの命だ?」
下馬し、短く問いかけるジュビリーに対し、使者は複雑な顔をしてみせると、曖昧な答えを返した。
「……宮殿の廷臣は皆、レディ・キリエ・アッサーの入城を歓迎いたしておりますが、歓迎していない者もおります」
「ベル王太后かな」
返事をする代わりに、使者が苦笑する。
「……ご安心下さい。今や王太后の力は無きに等しい状況にございます」
「……先を急ごう」
表情を変えず、ジュビリーはそう言い放つと再び馬に跨った。
それから一時間もしないうちに、一行はイングレスに入った。アングル王国の都イングレスは、プレシアス大陸から切り離された場所であるにも関わらず、巨大な都市の様相を呈していた。十万人近い市民がひしめき合うように暮らし、名実共に文化の中心地であった。
市民で埋まった大通りを隊列が縫うように行進してゆき、物見高いイングレスの市民たちは驚きと不安のこもった目で見守った。市民にとっても、王位継承問題は自分のたちの生活を左右する一大事であった。悪評高い〈冷血公〉に比べれば、全くの無名であっても〈ロンディニウム教会の修道女〉の方が印象は良い。だが、この島国を巡って大陸の列強は虎視眈々と付け入る隙を狙っている。そんな国を背負っていけるのか、その不安も拭いきれなかった。
「……ここが、イングレス……」
初めて見る〈都市〉にキリエは目を奪われた。村では見ることのない、せめぎあうようにして林立する建物。彩り鮮やかな品々が並ぶ市場。着飾った者たちと、キリエの軍勢など目に入る様子もない物乞いをする者たち。豊かさと貧困、華やかさと醜さが同居する都を、キリエはどう受け止めてよいかわからなかった。
やがて、軍はプレセア宮殿に差し掛かった。プレセア宮殿は市街地を貫くノーヴァ川を堀の代わりにしており、川の上には跳ね橋が架けられている。中庭で近衛兵たちが出迎えのために整列しているのが見える。橋門をくぐったところで、ジュビリーはキリエを馬車から降ろした。
「あッ」
裾を踏みつけて転がり落ちそうになるキリエを、ジュビリーの大きな両手が支える。
「ご、ごめんなさい……」
ジュビリーに抱きかかえられるようにして地に足をつけると、顔を真っ赤にして呟く。
「慣れない衣装だ。気にするな」
言葉とは裏腹な冷たい口調にキリエはごくりと唾を飲み込む。
「落ち着いたらマリーエレンを呼び寄せる。宮廷には宮廷の儀礼がある」
宮廷儀礼を学ぶ前に王宮へ押しかけるということは、それほど切迫した事態ということなのだろう。確かに、王位継承に一刻の猶予も許されない。
息を整えると、キリエは辺りを見渡した。ぐるりと囲む衛兵たち。その周りにひしめく貴族たち。まるでキリエを呑み込むかのように聳え立つ宮殿。彼女は、足がすくんだ。震えを感じながら思わず背後を振り返ると、門の外では市民らが固唾を飲んで見守っている。
貴族たちは、キリエの不均衡な姿に目を奪われた。目の覚めるような美しい青のドレスをまといながらも、顔にはほとんど化粧を施さず、装身具も申し訳程度しか身につけていない。それでも、幼くも無垢な瞳を持つ少女に、賞賛の溜め息が零れる。
やがて、歴代君主の紋章旗がはためく
「グローリア女伯」
廷臣たちは皆、深々と最敬礼してみせた。ひとりの騎士が前へ進み出ると恭しく跪く。
「プレセア宮殿へようこそいらっしゃいました。我々は女伯を歓迎いたします。私は亡きエドガー王陛下の首席秘書官、ロバート・モーティマーと申します」
キリエは恐々と手を合わせると頭を下げる。そんな幼い少女にモーティマーはどこか懐かしげに笑いかけた。そして、首を巡らすとジュビリーに向かって一礼する。
「お久しぶりでございます」
それに対して、ジュビリーはかすかに頷いただけだった。
「では、ご案内します」
モーティマーが先導して歩み始めると、キリエは恐る恐る後に続いた。
その時、前方で突然ざわめきが起こったかと思うと、人だかりがさぁっと左右に分かれた。通路の先に、緋色のドレスをまとった黒髪の美女が佇んでいる。並み居る貴族たちよりももっと高貴な人物であることが、キリエにもわかった。では、この女性がベル・フォン・ユヴェーレンか。
ベルは、青白い顔つきでキリエを正面から見据えていた。後ろに控えている女官たちは、いつ王太后が癇癪を起すかと不安げな表情で見守っている。しばらくその場に立ち尽くしていたベルは、ゆっくりとキリエに向かって歩き出した。キリエも数歩歩み寄ったが、不意にどよめきが起こる。キリエが両手を合わせて片膝を突き、教会式に恭しく最敬礼をしたのだ。貴族や兵士たちのどよめきが続く中、ベルは眉をひそめた。
「キリエ……、キリエ・アッサーと、申します。天なる神に、お恵みと今日の出会いに感謝いたします。……身罷られた国王陛下エドガー・オブ・アングル様の御霊が、神に祝福されますよう……」
エドガーの名を耳にしてベルはかっと頭に血が上った。が、モーティマーが鋭く振り返り、彼女は息を吐き出すと気を落ち着けた。
「……よう参られた」
かすれた声でそう呟くと、ベルはモーティマーに命令を下す。
「グローリア女伯を丁重にもてなすよう」
「はっ」
それだけ言い放つとベルは踵を返し、女官たちを伴って引き上げた。その様子を見守るジュビリーの口元に冷たい笑みが浮かぶ。キリエがベルに対して最上級の礼を尽くしたことで、キリエの評価は上がったはずだ。廷臣たちは二人の立場が逆転することを理解しただろう。キリエに敢えて何も言わなかったのが幸いした。
(最初の顔見せとしては上出来だ)
ジュビリーは慎重に胸中で呟いた。