暗い森。馬の嘶き。不安を掻き立てる鳥の羽ばたき。人々のざわめき。
彼はその騒ぎを離れた場所から見守っていた。冷めた目で。乾いた心で。そんな彼の耳を裂くように、男の悲鳴が上がる。
「エドワード! 何故だ! 何故、こんなことに……! エドワード!」
ジュビリーは苦しげに息を押し殺しながら目を開いた。瞳に映るのは仄暗い天蓋。重い静寂が身を包んでいる。今夜目を覚ますのはこれで二度目だった。疲れすぎて目が冴えていたが、ようやく眠りについたかと思うと、エドワード暗殺の悪夢に襲われ、二度目覚めた。
ジュビリーは不吉な思いで体を起こすと窓辺へ歩み寄り、カーテンを押し開けた。東の空が微妙に白んでいる。結局、ほとんど眠れなかった。今日、ついにキリエの結婚式を迎える。自分の犯した罪のせいで、大きく人生を狂わされた修道女が一人の男の妻になる。ジュビリーはやりきれない思いで頭を振り、大きく息を吐き出した。キリエを教会から連れ出したのは自分だ。そして、結婚するよう説得したのも自分だ。何故だ? 国のため? 違う。自分が犯した罪をこれから先も隠蔽するためではないのか? そうではないと言い切れるのか! ジュビリーは顔を歪め、ゆっくりと前髪を掻き上げた。
「……キリエ……」
彼の口から、悲痛な囁きが漏れた。
夜が明け切らないうちに、キリエはシャルルの先導でロシェ宮殿を後にした。まだ夜露が光る街角ではすでに物見高い市民たちが集まっていたが、緊張感を漲らせたアングル一行を静かに見送った。
代々ガリア王の戴冠式や結婚式が行われる聖オルリーン大聖堂は、アングルの聖アルビオン大聖堂よりも遥かに巨大な聖堂だった。到着したキリエは付設された小さな礼拝堂で朝の祈りを捧げ、それが済むと、衣装部屋に割り当てられた一室でいよいよ花嫁衣装に着替え始めた。
衣装はアングルが用意したものだったが、実は、その装飾ですらガリアと何度も話し合いが持たれた。アングル側は、贅沢を嫌うキリエの意を汲もうとしたが、華やかな文化を誇るガリア側がそれを許さなかったのである。結局、純白の絹に金糸で〈百合〉と〈獅子〉が刺繍された胴衣に、〈蝶〉模様のヴェール。真珠やトパーズといった大粒の宝石がふんだんにあしらわれた、光輝く衣装に仕上がった。
栗毛は綺麗に結い上げられ、アングルの王冠は外された。普段化粧をしないキリエは、白粉や香水の香りにむせながら化粧師のなすがままに任せる。白粉、眉墨、頬紅。キリエの顔貌に〈花嫁〉の面が一枚ずつ被せられてゆく。小さな唇に瑞々しい紅を引くと、化粧師は満足そうに頷いた。〈赤蝶〉の指輪を外し、しなやかな薄い絹の手袋をはめると、キリエは女官の手を借りて立ち上がった。
「お綺麗ですわ、陛下」
マリーがすでに目を潤ませながら囁く。
「……ちょっと苦しいわ」
キリエはわざと顔をしかめて見せると胸当てを押さえる。
「控え室に皆が待っております。参りましょう」
マリーの手にすがるようにして、ゆっくりと衣装部屋を出ると、向かい側の部屋を訪れる。
「キリエ様……!」
中へ入ると、真っ先にジョンが声を上げる。控え室には盛装の男たちが五人。ジョン、レスター、モーティマー、ウィリアム、そしてジュビリー。男たちは皆、息を呑んで女王を見つめた。垢抜けない田舎育ちの修道女の姿はそこにはなかった。薔薇色に染まる頬。大きく見開いたアーモンド型の瞳。何かを訴えかけるかのようにかすかに震える唇。繊細な光を散りばめた輝く純白の衣装。まるで人形のように美しく着飾った少女。そう、人形のような。ジュビリーはキリエと目を合わせられず、わずかに顔を背けた。
「……あの修道女が、まさか、これほど美しくなろうとは……」
ウィリアムが同意を求めるようにジュビリーを振り返り、彼は黙って頷いた。
「……お綺麗です、キリエ様」
レスターが声を詰まらせながら呟き、ジョンが彼の肩を叩く。
「緊張して裾を踏んだりするなよ」
「はっ……」
キリエの希望でレスターが介添人を務めることになっており、彼はすでに感極まった様子で唇を震わせている。
「自分の挙式で、緊張し過ぎて倒れかけたではないか。グローリア伯」
「はっ?」
ウィリアムにそう言われ、ジョンは真っ赤になって弁解する。
「た、倒れかけたなど、そんな、お、大袈裟ですよッ」
「死にそうだったわ」
「マリー!」
新妻からも追い打ちをかけられ、慌てるジョンなど目に入らぬ様子でレスターが感慨深げに囁く。
「誠に……、生前のレディ・ケイナと瓜二つ……。いえ、もっとお美しいです」
「……レスター」
キリエは小さく呟くと老臣をそっと抱きしめた。
「……ありがとう」
「キリエ様……」
一同は、キリエが結婚を望んでいないことを知っているが故に複雑な表情で黙り込んだ。「結婚などしない」と叫んでいた姿が脳裏から離れない。だが、こうして異国に嫁ぐことを決断した。他でもない、国と民のために。レスターはせつなげに顔を振り、キリエの背を撫でた。と、その時、室内に激しい嗚咽の声が上がる。それまで落ち着いた様子だったはずのマリーが突然声を上げて泣き始めたのだ。
「マリー?」
皆が驚いてマリーを見つめる中、ジョンが黙って肩を抱く。キリエは眉をひそめてマリーにすがりついた。
「どうしたの、マリー。ねぇ、泣かないで」
「……キリエ様……! 私……、私……!」
顔を覆い、肩を震わせて泣きじゃくるマリーの手を取り、そっと囁く。
「マリー、私の顔、そんなにおかしい?」
「ち、違います……!」
「だったら笑って。ね? マリーは私の大事なお姉様だから」
キリエの言葉にマリーは目を大きく見開く。
「……お姉様からも、祝ってもらいたいわ」
「……キリエ様……」
キリエの顔が泣き笑いに歪む。
「……今までありがとう。これからも、ずっと一緒よ」
二人が抱き合う様子を、男たちが黙って見守る。やがて、未だに言葉を発しないジュビリーに向かってウィリアムが静かに口を開く。
「バートランド、お声をかけて差し上げろ」
言われるままにジュビリーは一歩前に出るが、言葉が出てこない。キリエは顔を上げるとじっとジュビリーを見つめてきた。その哀しげな顔立ちを目にして、胸に苦い感情が広がる。
(ケイナ様……)
あの時の表情と同じだ。彼女が王の愛人となるためにグローリアから旅立ったあの時と。望まぬ寵愛。キリエも、望まぬ結婚を強いられた。
「……ジュビリー」
不安げなか細い声に、ジュビリーの胸が軋む。
「……どうか、お幸せに……」
「……ありがとう」
短い言葉の中に、沈痛な思いを読み取ったキリエは、声を詰まらせながら小さく囁いた。
「……皆様、そろそろ……」
モーティマーが遠慮がちに声をかけると、キリエが少しだけ顔をほころばせて振り返る。
「サー・ロバート、次はあなたの番よ」
言われてモーティマーは困ったようにはにかむ。
「私は当分、独りで充分です」
「……もったいないわね」
モーティマーは頭を下げると静かに扉を押し開いた。ウィリアムやレスターが部屋を出ていくと、何故か扉を塞ぐようにジョンが背を向けたまま立ち止まる。
「……ジョン」
マリーが眉をひそめて見上げて、思わず言葉を飲み込む。思い詰めた表情をした夫は、梃子でも動かないといった様子で立ち尽くしている。ジョンの意図を察したキリエは、さっと振り向くとジュビリーの胸にすがりついた。ジュビリーもそれを待っていたかのように抱きしめる。
「ジュビリー……!」
「……キリエ」
名前を囁かれただけで、キリエは涙がこみ上げてきた。ジュビリーの大きな手が髪を撫でる。もう、互いの名を呼び合うこともできない。この手に触れることもできない……!脳裏に、あの夜交わした口付けが蘇る。ジュビリーの吐息、熱い唇、胸を打つ鼓動。すべてが、遠くへと過ぎ去ってゆく。しばらく無言で抱き合う二人の息遣いを、ジョンとマリーは背中で聞いていた。
キリエはいつからジュビリーに恋をしていたのだろう。そして、いつそれが恋だと気づいたのだろう。ジュビリーにとっても、復讐の道具に過ぎなかったはずの王位継承権者が、いつから、もっと別の意味を持つ少女へと変わったのだろうか。二十歳の年の差の二人が、これほどまで惹かれ合うようになるなど、誰が予想しただろう……。
どちらからともなく顔を上げると、二人は無言で見つめ合った。やがて、ジュビリーはキリエの肩に手を添えた。
「……ジョン」
義兄のしわがれた声を耳にすると、彼は静かに頷いた。
警備の最終確認のため、広い大聖堂の通路を小走りにゆくアンジェ侯バラに、背後から名を呼ぶ者がいた。
「アルマンド様」
その呼び声にぎくりとしたバラは顔をしかめて振り返る。誰もいない、と思った回廊の列柱から人影が現れる。鮮やかな薔薇色のドレスをまとった黒髪の美女。女は目を細め、艶めいた唇の端が持ち上がる。
「……ジゼル」
辺りに目をやりながらバラは彼女の腕を取り、柱の陰へ引き込む。
「ここへは来るなと言ったであろう」
「まぁ、せっかく逢いに参りましたのに」
少し口を尖らせながらもジゼルは妖艶に微笑み、細い腕をバラの首に巻き付けると口付けをねだった。短い口付けを何度か交わすと、ジゼルは首を傾げてバラを見つめた。
「昨夜、女王陛下をお見かけしましたわ」
「会ったのか」
「まさか。遠くからお見かけしただけ。思ったよりも可愛らしいお方でしたわ」
バラは思わず苦笑すると肩をすくめた。
「まだ女伯爵だった頃は、垢抜けない田舎娘だったが……。女は変わるな」
「うふふ、よくご存知だこと」
ジゼルはくすくすと忍び笑いを漏らすとバラの胸に顔を埋めた。その満ち足りた微笑みは子猫のようだ。
「ジゼル、時間がない」
「……残念ですわ」
「これから王の結婚式なのだ。忙しくなる」
二人は再び口付けを交わすと、名残惜しそうに指を絡ませて見つめ合う。
「若くお美しい〈若獅子王〉がご結婚されるとあって、国民は大変な関心を持っているわ。お相手がアングルの女王陛下だから、近い内にエスタドと戦争が起きるのではないかと、皆不安になっているのよ」
政略結婚は同盟を意味する。アングルの君主を妃に迎えるということは同盟を結び、いつかやってくるであろうエスタドとの最終決戦に備えるためと捉えられても仕方がない。
「心配するな」
バラはジゼルの額を撫でるとそっと唇を押し付けた。
「同盟国はアングルだけではない。対エスタド戦略は着々と整っている」
「……頼もしいこと」
「では、行くぞ」
バラは短く口付けを落とすと、踵を返した。その場に残されたジゼルは、彼の後姿をじっと見送った。
パルム伯夫人ジゼル・ヴィリエ。夫に先立たれた未亡人であり、アンジェ侯バラの愛人である。
大聖堂の拝廊へ向かうアングルの側近たちの耳に、ざわめきが響く。プレシアス大陸各国から多くの王侯貴族が集まっているが、その中にはこの度の新郎と新婦を望んでいたであろう国も参列している。これからの大陸の勢力図はエスタドではなく、ガリアを中心に大きく変わっていくことになろう。
「レスター子爵が感極まって泣き出さなければ良いがな」
ウィリアムの言葉にジョンが笑いながら頷く。
「老練な策士ですが、こと陛下に関しては別ですからね。涙もろくなってきましたし」
「年を取ったな」
二人の会話を穏やかな表情で聞き入っていたモーティマーが、ふと宰相の姿が見えないことに気づいて慌てて周囲を見渡す。すると、はるか後方にゆっくりとした足取りのジュビリーの姿が目に入る。
「……クレド侯」
モーティマーの呼びかけに彼は黙って頷いた。式までの間、一人でいたいのだろう。察したモーティマーは無言で再び歩き始めた。
体が重かった。歩みを進めれば進めるほど、足取りは鈍く、胸は圧迫され、頭は靄がかかったように重くなってゆく。自分のせいでキリエが望まぬ結婚をする。心が晴れないのはその罪悪感だけではなかった。昨夜みた王太子エドワード暗殺の夢。……彼を殺したことでエドガーに対する復讐は成ったはずだった。国民から奪ったアングルの未来を返すことが贖罪だと信じていた。だが、そのためにキリエを深く傷つけた。悲劇は悲劇しか生まなかった。
(……悲劇か……)
この悲劇の連鎖はいつまで続くのか。自分一人が背負っていれば、悲劇はそこで終わっていたのかもしれない。だが、もう遅い。
いつしか、広く長い大廊下にジュビリーは一人取り残されていた。拝廊からのざわめきが響きわたり、不安を掻き立てる。高い吹き抜けの天井からは、ステンドグラス越しに彩り鮮やかな光の波が降り注いでいる。外は晴れやかな空が広がっているのだろう。ジュビリーは思わず天を仰ぐと一人溜め息をついた。その時、
「……ジュビリー」
背後から呼びかけられ、彼は眉間に皺を寄せた。そして顔をしかめて振り返る。どこまでも続く、整然と並んだ列柱。ステンドグラスの光が幾筋も降り注ぐ先、人の姿が見えるが柱の暗い影ではっきりわからない。
「何者だ」
彼の声に応えるように、人影が静かに進み出る。と、その姿を目にしたジュビリーは総毛立った。
「……エレオノール!」
亡妻が、色彩の波の中で一人儚げに立ち尽くしている。艶やかな黒髪。幼い顔立ち。円らな瞳。固く引き結ばれた唇。ジュビリーの胸に残る記憶のままの妻……。彼は思わず歩み寄った。
「エレオノール……!」
その手を伸ばしかけた瞬間、彼女はすっと手を挙げると廊下の先を指さした。
「…………」
エレオノールは眉をひそめ、真っ直ぐに夫の目を見つめてくる。その強い眼差しにジュビリーは胸騒ぎを覚えた。
「……どういうことだ」
だが、相手は口を固く閉ざしたままだ。ジュビリーはうろたえながら、妻が指さす方向を振り向いた。
「……拝廊?」
戸惑いの表情のまま呟き、向き直るがすでにエレオノールの姿は消えていた。
「……エレオノール……」
ごくりと唾を飲み込むと全身から汗が噴き出した。胸の鼓動が徐々に早まる。エレオノールが亡くなってから、ごく稀に彼女の存在を感じることがあった。だがそれは、耐え難い孤独の感情が無意識に彼女を求め、そう感じさせているのだと思い込んでいた。だが、はっきりとした姿をこうして目の前に現したのは初めてだ。
何故今、姿を現したのだ。何を伝えたかったのだ。ジュビリーは必死に頭を巡らせた。拝廊の方を指さしていたが……。
「……拝廊?」
はっと顔を上げる。式が滞りなく終われば、新郎と新婦は拝廊から聖堂を出、広場に集まった市民たちに姿を見せることになっている。
「……キリエ……」
キリエの身に、何かが起こるというのか。ジュビリーの胸に不吉な胸騒ぎが渦巻き始めた。
大聖堂の祭壇から伸びる身廊には、戴冠式同様、各国の王侯貴族がひしめき合って列席していた。戴冠式と違うのは、エスタドとユヴェーレンの使者が参加していないことだ。エスタドのガルシアは、愛娘を拒んだギョームがアングルの修道女を娶ることが許せず、ユヴェーレンのオーギュストは、娘を死に追いやったキリエの結婚を祝う気など毛頭なかったためである。
「……義兄上、顔色がすぐれないようですが……」
皆に遅れて列席したジュビリーに、ジョンが心配そうに囁きかける。
「……大丈夫だ」
そう呟くと、まだ強張った表情で身廊を見渡す。アングルの重臣たちは祭壇に最も近い側廊に位置していたが、向かい合う正面の側廊にはガリアの王族や重臣が列席している。一番前に四十がらみの男女。レイムス公シャルルと、その妃、レオン公女ロベルタ・デ・レオンだ。
どこか貧相な顔つきだったリシャールと違い、穏やかで実直そうな顔つきをしたシャルルと、美しい金髪に気の強そうな切れ長の瞳を持つロベルタ。ロシェ宮殿を出発する直前、キリエはロベルタにあれこれと助言を受けたらしく、恐縮した様子ながらも落ち着いた表情で馬車に乗り込むことができた。だが、シャルルやロベルタが実際にはどんな人物なのか、宮廷での生活が始まらねばわからない。
更に視線を巡らすと、王族に続く形で女官長マダム・ルイーズ・ヴァン=ダールの姿が見える。吊り上がった目と尖った鼻がどうしても目を引く。ジュビリーは、この女官長が一筋縄ではいかない人物であることをすでにマリーエレンから聞かされていた。元がおとなしく、地味で控えめなキリエだが、自分の信条に関しては周囲が驚くほど頑固なところがある。無用な衝突が起きなければよいが。
すると、ざわめきが静まったかと思うと拝廊から重臣が現れ、王の到着を告げた。
近衛兵が一斉に剣を捧げると、拝廊から側近を引き連れたギョームが現れる。目が覚めるほど美しいガリア・ブルーの盛装に、輝く純白の法衣。優雅に歩みを進める度に煌きを放つ、金銀の装身具。華やかだが洗練された印象はさすがギョームらしい。つい一年前にこの大聖堂で戴冠したばかりの若獅子王が、同じ場所で異国の女王を妃に迎える。皆の視線を一身に浴びながら、ギョームはゆっくりと祭壇へと向かった。まっすぐ前に視線を向けていたギョームだが、ガリア、アングル両国の王族の前を通り過ぎる時には、さすがに叔父たちにわずかに目を向けた。そして、瞬間アングル側へ顔を向けた時、ギョームとジュビリーの目が合った。
「…………」
思わずじっと見つめ合った二人だったが、さすがにギョームは緊張に顔を強張らせたまま頷いてみせ、ジュビリーも会釈を返した。
祭壇に向かうギョームを、ジュビリーは複雑な心境で見守った。いつもの彼なら、キリエを奪った男に対して敵愾心に近い感情を覚えただろうが、今は違った。昨夜見た不吉な夢。先ほど自分の前に姿を現した亡妻。キリエの身に何かあるとすれば、すぐ近くにいるであろうギョームにも危険が及ぶ。ジュビリーは拭いきれない不安を抱えたまま、ガリア王を見つめた。
新郎が到着すると、身廊のアーチから祭文を唱えながら司教たちが現れ、それに続いて大主教カール・ムンディが現れた。列席者は両手を合わせると次々とその場に跪く。ムンディは、跪いて合掌の礼を取るギョームに祈りの言葉をかける。そして腰を屈めると若い王にそっと耳打ちした。
「緊張しておるな」
「……はい」
ギョームは引きつった笑みを浮かべると頷いた。
「そなたがしっかりせぬと、キリエが不安がる。落ち着くのだ」
「はい」
思わず神妙に頷くギョームにムンディは満足そうに微笑むと、大主教座に腰を下ろした。
大主教の到着から間を置かず、拝廊の重臣が花嫁の到着を告げた。立ち上がった列席者が一斉に拝廊に目を向ける。
緋色の絨毯の先、レスターに腕を取られた女王キリエが姿を現した瞬間、堂内は感嘆の声が響き渡った。その歓声にキリエは顔を強張らせて身を竦める。広い聖堂内を埋め尽くした列席者の視線を浴び、彼女は泣き出しそうな表情で俯いた。
「……キリエ様」
レスターの囁きに頷くと、恐る恐る足を踏み出す。輝く純白の衣装に散りばめられた宝石たちがステンドグラスの光を受けて一斉に光を放つ。眩い輝きが織り込まれた長いレースの裾を女官たちが捧げ持っている。慣れない衣装に足元が覚束ないキリエは慎重に足を運び、レスターの腕をぎゅっと握りしめた。花嫁が少しずつ近づいてくるにつれ、ギョームは喜びと嬉しさで胸が一杯になった。出会ってから一年が経つが、もっと時間がかかったような気がした。ギョームは落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。
キリエは列席者の前をゆっくりと歩んでいく。聖歌隊の歌声が流れる中、怯えた目で祭壇を凝視した。自分を待ち構えるギョームとムンディ。何度も歩みを止めようとしながらも、抗いがたい力で勝手に足は進んでゆく。キリエは、逃げ出したい気持ちで頭がおかしくなりそうだった。アングルの側近たちの側を通り過ぎても、緊張した彼女は顔を向けようともしなかった。ジュビリーとジョンは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
やがて祭壇の前まで来ると立ち止まり、レスターが組んだ腕を放そうとするが、キリエは震える手でぎゅっと握りしめた。
「…………」
老臣は思わず女王の顔をのぞき込んだが、ヴェール越しでは表情はわからない。
「……キリエ様。大丈夫ですよ」
レスターは小さく囁くと、キリエの手に自らの手を重ねた。しばらくその温もりを感じていたキリエは、やがて観念したようにそっと腕を放した。
ゆっくりと顔を上げると、そこにはやはり緊張に顔を引きつらせたギョームがいた。だが、彼はキリエを安心させようと精一杯の笑顔を見せた。大主教座のムンディが静かに手を上げると、厳かに宣言する。
「これより、ガリア王ギョームと、アングル女王キリエの結婚の儀を執り行う」
ギョームとキリエは静かに両手を合わせ、その場に跪いた。聖堂に神秘的な鈴の音が響き渡る。
「……あまねく天に広がるヴァイス・クロイツの祝福を。光と影、安寧と孤独、幸福と不幸、様々な試練を共に手を取り歩んでいく二人に、天よ、導きたまえ、守りたまえ、支えたまえ。そして、ガリア、アングル両国に永久の平和が訪れるよう……」
ムンディはそこで言葉を切り、ギョームに向かって身を乗り出す。
「汝、ガリア王ギョーム・ド・ガリア。〈聖使徒〉よ」
ギョームがそっと顔を上げる。
「この女性、キリエ・アッサー・オブ・アングルを娶り、天の祝福を受けし婚姻を結ぶことを願うか」
「……我、これを願う」
少しかすれた声で、ギョームはムンディに向かって宣言した。ムンディは小さく頷き、首を巡らすと小さく縮こまった少女に向き直る。
「汝、アングル女王キリエ・アッサー・オブ・アングル。〈聖女王〉よ」
キリエは小刻みに肩を震わせながら顔を上げた。
「この男性、ギョーム・ド・ガリアに嫁ぎ、天の祝福を受けし婚姻を結ぶことを願うか」
「…………」
口を開くものの、言葉が出てこない。何度か震える唇を動かすが、からからに乾いた口からは押し殺した吐息が漏れ出るだけだ。黙ったままのキリエに、ギョームが思わず振り向いた時。
「……我、これを、願う」
ようやくキリエがかすれた声で囁き、ギョームは溜め込んだ息を吐き出した。その時、列席していたジュビリーは思わず目を閉じ、項垂れた。ムンディが満足げに笑みを浮かべて頷くと、司教たちが音もなく近づき、二人の結婚指輪を捧げる。
「婚姻の証を」
ムンディの言葉にギョームが先に立ち上がり、そっとキリエの手を取る。二人はゆっくりと手袋を外し、ギョームは大粒のサファイアが輝く指輪を取り上げるとキリエの細い薬指に填めた。百合の形をしたサファイアが、蝋燭の明かりを受けて鋭い光を放つ。続いてキリエが覚束ない手つきでルビーの指輪を手に取る。獅子の横顔が彫り込まれたルビーだ。恐る恐るギョームの手を取り、薬指に填める。と、その時ギョームの手がキリエの指先を優しく握った。キリエが思わず息を呑んで顔を上げると、ギョームはにっこりと穏やかに微笑んでみせた。彼のいつもの微笑に、キリエは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「キリエ」
ムンディの呼びかけにキリエが振り向く。彼の隣には、王妃の
「では、天なるヴァイス・クロイツの恵みの下、誓いのキスを」
ムンディの言葉にギョームは緊張した面持ちでキリエに向き直る。そっと手を伸ばし、まるで繊細なガラス細工を扱うかのようにヴェールを慎重に上げる。そこに現れた、怯えきった小鹿のような瞳をしたキリエに、ギョームは少し寂しそうな表情をして見せた。
彼の脳裏に、求婚が受け入れられた時の光景が蘇る。あの時、喜びのあまり思わずキリエを抱きしめたが、その体の細さに衝撃を受けた。そして今、不安と緊張に体を震わせる様子を目の当たりにし、この少女を守りたいと改めて思った。自分に安らぎを与えてほしい。癒してほしい。そう思って初めて自分が孤独を恐れていることに気がついた。だが、今では彼女を守り、支えたいと願う自分がいる。同盟など二の次だ。
ギョームがそっと肩に手をかけるとキリエは体を固くした。その時、彼女の脳裏に浮かんだのは、ジュビリーとの口付けだった。あの時、彼は耳元で「目を閉じろ」と囁いた。キリエはあの時と同じように目をぎゅっと閉じた。そんな彼女の初々しい表情に、ギョームはふっと微笑むとゆっくり唇を寄せていった。温かく柔らかい唇が触れ合う。キリエはますます目をきつく閉じた。熱い唇がぴったりと重ねられてゆく。思わず手を握りしめる彼女の肩を優しく撫でた時、祭壇の下でバラが抜剣して叫ぶ。
「国王陛下万歳! 王妃万歳!」
その声に続き、列席者が口々に叫ぶ。
「国王陛下万歳! 王妃万歳! 国王陛下万歳! 王妃万歳!」
だが、大音声が響き渡る中、ジュビリーは一人口を閉ざしたまま祭壇の二人を見守った。
唇が離れても、キリエは全身が痺れるような感覚に身を震わせていた。ギョームは、そんな彼女の耳元に口を寄せると囁いた。
「……やっと、対等になれた」
それを耳にしたキリエの体から力が抜け、彼女は「夫」にすがりついた。