白い雲が沸き起こる夏空の下、まだ七、八歳ほどの幼いキリエが黙々と薬草園の草取りをしていた。額から零れ落ちる汗を拭うと、顔に土の後が残る。大きく息を吐くと体を伸ばし、空を見上げる。そして、青々と茂った薬草を誇らしげに眺め、思わず微笑んだ、その時。
「キリエ!」
振り返ると、村の農夫が木箱を抱えてやってくる。
「サイモンさん」
「やぁ、精が出るな! 今日はおまえさんにお礼を言いに来たんだよ!」
「……お礼?」
きょとんとした顔つきで見上げる幼い修道女に、サイモンは満面の笑みで話し始める。
「こないだおまえさんからもらった傷薬だよ! あれのおかげでうちのガキの傷が綺麗に治った! 女房も大層喜んでよ。お礼に、ほれ」
そう言ってサイモンが抱えていた木箱を地面に置くと蓋を開ける。すると、色とりどりの布地を継ぎ合わせたキルトが現れた。
「わぁ!」
「女房が使ってくれって」
「えっ?」
戸惑うキリエの背を、サイモンが笑いながら叩く。
「どうせすぐにまた寒い冬が来るぜ。うちのキルトは見てくれは悪いが温かいからな!」
アングルの夏は短い。その短い夏も日が落ちるとぐっと冷え込む。そして、冬は終わりが見えないほど長く寒い日々が続くのだ。
「こんな大事な物、私……、い、いただけません」
「何でだよ、おまえさんのおかげでうちは助かったんだ。一緒にもらったカモミール、あれのおかげで俺の腹の調子もいいしな」
そう言ってサイモンは愉快そうに腹を叩く。
「いただきなさい、キリエ」
不意に背後から声をかけられ、キリエは慌てて振り返る。
「ロレイン様、でも……」
まだ戸惑った様子で口ごもるキリエに、サイモンが木箱を押し付ける。
「ほら! 確かに渡したぜ! じゃねぇと俺が女房に怒られっからよ」
「サイモンさん」
「またいい薬を作ってくれよな!」
言うだけ言うとサイモンは意気揚々と薬草園を後にした。ぽかんとした表情でその後姿を見送ったキリエは、手元に残された木箱に目をやった。
「……ロレイン様」
ロレインを見上げたキリエの表情は戸惑いから嬉しそうな表情へと変わっていた。
「薬草って本当に凄いんですね。サイモンさんに、あんなに喜んでいただけるなんて」
「キリエ」
ロレインは木箱を地面に置かせると、キリエの両手をしっかりと握った。
「よくお聞きなさい。あなたは傷を治したのが薬草だと思っているでしょう。でも、サイモンさんは薬草ではなく、あなたが治してくれたと思っているのですよ」
キリエは眉をひそめ、怪訝そうな表情でロレインの顔をじっと見つめた。
「小さなことですが、これであなたはサイモンさんから信頼を得ました。ですが、同時に責任も得たのです。これからも、あなたは質の良い薬草をサイモンさんのために作らなければなりません」
「わ、私が……」
顔を強張らせたキリエの頭を、ロレインは優しく撫でた。
「心配することはありません。まずは、薬草園の管理をこれまでと同じようにしっかりやっていけば良いことです。けれど、今まで以上に心を込めてやることです」
「……はいっ」
キリエの生真面目な返事に、ロレインは目を細めると優しく髪を撫でる。
「あなたは……、これから先、もっと大きな信頼と責任を負うことになるのだから……」
「……え?」
キリエは大きな目でロレインの目を覗き込んだ。
「でも、それは……、もっと、ずっと先のことでなければ……」
ロレインの姿がぼやけ、声も小さく遠のいてゆく。
「……ロレイン様……? ロレイン様……! ロレイン様ッ!」
キリエはロレインの手をぎゅっと掴んだ。
「……ロレイン様……」
「……キリエ様」
耳元で名前を囁く声。キリエはうっすらと目を開けた。暗い部屋。落ち着いた色調の天蓋。そして、自分の顔を覗きこんでいる穏やかな表情の女性。
「……マリー?」
はっとして両目を見開く。マリーはほっとした表情で優しくキリエの頬を包み込んだ。
「驚きましたわ。プレセア宮殿に着いた途端、キリエ様がお倒れになったとお聞きしたものですから……」
「え?」
マリーが側にいるので、てっきりクレド城に戻ったつもりでいたキリエだったが、やがて記憶が鮮明に蘇ってくる。
「……私、どうしたの?」
「突然お倒れになったそうですよ。医師の話では、過労だと」
キリエは溜め込んでいた息を吐き出した。どれぐらい眠っていたかわからないが、先ほどに比べるとずいぶん気分が楽になっていた。思えば元々不眠気味ではあったが、特にここ数週間はしっかり眠っていなかったように思える。マリーがキリエの額にそっと手を当てる。
「熱も下がってきましたわ。良かった」
まだ疲れた表情のキリエをじっと見つめると、マリーは乱れた髪を優しく撫で付けた。
「色々ありましたからね……。ローランドでの戦いの後、リシャール王が侵攻してめまぐるしく状況が変わりましたし」
ローランドでの異母兄姉たちとの戦い。異国の侵略。クロイツからやってきた騎士団長。侵略者の息子との出会い。そして今、自分は王都にいる。色んな光景が脳裏に蘇り、やがてキリエははっと息を呑んだ。
「ジュビリーは? 戦況は……!」
「我が軍の勝利です」
マリーはにっこりと微笑んだ。
「ルール公とマーブル伯は敗走し、兄もすでに帰途についているそうです」
「ジョンは?」
「彼も無事だそうです」
それを聞いてキリエは安堵の溜息をついた。しかし、敗走ということはレノックスもシェルトンも無事なのか。そうなれば、戴冠し、正式に即位してからも脅威になり続ける可能性がある。問題は何一つ解決されていない。
「……いよいよ、戴冠する日が近づいてきましたね」
キリエの不安を見透かしたようにマリーが呟く。
「……ごめんなさい」
キリエは目を伏せると小さく囁く。
「私……、自分が女王になるなんて、まだ想像できない。もう、後には引けないのに……」
「当然ですわ」
マリーは少し気の毒そうな表情で答えた。
「キリエ様はまだ十四歳ですもの。教会を出て一年余り……。名君は一日にして成らず、ですわ。生まれながらの名君なんて、どこの国にもおりませんもの」
「そうね」
そう言葉を返しながらも、キリエはふとギョームのことを思い出した。彼は生まれながらの王だ。幼いうちから父王の政務を冷静に見つめ、十七歳で挙兵した。それに引き換え、自分は十三歳まで教会で神に祈りを捧げる毎日を送ってきた。たった一年で女王になれるわけがない。だが、周りの状況は待ってはくれない。そんなことを考えながら、キリエはマリーが優しく頭を撫でてくれるに任せていたが、やがて部屋の外から甲冑が触れ合う賑やかな音が聞こえてきた。
「……ジュビリー?」
キリエが思わず体を起しかけた時。ノックもそこそこに扉が開け放たれた。
「キリエ!」
ジュビリーの怒鳴り声が懐かしく感じられる。彼は甲冑を身につけたまま部屋に飛び込んできた。が、その顔に大仰に包帯が巻かれているのを見てマリーとキリエが声を上げる。
「兄上……!」
「ジュビリー、怪我を……!」
「かすり傷だ」
そう言い捨てるとジュビリーは寝台の淵に腰を下ろす。
「大丈夫か、体は……」
「もう大丈夫。ずいぶん楽になったわ。……ごめんなさい、皆疲れているのに、私だけ……」
「気にするな」
そう言ってからジュビリーは大きく溜息をついた。そして、痛みに顔を歪めながらも、キリエの白い顔にそっと触れる。
「……レディ・ケイナも病気がちだった。無理をしてはならん」
二人の様子を静かに見守っていたマリーの背後から、ジョンがそっと声をかける。
「……マリー様」
「ジョン」
彼に気づいたマリーの顔が明るくなる。そして、ちらりと兄を振り返るとジョンの手を取ってその場を離れた。
「マリー……」
キリエが呼び止めるが、マリーは唇に指を当てると微笑みながらジョンと共に部屋を出ていった。
「……レノックスは……?」
二人きりになると、キリエは声を潜めて尋ねた。ジュビリーの眉間の皴が深くなる。
「……深手を負わせた。斥候によると、エレソナ・タイバーンが彼を連れ去ったらしい」
「エレソナが?」
キリエが眉をひそめて声を上げる。
「何故……」
「どういうつもりかはわからん。ただ、エレソナがレノックスをルール城に送り届けたのは事実だ」
「マーブルに戻らず、ルールに……」
「二人はこのまま手を組むかもしれん」
キリエは思い詰めた表情で黙り込んでいたが、やがてジュビリーを見上げると顔の包帯に目を留める。
「……ひょっとして、その傷は……」
ジュビリーは返事をしなかった。戦場で兜を脱ぐことなど滅多にない彼が顔に傷を負うことがどういうことなのか、何度か戦場を経験したキリエにはすぐにわかった。少なくとも、一騎打ちの白兵戦を演じたに違いない。
「レノックスと……、戦ったの?」
黙って頷くジュビリー。キリエはそっと手を伸ばすと包帯に細い指を這わす。
「……助けてくれたのね。どうして……?」
ジュビリーはレノックスと戦い、深手を負わせながらも止めを刺さなかった。だからこそレノックスは命を取りとめ、エレソナによって救出された。ジュビリーは重い口を開いた。
「……おまえの兄だからだ。だが、二度目はない」
彼の言葉にキリエは息を呑んだ。このままキリエが戴冠し、服従を求めてもレノックスが応じなければ彼は反逆者となる。王に対する反逆は親族でも許されない。キリエは両腕を伸ばすとジュビリーの首に巻きつけ抱き寄せた。頬と頬が触れ合い、ジュビリーは思わず体を引こうとしたが、キリエはしっかりと引き寄せて離さなかった。黙ったままキリエの柔らかい頬の感触を感じていたジュビリーだったが、やがて彼女が小さい声で囁く。
「……ありがとう……」
彼は、返事をするように背中を静かに撫でた。やがて、耳元でキリエがそっと呟く。
「……ジュビリー。この宮殿で一番高い塔はどこ?」
キリエがそっと腕をゆるめ、ジュビリーが体を起こす。
「駄目だ。休んでおけ」
「今、登りたいの」
キリエの懇願にジュビリーは顔をしかめる。
「これから忙しくなるわ。今のうちに登っておきたいの。……クレド城の塔に登ったように」
ジュビリーは、キリエの手を引いてクレド城の塔に登った日のことを思い出した。あの時キリエは世界の広さを実感した。今から、それ以上に広い世界を治めるのだ。ジュビリーは仕方なさそうに息を吐くと、キリエの手を引いて体を起こした。
鎧を脱いだジュビリーはキリエを連れて広い王宮の廊下を静かに歩いていた。ジュビリーはかつて宮廷に出仕していた頃の記憶を頼りに、目指す塔へとキリエを導く。ちらりと隣のキリエを見やる。彼女はまだ青白い顔で唇を引き結び、眉をひそめて前を見据えている。幼い少女の不安な表情は、ある記憶を蘇らせた。
婚約中だったエレオノールを連れて王に謁見したあの日。大勢の貴族や廷臣たちの視線を一身に受け、許婚は腕にしがみついて肩を震わせていた。あの時、エドガーは意地悪げな笑みを浮かべ、いつ結婚するのかと尋ねてきた。
「彼女が成人する、三年後になります」
そう答えると、エドガーは項垂れて跪いているエレオノールにこう呼びかけた。
「レディ・エレオノールよ、考え直すなら今のうちだぞ」
王の言葉に廷臣たちは笑い声を上げた。融通の利かないジュビリーは冗談を冗談と受け止められず、思わずかっとなって拳を握り締めた。だが、エレオノールは震える声できっぱりと言い切った。
「私は、すでに妻でいるつもりでございます」
謁見の間は感嘆の呻きに満ちた。ジュビリーは誇らしげに許婚を見つめ、その手をしっかりと握りしめた。あの日の情景は、今でも鮮やかに思い浮かべることができる。
様々な記憶を残したこのプレセア宮殿に、こうして再び帰ってきた。ケイナが遺した、キリエと共に。
宮殿の最奥部には限られた侍従や廷臣しかいない。彼らは、王位を宣言したばかりのキリエと、彼女の宰相となることが確実視されている伯爵を黙って見送った。
やがて、二人は衛兵が守る塔への登り口に辿り着くとゆっくり階段を登り始めた。衛兵の姿が見えなくなると、二人はどちらからともなく手を取り合った。これからは、人前で軽々しく相手に触れることもできない。そう思うとキリエは表現しがたい苦しさを感じた。戦を終えたばかりのジュビリーは重い足取りで一段一段階段を上がっていく。そして、病み上がりのキリエを気遣い、時々足を止める。やがて階段を登りつめ、分厚い扉を押し開けると、夕日で赤く染まった空が目に飛び込んできた。
「…………」
キリエの目には、戦争で流された血で染められた空のように映り、胸を突かれた。二人が登った塔は小さな礼拝所が付設された鐘楼だった。胸壁まで歩み寄ると、そこからイングレス市内を一望できる。
市民や兵士がごった返し、皆懸命に戦の後始末に勤しんでいる。そこには、まだ多くの死体や怪我をした者もいるだろう。キリエは息を呑んでその光景を見守った。目を遠くへ移すと、民家が軒を並べ、もっと遥か彼方には、戦争などなかったかのように穏やかな田園が広がっている。
「……これが、アングル……」
夕日に染まったキリエの横顔をジュビリーが見下ろす。
「……おまえの国だ」
ジュビリーの言葉にキリエが振り返る。
「おまえの父が治めていた国だ。これからは、おまえが守り、治めるのだ」
二人はしばらく無言で見つめあった。ここまで来るために、多くの犠牲があった。得たものよりも、無くしたものの方が多い。だが、自分はこれからこの国を守っていかねばならない。キリエは小さく呟いた。
「……私にできるかしら」
「やらねばならん」
間髪を入れない返答に、キリエは頷くと少しの間俯いた。やがて顔を上げるとジュビリーの目を真っ直ぐ見つめて呟いた。
「ねぇ。……これからもずっと、私の隣にいてくれるでしょう?」
ローランド会戦の後、二人が出会って一年が経ったあの日にも同じことを聞かれた。あの時自分は言葉で返事を返さなかった。ジュビリーは目を細めると、ゆっくり口を開く。
「……私は、おまえの側を離れん」
キリエの顔に驚きの表情が広がる。ジュビリーがはっきりとした約束を口にするとは予想していなかったのだ。キリエは思わず胸にすがりついた。ジュビリーも彼女の細い背をそっと抱く。わかっていたのだ。その約束が守れないかもしれないことを。それでもジュビリーは自らに誓った。これからも、キリエの隣にいると。
キリエがイングレスで王位宣言をした数日後、ガリアの王都オイールに、父リシャールを連れたギョームが帰還した。
リシャールは後ろ手に縛られたまま馬に乗せられ、息子の先導に従っていた。オイール市民は総出で親子を出迎えた。ギョームに対しては皆拍手喝采を贈ったが、リシャールに対しては容赦ない罵詈雑言が浴びせかけられる。内戦が勃発した当時はリシャールを支持する国民が多かったが、それはエスタドの台頭を目の当たりにしていたためだった。だが、敗色が濃い状況に陥ったリシャールがガリアを捨て、アングルに侵攻したことを知り、国民は唖然とし、そして激昂した。そのリシャールがギョームによって捕らえられ、ガリアへ戻ってきた。国民の怒りは凄まじいものだった。
王の居城であるビジュー宮殿の城門まで辿り着くと、ギョームは手綱を操り、父王と向き合った。市民の罵声が唸るように沸き起こる中、馬上の二人は無言で見つめ合い、バラ以下大勢の廷臣たちは息を呑んで見守った。
「……ここまでです、父上」
ギョームは穏やかに告げた。リシャールは黙ったまま息子を凝視した。頬はこけ、目は落ち窪み、無数の深い皺が刻み込まれた顔からは生気が感じられない。それでも、目だけは憎しみで獰猛な光を放っているように見える。
「父上は、これよりフラン城へ向かっていただきます。そこで、全ての時間を懺悔と母上への祈りに費やして下さい」
フラン城は北ガリア地方の小さな城だ。エスタドともユヴェーレンとも遠い。
「…………」
しばらく黙ったままだったリシャールは目を細めると鼻先で笑った。ギョームは眉間に皺を寄せ、目を眇めた。だが、リシャールは笑うばかりで言葉を発しない。不愉快な掠れた笑いを漏らし続ける父親をしばらく辛抱強く見つめていたギョームだったが、やがて父から目を離さないままバラを呼ぶ。
「バラ。お連れしろ」
「……殿下」
バラがやや躊躇いがちな口調で呟くが、ギョームは目を伏せ、顔を横に振る。やがて、バラは部下にリシャールの馬を引かせた。結局リシャールは何も語らぬまま、市民たちの止むことのない罵声が投げかけられる中、王都オイールを去っていった。
「……よろしいのですか、殿下」
遠ざかる王の後ろ姿を見つめながら、バラが低い声で問いかける。
「これが、今生の別れになるやもしれませぬ」
「……挙兵した時」
ギョームがゆっくりと呟く。振り返ったバラの目に映った王太子は、悲しみとも孤独ともつかない表情をしていた。
「もはや、生きている父上とは会えないと覚悟していた」
そう呟くと、ギョームは手綱を引いた。
王都イングレスから遠く離れた地、ルール。秋に差し掛かったルール城は、異様な静けさに包まれていた。家臣や騎士、従者や召使いといった下働きの者に至るまで、皆息を潜めるように沈黙を守っている。
城の最奥部に位置する一室から、悲痛な嗚咽が漏れ聞こえる。中では、アリス・タイバーンが娘や恋人と最期の別れを交わしていた。
「……母上……、母上ッ……!」
エレソナが泣きながら床に就いた母にすがりついている。その背後には、顔を歪め、沈黙を守っているシェルトン。部屋の隅ではローザが暗い表情で佇んでいる。アリスがかつて誇っていた美貌は跡形もなく、彼女はやせ細った顔で必死に呼吸を繰り返していた。
「……エレソナ……」
アリスはしわがれた声で囁いた。
「……悔しいわ……。やっと……、あなたと、暮らせるように、なったのに……」
十二年間の別離を経て、ようやく母娘が再会したのも束の間、共に過ごせたのは一年足らずというあまりにも短い時間だった。アリスが折れそうなほど細くなった手を伸ばし、エレソナは両手でしっかりと握りしめた。
「……あなたと、もっと一緒にいたかった……」
「母上ッ……!」
エレソナは母の手を自らの頬に押し当てた。
「ごめんなさい……! 私のせいだ……。私が、あんな事をしたから……!」
アリスの脳裏に、十三年前の宮廷での事件が甦る。そして、怒り狂ったエドガーの顔がよぎる。
「でも……、私、父上を奪われたくなかった……!」
アリスはふっと微笑んだ。幼いながらも、娘は自分たちの生活と立場が父によるものだということを感じ取っていたのだ。いつか王は帰ってくる。自分たちの元へ帰ってくる。そう願い、信じていたあの日々。だが、あの頃自分たちを支えてくれたのは王ではない。
「……あの人より……、ジェラルドが、あなたを可愛がってくれたのよ……」
エレソナは泣きはらした目で顔を上げ、じっと母を見つめる。
「……あなたは、生き抜いて……。何があっても……」
エレソナは肩を震わせながら溢れる涙を拭った。そして母の額に唇をそっと押しつけると細い肩に両手を回して抱きしめる。
「……愛してるわ、エレソナ」
「……ありがとう、母上……」
やがてよろめきながら立ち上がると、後ろに控えているシェルトンの胸倉をつかんで引き寄せる。
「……エレソナ様」
戸惑うシェルトンの耳元で、エレソナは小さく囁いた。
「最期を見送るのも、おまえの役目だ」
エレソナは涙で濡れた目でシェルトンを見つめると、そのまま彼を跪かせる。
「……アリス」
シェルトンの呼びかけに、アリスは力を振り絞って両手を差し伸べる。シェルトンが覆い被さるようにして抱きしめると、アリスは信じられない力強さで抱きしめ返してくる。そのことに彼は絶望し、思わず悔しげな嗚咽を漏らす。
「……ジェラルド」
「エレソナ様は私が守る」
「……お願い」
アリスは切れ切れの声で囁いた。
「……私が……、愛したのは……、あなたよ。……王じゃない」
シェルトンは顔を上げるとアリスを見つめた。雪のように白い頬に手を重ねると愛おしげに呟く。
「……私もだ」
「……ごめんなさい」
アリスの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「私、あなたの全てを……、奪ってしまったわ。……あなたの人生と、未来を……」
だが、シェルトンは穏やかに微笑んだ。耳元に唇を寄せ、静かに囁く。
「おまえの全てを受け入れたのだ。後悔はしていない」
その言葉に、アリスは震えながら目を閉じた。シェルトンはゆっくり顔を寄せると静かに唇を重ねた。アリスは恋人の頭を掻き抱いた。愛おしそうにゆっくりと撫でる手がやがて止まる。唇を重ねたまま、アリスは息を引き取った。シェルトンは悔しげな呻き声を上げるとアリスを抱き締めた。顔を両手で覆い隠したエレソナが部屋を飛び出す。
「エレソナ様ッ」
ローザが追いかけようとするが、シェルトンが「追うな」と短く囁く。
「……ううぅッ……!」
廊下を彷徨いながら、エレソナはこみ上げてくる嗚咽を止められず、口を必死で押さえた。
こんなにも早く別れが訪れるなど、想像もしていなかった。だが、わかっている。全ては妹を殺そうとした自分のせいなのだ。だが、父親が自分たちの元を去っていくのを黙って見てはいられなかった。そして自分は自由を失い、母は宮廷を追われた。だが、十二年の時を経て、シェルトンが解放してくれた。母とも再会できた。なのに……!
「……うぅッ……!」
押し殺した声が静寂の廊下に響く。すると、絨毯を踏みしめる足音が耳に入る。震えながら顔を上げると、そこには顔面に包帯を巻き付けたレノックスが無言で佇んでいた。
一命を取り留めたものの、顔の傷は生々しく残っており、すでに右目は完全に視力が失われていた。精悍だった顔つきはさらに険しさを増していたが、残された左目からは、今まで見せてきた激しさは感じられない。
「……おかしいか?」
真っ赤に充血した目を見開き、肩を震わせるエレソナは手負いの獣のようだった。
「私たちが、愚かだと思うか……? 身の程知らずの大馬鹿者だと……? 笑いたければ、笑えッ」
それには答えず、レノックスは静かに歩み寄るとエレソナの肩に手を回した。
「離せ、触るなッ!」
手を振りほどこうとするが、レノックスは強引に抱きすくめた。何か言おうとしても、言葉が出てこない。出てくるのは苦しげな呻きだけだ。レノックスもまた、何も言わずにただ抱き締めるだけだった。
自分と違い、腹違いの兄は最初から最後まで父の側にいた。だが、今の彼を見る限り、彼も全てを手に入れられたわけではない。結局は、父の愛を独占しながらも父の記憶を持たないあの妹が、全てを手に入れるのか。そう思うと、言いようのない悔しさがこみ上げてくる。
「……兄上……!」
エレソナは握りしめていた拳をゆっくり広げると、兄の広い背中を抱き締めた。