シェルトンがすぐさま退却したものの、すでにその頃、ルール城はプレセア宮殿から出撃した王軍の攻撃を受けていた。主のいないルール城は長く持ち堪えることができなかった。特に、エレソナが床に伏していたこともあり、ルール城を守っていた城代家令は彼女の身の安全を優先し、早々と降伏した。だが、敵への投降をエレソナが受け入れるわけもなかった。
「兄上が帰ってくる! 兄上の城を守れ! それがおまえの使命だろう!」
エレソナの悲痛な叫びに、皆は悲嘆にくれた表情で見守るしかなかった。ルール城が王軍の攻撃に晒された時点で、人々はレノックスの消息を覚悟していたのだ。だがそれをエレソナに伝えるわけにはいかず、城代家令は必死に彼女を説得した。そうこうしているうちにルール城は王軍に制圧され、騎士たちはエレソナの身柄を拘束した。
「レディ・エレソナ、我らと共に王都へ。ルール公もお待ちでございます」
騎士の言葉にエレソナはやぶ睨みの瞳を見開いた。
「どういうことだ」
騎士たちはしばし沈黙したが、やがて重々しく唇を開く。
「ルール公は討ち死になさいました。……あなたのお迎えをお待ちになっていらっしゃるでしょう」
その言葉に、普段は感情を露にすることのない侍女ローザがさすがに息を呑んで主を振り仰ぐ。エレソナは青白い顔のまま侵略者たちを見据えた。騎士は辛抱強く彼女の反応を待ち、広間は痛々しい沈黙に包まれた。やがてエレソナが唐突に膝を折り、城代家令が抱き留める。
「エレソナ様……!」
放心状態で天井を見上げるエレソナの口から意味をなさない言葉が迸る。城代家令とローザが固唾を呑んで見守る中、やがてエレソナは言葉にならない悲鳴を上げると、意識を失った。
プレセア宮殿にレノックスの遺体が到着したのは深夜になってからだった。冷血公に対して憎しみを持つ市民の暴動を恐れ、裏の小さな門からひっそりと運び込まれた棺は静かに宮殿内の礼拝堂へと安置された。
「王妃、ルール公がお帰りに……」
レスターの言葉にキリエは青い顔で振り返った。黙りこくったまま動こうとしないキリエに、老臣は声を低めて言い含める。
「……兄君です。ご挨拶を」
小刻みに震える妻の手をギョームが優しく握る。
「一緒に行こう」
頷くものの、キリエは一人では歩けないほど憔悴しきっていた。ギョームに抱えられるようにして、ゆっくりと立ち上がる。
「義兄上」
ギョームの呼びかけで、ヒースも修道士に手を取られて立ち上がる。
薄暗い宮殿を出て、礼拝堂へ続く渡り廊下を静かに歩む。秋の気配が忍び寄る宮殿は、乾いた夜風が足元を通り抜けていった。礼拝堂の前には、ジュビリーやモーティマーらが待っていた。全ての燭台に明かりを灯しても、礼拝堂は夜の闇に押し潰されそうに暗い。その礼拝堂の中央、内陣障壁の前に黒光りする棺が置かれている。キリエはごくりと唾を飲み込んだ。ギョームが落ち着かせるように肩を撫で、二人は恐る恐る棺へと歩み寄った。棺の縁から中を覗き込んだキリエは途端に顔を歪め、夫の肩にしがみついた。
そこには、鎧を脱がされ、胴着姿のレノックスが横たわっていた。血痕は綺麗に拭われ、矢傷を隠すために首元には布が巻かれていたが、精悍な顔に残された多くの醜い傷痕はそのままにされている。鼻の上を一文字に切り裂かれた傷痕。そして、抉れたような毒々しい傷が残る右目。どちらもジュビリーによるものだ。キリエたちの背後から棺を覗き込んだジュビリーは、眉間の皺を深めた。
「……レノックス……」
キリエが小さな声で囁く。そして、震える手を差し伸べると兄の頬に触れる。クレド城で同盟会議をした時の光景が蘇る。相変わらず横柄な態度で会議に臨んでいたレノックスだったが、晩餐では穏やかな表情で父の思い出を語った。そして、輿入れのためにアングルを発つ直前に会った日の情景も脳裏をよぎった。
(おまえも、捨て駒になるのか)
キリエは顔を歪ませると兄に呼びかけた。
「レノックス……、起きて……、レノックス!」
「……キリエ」
ギョームがキリエの手を握り締める。レノックスの頬に、キリエの目から零れた涙が滴り落ちる。
「……私が……、私が、殺したんだわ……」
「キリエ」
キリエは両手で頭を抱えると恐怖に顔を引き攣らせた。
「私が殺したんだわ……! レノックスを、私が……!」
「やめろ、キリエ……!」
ギョームはキリエの肩を掴むと真正面から見据える。
「そなたは何度も降伏を呼びかけた。だが、応じなかった。そなたのせいではない!」
「でも……! でも……!」
激しく体を捩り、暴れる妻を必死で押さえつける。
「落ち着け! キリエ!」
「私の、兄なのよ! 兄上なのに……! あ、あんなことを、されても、私の……!」
「あんなこと?」
ギョームが戸惑って聞き返し、ジュビリーが咄嗟に間に割って入る。
「王妃! 落ち着いて下さい!」
「いや……! レノックス……! レノックス……!」
激しく泣き叫ぶキリエを棺から引き離すと、ギョームは妻を連れてその場を立ち去った。礼拝堂にキリエの嗚咽が響き渡っていたが、やがて厚い扉が重い音を立てて閉ざされる。棺の前に残されたヒースがそっと手を上げた。
「……サー・ロバート……」
呼びかけに応じ、モーティマーはヒースの手を取るとレノックスの頬にそっと触れさせる。その冷たさに、ヒースの表情が崩れる。
「……レノックス……」
ヒースの唇が細かく震える。しばしの沈黙の後、彼はかすれた声で尋ねた。
「……サー・ロバート。弟の、顔は」
モーティマーは静かに身を乗り出し、司教の耳元で囁いた。
「お傷がございます。……激しい戦いだったのでしょう」
「……表情は」
「……強張ってはおりますが、苦しいものではございません」
それを聞くと、ヒースは黙って頷いた。白い手が弟の頬を撫でる。
「……この子が、一番父上に似ていました。顔も、性格も」
「はい」
「だからこそ、父上もレノックスを甘やかしていました」
そうだ。幼いレノックスが王宮で騒ぎを起こすたびにエドガーは口うるさく叱ったが、それでも王は息子を甘やかしていた。それは、キリエにかける愛情と変わりはなかったはずだ。
「……いつか」
ヒースは悔しさを滲ませた声で呟いた。
「いつか、キリエと、レノックスと、エレソナの四人で、父上の思い出を語れる日がくると信じていました。……なんて浅はかな……!」
搾り出すように呻くとヒースは震える手を合わせ、弟のために祈りを捧げた。
その日の晩、キリエは泣き明かした。あまりの取り乱しようにギョームは一晩中側についていた。結局朝方まで二人は眠らずにいたが、ギョームがうつらうつらしていると、女官が扉の向こうからそっと声をかける。
「……陛下」
はっとして体を起こすと、キリエは寝台の淵でぼんやりと座り込んだままだった。ギョームが少しふらつきながら立ち上がると、女官が静かに扉を開ける。
「タイバーン女子爵がご到着されたそうです」
タイバーンの雌狼。ギョームは思わず顔を強張らせると、妻を振り返る。
「……キリエ」
名を呼ばれ、キリエの空ろだった目が光を取り戻す。
「……レディ・エレソナが到着したそうだ」
姉の名を耳にしたキリエの表情が引き攣る。ギョームは頷くと妻の肩を優しく撫でた。
二人が身支度をして大広間までやってくると、すでにジュビリーたちが待機している。
「……エレソナは」
キリエの問いに、ジュビリーは険しい表情で頷く。
「北塔に。ただ、彼女の後見人であるマーブル伯は敗走し、行方がわかっておりません」
そこで言葉を切ると、ジュビリーは躊躇いがちに尋ねた。
「……お会いになりますか」
キリエはこくりと頷いた。ギョームは心配そうに妻の顔を覗きこむ。
「大丈夫か」
「……会わないと」
キリエの言葉に、ギョームは表情を引き締めた。
北塔は、相変わらず陰鬱な空気に満ち満ちていた。朝の爽やかな空気でさえ近づけさせない雰囲気を持ったこの塔に、ギョームは初めて足を踏み入れた。湿っぽい薄暗い空間に冷たい石の階段が続く。皆が黙りこくったまま階段を上がってゆくと、階上から人々が揉み合う音が聞こえてくる。
「離せ……! その汚い手をどけろ……! 聞こえないのかッ。手を離せッ!」
地獄から響いてくるような少女の声。キリエは震え上がってその場に立ち尽くす。ジュビリーが気遣わしげな視線を送るが、女王は黙って頷いてみせた。一行はそっと階段を上り、扉を押し開けた。
そこには、数人の兵士に両手を掴まれ、身悶えしているエレソナの姿があった。銀色に濡れ光る美しい髪は乱れて蒼白の頬に張り付き、兵士の手を振りほどこうと折れそうに細い腕を捩じらせている。
「エレソナ……」
暴れていたエレソナはびくりと体を震わせると、石のように固まった。そして、やぶ睨みの瞳が目の前に現れた妹を捉える。キリエは、自分の手を握るギョームの手をそっとほどくとゆっくり前へ進み出た。
「キリエ……!」
姉の口から、搾り出すようにキリエの名が漏れる。不安に駆られたギョームがそっと足を踏み出した時だった。力をゆるめた兵士の隙をつき、エレソナはキリエに向かって飛びかかった。
「キリエ!」
エレソナの白い手がキリエの首を絞め、そのまま床に押し倒す。王冠ががらんと床に転がり、頭を強打したキリエの意識が飛ぶ。
「う……!」
「キリエッ!」
「陛下!」
兵士が咄嗟にエレソナの腕を掴むと引き剥がし、ギョームがひったくるように妻を引き寄せる。
「お、おまえは! 私から何もかも奪うのかッ!」
エレソナが血走った目で吼える。
「父上も、兄上も……! みんなおまえが奪った! おまえが、おまえがッ……!」
エレソナは兵士に羽交い絞めにされても喉が潰れる勢いで吼え続けた。ギョームはぐったりとした妻の肩を掴んで叫んだ。
「キリエ、しっかりしろ! キリエ!」
「……あ……」
うっすらと目を開けたキリエは不規則に息を吐き出し、呆然とギョームを見つめた。そして、姉の咆哮にぎょっとすると意識が鮮明になる。
「許さんぞ……! 私は一生、おまえを許さんぞ! 兄上を返せ……! 兄上を返せッ!」
喚き続けるエレソナに一瞥をくれると、ジュビリーは兵士らに彼女を別室へ連れて行くよう命令を下した。エレソナの細い体は易々と抱えられ、部屋を連れ出されてゆく。その様子を見守り、目に涙を滲ませたキリエが嗚咽を漏らす。
「大丈夫か、キリエ……」
ギョームが恐る恐る妻の喉を撫でる。キリエは苦しげに目を閉じ、呟いた。
「……エレソナ……」
その日の夕方、礼拝堂でレノックスの帰天礼が行われた。帰天礼とは、死者を埋葬する前に行われるヴァイス・クロイツ教の祈祷だ。本来ならば、王族の帰天礼は聖アルビオン大聖堂で執り行われる。だが、大聖堂側はカトラー大司教を殺害したレノックスの帰天礼を拒んだため、彼の帰天礼はプレセア宮殿の礼拝堂で、〈ヒース司教〉と〈キリエ修道女〉によってひっそりと行われることになった。
従兄弟として参列を希望したギョームが礼拝堂に続く渡り廊下までやってくると、廊下の前でジュビリーが出迎えている。側近を待たせ、二人は礼拝堂に向かった。
「ご参列ありがとうございます、陛下」
「従兄だからな」
ジュビリーは沈んだ声で言葉を継ぐ。
「……王妃とヒース司教からも、感謝すると」
彼らは言葉少なく歩んだ。渡り廊下の屋根を支える白亜の石柱が整然と並び、柱に刻まれた天使像が二人の男を見下ろしている。やがて、ギョームが低い声でぼそりと呟いた。
「クレド侯」
「はい」
「そなたに……、謝らねばならん」
ジュビリーが顔をしかめ、ギョームは気まずそうな表情でちらりと見上げた。
「キリエがあれほど取り乱すとは思わなかった。……そなたが、攻撃を躊躇ったわけだ」
思わず黙り込んだジュビリーが歩みを止める。彼の脳裏に、キリエの叫び声が響き渡る。
(私が殺したんだわ……! だって、兄なのよ? あんなことをされても……、私の、兄上なのに……!)
ギョームも立ち止まると天井を見上げ、溜息をついた。
「悔しいが……、やはりそなたの方がキリエを理解している」
「陛下……」
狼狽したジュビリーが口ごもる。が、少し間を置くとギョームはにっと笑って振り返った。
「すぐだ。すぐに、そなたを越えてみせるぞ」
ジュビリーは、わずかに顔を引きつらせると無言で頭を下げた。
再び歩みを進めた二人の目に、祭礼のローブを身にまとったヒースとキリエの後ろ姿が見える。彼らの足音に気づいたキリエが振り返り、二人は思わず息を呑んで立ち尽くした。純白の祭礼服をまとい、赤い縁取りだけ施された頭布を被ったキリエは、無言で見つめてくる男たちを見上げた。
ギョームは、妻の修道女姿を見るのが初めてだった。戴冠式や結婚式での豪華絢爛な装束よりも、祭礼のローブの方が数段美しく見える。思えば、彼がクレド城でキリエに心を奪われた時もそうだった。化粧もせず、飾り気のない衣装だったからこそ、強烈に惹きつけられた。
一方のジュビリーも、キリエを迎えに行ったあの日を思い出していた。祭礼のローブに着替えた彼女と、ボルダー司教の部屋で対面したあの時。キリエは突然の訪問者に怯え、小さな体を震わせていた。
「そのローブは、教会にいた時の……?」
ギョームがおずおずと尋ねると、キリエはこくりと頷いた。そして、泣き笑いの表情で裾を摘み上げてみせる。
「裾が……、少し短いの」
「え?」
「二年も経てば、背も伸びるわよね」
そうだ。あの日から二年が経つ。二年前までは、キリエは修道女だったのだ。ジュビリーは思わず眉を寄せた。
「……キリエ」
隣のヒースが声をかけ、キリエは振り返った。
「……参りましょう」
キリエは兄の手を取ると、ジュビリーが開いた扉からゆっくりと中へ進んだ。
がらんとした礼拝堂には、黒い棺が昨夜のまま置かれている。キリエはヒースの手を引き、棺の前へ導く。彼は黙って棺の縁に手をかけた。そして、右手を胸に添え、頭を垂れた。
「……ルール公爵レノックス・ハートの帰天礼を執り行います」
ギョームとジュビリーが片膝を突いて跪く。ヒースの傍らで、キリエが清めの鈴を打ち鳴らした。鋭い鈴の音が聖堂に打ち広がり、余韻が彼らの胸の奥深くまで入り込む。
「あまねく広がるヴァイス・クロイツのお恵みを……」
ヒースは静かに両手を合わせると詠唱を始めた。
「レノックス・ハート、汝の魂は今肉体を離れ、天へと帰ります。蒼天の門を潜る前に汝の罪を清め、今ここに参列する者たちが祈りを捧げます」
そして、キリエも共に詠唱を重ねる。
「汝の御霊が天使に導かれ、雲間に居ます神の下へと、迷うことなく向かわれんことを」
淀みなく続く司教と修道女の詠唱。ギョームは跪いたまま、上目遣いにそっとキリエを見つめた。キリエは目を閉じ、わずかに眉をひそめ、一心に祈りの聖句を唱えている。その近寄りがたいほどの神々しさに、ギョームは思わず息を呑んだ。クレド城で朝の礼拝を共にした情景が思い返される。あの時も彼女の崇高な美しさには言葉を失った。婚約した直後、自分はジュビリーにこう言った。
「予が恋に落ちたのは女王ではない。修道女だ」
あの言葉は嘘ではない。汚れのない、純粋な魂を持つ修道女。いや、違う。天使だ。そうでなくては説明がつかない。自分を何度も殺そうとした異母兄の死にあれほど取り乱し、嘆き悲しむなど、天使でなくて誰ができよう。
だが、不意にギョームは体を震わせて目を伏せた。それに比べて自分はどうだ。父に反逆し、死に追いやった。自分は、キリエとは違いすぎる……。
「暗き淵より生まれし命の光。天の恵みを受けし大地に根ざし、命と命が手を取り合い、富まし、育み……、また新たな命を生み……、今生の時を全うせし汝の魂は……」
ヒースの詠唱が途切れ始め、キリエは兄を振り仰いだ。
「……兄上……」
妹の呼びかけに、ヒースは遂に口をつぐんだ。ギョームとジュビリーも思わず目を上げる。盲目の司教は顔を歪ませ、唇を震わせていた。キリエがそっと腕に手をかけると、ヒースは絞り出すように呻いた。
「……レノックス……」
棺の縁にそっと手をかけると、悲痛な声で呼びかける。
「……私は、卑怯でした」
兄の告白にキリエは言葉を失った。
「私は、自分にできないことは盲目のせいにしてきました。全てを……、あなたのせいに……」
ギョームは息を潜めてヒースを見つめた。固く閉じられた瞼は周囲が黒ずみ、青い隈を作っている。失明するまでは、端麗な顔立ちの優美な青年だったに違いない。今でも、彼が醸し出す清麗な気高さには美を感じる。そのヒースが今は感情を露にし、罪を告白している。
「私は偽善者です。信仰の道を選んだのも、元はといえば父上のせいです。私は、父上のような人間になりたくなかった……!」
キリエは涙ぐんで兄の腕に取り縋った。ヒースの固い瞼にも涙が滲む。
「私は、自らの血の宿命から逃げ出した、弱い人間です。なのに、父上と似た人生を辿ろうとしたあなたを蔑み、あなたと血を分けたことを恥じてきました。あなたは、私の本性をわかっていたのでしょう?」
棺に横たわる弟は沈黙を守り、ヒースの悲痛な訴えには答えない。彼は歪めた顔を振り、棺の縁を掴む手に力を込めた。
「そんな私を妬み、軽蔑したあなたは私から光を奪った。憎かったですよ……! でも……、それでも、あなたは私の弟……!」
ヒースは膝を突くと両手で顔を覆い隠した。キリエは無言で兄の背を抱いた。
「レノックス……。あなたに……、許してもらいたかった……!」
数日後、帰天礼を終えたレノックスの遺体はヒースと共にルールへと旅立った。彼の亡骸はルール城の礼拝堂、若くして亡くなったレノックスの母セシリアの墓の隣に埋葬されることになっている。
「ルール公もご自身の母君に対しては思慕の念があったそうでございます。母君が王太后から悪質な嫌がらせを受ける度に後宮で騒ぎを起こしておいででした。……私も何度かお見かけしたものです」
レスターの言葉に、キリエはやるせない思いで項垂れた。思えば怒りと哀しみに満ちた激動の人生だった。せめて母の側で安らかな眠りについてほしい。キリエは心からそう願っていた。
レノックスの亡骸を送り出した後、キリエは二ヶ月ぶりにアングルの廷臣会議に臨んだ。
「敗走したマーブル伯の行方は、依然不明のままでございます」
セヴィル伯の報告に、皆黙りこくって耳を傾けた。
「各諸侯に通達し、引き続き捜索いたします」
「それから、タイバーン女子爵ですが……、体調が思わしくないので、医師をつけております」
「……ありがとう」
キリエは暗い表情で呟いた。
「女子爵と行動を共にしていた侍女も北塔に拘束しております」
「侍女?」
「シャイナー城主の娘、ミス・ローザ・シャイナーです」
廷臣たちは険しい表情で女王を見つめた。セヴィル伯がそっと身を乗り出す。
「……いかが計らいますか、陛下」
キリエはすぐには口を開かなかった。ジュビリーは黙ったまま彼女を見つめる。やがて、小さく息をつくと顔を上げる。
「……エレソナと、ミス・シャイナーをベイズヒル宮殿に幽閉します。シャイナーの城主には、ご息女が無事であることをお伝えして」
「陛下……」
廷臣の一人が控えめながら声を上げる。
「君主に対する反逆は、死に値します」
「ルール公が死にました」
キリエのきっぱりとした声色に廷臣は黙り込んだ。彼女は辛そうに目を伏せた。
「これ以上……、血を流す必要はありません」
「……御意」
女王に異を唱える者はいなかった。やがてキリエは顔を上げ、皆に向けて告げた。
「マーブル伯を探して下さい。異母兄姉たちとの争いは一応の決着は見ましたが、国内の動きに気を緩めず、そして、エスタドやユヴェーレンにも油断せぬよう」
「はっ」
「……留守中大変でしょうが、よろしく頼みます」
キリエの懇願に、一同は深々と頭を垂れた。重々しい空気の中、話題を変えようとセヴィル伯が身を乗り出す。
「オイールでの生活はいかがでございますか」
「楽しいわ」
キリエは穏やかに微笑んだ。
「宮廷は華やかだし……、綺麗な庭園もあるわ。お料理も美味しいし……。毎晩、演奏会まであるのよ」
「ほぅ」
「飽きたけれど」
女王のその一言で皆が思わず吹き出す。キリエは肩をすくめて続けた。
「ガリア人って見栄っ張りなのね。ガリアはこんなにも素晴らしいんだってことを伝えようと、皆必死なの」
女王の思わぬ皮肉に皆痛快だと言わんばかりに笑い声を上げた。ジュビリーも控えめながら口元をゆるめる。
「私を太らせようと、毎日脂っこい食事ばかりだし」
「いや、お言葉ではございますが、陛下が太られれば我らも安心いたします」
「あなたが、じゃないの?」
そう言って廷臣の腹に目をやる女王に、皆が手を叩く。重苦しく張りつめた空気が和やかになり、キリエは安心したように微笑を浮かべた。が、わざと顔をしかめて腰を浮かす。
「ギョームには内緒よ! 良いですね」
一同は笑いを押し殺しながら頭を下げた。
キリエとギョームの帰国が翌日に決まると、二人は晩餐の前に薬草園を訪れた。
「モーティマー」
宰相は背後に控える秘書官に呼びかけた。
「しばらくは両国を行き来することになるだろうが、女王を頼む」
「承知いたしました」
いつもと変わらぬ穏やかな口調のモーティマーに、ジュビリーは声を低めて念を押す。
「できるだけ、女王の側を離れないでほしい」
「……畏まりました」
ジュビリーは、四阿に目を向けたまま先ほどの廷臣会議を思い返した。結婚してからも、周りに対する気遣いを忘れないキリエ。それだけではない。場を和ます機転まで身につけた。ビジュー宮殿で学ぶことは多いだろう。自らの手から離れてもなお、キリエは着実に成長している。「ガリア王妃」として。
「あれから、宮廷での生活はどうだ」
キリエがビジュー宮殿で陰湿な嫌がらせを受けていることは、モーティマーからすでに知らされていた。キリエはアングルには伝えるなと釘を刺していたが、あまりの激しさに独断で宰相に報告していたのだ。
「書簡でお伝えした通り、最初はひどいものでございました。侍従や女官たちからも冷遇され、宮廷に出入りする貴族たちから激しい嫌がらせがございました。ですが、ギョーム王によって悪質な者は追放され、それからは平穏でございます」
最初その報告を受けた時は安堵したジュビリーではあったが、ギョームのその強硬さに改めて背筋が寒くなる思いをした。彼は、キリエのためならば世界を敵に回しかねない。
「女王とギョーム王の仲は」
「大変睦まじいです。ご結婚後もギョーム王は陛下を大事になさっておられます。……ただ」
ジュビリーが振り向くと、モーティマーはわずかに眉をひそめて見つめ返してくる。
「挙式後に、一度だけ衝突がございました。……リシャール・ド・ガリアの消息は、侯爵もご存知かと思います」
宰相は眉間に皺を寄せた。
「そのことで陛下がギョーム王を非難、と申しますか……」
「なじったのか」
「そこまででは……。ただ、陛下からすれば、父王を戦死に追いやることが理解できず……」
ギョームの父親に対する憎しみは異常なものを感じる。キリエも父親を嫌ってはいるが、同時に家族に対して耐え難い憧れを抱いている。ギョームの非情さは彼女にとって理解に苦しむだろう。
「お二人のご意見が真っ向からぶつかったのですが、そのことで女官長が陛下をお叱りに」
「あの女か」
宰相の苦々しげな口調にモーティマーが頷く。
「妻が夫に意見するなど以ての外と非難され、他にも色々と粗を探して小言を。……レディ・マリーエレンが珍しくお怒りでした」
「あれも気が強いからな……」
「ですが、そこでギョーム王が陛下をお部屋からお連れし、その場は何とか収まりました。その一件以降、陛下もギョーム王も仲睦まじく……」
秘書官の報告を聞き終え、ジュビリーは目を眇めて四阿を眺める。遠目でわからないが、静かに言葉を交わしているようだ。
「実はその時に……」
モーティマーが声を低めて付け加える。
「マダム・ルイーズが、王妃の務めは世継ぎを生むことだと申されて……」
ジュビリーは眉間の皺を深め、舌打ちする。
「……陛下も、傷ついておいででした」
女官長からすれば幼いキリエが王妃の義務を果たせるのか、気が気でないのだろう。だからこそ、その荒波からキリエを守ってくれとギョームに願い出たのだ。宰相の険しい横顔を見つめ、モーティマーは躊躇いがちに呟く。
「下世話なことですが……、お二人は、まだ……」
「わかってる」
思わず尖った声で返し、ジュビリーは気まずそうに言い添えた。
「……色々と、支えてくれ」
「はっ」
「おまえたちが側にいることがどれだけキリエの、いや、女王の支えになっているか。これまで通りどんな些細なことでも報告しろ。不穏なことがあれば――」
そこで唐突に言葉が途切れ、モーティマーは顔を上げた。宰相の視線を追うと、思わず眉をひそめる。
四阿で、キリエとギョームが抱き合っていた。キリエの細い肩が激しく震え、ギョームがなだめるように背を撫でている。廷臣会議では気丈な姿を見せていたが、レノックスを死に追いやった罪の意識から逃れられないのだろう。モーティマーは、どこか苦しげな表情で見守る宰相を見つめた。
翌日、引き連れた援軍と共にキリエはホワイトピークに向かった。港ではジュビリーやウィリアムらが女王と王配を見送った。
「おじ上、沿岸警備で気の休まる時もないでしょうが、お体に気をつけて」
「ありがとうございます」
キリエの言葉に、ウィリアムは微笑を浮かべて一礼する。
「……クレド侯」
女王の呼びかけにジュビリーが頭を下げる。結局、今回の帰国ではほとんど言葉を交わせられず、マリーとジョンが元気だということしか伝えることができなかった。
「今から涼しくなると傷が痛むかもしれないわ。充分気をつけて」
「……お気遣い、痛み入ります」
ジュビリーは相変わらず表情を変えずに、再び頭を下げた。束の間二人は見つめ合ったが、キリエは寂しげに微笑むと隣のレスターに目を移した。慇懃に頭を下げる彼に、女王はいきなり抱きついた。
「おっと?」
周りからどよめきが上がる。
「あなたが一番心配なのよ。年だから体を大事にして」
「何を仰います!」
むきになって言い返すレスターに、皆が笑い声を上げる。ギョームも背後で穏やかに微笑む。だが、いつも自信を漲らせている彼が、今日は心なしか元気がないことにジュビリーは気づいていた。
「まだまだ若い者には負けませぬぞ、ご安心を!」
「ふふ……」
キリエは含み笑いを漏らすが、彼女は老臣の耳元で小さく囁いた。
「お願い、ジュビリーを一人にしないで」
レスターは思わず眉をひそめた。
「……心配なの」
「……御意」
キリエはそっと体を離すと、夫に寄り添った。
「では、後は頼むぞ、クレド侯」
「はっ」
ギョームの言葉に、一同は恭しく頭を垂れた。
船に乗り込むとキリエは港を見渡した。また、しばらく故国には帰れない。そう思うと心が沈んでいく。そんな思いを振り払おうと、傍らのマダム・ジゼルに声をかける。
「初めてのアングルはどうだった?」
「ええ、落ち着いた雰囲気の都でございましたわ」
「田舎だと思った?」
王妃のつぶらな瞳にじっと見つめられ、ジゼルはこっそりと耳元で囁いた。
「……少しだけ」
キリエが思わず吹き出し、ジゼルは大袈裟に跪いて許しを乞うて見せた。
「でも、宮殿ではとても良くしていただきました。プレセア宮殿のしきたりに戸惑うことが多かったものですから、助かりましたわ。次は落ち着いた時にご一緒したいです」
「そうね。ゆっくりできなかったものね……」
だが、アングルの印象を正直に述べたジゼルにキリエは好感を持った。彼女を通じてガリアの女官たちとも親しくなれば、宮廷の生活も変わるだろう。
やがて船がゆっくり港を離れる。岬には、輿入れの時と同じく多くの民衆が詰めかけている。船の艫に回ったキリエは人々に向かって手を振り、両手を合わせた。港に目を移すと、廷臣たちが手を振ってくる。キリエは船縁に手をかけ、身を乗り出して大きく手を振った。しかし、黒衣の男だけは手を振ってくれない。キリエは手を下ろし、哀しげに眉をひそめる。すると、ジュビリーは右手を肩の上まで上げてみせた。
(ジュビリー……)
その姿を目にしただけで胸にこみ上げてくるものを感じ、キリエは思わず涙ぐんだ。レスターの話では、ジュビリーはまだ右手で剣を握れないという。決して状態はよくないはずだ。それでも、手を上げてくれた。船縁にかけた手を思わず握りしめる。しばらくそうやって港を見つめていると。
「……帰りたくないだろう」
「えっ?」
不意に声をかけられ、キリエは驚いて振り返る。いつの間にか周りの女官は皆下がり、そこにはギョームが一人で佇んでいる。どこか沈んだ表情の彼は、目を伏せるとキリエの隣に寄り添った。
「もうしばらく、アングルにいたかっただろう?」
「……いいの」
キリエは微笑んでみせた。
「私、ガリアの王妃だもの」
ギョームは黙ったまま小さくなってゆくホワイトピークを見つめている。心なしか強張った横顔。潮風が美しい金髪を乱して碧眼を隠す。黙り込んだ夫に、キリエは恐々と呼びかけた。
「……ギョーム?」
「……キリエ」
彼は思い詰めた表情を隠すように顔を伏せ、呟いた。
「……私を、軽蔑しないでくれるか?」
突然の言葉にキリエは驚いて声を上げる。
「しないわ! ど、どうして? 私、何か気に障ることでも……?」
動揺する妻に、ギョームは固い表情のまま囁く。
「……そなたは天使だ」
「ギョーム……」
キリエは、決してこちらに向こうとしない夫を辛抱強く見つめた。彼は躊躇いがちに口を開いた。
「……そなたの異母兄は、そなたを何度も殺そうとした。それでもそなたは、彼の死に取り乱し、嘆き悲しんで……、涙を流した」
「……!」
キリエは思わず言葉を飲み込んだ。彼が何を言いたいのか、瞬時に理解したのだ。
「それに引きかえ私は……、平気で父を殺した。そなたとは……、違い過ぎる」
瞬間、キリエは船縁に置かれた夫の手を握りしめた。ギョームはびくりと体を震わせた。キリエは、両手でそっと手を包み込んだ。
「……平気なわけないわ。だって、あの時……」
妻の言葉にギョームはようやく顔を上げた。そして、かすかに震えながら妻を見つめる。眉をひそめ、大きく見開かれた碧い瞳。キリエは、彼のこんな怯えた目を初めて見た。
「フラン城から帰ってきた時……、あなた、体が震えていたわ」
二人の脳裏に、あの日の光景が蘇る。ビジュー宮殿に帰ってきたギョームはキリエの姿を見つけるなり、無言で抱き締めた。あの時、確かに彼は震えていた。
「信じたかったのでしょう? ……父君を」
ギョームは目を閉じると項垂れた。
「許したかったのでしょう……? そうでしょう?」
キリエの問いかけに答えず、ギョームは彼女の胸に縋りつくと震える吐息をついた。キリエは、まるで幼子をあやすように彼を抱き締めた。
「……キリエ」
「……ギョーム。私、天使なんかじゃないわ」
キリエは苦しげに囁いた。
「祈ることしかできない、非力な修道女よ」
ギョームはその言葉を否定するかのように強く抱き締めた。キリエは罪悪感で一杯になった。この若者に惹かれながらも、心の奥底ではジュビリーを求めている。それでも、ギョームに対するこの愛おしさは嘘ではない。キリエはそっと体を離すと、彼の頬を両手で包み込んだ。恐怖とも孤独ともつかない色で染まった瞳。いっそ、泣くことができたら楽になれるのかもしれない。キリエは目を閉じると、かすかに震えながら頬に唇を押しつける。「修道女」の精一杯の愛情表現に、ギョームの心は満たされた。自らも妻の頬を優しく撫でると、額に口付けを落とした。